護衛武将の1人が、最近嫁を貰ったらしい。
近頃妙に帰りが早かったり、ボーッとしていることが多いとは思っていたが、あれは色ボケだったのか。
仕事さえこなしてくれれば、どれだけ新婚生活に夢中になろうが、帰りを待つ新妻の存在に胸を高鳴らそうが別に構やしないが、戦場で人が必死に戦っているよそで「早めに戻るからね」と帰るコールをするのは控えてもらえないものかと思う。

「しかしお前いつの間に…ちょっと前、結婚なんてしばらくは無理だと言ってただろう」

鍛錬場の隅で昼食をとるべく地べたに腰を下ろした護衛に馬超がそう問うと、「その時は本当にそう思っていたんです」と彼は照れくさそうに頭をかいた。
膝の上に広げられた弁当は言うまでもなく恋女房の手によるもので、それがまたすさまじくベタな愛妻弁当だった。

「何しろ彼女は仕える女官の中でも指折りの美人で、恋敵が掃いて捨てるほどおりました。片思いで散るものと半ば確信していたのですが…」

今こんなこと言うと自慢話のように聞こえますねアハハ、と彼は屈託のなく笑ってみせたが、確かに自慢にしか聞こえない。不機嫌な状態で聞かされたら、確実にイラッと来るであろう。しかし幸いにもその時の馬超には余裕があったので、心に余計な波風を立てずに済んだ。

「よくおとせたものだな、そんな別嬪を」

感嘆したような主の声に、青年の顔には更に甘ったるい表情が広がった。

「求婚する際に、両手に抱えきれないほどの花を持っていったんです」
「花?」
「ええ、花を贈られて嫌がる女性はおりません。その花の花言葉が好意を表すものならば、尚のこと」

馬超は訝しげに眉根を寄せた。

「花言葉とは…少々まわりくどくないか?」
「その少しばかりの回りくどさが良いのですよ。まっすぐなのもいいですが、毎度直球過ぎると引かれる場合もありますから」

お前もしかして俺のこと言ってる?
目の前の幸せそうな男に一瞬殺意が湧いたが、悪気のない笑顔とハートマーク(そぼろ)満載の弁当が目に眩しかったので、馬超は拳を強く握り締めるだけに終った。人が言うほどストレートに生きているつもりはないが、戦での己のテンションから考えると致し方ない見解なのかもしれない。

「ところで、馬超将軍はご結婚なさらないんですか?」
「……とっとと昼すませろ。すぐ始めるぞ」

邪気のない声に背を向け、馬超は槍を手に鍛錬場へと戻った。









「ほう、これは珍しい来客ですね」

顔を上げた諸葛亮は走らせていた筆を止め、短く笑った。
伏龍と呼ばれる稀代の軍師の執務室は、まるでこの世の知識全てをかき集めたような膨大な量の書物が我が物顔でのさばっている。増え続けるばかりで整理される気配はなく、ましてや処分されることなどあるわけもなく、日に日に足の踏み場がなくなってゆくこの部屋は、いつか書簡の雪崩で死人を出すに違いない。

「忙しいところ申し訳ないが…文献をお借りしたい」

隠す必要もないのだが、何故か控えめな声になった。

「ええっ…馬超殿が!?」

そびえたつ書簡の山から飛び出してきたのは自称一番弟子の姜維である。

「趙雲殿ならともかく、他でもない馬超殿が書物とは……!どうされたのですか、自ら調べものなさるなんて…!馬超殿なのに…!」

馬超殿なのにってどういう意味だこの野郎。
顔に驚愕の色の湛えたまますがりついてきた見習い軍師の後頭部を思い切りどついてやりたくなる。悪気がないから尚更たちが悪い。

「そのような物言いは無礼ですよ」

夫婦一緒に仕事をこなしていたらしく、諸葛亮の背後から妻である月英がひょいと顔を出した。

「あの馬超将軍が書物を求めているのです。よほど切羽詰った事情がお有りなのでしょう…察して差し上げなさい」

更に輪をかけた無礼が馬超に襲い掛かったが、相手が相手だけにあまり強いことが言えない。
この諸葛亮ファミリーは単体でも相当なものだが、集まると更なる力を持ち無意識に災厄を振りまく恐れがあるゆえ、なるべくならば諸葛亮1人きりの時を狙って訪れたかった。しかし、姜維と月英の2人はここに住み着いているといっても過言ではないので、彼だけと接触するのは至難の業に近い。
馬超は飲み込みきれなかった溜息を小さく吐いた後、己を勇気づけるように拳に力を込めた。

