ご用意しますから、先にお食べになったらいかがです?と言う女官の気遣いを丁重に断り、は一人、夕食も食べずに広い食卓の前に座っていた。
  
 「今日の会議は長くなりそうです」
 
 今朝、苦笑いしながらそう言っていたので、遅くなるのは知っている。
 しかしはいつまでも待つつもりだった。

 ---陸遜様には、自分から言わなければ

 そう、が言っていた「あと1人打ち明けたい人物」とは陸遜だったのである。
  
  
  
 ずっと、ずっと一人だった。
 一人なのが当たり前だった。
  
 出兵して同じ配属になった連中も、仲間と呼べるものはいなかった。
 戦が起これば、すぐに物言わぬ屍へと変わってしまう。 
 さっきまで隣で飯を食ってた青年の首が、数刻後には空を飛んだ。
 そんなことは日常茶飯事だった。
  
 もう、肉親はいない。
 親戚や身寄りはおろか、知人も大切な人もいない。  
 腰の長剣だけが唯一の持ち物で、他には何もない。
 心の中にも、何も持ってなかった。



  
  ”坊主1人旅かよ、寂しくねぇか?”
 


 
 ・・・寂しいって、何だっけ?



  
 カラッポのまま、旅の途中で身を護る為にゴロツキ共を斬り、戦場では給金の為に敵軍を斬る。
 それが、当たり前だと。
 これから先、死ぬまでこの日々がずっと続くのだと思っていた。
  

  
 思っていたのに。




 
「あなたの名は?」



  
 ----陸遜様
 

 誰かと囲む食卓。  
 毎日「帰る」ことができる場所。
 おはよう、というなんでもない挨拶。
 自分の名前を呼んでくれる相手。 

 みんなみんな、とっくにもう失ったものだ。
 もう、手に入れることはないと思ったものばかりだ。

 しかし今は両手に抱えきれない溢れるほどの潤いが、今までの乾いた時間を嘘のように満たしていく。

 あの人があの毎日から引っ張り出してくれた。
 素性も分からないような自分を、信用してくれた陸遜。

 ----なんて言うだろうか

 この屋敷を離れることになるかも知れない。
 陸遜の好意で置いてもらっているのだ。
 もし、主人の陸遜が騙されたと怒れば、出て行くほかない。
 は膝上に置いた手を固く握った。


 「殿?」

 その声に顔を上げると、そこに不思議そうな顔をした陸遜が立っていた。

 「どうしたんですか?こんなところで」

 「・・・・夕食を一緒に」

 「私を待ってて下さったんですか!?」

 のそんな言葉に、陸遜はパッと顔を輝かせた。

 「先に済ませても良かったのに、おなかすいたでしょう?」
  
 でも嬉しいです、とニコニコしながら言葉を続けた。
 陸遜が席に着くと同時に、料理が並べられる。
  
 箸をつけ始める陸遜と、食事どころではない
  

 ---言わなければっ


 「陸」
 「今日のスープはおいしいですねぇ」

 見事先手を打たれた。
 、残念賞。

 「殿の好きなキクラゲ入りですよ!・・・・あ、おかわりですか?」

 何か言いたそうなを見て、陸遜はのんきな事を言い出す。

 は首を横に振った。
 
 確かに、確かにキクラゲは好きだが、今キクラゲに構っている余裕はない。 
 
 なんとかは言い出すタイミングを計る。
 気持ちがしっかりしているうちに、言ってしまわなければ決意が揺らぎそうなのだ。
 落ち着こうと、がフゥーと息を吸って吐こうとした、その瞬間。

 「そういえば今日の船はどうでした?」

 ぎくっ

 陸遜の狙いすましたような質問には思いっきり動揺した。
 もともと表情の変化に乏しいので分かりにくいが、顔が凍り付いている。
 のただならぬ様子に、陸遜が顔をしかめた。

 「・・なにかあったんですか?」
  
 「なにかあった」なんて可愛いものじゃない。
 
大有りである。
 今、まさにその話題を切り出そうとしているところなのだ。

 心拍数がものすごい勢いで上がっている。
 握った手のひらの中は汗でびっしょりだ。
 さっきだってもちろん緊張したが、ここまでではない。
 勢いもあったし、皆付いててくれて1人ではなかったせいもある。
 しかし、それを差し引いても、今の状態はちょっと異常だ。
 
 ---軽蔑されるかも知れない
  
 始めて会ってからずっと、優しく接してくれる陸遜をは兄のように慕っていた。
 何かと世話を焼いてくれ、なにか困ることはないか、といつも気にかけてくれている。
 遠い思い出だったはずの家族がもう一度出来たような、そんな気がしていた。
  
