運命って信じます?







 
ボ ー イ ・ ミ ー ツ ・ ガ ー ル









 舞台は―― 長坂

 劉備軍は完全に追い詰められていた。
 ロクな戦略も兵力もなく、唯一できることといえば執拗に追いかけてくる曹操軍からただ逃げ続けることくらい。
 しかし逃亡する一団に加わっているのは訓練された兵ばかりではなく、むしろ日々の暮らしもままならないような痩せ衰えた民が大多数を占めていた。
 慕ってすがってきた彼らを劉備が置いてゆける訳もなく、倒れた者を抱き起こしたり荷物を代わりに背負ったりしているうちに自然と歩調は遅くなる。
 背後には、人心を掴み勢力を伸ばし始めてきたそのカリスマ性を恐れ、今のうちに首を取ろうと躍起になっている曹操。
 乱世の奸雄はジワジワと、だが確実にその差をつめていた。  
 なるべくならば戦わずにこのまま逃げきりたいところである。
 正面きってぶつかれば、必ず多くの犠牲者が出るだろう。今は戦う時期ではない。
 うなるほど金を持っている成金(劉備のひがみである)と対決するのは、遠い地で態勢を立て直してからでも遅くはないだろう。
 船着場まで辿り着けばもう到着しているであろう迎えの船に乗り込んで、全員無事に脱出できる。
 その目的地まであと少し、という時だ。
 青い顔をした伝令兵が転がるように飛んできたのは。    

 「殿!申し上げます!阿斗様が中央広場に取り残されて……・!」

 馬の上でその伝令を聞いていた劉備は、一瞬「え?」と小さく呟いた後、思い出したように目を見開いた。 

 「………あ」
 「兄者ー!!」

 うっかり!などと言いながら担いでいた袋や懐など探ってみる劉備だが、当然息子の姿はない。
 そういえば、さっき馬が急に暴れ出した時にそのへんにいた兵士へと放り投げたような気がする。
 その手放した後の記憶がさっぱりない。

 「だからあれほど拙者の髭の中に仕込んでおこうと言ったではないか!」
 「だっ…雲長の髭の中では窒息するかも知れんだろうが!」
 「どーすんだよ、中央広場ってすんげぇ後ろだぞ!今もう曹操軍しかいねぇような敵のど真ん中だぜ!」
 「…………阿斗よ…・短い命だったな」
 「諦め早いな!」
 「そんな潔さは今いらん!」

 3兄弟が列の最前で揉めに揉めているそんなさ中、「殿」と涼やかな若者の声が響いた。
 
 「趙雲」
 「阿斗様の元には私が参ります」 

 趙雲と呼ばれたその黒髪の青年は白馬に跨ったまま、迷いなく主にそう告げた。
 その言い方があまりにも「買い物行ってきます」というような普通さだったので、言われた劉備の方が動揺してしまう。

 「し、しかしな、さっきも言った通り、今中央広場は敵の巣窟だ。とてもそんな場所に……・」
 「ご心配なさらずとも、この命に代えても無事取り戻してみせます」
 「趙雲……!」

 趙雲子龍は漢である。
 漢の中の漢である。
 美しくも豪胆な槍術は敵兵を震え上がらせ、どれほど不利な形勢でも決して退くことのない勇猛さは主君が一身これ肝なりと讃えるほど。
 その突出した武勇に加え、彼は海よりも深い忠誠心を持っていた。
 悲願の漢室復興を成し遂げる為ならば、自らの命など投げ出す危険を顧みない忠義の士。
 それゆえ、戦場に取り残された主の御子を救いに大群の敵の中へ突っ込むという行為は、彼にとって至極当然の選択であった。

 「関羽殿張飛殿は殿と共にそのままお進み下さい!」

 そう叫んだ趙雲は手綱を掴み、すぐさま踵を返す。

 「趙雲様!」
 「どうした!」
 「阿斗様は箱の中にお隠れになっております!」
 「箱ォォ!!?」
 
 なんでそんなとこに入れちゃったの?と素っ頓狂な声を上げつつも、川のように続く人波の中を黒髪をなびかせ趙雲は逆走し始めた。

 彼が目指すは、中央広場。
   

 


 一方、曹操軍は違う意味で追い詰められていた。
 正確に言うと、曹操軍の頭である曹操が1人勝手に追い詰められていた。
 親衛隊の典韋と許チョと朱雀であるに囲まれ、ポコポコとゆったり馬の足を進めていた曹操だが、先ほど何かに驚いたかのように「あっ!」と突然大声を上げ、その後、不気味なほど静かに黙り込んだまま動かなくなってしまった。
 今回は戦にもならん、と自信満々だった今朝の彼からは想像もつかない凹みようである。
 はっきりいって、最高指揮官がこれでは話にならない。ここまであからさまに憂鬱な顔で戦場にいられたら、他の兵士の士気に関わる。
 それは戦を得手とする曹操自身が一番知っているだろう。
 さては平静を保てないほど重大な戦略ミスでも犯してしまったのかと、不安にかられたとは典韋は(許チョはそのへんでトンボを追っかけている)おそるおそる、顔色の悪い君主に探りを入れだした。
 
