「…フゥ」 物音を立てないように細心の注意をはらい、窓をまたいで部屋へと降り立つ。 嵐のように暴れつくして李宮邸を後にした張遼は、全身に感じる疲労をひきずりながらの寝室へと忍び込んだ。 悪党の手からブレスレットは取り返せたが、決してそこで終わりではない。 持ち主の元へ無事に届ける事が出来てはじめて、任務は完了だ。 それにしても、コソコソしっぱなしの1日である。 抜き足差し足で張遼はの眠る寝台へと近付いた。 ぐっすりと眠っているようだ。かすかな寝息が、規則正しく聞こえる。 張遼は握っていたブレスレットを、彼女の枕元にそっと置いた。 ようやく、彼の今夜のお仕事は終了。 すやすやと眠るあどけない朱雀様の寝顔に、思わず張遼は目を細めた。 ――― これで、もう殿が泣くことはない 思えば大変な1日であった。 これまでも仕える君主が何度も変わったりと、そこそこ波乱万丈な人生を送ってきたつもりだが。 今夜はまた、飛びぬけてドラマチック。 色んな意味で、忘れられない(出来ることなら忘れたい)夜になりそうだ。 しかしやり遂げて良かったと思う。 この程度の苦労で再び彼女に晴れやかな笑顔が戻るのならば、張遼にとってこれ以上の褒美はない。 「…おっと、いかんいかん」 放っておけば、朝までそのままの寝顔を眺めていそうな自分をたしなめ、張遼は寝台から離れた。 部屋を出ようと開いた窓の扉から、月の光が漏れたその時。 「…ん」 ビックゥゥゥ!! さっき見たときは、完全に寝入っていたはずなのに。 張遼は逃げ出す姿勢のまま、恐る恐る首だけで振り向いた。 「……だ、誰?」 薄暗い中、の怯えたような声が響く。 起きた? 気付かれた? 見られちゃった? 「…あ、その…いや私は…」 さすがに張遼もこれには慌てた。 ものすごい勢いで汗が吹き出てくる。 何しろここは魏国の宮廷。 数だけが頼りの私兵どもを雇っているような李宮邸とはわけが違う。 泊まり込んでいるのは、いずれも一騎当千の剛の者ばかりだ。 が一声「きゃあ」と叫べば、間違いなくその猛将達は集結するであろう。 この状況ではどう説明しようが、ただの夜這いだ。 弁解のヒマもなく、頭に血が上った夏侯惇やら司馬懿やら徐晃やらが本気で斬りかかってくること必至である。 そんなことになれば、いきなりこの場でプレイヤー・張遼による「関羽千里行・蜀軍側シナリオ」が始まってしまう。 それだけは避けたい。 なんと言ってこの状況を乗り切ろうかと、張遼が思考回路をフル回転させていると、寝台の上のが「あ」と短い声を上げた。 月明かりを受けて光る、枕元のブレスレットに気付いたのだ。 「こ、これ…私の…?」 信じられない、というようにはそれを手にとって、まじまじと見つめた。 間違いなく盗まれた自分のブレスレットである。 二度と戻ってこないとあきらめていたは、嬉しさに胸をつまらせながら窓際に立つ人影へ目を向けた。 「あなたが取り返してくれたんですね…ありがとうございます」 誤解されなくて良かった!! が冷静に状況を判断してくれたことに、張遼は心から安堵した。 最悪、同僚達の血を自分の得物に吸わせることも覚悟していたのだが(鬼)それも杞憂に終わって何よりである。 「いやなに、礼におよばぬ。もう大切な品を失くされぬよう、気をつけられよ」 感動に震えるに対して、すっかりヒーロー気取りな台詞を放ってみたりして。 騒がれる危険性も消えた今、先ほどの動揺っぷりから一転、余裕シャクシャクな張遼である。 「では」と言い残し、この格好よいイメージのまま立ち去ろうと彼は窓に足をかけた。 「あ、待ってください!!あの、貴方は一体…?」 寝ぐせをつけたまま、は謎の人物を引き止めた。 彼女の問いかけに一瞬ぎくりと動揺しつつ、張遼は首を振った。 「…それはお答えできません」 「ではせめてお名前を」 「な、名乗るほどの者では…」 「いいえ、どうか名前だけでも!!」 なかなかあきらめてくれない。 この映画のような出来すぎたシチュエーションに、は呑まれているようである。 大体いつもとは違うその妙に芝居がかった口調は何なんだ。 