 だから一国の主の孫策よりも、陸遜が恐ろしかった。
 ひどく恐ろしかったのだ。陸遜から拒絶されることが。
  
 でも、だからこそ、告げなければならない。
 この人に、もう嘘はつき続けたくない。

 「陸遜様!」

 卓に手を付き、ガタッとは立ち上がった。
 珍しく声を荒げたに、陸遜は驚いた顔をする。

 「!?は、はい」

 「陸遜様、実は」

 「はい」

 「・・実は・・・」

 「・・・はい?」
  
 陸遜の声が優しく響く。
 はぎゅうっと目を瞑った。
 

 「私は・・・男では、ありません!」


  
 一瞬の沈黙。


 それがには、何時間にも感じられた。
 一秒が、ひどく長い。
 今、陸遜がどんな顔をしているのだろうか。
 は怖くて閉じた瞳を開けることができない。
 しかし、耳までふさぐことは出来なかったに、陸遜の声が届いた。




  

 
 「知ってます」


  





 瞬間、弾かれたようには瞳を開いた。
 広がる視界には、穏やかな笑顔の陸遜が居る。
 驚きも、怒りもしていない、普段の陸遜だ。
 あんまりにもいつも通りなので、は混乱してしまう。
  
 「・・・しっ・・知ってたっ・・とは・・」

 「初めてここへ来たときに、相乗りしたでしょう。私の前に乗って。その時、男の体のつくりじゃないことに気づいたんですよ」

 突っ立ったままのに笑いかけ、陸遜は続けた。

 「どうしようかなと思ったんですけど、なんか事情を抱えてそうでしたから、殿が何か言うまでこちらからは聞かないことにしたんです」
 
 でもかえって悩ませちゃいましたね、と陸遜は肩をすくめた。
  
 最初から知っていたのに、陸遜はあえて何も言わなかった。
 下手なことを聞いて、が居づらくなってしまわないように。
 
 たまらなくなったは、陸遜の側に駆け寄り床にこすりつけるように頭を下げた。


 「・・・っ申し訳ございません陸遜様!」

 黙っててごめんなさい、と何度も繰り返し謝るの肩に陸遜は手を置いて、いいんですよ、と優しく言った。

 「・・ひとつ聞きたいことがあったんです」

 その声にはそっと頭を上げた。

 「あなたの本当の名を教えて下さい。初めに名乗ってくれた≠ヘ、偽名だったんじゃないですか?」

 確かに女の名では何かと都合が悪い為、尋ねられた時にはいつも父の名を告げていた。
 いつかの日雇いで護衛した主人にも、先日の宿に快く応じてくれた老婆にも、これまでのどんな人にもどんなときでも。 
 いつの間にか、そう名乗るのが当たり前になっていた。

  

 自分の、名前。
 本当の、名前。



 一番身近な存在のはずなのに、今ではどこまでも遥か遠きもの。
 
  
 「・・・

 何かを模索するようにゆっくりと声を搾り出す。
 初めて言葉を話す幼子のように唇がうまく動かず、搾り出した声は自分でも驚くほどか細く頼りなかった。 
  
 「思った通り綺麗な名前ですね!」

 だが、陸遜は笑った。
 自分のことのように、心から嬉しそうに笑った。

 「これから、この名でお呼びしても?」

 彼女が頷くのを確認して、陸遜は今知ったばかりの名を呼んだ。

 「・・・・殿」

 顔が、歪んだ。 
 深い黒曜石に、光るものが溜まっていく。

 陸遜の目の前の小さな小さな女の子。
 その細い肩は音もなく震えていた。
  
 「殿」

 2度目に呼ばれたとき、それは収まりきれずに瞳から溢れ出た。
 彼女の頬の上を、静かにつたっていく。


 最後に、その名で呼ばれたのは、一体いつだっただろうか-------


 流れる涙を拭おうともせず、自分以外の声で響いた懐かしい名前に力を抜かれてしまった彼女を、陸遜は優しく優しく抱きしめた。
  
 「・・・ちょっともったいないけど、他の皆にも、あなたの本当の字を教えてあげましょう?きっと、みんなその名で呼びたがりますよ。こんなによく似合う名前なんですからね」

 は陸遜の腕の中で、何度も頷いた。
 暖かい体温に包まれて、詰まっていた沢山のトゲが涙と一緒に内から出て行くのを感じた。

 「・・・ゆっくりでいいですよ、殿。ゆっくり進んで下さい。だってあなたは、生まれたてなんですから」

 いつしか少女は、陸遜の胸にしがみついて、許された子供のようにわんわんと泣き続けた。
 「ごめんなさい」とか、「ありがとう」とか、沢山の言葉を思いながら。  
 

 そして翌日、という字を持つ少女だと君主から公式に発表があり、呉はまた大騒ぎになるのだった。
 
 平和な国の平和なお話である。


               
            
                         
 ・おまけ