その後もひとつふたつ(では済まないと思いますが)悶着があったものの、翁の有能かつ冷酷な働きで求婚者騒ぎはなんとか一段落致しました。
文を手に押しかけてくる公達も門の前から消え、以前のような落ち着いた生活を再び取り戻したかに見えましたが、思いも寄らぬ事件が陸家を襲いました。
口数も少なく、時折微笑むか餅を食べているかの大人しい姫が、月を見上げながら白い頬を涙で濡らしているではありませんか。
普段より、しみじみと月を眺めては何か物思いにふけっていることはありましたが、このように泣き始めるとはただ事ではありません。
竹林にて拾い上げて以来、まさに目に入れても痛くないほど可愛がり、見守ってきた翁です。
いつになく取り乱し、慌てふためくのは当然でありました。

どどどどど、どうされたのです、何か辛いことでも…それとも誰ぞ貴方を傷つけるような……?!」

勝手な想像をふくらませ今にも
「帰ってきた鬼の陸遜」と化す勢いの翁でございましたが、姫は涙を着物の袂で隠すようにうつむきました。

「いいえ、そうではありません」
「では何があったというのですか」
「何も……なにもございません」

そう答えては、はらはらと涙を零すのです。
何度も訳を問いただしましても、姫は小さく首を振るだけで何も答えてはくれません。
鬼と恐れられ京の都を震撼させた翁も、こればかりはどうしていいかわからず、嘆く姫を前にうろたえるだけでございます。
そうして理由のわからぬまま、いたずらに時が流れてゆきました。
しかしその間、姫の奇妙な行動は一向にやむことなく、それどころか日に日に顔から明るさが失われ、憂いはますます深くなるばかり。
あまりにも切なげに夜空を見上げるものですから、陸遜はもちろん屋敷に仕える使用人たちも月夜が空を覆うたび、姫につられるように頼りない心持に襲われるほどでした。
そんな毎日に誰もが不安を感じ始めていた、ある晩のこと。
その夜も空には月が浮かんでおりました。
京を丸ごと飲み込んでしまいそうな見事な満月です。
姫はそれをいつものように悲しげな風情で見上げていましたが、やがて大粒の涙をいくつもいくつも零し始め、これまで口を固く閉ざしていた月夜を悲しむその訳をついに陸遜に語り始めました。

「今まで言い出せずにおりましたが、実は私は月の都に住まう者なのです。わけあってこの世界に参りましたが、次の満月には月へと戻らねならぬ身……これまでお世話になった陸遜様とお別れしなければならないと思うと、悲しまずにいられなかったのです」

涙ながらの姫の告白に、冷静と平静という名のネジが翁の頭から1ダースほど飛んで行き、壁にグサリと刺さりました。
残ったのは執念やら野生やら暴れ出さんばかりの愛やら、まさに翁の核とも言える純粋かつ危険な本能のみであります。

「…構いません」
「…?」
「構いませんよ、ええここの世界の人でなかろうが、そのようなこと一向に構いません。ですから、ずっとここに居てください、月の都などで暮らすよりもずっと幸せにしてみせます、私が」
「ですが、月から迎えが、」
「撃退します」
「月の住人にはこちらの攻撃は効かないかと、」
「撃退します」
「怒りを買えば返り討ちにされる恐れもございま」
「撃退します」

どう言葉をかけてもロボのように「撃退します」「とにかく撃退です」としか言わなくなってしまった陸遜を、姫は何度もいさめたのですが、彼のオフェンシブな姿勢は決して崩れることはありませんでした。
姫をこの手から攫ってゆく相手は全て排除する敵。
帝に弓引くことすら躊躇しなかった男が、何の恩も義理もない月の都の使者などに遠慮や恐れを感じるわけもありません。
どこかの武将を髣髴とさせる『俺…戦ウ…敵倒ス…』というシンプルな理屈のみが陸遜を突き動かしていたのです。



その日の月は格別に美しいものでした。
ほの白い面を隠す無粋な雲はひとつもなく、ただ深い闇が静かに肌を包んでいました。
悠然と下界を見下ろし、まわりの星を押しのけるようにして存在を誇示するその姿は実に気高く、また恐ろしくもあります。
いつもの身軽な装束ではなく鎧兜を身に纏った翁は、忌々しげにそれを睨みつけました。
次の満月にやってくる月の都からの使者。
ついに今夜、その日を迎えてしまったのです。
陸家の広々とした庭は月の使者に対抗するために集められた戦闘員で溢れ、これから始まる決戦を前に静まり返っておりました。
その顔ぶれの中には、かつて足繁く姫の元へと通っていた求婚者らの姿もございます。
未だ姫を諦めきれずにいる彼らは、陸遜から受けた惨い仕打ちも忘れ(てはいないと思いますが)援軍として共に月の使者を討とうと決起したのです。

