ある朝いきなり主である孫策に呼び出しを食らった。 こんな早い時間に突然召集がかかることなど今までにないことだったので、は一体何事かと慌てて孫策の部屋へと向かった。 「悪いなこんな朝から」 軽く手をあげ迎え入れてくれた孫策に、いえと小さく首を振る。 「すげえ寝グセだなオイ」 「…直す時間も惜しんで飛んで来たんですよ」 確かに髪の一部があらぬ方向へ躍り出ていることには気付いていたが、ちょくちょく髭に寝癖をつけている孫策に指摘されると悔しさもひとしおである。 「それより一体…あ、みなさんもうお揃いだったんですか」 孫策に続いて奥へと進むと、いつものメンツが肩を寄せ合い部屋でひしめきあっていた。広いはずの室内が狭苦しく見える。 しかし、この静けさはどうだろう。これほど大人数が集まっているのだから足を踏み入れた際すぐにでも気配を感じそうなものだが、視界に入るまで全く気付かなかった。 今更、君主の私室だからといってかしこまるような殊勝な家臣連中でもなかろうに、話し声どころか物音一つたてようともしない。ただ神妙な顔つきで押し黙っている。 呼び出された時点で嫌な予感はしていたものの、想像以上に張り詰めた場の雰囲気が事態の深刻さを色濃く物語っており、抱いていた不安に更に拍車をかけた。 ふいに、前を歩いていた孫策が立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。 「…ちょっとヤベェことになってよ」 常に能天気そうな振る舞いの主が珍しく難しい顔つきでそんなことを言うものだから、思わず身が固くなる。 呼吸するのもためらわれる空気の中でややしばらく沈黙した後、2人同時にまっすぐ目を合わせた。 「実は」 放たれた重苦しい声に視線をそらすことなく頷き応える。 握った拳の中にじんわりと汗を感じた。 「凌統がグレた」 「は」 脳の機能が一旦停止したような気がした。 「非行に走ったんだよ、凌統が」 「……」 「これは孫呉始まって以来の大事件だぜ…」 だぜ…じゃないよ 尚も孫策は真剣な口調で語り続けるが、もはや返事はおろか相槌すら打つ気力が起きない。 一瞬でも手に汗なんか握って損したとは思った。普段はペローンと平らな眉間に深い皺まで寄せてこちらの不安をガンガンに煽るような表情をつくっておきながら、飛び出した台詞があれである。 自分がもう少し気の短い性質だったら、目の前の机をひっくり返していたと思う。 しかし、いかに馬鹿馬鹿しい議題とはいえ主直々のお呼び出しである以上放り出して自室に戻るわけにもいかず、は木枯らしのように切ない溜息を吐いた。 「あの、グレたって…どういうことですか」 空いている椅子へ適当に座り、誰に対してというわけでもなくそう尋ねるとたまたま隣に座っていた甘寧が真剣な顔で振り向いた。 「…アイツ靴のかかと踏んでやがった」 これ以上脱力させないで欲しい。 だがそんなの心情をよそに、周囲からは「なんてことだ!」という嘆きと驚きに満ちたざわめきが沸き起っていた。 本気である。本気と書いてマジである。全員真剣に語っているのである。 「私はガムを噛みながら歩いているのを見ました」 「不良だな」 「俺が見たときなどサングラスをかけていたぞ」 「それはまずいな、かなりの不良だ」 不良らしい。 しかも、かなりらしい。 サングラスごときで不良認定ならば、夏の海辺の半数は不良である。 横で甘寧が「サングラスかよ…シャレにならねぇ」と苦悶の表情で呟いていたが、それ以前にその刺青はいいのか。 どちらかというと、その全身を駆け巡ってる鮮やかな模様の方がよっぽどシャレにならないと思うのだが、残念ながらそれについて突っ込んでくれる者は誰一人としていなかった。この国の理念というものかよくわからない。 その後も先を争うように凌統の不良場面目撃情報があげられてゆき、その度に「やはり不良だ」と口をそろえて確認するという不毛なやりとりが繰り広げられた。 自身はここ数日姿を見ていなかったのだが、その間凌統はトイレでタバコを吸っていたり(吸いたきゃ自室で吸えばいいと思うのだが)、盗んだ馬で走り出したり、鍛錬サボって駄菓子屋でクジ引いてたりと、型どおりの不良行為にいそしんでいたようである。 それをいちいち記録する呉軍も呉軍だが、時代遅れのワルの行動を正しく踏襲している凌統も凌統だ。 結局、悪事の限りを尽くした――彼らがそう言うのだから仕方ない――凌統は一昨日から部屋に引きこもってしまったらしい。誰が訪ねても顔も見せようとせず、扉を閉めた状態で追い返されるという。 