「どうかされたのですか」 「あ、いえ何でもありません」 心細そうに眉を寄せる星彩に、慌ててにっこり笑って見せる。 しかしあまり自然な表情ではなかったのか、彼女はそうですかと一応頷いたものの、腑に落ちないような顔をしていた。 ああいけない、知らずに溜息が出ていたのか。 は戒めるかのように自分の頬をギュウと引っ張った。 しかし下がりに下がっているこのテンション、いくら無理をしても盛り上げようがない。 こちらの顔色の変化に敏感な星彩にいらぬ心配をかけてはいけないと感じつつも表情がよどんでしまうのは、きっと今朝思い切り引きつってしまった笑顔がなかなか戻らないせいもあると思う。 趙雲の口から語られた、思いもよらぬ星彩の生い立ち。 それはあまりにも正常な道を踏み外したものであり、突っ込む力すら湧かなくなったは本来訪れた目的も忘れ、よろよろと彼の部屋を後にした。 星彩の問題を解決すべく赴いたはずが、更なる悩みの種を抱える結果になるとは。 いや、むしろ根本的に問題だったのは初めから彼女の周りの大人たちの方だったのだ。 このままではいつか星彩がターミネーターにされてしまう。 なんなんだ。結構前から思ってはいたがここに来て本気で思う。なんなんだこの国は。 肝心の星彩は今の状況に疑問を抱いてはいないように見える。本人がそれを望んでいるのならば第三者がとやかく言うべきではないのかもしれないが、本当にこれでいいのだろうか。 は整体の免許を持ち呪詛が返せて賭博のイカサマにまで精通しているそのうら若き乙女の横顔をそっと覗き見た。 視線に気付いたのか、読んでいた本から顔を上げた星彩は不思議そうな表情を浮かべたのち、ほんのり微笑んだ。 つられて、もにへらっと笑う。が、その笑顔はまたしても結構な具合で引きつっている。 今後一体自分はどうすべきなのだろうか。 再び口から盛大な溜息が飛び出しそうなのをぐっとこらえ、身を投げ出すように寝台へと腰掛けた。 あくる日の夕暮れ時、じゃあまたなと上機嫌で手を振る劉備に頭を下げ、は廊下を歩き出した。 常に暇を持て余している彼にしては珍しくここしばらくは政務や何やらで忙しい思いをしてようだったが、ようやくそれも落ち着いたのだろう。本日急にお召しがあり、久し振りには半日ほど君主の暇つぶしのお付き合いをしていた。 お遊びとはいえ、劉備は何でも全力で挑んでくるので人が思うほど気楽なものではない。 目隠し鬼だといってるのに、目隠ししたまま普通の鬼ごっこ同様に全力で追いかけてきたりするので本気で怖い。というか、危ないのでやめて欲しい。こんなことで怪我をされては恥ずかしくて隣国と外交もできない。 それにしても運動不足だな、と動くたび軋む足腰を引きずりながらは苦笑いした。 朱雀のスピードはズルだというので小太刀は携帯せず参加したのだが、生身のままの全力疾走はにとってかなり久しぶりの体験だった。体があちこち悲鳴を上げている。 夕餉の時間までには、まだいくらか余裕があった。昼寝というにはちと遅いが食事時まで少し横になろうとは考えつつ、壁に手を付いて角を曲がった。 ――― なんだあれは 戻ろうとしたその自室の前には、何かが大量に積み重なっていた。 かなりの高さを誇っており、すでに扉を半分塞いでしまう勢いである。一瞬、藁でも積んであるのかと思ったが藁にしては質感がおかしい。訝しく思いながらも歩みを進めるうち、その全貌が明らかになった。 大量の、虎だった。 「えぇ」 間抜けな声しか出なかった。 何の前置きもなくいきなり虎である。虎の山である。 それが扉の前に水揚げされた秋刀魚のごとく積まれているのだから驚きもする。 どうしよう部屋に入れない。いやそもそも近付くことすらはばかられる。何しろ虎。なんで虎。 は慌てて角の陰に半身を隠し恐る恐る様子を伺うと、折り重なった山の最下層が微妙に動いていた。 生 き て い る あれが全部死骸だったらそれはそれで嫌だが、生きた虎がいるというのもまた物騒な話だ。 モゾモゾと動いているのは下で潰されかかっている一頭だけらしいが、他の虎も同様に気絶しているだけのようでほぼ白目を剥いていた。恐ろしい光景である。