夜は更け、天の闇が一層深くなった頃。
それまで静寂を保っていた空が、突如白き光に包まれました。
それは太陽がはじけ飛んだ様な明るさでした。
今か今かと月を見上げていた翁たちはその眩しさに一瞬たじろぎましたが、何とかくらむ視界を持ち上げ再び月を仰ぎ見ました。そして、皆口々に、驚嘆の声を上げました。
空には、大きな月を背負うように美しい牛車が一つぽかりと浮かんでいたのです。
それを先導するように、月の都の使者とおぼしき男が二名、一人は手にした笛で美しい音色を紡ぎ出し、もう一人は大勢のギャラリーに向かって陽気に手など振っておりました。
すでに目がつぶれるような眩しさは消えておりましたが、空に残ったもやのような不可思議な光が、蚊帳のように二名を囲んでおります。
弓を構えていた一軍が一斉に矢を放ったものの、牛車を前に全て砕け散ってしまいました。
姫が口にしていた攻撃が通じぬというのは、この光の壁のせいなのでしょう。
しかし、そんな決まりごとは破られる為にあるものなのです。

「おーいー!迎えに来たぜー」
「大声は控えろ伯符、月の都の神秘的なイメージが台無しだ。まったく君は……もう少し情緒というもの
をォォッ!!
「お前こそ声でけえよ」
「い、いま矢が私の笛を貫いた!」
「ははは何バカ言ってんだ、俺たちに下界の武器が当たるわけねえだろ」
「では君の膝にめりこんでいる太刀は下界の武器ではないと言うのか」
「……おぉっ?!」
「おぉっ?!じゃないだろうっ…あ、抜くな抜くな!噴水のように出血するぞ!」

馬鹿の一念岩をも通すと申しましょうか、人間諦めずに何でもやってみるもので、陸遜の星一つ落としかねない熱量を含んだへの情が射る矢や放った小太刀にどういうわけだか宿ってしまい、通常ならば攻撃を跳ね返すはずの結界をアッサリと無効にしたようです。
まさに愛の奇跡。
ですがそんな馬鹿が他にも多数存在しているのですから、事態は深刻です。
翁と同様、姫に並々ならぬ愛を感じている求婚者たちもまた、容易くシールドを突破していたのです。
これだけ一度に大量発生すると、せっかくの愛の奇跡もありがたみに欠けると申しましょうか、安値感すら漂うのですから不思議なものです。
そんな大安売りミラクルの犠牲となり、集中攻撃を受けていた月の使者一行ですが、さすがに下界の矢や太刀、槍などの武器も尽きたのか彼らを襲う雨のような攻撃は一旦止みました。
しかしホッとしたのも束の間。今度はそのへんで掴まえた野生動物などの破壊力満点の得物が飛んで来るようになりました。
使いとしてやってきたはずの使者たちは今や猛者たちにとってただの的と成り下がり、姫を迎えるどころか己にお迎えが来てしまいそうな有様です。

「イ、イノシシが飛んできたぜえ!」
「いかん!今ので右の車輪やられた!」

結界を破られたことで、月の光のご加護をうしなってしまったのでしょうか。
車輪を片方失ったことにより大きくバランスを崩した牛車は、今になって重力の存在に気付いたように猛烈な勢いで地上へと落下し始めました。
愛という名の下心が月の神秘の力を打ち負かした瞬間です。
宣言どおり撃退(後半は殆どリンチに近い)に成功した討伐隊は喜びに湧きおのおの拳を高く挙げながら、迎えの一行が天から見放されてゆくさまを誇らしげに見つめていました。
しかし何故か落ち行く牛車の姿は遠くなるどころか、どんどん近付いててゆきます。
そう、牛車の落下先はほかでもないこの陸家でした。

そのはた迷惑な墜落は天地が揺らぐほどの凄まじい衝撃を京にもたらしたものの、奇跡的に一人も命を落とすことはありませんでした。
ただ、使者も巻き込まれた者もそれなりに満身創痍ではありましたが。
嘘か真か存じませんが、孫権様が目が青くなったのはこのとき下敷きになってしまったのが原因だといわれております。
そんな惨状の中、怪我はおろかかすり傷ひとつ負わずに済んだ翁という存在に、改めて人々は底知れぬ恐ろしさを覚えるのでした。



こうして暴虐なまでの武力行使で不可能を可能にし、月の力に勝利した翁は、無事姫を守り抜くことができました。
砕け散った牛車とはいつくばる使者、まさに死屍累々という庭の有様は少しばかり驚いていたものの、陸遜と離れ離れとならずに済んだことを知ると、その美しい顔に久しく見ることの叶わなかった花のような笑顔をこぼしたそうです。
たった一人で月より遣わされ、消えることのない心細さに長く胸を痛めていましたが、これからはそのような心配はありません。心安らかに暮らしてゆける場所を、姫はようやくこの日見つけることが出来たのでした。
他の者から見ればとても平穏な日々を送れそうにもない境遇(主に翁)に思えますが、本人が幸せならば何も申しますまい。
ちなみにこの出来事の後、一度鎮火したかに見えた求婚騒ぎが、姫がこの地に留まったことにより再び熱い盛り上がりをみせ、またしても
血で血を洗う男達の勝負が繰り広げられることとなるのですが、それはまた別のお話でございます。





黄蓋と太史慈に湧き上がる申し訳ない気持ち。