「近々、なにか行事があるんですか?」

 書簡に目を落としていると、上からの声が降ってきた。
 承認印を押し終えた孫権は、その問いに顔を上げる。

 「皆の様子がいつもと違うんですよね」

 そう言って、は後ろへ振り返った。

 普段よりも煌びやかに着飾った女官達が、楽しそうに廊下を通り過ぎる。 
 確かにここのところ宮廷内が華やいでいた。
 女官たちだけではなく、仕える文官や武将らまでが何だかウキウキとしている。

 そんな城全体の浮かれた雰囲気が気になって、ハンコをもらうついでには孫権に聞いてみたのだった。

 「行事?」

 一瞬孫権は首を傾げる。
 たが、すぐに思い出したように、あ、と口を開けた。

 「そうか、今日から祭りが始まるんだったな」  
  
 戦以外はてんで無関心な兄のおかげで、孫権は毎日忙しい。
 政務に追われる日々を過ごすうち、祭りの存在を忘れかけていた。
 道理で太史慈が妙にソワソワしてるわけだ、と孫権は1人笑う。
 叩くのだろう、得意の太鼓を。
 ここぞとばかりに叩くのだろうよ。

 「お祭りですか?!」

 の表情が、急にイキイキし始めた。

 「そういえば、は初めてか。呉では毎年この時期に漢祭りというのが行われてな、」



 
漢  祭  り ?



 「おおおおとこまつりって言いました今??」

 に猛烈な勢いで聞き返され、別に女人禁制ではないんだが、とゴニョゴニョ言いながら、孫権は少々ばつの悪そうな顔で頷いた。
 祭りの名前に関してはあまり突っ込んで欲しくなかったようである。
 しかしインパクトが強すぎて、そうやすやすと聞き流せるものではない。

 「ど、どういった催し物が…?」
 「黄蓋と黄蓋似を沢山乗せた神輿を担いだり、男100人盆踊りが練り歩いたり…」
 
 どこまで暑苦しいんだこの国は。

 「いや、その、メインはアレだがその他は結構まともだぞ」

 がコメントに困っている様子を見て、孫権は取り繕うように付け足した。

 「露店なんかも沢山でてるし」
 「露店…」

 りんご飴、お面、金魚すくい、たこ焼き。
 孫権の漢祭り発言後、急速に輝きを失ったの瞳に再び光が溢れた。

 「いいですねぇ…」
  
 先ほどの曇った表情はどこへやら。
 すっかり機嫌を直したは、わくわくしたような顔で立ち並ぶ屋台へ思いを馳せている。
 とりあえず、をがっかり状態から復活させられたことに孫権は安堵の息を吐いた。

 「あの、孫権様」
 「うん?」

 抱えた書簡をクルクルと畳んだり伸ばしたりしながら、もじもじとは呟き始めた。

 「もし、都合が良かったら…あ、忙しかったら全然いいんですけど!」
 
 少し照れながら、小さな声で。

 「お祭り、一緒に行ってくれませんか?」













 
 「尚香、私は午後から出かけるから…後は頼むぞ」

 一体何を頼むんだか言ってる本人もわからないまま、とにかく孫権は外出する旨を新聞の間違い探しに夢中になっている妹へ告げた。

 「はいはーい。行ってらっしゃーい」

 ずいぶん今日のは難易度が高いらしく、新聞から目を離すことなく尚香は返事をした。

 「どこ行くの…って、あ!漢か!
 「漢祭りって言え!略すな!漢で切るな!」

 嫌な省略で呼ぶ尚香に一応孫権は抗議してみるが、「いいじゃん別に〜」と軽く流され、聞き入れてはもらえない。

 「いいなーお祭りかぁ。あたしも一緒に連れてってよー」
 「う、いや…すまんが、先約が」

 いつもならば、嫌そうにしながらも渋々応じてくれるのだが。
 兄の珍しい言動に、「おや?」と今日彼が部屋を訪ねてから初めて、尚香は顔を上げた。

 「…あー…か」

 孫権の顔を一瞥した尚香は、ニヤリと笑ってそう呟く。

 「なななななな何故!!」 

 まだ何も言ってないというのに、秒速で当てられてしまった孫権はこれ以上ないくらいに声をひっくり返した。

 「何故も何も」

 尚香はフーやれやれ、と首を振り、間違い箇所に○を付けていた筆を置く。
     
 「その顔見たらわかるわよ。誰でもわかるわよ。サルでもウミガメでもわかるわよ」
 「ウミガメまでもか!」

 私は一体どんな顔を!と、孫権は今更ながら手で顔面を覆った。
  
 「まー頑張ってよ、応援してるからさ……ところで権兄、その格好で行くの?」

 その格好、というのは孫権がいつも着ている正式な宮廷服である。

 「デートなんだから、たまには違った面を見せてポイント稼げばいいじゃない」
 「違った面」
 「そうそう。いつも権兄は繊細なイメージだから、ちょっとワイルドに…」

 普段はからかったり冷やかしたりの妹からのまともなアドバイスに、孫権は真剣に聞き入った。

 「アロハとか…素肌にスカジャンとか」
 「タチ悪!」

 それではワイルドというかチンピラである。
 結局遊ばれていたことに気が付いた孫権は、「とにかく頼んだぞ!」と怒って(大人げない)足早に妹の部屋を後にした。

 「我が兄ながら、本当に可愛いわね」

 尚香はなにごとも過剰に反応する兄の姿を見送りながら、笑いを漏らしていた。











 「まったく尚香の奴め」

 ブツブツ文句をいいながら、孫権は自室へと目指して進んでいた。
 おかしなものを着せられるくらいなら、いつも通りの格好で充分だ。
  
 孫権は別にこの装いが気に入っているわけではない。
 政務同様、ラフすぎる兄に代わって君主らしい正装を引き受けているだけだ。
 堅苦しい宮廷服も、冠も、すべては国を統べる孫家の威厳・象徴・責任。
 ――――言わば、国主としての自覚の具現化である。  
 仕事に対して誠実な孫権は、一度も人前でその装いを解いたことがない。
 要するに、どんな時も呉の主としてあり続けているということだ。  


 「なにがデートなんだから、だ……・」

 しかし、一目で分かってしまうほどとは、果たして本当にどんな表情だったのかと考えながら孫権は赤面した。
 しかも今さっきまで、その面をぶら下げてこの宮廷内をウロウロしていたのだ。
 妹いわく、「ウミガメでもわかる」。  
 その言葉通りならば、尚香の部屋へ行くまでの間すれ違った者すべてに
 「わたし行きますよーと一緒にお祭り行くんですよー」
 と触れ回っていたことになる。

 恥ずかしい。
 のた打ち回るほど恥ずかしい。
 孫権は先ほど廊下で会った者を思い出し、指折り数えた。
 女官数人と文官、それと甘寧と陸遜。

 「ああ本当に恥ずか…」

 そう言いかけて孫権はふと思考を止めた。

 「…甘寧と陸遜?」


     

 
ま   ず   い   !!


  
  
 孫権は慌てて、の部屋へ向かって走り出した。