几帳面な性格ゆえか、室内は実に綺麗に片付いていた。
突然の訪問だというのに衣類や書などひとつも散らばっておらず、部屋の隅々まで整理整頓がなされている。
聞けば、女官の手によるものではなくほとんど自分で掃除を行っているのだそうだ。他人に部屋をいじられるのが嫌なのかそれともただの綺麗好きかはわからぬが、文机の上に使いかけの雑巾が置かれているところをみると、今の今までまで清掃タイムだったようである。さては閉じこもっている間中この部屋を磨き続けていたと見た。そういえば扉を開けてくれた時、片手にハタキが握られていたことを今になって思い出す。
何故そんな武将の手に握られるにしては不自然なアイテムの存在を一瞬忘れていたかというと、それを押し流すほどのインパクトに見舞われたからに他ならない。

「…とりあえず、もなかどうぞ」
「どうも」 

対面する形で座っている凌統の表情が読めず、思わず俯いた。
早く話を切り出さねばとは思っているが、まっすぐ彼を見つめることが今のにはできなかった。視線を合わせることが、どうしてもできない。

「…今日は、よく晴れてますよ……その、久々に外へ出てみては…」
「外がどうだろうと、俺の心は晴れないね。暗いまんまだ」


暗いのはそのサングラスのせいだと思います


そう言ってやりたい気持ちをぐっと抑え、は鏡のように輝く卓の表面にガリっと爪を立てた。
扉を開けたあの瞬間、黒メガネが視界に飛び込んできてどうしようかと思った。確かに今朝サングラス目撃談を聞かされはしたが、まさか室内でまでかけているとは普通考えない。
サマになっていればさほど問題もないが、物凄く似合わないので如何ともしがたい。しかも本人にその自覚がまったくないのも痛いところだ。もう何か見るのもいたたまれないのだが、上手いキッカケでもない限りこちらからそれを指摘するのもはばかられる。これ以上、凌統の心を閉ざしてしまいたくない。どうか自力で気付いてくださいと密かに祈るばかりである。

しばらくの間、2人向かい合わせのまま無言でもなかを頬張っていたが、ひとつ食べ終えたところでは緊張のせいか胃袋に限界を迎え、二個目には到底手が伸びそうもなかった。甘いものは好物であるが、これはいささかぎっしり詰まった餡子が重い。凌統はというと、特に顔色を変えることなく四個目を手に取っていた。いや多少眉をしかめていたかも知れないが、何しろサングラスという厚い壁が顔の3分の一を覆っているので判断しかねる。
空いてしまった両手を膝の上で絡めたり離したりしながら、どうしよう、とは心で呻いた。間が持たない。
伏せていた目をふと上げると、驚くべき速さでもなかを食べ続けていた凌統がいつのまにか手と口を休めて、じっとを見つめていた。…と、思う。本当にこちらを見ていたかどうかは定かではない。何しろ彼の顔にはサングラス(以下同文)
話を聞くタイミングは今だ、とは思った。

「どうして、こんなことしたんですか」

こんなこと、とは孫策の部屋で話題にのぼった定番の非行行為と現在継続中の引きこもりである。
凌統は逃げるようにから顔をそらし、わずかに顔を伏せた。
普段から本音を語ろうとしない凌統のことだから今回もそのようにかわされてしまうかと思ったが、意外にも彼の口から出た声に軽薄さは微塵も混じっていなかった。

「………つまんねぇ反抗心ってやつだよ」
「…なにか不満が?」
「不満なんてもんじゃないね、あの野郎と同じ組織ってだけで……胸が悪くなる」

吐き捨てるように凌統が口にした『あの野郎』こと甘寧。彼と凌統の確執は、を含め呉内で知らぬ者はない。
知らぬ者はないのだが、野生児が多く生息するお国柄ゆえか、それに対する気遣いがあまり見られないのが現状だ。
そうでなければ、孫策はともかく因縁のあるその甘寧を彼の部屋なんかに遣わしたりするわけがない。まとまる話もまとまらないのは目に見えている。今頃扉にへばりついて聞き耳を立てているであろう周瑜に、このへんをしっかり聞いておいて欲しいものだ。