 「…殿…どうかされましたか?」
 「なんか…いつもと様子が違いますぜ」 

 曹操は、項垂れたまま動かない。

 「具合悪いんですか?」
 「戦況思わしくないんですかい?」

 曹操は、かすかに首を振った。

 「一体どうしたってんですか…?!」
 「力になるからなんでも言って下さいよ」
 
「…った」
 「「え?」」
 「へその緒…落としてきちゃった」

 
 その時の2人の心理風景を、どう説明したらいいだろう。


 とりあえず今まで頭を支配していた失策や伏兵などがすべて吹っ飛ばされ、鳩が舞う真っ白い世界の中、甲高いラッパが鳴り響き、幼稚園児がくれよんで描いたかのようなでたらめな太陽がサンサンと輝いていた。
 混沌と混乱が入り乱れ、なんだかずいぶんと芸術は爆発している。
 時間にすれば一秒もないその一瞬の間、典韋とは抽象画のようなシュールな空間をしばらく彷徨っていた。
 要するに、現実から逃げていたわけだ。
 

 「へ…」
 「…へ…」
 「へその緒」

 2人が現実に戻りきれず、モゴモゴ口を動かしているとトドメを指すように曹操は再びそれを口にした。

 「桐の箱に入れてあったわしのへその緒、落としてきた」
 「…へっ…へその緒ごときのことで、落ち込んでたんですかっ…!?」
 「ごときとはなんだ!宝物だぞ!生まれたときからつながっていた、今までずっと苦楽をともにしてきた、わしにとっては大事な大事な宝物だぞ!」

 
「そんな大事ならこんなとこ持って来んな!」
 
 さっき気を揉んだ分、その脱力感は計り知れない。
 へその緒である。髭を生やしたおっさんがへその緒である。
 しかもただのおっさんではなく、大国・魏の頂点に君臨するおっさんである。
 戦況を狂わすような悪い報告ではなかったことに安心はしたが、心に受けたダメージはそれ以上かも知れない。

 「…とって来い」
 「は?!」
 「落とした場所は大体わかってるから。へその緒、拾って来い」

 殿だからって何でも通用すると思うなよ―― 確かに、そのときは思った。  
  
 「…もう大人でしょう、殿。諦めてください」
 「そうですぜ、殿、ここまで来て今更戻るなんて(しかもへその緒のために)」

 他の場面ならいざ知らず、いくらなんでもこれから戦しようって時までそんな我がままに付き合ってる暇などない。
 甘やかしてばかりでは教育上よろしくないだろう。

 「さ、行きますよ、殿」

 そのまま進もうと前を向いただが後ろからスソをクイクイと引かれ、足止めされた。
 振り向くと、項垂れた曹操が上目遣いでこちらを見つめている。

 「…へその緒とってきて…」
 「…っ!汚っっ!!時々可愛くなるのやめてくださ…!!」 
 
 人間誰しもそうだろうがも例に漏れず、すがりつくような瞳に弱い。
 しかもそれがいつも高圧的で威厳溢れる君主なら、より効果的であろう。
 それを知ってか知らずか曹操は実にいいポイントでその技を使ってきた。

 「とってきて…」
 「…っ…」
 「…お願い…」
 「…っっっ…!」


 ・

 ・
 
 ・


 「じゃあいってきますからね、先進んでてください」

 結局、は折れた。
 叱られた子供のようなしおらしさを前に完全なる敗北を喫した。
 俺も行くかと典韋は言ってくれたが、一応彼は親衛隊である。曹操の周りを許チョだけに守らせておくのは心許ない。
 それに典韋のスピードを考慮に入れるとが単独で行ったほうが賢明である。
 背中で受けるサイコー!という主人の浮かれたエールに苦々しさを覚えつつ、進行方向とはまるで逆方向へと少女は疾風のごとく走り出した。

 彼女が目指すは、中央広場。
  
 





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 さぞかし兵士でごった返しているだろうと思われたそこは、思いのほか静かだった。
 一見するととても戦の真っ最中とは思えぬような様子である。
 しかし漂う大気には埃っぽさが混じっており、先ほどまでここが戦場であったという余韻がかすかに、だが、確実に残っていた。
  