「お願いです、お名前をお聞かせ下さい!」 名乗るまでは、帰らせてもらえそうにない雰囲気である。 かといって、 「こんばんは張遼です。いい月夜ですなぁ」 などと、今更さわやかに正体を打ち明けるわけにはいかないだろう。 「わ、私の名は…」 張遼は、汗ばんだ手の平を固く握った。 「か、怪盗・ヒゲ紳士である!!」 もう、どうにでもなれ。 「さらばだ風神の子よ!!フハハハハハハハ」 もう半ばヤケクソになりながら、どこかの軍師もびっくりの高笑いを残して特撮ヒーローのごとく窓から飛び去った。 そして、そのまま張遼は走った。 愛馬の力の限り走った。 追い詰められた末の発言とはいえ、顔から火が出そうである。 泣くな、泣くんじゃない張文遠!などと己を叱咤激励しながら、輝く星夜の下を走り続けた。 夜空の月が、涙でうっすらにじんで見えた。 「張遼様、張遼様!!見てくださいこれ!!」 翌日、張遼が夏侯惇と夏候淵と廊下で談笑していると、が息を切らして走り寄ってきた。 あのブレスレットが、彼女の手首で光っている。 張遼が望んだ通り、彼女の顔には心底嬉しそうな笑顔が広がっていた。 「戻ってきたんです、私の手元に!!」 子供のように頬を紅潮させながら、は興奮した様子でブレスレットを指差す。 「おうおう、どーした?そんなに騒いでよ」 「何かいい事でもあったのか?ん?」 夏候淵がポンポンとの頭を叩き、夏侯惇もはしゃぐ彼女に目を細める。 「いたんですよ、正義の味方が!!私の宝物、取り返してくれたんです!」 「正義の味方ァ?」 夏侯ブラザーズが訝しそうに首を傾げている横で張遼は、背中に汗をかきながら佇んでいた。 動揺で、ヒゲが震えそう。 「…あ、そういえば知ってるか?ゆうべ盗賊が出たんだってよ」 の話で思い出したらしく、夏候淵はさっき兵卒から聞いたという城下での事件を切り出した。 「李宮とかいう悪党の家にたった一人で押し入ったんだと。なんでもめっぽう強くってよ、腕輪だかなんだか一つ奪って消えたそうだ」 張遼の汗が、一気に増量した。 「確か、名前は…」 「怪盗・ヒゲ紳士!!」 夏候淵が言う前に大声でその名を口にしたのは、思い切り目を輝かせたであった。 「その怪盗・ヒゲ紳士がこれを取り返してくれたんですよ、張遼様!」 サンタを信じるちびっこ以上に純粋な瞳で、は張遼を見上げる。 「な、なんと…そうなのですか」 私がヒゲ紳士ですいません 何もかも分かっていながら、驚いた演技など見せている己の白々しさに、叫びだしたい張遼。 口元の引きつりが自分でもかなり気になるのだが、これ以上はこらえられない。 「町はその噂でもちきりらしいぜ、怪盗・ヒゲ紳士現る!とかいう号外が出たりしてよ」 「ほう、ちょっとした英雄だな。民はそういう話が好きだからな」 夏侯惇が言うとおり、民衆は英雄譚を好む。 弱きを助け強きをくじく、と好き勝手脚色されて、すでに市民の間ではヒーロー扱いだ。 「怪盗ヒゲ紳士様…またいつかお会いできるかしら…」 「どこ見てんだお前…つうか、なんだよその喋り方」 はまだ昨夜の酔いから覚めていないらしく、手を合わせた乙女ポーズでうっとりとどこか遠くを見つめている。 ああ、神よ。 どうか1日でも早く、民衆たちと殿の頭から「怪盗ヒゲ紳士」の存在が消えますように。 凍りついた笑顔を浮かべつつ、強く張遼は願った。 だがきっと大丈夫。 人の噂も75日。 いつか、きっと何事もなかったように忘れられるはず。 「…」 しかし一口に75日と人はいうが、2ヶ月半である。 冷静に考えてみると、結構長い。 「怪盗ヒゲ紳士様…」 「おい、目覚ませって」 「ん?なんだ張遼?お前顔色悪いぞ」 どうしたどうしたと夏侯惇に揺さぶられつつ「どこかしばらく遠くに旅にでも出ようか」などと張遼は本気で思っていた。 正義のヒーローとは、颯爽と勇ましく実に華やかなもの。そして、かくも切なく苦しいものである。 頑張れ負けるな張文遠。 残り74日の辛抱だ。 |
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