「どうして、親の仇なんかと仲良くできるかってんだよ」

否定も肯定もできずは返事に窮した。
凌統の感情は痛いほど理解できる。だが、戦場に立つ者として当然の役割を果たした甘寧をとても責める気にはなれない。しかし凌統はの反応など気にする様子もなく喋り続けた。
もしかして彼は端から返答なんて期待していないのかもしれない。内に抱えている毒を言葉として吐き出せば、幾分か心は軽くなる。彼が今求めているのは、黙ってただ相槌を打ってくれる聞き役だとは思った。

「こっちは寝首かいてやろうかと思ってるっつうのに、気安く接しやがって」
「…ええ」
「殿もあんな単細胞、なんだって重宝するんだか」
「…ええ」
「奴が命令無視して突撃してくれたおかげで、俺の部隊、危うく壊滅させられそうになったこともあるし」
「…ええ」
「奇襲に遅刻して、本陣が襲われかけたこともあるし」
「…ええ」
「俺が買い置きしてた歯ブラシ勝手に使いやがるし」
「なんか急に話が小さくなりましたね」

その後凌統の話はいつの間にか、『この前陸遜に話しかけたら舌打ちされた』や『尚香姫が俺の存在を無視する』などなどターゲットが甘寧個人ではなく呉全体へと変わっていった。その被害妄想チックな愚痴を根気良く聞いているうちに、引っかかりの大きな部分には違いないかも知れないが、甘寧だけが今回の行動の全ての原因ではないことにはようやく気付いた。
取り立てて大きな事件があったわけでもない、誰かにひどい暴言を吐かれたわけでもない。だが、他の将のように一晩寝てしまえば何もかも忘れてしまうようなめでたい性質ではない彼は、ひとつひとつの小さな苛立ちを発散させることなく貯めこみ、自身の許容量を超えてしまったのだろう。
気の毒だ。ナイーブな人にとってこの国は精神的に辛かろう。自称ナイーブ(=周瑜)もいることにはいるが、所詮自称であって真性ではない。水芸のごとく血を吐ける彼は相当呉色の強い人である。
そこをいくと凌統は口調こそ軽いが、根は意外とデリケートだ。人を食ったような物言いも、本音で人と付き合うことを避けるがゆえではないだろうか。
ああどうしよう。本当に思春期の非行少年みたいなことになっている。もう少年と称するにはいささかキツい年齢だが。

「…ああ、悪い。客に茶の一つも出してなかったな」
「いいですよ、私淹れますよ」
「いいって、まあ座ってな」

立ち上がろうとするを制して、凌統は部屋の奥へと引っ込んでいった。
やはり、彼にワルは向いていない。仮にも不良がこんなナチュラルな気配り出来てはいけないと思う。
茶器を載せた盆を抱え戻ってきた凌統は慣れた手つきで茶を注いだ後、再びもなかに手を伸ばした。武人にしては長く綺麗な指をしている。なんとなく、彼の繊細さを表しているような気がした。

「凌統様」

ゆっくりとのぼってゆく芳醇な香りを含んだ湯気が凌統のサングラスを曇らせ、うっかり噴出しそうになってしまったがなんとか堪えた。

「そのお菓子、甘寧様からなんですよ」

きっと、彼は何らかの疎外感を感じていたんじゃないかと思う。
仇敵と肩を並べているこの現状に対して日々思い煩っているというのに、その相手といえばまるでどこ吹く風。例え気にかけていたとしても、意識を占める割合は凌統の半分もないだろう。それが癪に障って、何かあるごとに難癖をつけたくなり結局いつも最後は喧嘩になるわけだが、次の日にはもう綺麗さっぱり忘れてしまう。両者ともそうなら問題はないが、凌統だけは覚えてたりするので始末が悪い。毎回空回りというのは相当苛立たしいものである。
周囲も、そんな状況に置かれた彼の気持ちを汲んで宥めるなり話を聞くなりしてやればいいものを、どうもここの人間はざっくばらん過ぎるというか少々デリカシーに欠けるというか、スポーツでもしてれば悩みなんて吹っ飛ぶぜぇ的な思考で動いている国なので、そういう面にはあまり気が回らない。そんな中で1人必死になって足掻いていれば、だんだん自分だけが過去に拘っているような虚しさと妙な孤独感に蝕まれてしまっても無理はないだろう。