血なまぐさい儀式か何かだろうか。人の部屋の前でやめてくれ。 「様」 「ヒッ」 手に汗握る緊張感に見舞われていた最中に突如背後から声がかり、心臓が大きくバウンドする。 飛び上がる勢いで振り向いた先にいたのは、星彩だった。 いや、あの、いま凄いことになってましてね、と知らぬ者から見れば不審この上ないであろう自分の行動に対して弁解しようとしただが、彼女の顔を見てるうちに何か予感めいたものが頭をよぎり、出かかった言葉が口の中で消えてゆく。 一見汚れや傷などひとつないように思えるが、星彩の白い右手が薄っすらと血で汚れていた。それも親指と中指だけが。 は、いつかの趙雲の言葉を思い出した。 「……もしやあの虎、星彩様が」 半分確信しながら、それでも聞かずにいられない。 「はい、様が劉備様の元へ行かれている間に」 彼女はいともあっさり頷いて「少し狩ってきました」と親指と中指を動かして見せた。 どうりで今日は、殿からお誘いを受けた時黙って送り出してくれたわけだ。 「あ、一頭目を覚ましてる」 躊躇なくツカツカ虎の群れに近付いた星彩は虎の額に右手を振り下ろした。その途端に虎の動きはピタリと止まった。 早すぎてよくわからなかったが、あの中指と親指で秘孔でも突いたように見えた。 「昨日少し気を落とされているように見えましたので、元気を出して頂きたくて」 それで貢いでくれたのですね星彩さま 生け捕りの虎を 励ましとしては名ピッチャーもびっくりな物凄い変化球だが、気持ちはとても嬉しい。 嬉しいが、同時に彼女がこの蜀軍に骨まで毒されているという事実が悲しい。 こんなに健気なのに、こんなに愛らしい娘だというのに、素手で虎を倒してくるなんて間違っているよと伝えるべきなのか。このままではいつか改造されてしまうよと彼女のために教えるべきなのか ――― 『飼い猫というものは狩りに成功した場合、大抵主人に見せに来ます。ネズミや雀、時に驚くようなものを獲ってくることもありますが、必ず褒めてあげましょう。よくやったと褒めてもらうだけでもう満足なのです。』 「す…すごいですね星彩様っ!わたし、虎を頂いたのなんて初めてです。こんな、こんな沢山…えっと、ひいふうみい…じゅう…じゅっ、十四頭、かな?」 「十五頭です」 「ワア十五頭も」 過去に読んだペットの飼い方本の一節に感情を支配されたには、結局何も言うことが出来なかった。 虎の山の横で誇らしげに立つ星彩にそんな水を差すようなことを、一体どうして告げられようか。静かながらも一途に燃えさかる黒い瞳の前に、は心で白旗をあげた。 「もし足りなければ今からでも獲って来ますが」 「いっいや、いいっす!充分!ほんとに!(絶滅してしまう!)」 もういい。星彩はもうこのままでいい。 全てありのまま受け入れようじゃないかとは腹をくくった。というか諦めた。 ちっぽけな自分がどんな策を弄したとしても、大河の流れには抗いようがないのだ。逆らってはいけない。 出来ることといえば、その河の行き着くところをただ見守るくらい。そして自分までその濁流に飲み込まれないように細心の注意を払うことくらいである。 しかし諦めたとは言っても、これ以上星彩が幹部連中からいらん技能を追加されるのは自分的にどうしても見過ごせないので、そのへんだけはしっかり監視しながら体を張って守り抜こうと強く誓う。 の使命は、蜀を天下へと導くこと。 そしてもうひとつ、星彩を二代目のチンピラ(劉備)にしないことである。 「殿、あの、わたし欲しいものがあるのですが」 「おお?珍しいながおねだりなんて。遠慮せず何でも言いなさい言いなさい」 「虎輪」 「虎輪?…ッうおッッ!虎がいる!ウワいっぱいいる!!なにどうしたのこの虎!おい噛んでる噛んでる!」 後日蜀軍の馬舎の横に虎舎が建てられたが、もう要らんと言っているのに星彩に対抗意識を燃やした他の武将もどんどん獲ってくるので、もうはちきれんばかりである。 虎に跨って出陣する蜀武将の姿を戦場で目にする日も、そう遠くはない。 星彩がだいすきです。 |
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