 一口に中央広場と言っても、その範囲はずいぶん広い。
 ただ公園のように地面が広がってるのならばまだ良かったが広場の中にはそれなりに建物がいくつも点在している。
 しかもそれは戦闘によってあちこち崩れ落ち、今や瓦礫の山と化していた。
 夜盗に押し入られでもしたかのような広場の荒れように、引き受けたことを早速後悔してしまっただったが過ぎたことを嘆いてもどうにもならない。
 とりあえず転がっている資材や破片をひっくり返しながら、しらみつぶしに探し物を始めた。
 ひどく困難な捜索活動である。
 彼女に与えられた手かがりは、多分この中央広場あたりという漠然とした場所と小さな桐の箱ひとつ。
 広場のどこの方角のどのへんに―― という詳しい範囲指定を受ければ、もしくは探す対象がもっと大きくて目立つものならば、どれほど作業が楽になったことか。
 しばらく勘だけを頼りに、ガチャガチャと遺跡発掘のごとく掘り返していたがそう簡単に見つかるほど現実は甘くはない。
 山をひっくり返して出現するのは土に戻りかけている壷や樽の破片やら刀の鞘やら卓の足やら。
 たまにこれは?!と思うような箱が気まぐれに混じっていたりするが、その度無邪気に輝く宝飾品が中から現れ、幾度となくは肩を落すことになった。
 しかしどちらかといえば、それが普通である。桐箱の中身が宝石の類であることは別におかしなことではない。
 むしろへその緒が出現する状況の方が、一般的にはかなり予想外だ。相当ガッカリだ。
 金目の品の登場に喜色満面どころか、へその緒でなかったことに心から落胆とは第3者から見れば不可解極まりない心理状況であろう。
 だが他者にどう思われようと、彼女の目的は主人のへその緒である。
 見つからなければ戻ることを許されない。
 マッチ売りの少女の気分をしみじみ味わいながら、はひとつ溜息を吐いた。

 「「見つからないな…」」
   
 ハモった。
 
 全く同じ呟きでありながら、自分のものではないもう一つの声。 
 1人きりの空間に油断しきっていたは飛び跳ねるほど驚き、弾ける様に顔を上げた。
 低めの瓦礫の山の向こう側に、見慣れぬ若い男の顔がひとつ。
 近い。かなり近い。
 整った目鼻立ちまでよく見えるほどの距離。
 それもそのはず。
 の現在地は男にとっても山の向こう側である。
 お向かいさんである。
 すなわち、同じ小さなガラクタの城をあっちとこっちでほじくり返していたわけである。
 どうして、今の今まで気付かない。

 この人一体何してんだろう―― は思った。 
 それと同時に、この上ない怪しさを男に感じた。
 なぜこんな廃墟と化した場所をコソコソと嗅ぎまわっているのだろうか。
 今でこそどちらの兵士の姿も見えないが、ここは紛れもなく戦場なのである。
 こんな血なまぐさい場所に、何の目的があって足を踏み入れたのか。 
 しばらくジロジロと隠しようもない不審な視線を目の前の男にぶつけていたが、彼もまた同様に疑念に満ちた表情を浮かべていることに気がついた。 
 そう、よく考えれば自分も同じような立場なのである。
 どう見ても思い切り怪しい奴。
 戦で崩れ落ちた住居を荒らしまわるとは、疑わしいを通り越して下手すれば

 
火 事 場 ド ロ ボ ー ?




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 何ゆえこのような場所に若い娘が―― と趙雲は訝しく思った。
 逃げおくれた民の1人かはたまた戦火に焼け出されて家族とはぐれでもしたのか。
 逆走の途中でほとんど始末してきたとはいえ(強)まだまだどこかに曹操軍が潜んでいるやも知れぬ。
 兵士でもない、ましてやうら若き乙女がフラフラと歩き回るにはあまりにも危険な場所である。 
 さては混乱の隙に金品をせしめようという腹か、と向こう側の住人を探るように眺めていたが、彼女も明らかにこちらを警戒していた。
 自分が不審に感じたように彼女も同様の―― いや、相手は自分のような武人ではなくか弱き女子である。
 与える不安感はこちらの想像以上だろうか。不審なだけならまだしも、ひどく怯えさせているかも知れない。
 荒れた戦地で見知らぬ男に遭遇すれば、誰だって恐ろしく感じることだろう。
 こんな時代だ、戦に乗じた盗賊や人攫いなどの小悪党は履いて捨てるほどいる。
 
 ―― もしや自分もそのような輩に見られているのではないか

 静まり返った廃墟に、不審極まりない男と2人きり。
 確かに年頃の娘にとってはこの上なく身の危険を感じる状況である。
 無理矢理身体を汚された挙句、そのまま娼館に売り飛される、という定番にして最悪なパターン。
 この少女もそんな悪い予感に打ち震えているのではないか。
 今この身にかけられている嫌疑は、不審人物どころか、まさか

 汚 ら わ し い ケ ダ モ ノ ?
 





 
「「・・・ちっ、違う!」」
 

 
 両者が立ち上がったのは、ほぼ同時だった。