「ハッ…まさか」

それまでかぶりついていたもなかを口から離し凌統は鼻で笑い飛ばすが、本当のことなのだから信じてもらうしかない。

「本当ですよ、凌統様は甘党だからって」
「べ、別に俺は甘いもんなんか好きじゃっ…」

6個も食べておいて今更そんなことを言っても無駄だと思う。

「……だから、慌てて仕事放り出して呂蒙様と太史慈様が城下の美味しいお菓子屋調べてくれて、陸遜様がその店に半分脅しのような至急の注文の連絡(矢文)をして、周泰様が馬飛ばして買いに行ってくれたんです」
「……」

いつの時代も孤独に苛まれる非行少年に必要なのは『あなたは1人じゃない』という愛ある教えである。
確かに細やかな気配りが出来るとは言い難いこの孫呉だが、決して凌統の存在を軽んじているわけではない。ただ多少体育会系気質が過ぎるだけだ。彼を仲間と認めていなければ、朝も早くからあんな無茶な会議など開くまい。非常にわかりにくい上に手段として多々問題が見られるけれども、各自それなりに凌統のことを心配しているのである。たぶん。

「部屋から出てきてくれるのを、今か今かと待ってますよ」

黒いレンズが邪魔をしてるせいで定かではないが、凌統の瞳に涙がにじんでいるような気がする。かすかだが、さっき鼻をすする音が聞こえた。どれだけ仲間はずれ感を訴えようが、この涙もろさ、間違いなく凌統は確実に呉の一員だと思う。

「凌統様がいないと、みんなきっと寂しいと思うんです。やっぱり、何だかんだ言っても同じ呉軍の仲間なん…」

効果的であろう『みんな』という言葉を強調しつつこぶしに力を入れながら力説を続けていたが、突然伸びてきた凌統の大きな手がそのこぶしを握ったので、驚いたの口は開きっぱなしのまま止まってしまった。

「……アンタも?」
「へっ?」
も、寂しいとか思うわけ?」
「エッ……も、もちろん、すごく思います」
「……すごく?」
「はい、すごく」

すがるように絡められた長い指に動揺しながらもがしっかり頷き応えると、今初めて自分の行動の大胆さに気付いたのか慌てて凌統は手を離した。
そのまましばらく落ち着かないようにカツカツと卓を叩いていたが、やがて椅子の背もたれに全身を預け、「あ〜あ」と最高に棒読みかつわざとらしい溜息を口にした。

「…仕方ないねぇ。朱雀サマがそこまで言うなら、出てってやらないこともないけど」

ホント素直じゃないなあと思ったものの、そのいかにも彼らしい物言いに自然と顔がほころぶ。
ようやくいつもの調子が戻ってきた凌統を嬉しく感じながら「ぜひお願いします」と深々と頭を下げた。扉の向こうにいる周瑜は勿論のこと、窓の外や天井裏や床板の下に潜んでそっと動向をうかがっていた他の武将たちも同じように喜びをかみしめていることだろう。
さっきまで胸焼けを起こしていたはずなのに、大きな仕事をやり遂げて安心したのか急におなかが空いてきた。己の単純さに苦笑いしつつ菓子に手を伸ばしたその時、凌統が思い出したように声をあげた。

「あ、そういえばさ」
「はい?」
「寝癖すっごいんだけど」
「……」


かくして、遅れてきた反抗期・凌統公績の乱は無事沈静したかにみえたが、人間の性格などそう簡単に変わるわけもなく。
数週間後、連絡網がまわってこなかったという理由でまたもや拗ねた引きこもりを引きずり出すべく、は水ようかんを手に再び向かう羽目となるのだった。