「不良といえば、生徒に体当たりで挑む熱血教師の出番だろうと思ってな…」 熱血王国代表の孫策と甘寧が揃って出向いたのはいいが、2、3回声をかけても凌統が出てこないので大声で怒鳴ったり扉を乱暴に叩いたり蹴ったりを繰り返し、その悪質な取立て屋のような振る舞いは、更生どころかかえって彼の心を頑なにしてしまう結果となった。なにをやってるんだこの2人は。 「人と接する、それすなわち自己と接するに同じ。前回は少々人選を誤ってしまったが、方策自体に間違いはない。非行に走る者には必ず何らかの原因となる傷が存在する…社会復帰とは、その傷と思いを理解してやることから始まるのだ」 そう思わないか?と、もっともらしく語る周瑜に同意を求められ、どう答えていいやらと思いながらもとりあえず生返事を返すと、彼はうむ、と満足気に頷いた。 「よし。では、頼んだぞ」 「え」 強く叩かれた肩に、不吉な予感が走る。 「熱血が駄目なら次は癒しだろう」 「いい結果を期待してるわっ」 尚香のウィンクに、ただポカンと口が開いた。 どうやら、凌統軍陥落の第二部隊として白羽の矢が立ってしまったらしい。 「いやあの、え…本当に?」 助けを求めるようによろよろと立ち上がったものの、援軍を期待できるどころか全員から静かにコクリと頷かれてしまった。 強力すぎる団結力というものは時に残酷ですらある。 「だっ…私が行ったところで、絶対役に立ちませんよっ!すぐ追い返されて終わりですよ」 「大丈夫だ、きっとお前ならやれるぜえ」 「もっと自信持てって!」 力強い励ましの言葉も、ものの見事に失敗やらかしてきた2人の口から出ると一気に説得力を失う。 道から外れつつある凌統のことは確かに気がかりではあるが、せめてこの突撃コンビが事を起こす前に白羽の矢を立ててくれればと思わずにはいられない。 竹を力一杯叩き割ったような気性が多い呉において、気難しい方に属される凌統。 そんな彼の機嫌が傾いている真っ最中に接触するのはただでさえ骨が折れそうだというのに、話がこじれにこじれまくった後で出陣とは、いよいよもって苦戦が予想される。 いきなり課せられてしまった使命の重さに抗議を申し立てたいところではあるが、ここで意見したところで取り合ってはもらえないだろう。いつもそうだ。本人の意思などこのゴリ押し国家では塵に等しい。 一日のスタートである早朝から無駄な抵抗で大きな労力を割くのは賢明ではないと判断した(諦めたともいう)は、とりあえず気の毒そうにこちらを見ている女官の手から熱いお茶を受け取った。 潔癖なまでに磨き上げられたその扉は、頑なに客人を拒んでいるかのように見えた。 善は急げ。 孫策らにそう急き立てられ、一体なにが善なんだかわかりゃしないがあの会議の後、すぐさまは凌統の私室に遣わされた。 言われるままに訪れたはいいが、部屋の奥底から醸し出される無言の圧力に押され、固く閉ざされた天の岩戸を前に声をかける勇気がなかなか湧かない。 手土産として『もなか(こしあん)』なんかを持たされたものの、こんなもので果たしてご機嫌をとれるのか甚だ疑問である。 だが、いつまでも扉の前で突っ立っているわけにもいかない。 傍らで密偵のごとく壁に張り付いて監視している周瑜の視線が、そろそろ厳しくなってきたのである。そこまでするなら自分が行けばいいだろう。 ためらうように何度も宙で空回りした後、ようやくの拳は硬い扉に飛び込んだ。 気持ちとシンクロした気弱な音が、静けさに包まれた空間に控えめながら響きわたる。 …こつこつ 「帰れ」 いきなりである。 「誰?」でも「何の用だ」でもなく、真っ向から拒否。 前回の訪問者の印象がいかに悪いものだったかを如実に物語る反応だ。 取り付くしまもないその声色に萎縮し、これは無理だろうとは首を振って見せたが、周瑜は「行け」と目で合図を送り続けてくる。 本人は激励しているつもりなのだろうが、こちらが神経をすり減らしている時に小声で「ファイトファイトー」と能天気な掛け声をかけられると妙に腹立たしい。他人事だと思って。 は半分ヤケになりながら、さっきより強めに扉を叩いた。 こつこつっ 「帰れ」 当たり前だが反応は変わらない。 「あの…」 「帰れ」 「凌統様、」 「帰れ」 「です」 「……か、帰れ」 急に声のトーンが下がった。 あからさますぎるほど変貌した凌統の態度に「いける!」とばかりに無言でガッツポーズをとった周瑜は、クイクイと顎を動かしてに更なる特攻を命じた。 「りょ、凌統さま」 「………」 「少し、お話できませんか」 「………」 「お茶うけに、もなか持って来たんですけど」 「……入れよ」 もなか効果恐るべし。 難攻不落と思われた砦は、意外とあっさり陥落した。 |
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