「諸葛亮殿、花に関する書物を貸していただけないか」
「花……ですか?」

武術一辺倒の男の口から飛び出すにはその言葉は、よほど意外なものだったのだろう。諸葛亮は一瞬瞳を瞬かせ、それからゆっくりと椅子から立ち上がった。

「あなたがガーデニングとは見かけによらないものですね…ならばこういった書物よりも、魏延に聞いた方が詳しいと思いますよ。この間も、彼の庭が見事だと言って近所の主婦が見学に……」
「いやそうではなく」

彼の手の握られた『たのしい園芸』や『はじめての家庭菜園』などを渡される前に、馬超は諸葛亮の声をさえぎった。
主婦の間で話題に上る魏延のガーデニングセンスには多少興味が湧いたものの、今集中すべきはそんな話題ではない。

「育てたり植えたりはどうでもよくてだな…その、なんだ…とにかく、普通に花の知識が得られる書物をお願いしたい」

諸葛亮はますます怪訝な顔をした。

「花と一口にいっても種類品種と様々ですからね……具体的に何をお知りになりたいのです」

そう問われ、馬超は視線を床に落としたり天井を見上げた落ち着きのない様子でしばらく返事に窮していたが、やがて観念したようにまっすぐ諸葛亮を見据えた。

「は、花言葉を知りたいのだッ」

必要以上に大きくかつ裏返った馬超の声に、諸葛亮はもちろん、それぞれ書物を広げていた月英と姜維も驚いて目を丸くした。
いくつもの視線を一度に浴びせられ、実に居心地が悪そうに馬超は顔を背けたが、発言を否定する様子はない。
短い沈黙が部屋を通り過ぎた後、諸葛亮と月英は頷きながら互いに目を合わせ、ゆっくりと馬超に微笑みかけた。

「これはこれは……そうですか」
「想い人への贈り物というわけですね」
「うッ……まあ………そ…そんなところだ」

馬超という男は真っ向勝負を常とし、罠や小道具で敵の惑わすといった駆け引きの手合いは非常に不得手である。あれやこれやと策を弄している暇があるなら、己の武を持って敵陣に斬りこんだ方がよほど生産的だと考える人種だ。
それは戦場のみならず恋愛においても同じで、思わせぶりな動作で相手の気を引くような高度なテクニックなどまるで持ち合わせていない。会得する気もサラサラなかった。
しかしそんな馬超の信念は先日の護衛武将の助言であっさりと揺るがされてしまった。
常日頃指示を下している部下から諭されるとは全くあべこべもいいところだが、それでも高嶺の花を見事射止めた男の武勇伝に彼は大きく刺激された。
純粋に感心したというのも勿論なのだが、何より「引かれる場合もある」というその一言がひどく効いた。
女々しい振る舞いは性分ではないが、嫌われては元も子もない。相手には惹かれて欲しいのである。引かれては意味がない。同じ響きでも両者の間には月と太陽くらい隔たりがある。
一軍を率いる無骨な将が花言葉などと乙女ティックな単語を吐くことに抵抗があったのものの、精一杯の勇気と想う相手への情熱で彼はどうにかプライドをねじふせることに成功した。

「馬超殿にしてはなかなか良い作戦だと思いますよ」
「何事も力の限りぶつかればいいというわけではありませんものね」

褒められてるんだかダメ出しされてるんだか、受け取り方がわからない。
夫妻は実に人の良さそうな笑顔を作って近付いてきたが、内に根付く野次馬根性を隠しきれなかったようで、表情の端から「こりゃ面白い話になってきたわい」という心の声が駄々漏れしていた。別に頼んでもいないのに、そういうことならご助力いたしますよ、と全面協力の姿勢である。
尊敬すべき師匠がそう出るならば、弟子が大人しく引っ込んでいるわけはなく、さっきまで読書にいそしんでいたはずの姜維は上着を一枚脱いだあげくに何故か腕まくり、という果てしなく無駄なやる気をわかりやすい形で表していた。
にこやかな諸葛一派に椅子と茶を勧められ、馬超は脳裏に太字倍角で浮かび上がる文字『ありがた迷惑』に押しつぶされそうになった。