スラム流NBAトリビア 〜ふと浮かんだことを書いてます〜
スラム流NBAトリビア
このページには、現在650個のNBAトリビアがあります。
1.2003年オフにクリッパーズと契約したオルデン・ポリニスは、1987年ドラフト8位(ホーレス・グラントやレジー・ミラー、マーク・ジャクソンより先に指名された)である。
2.オルデン・ポリニスは、ドラフトでブルズに指名された後、ソニックスが5位で指名したスコッティ・ピッペンとトレードされた。
3.オルデン・ポリニスは、キングス時代は、スターティングセンターとして最後のシーズン以外は、毎試合平均2ケタ得点を記録していた。
4.オルデン・ポリニスは、カリブ海の島国・ハイチ生まれ。大学は、バージニア大出身。
5.某D誌に書かれたNCAA&NBA優勝選手、五輪金メダル、NBAチームの監督を経験した歴代で4人しかいない人物の意外なひとりであるクイン・バックナーは、優勝した84年のセルティックスでは控えだった。
6.クイン・バックナーのキャリアハイは、バックス在籍時の1980−81シーズンの平均13.3点である。ちなみに、監督通算成績は1993−94シーズンのマーベリックスで残した13勝69敗である。
7.キャリア所属チーム数の歴代1位タイは、チャッキー・ブラウンとトニー・マッセンバーグである。
8.チャッキー・ブラウンの所属チームは、キャブス→レイカーズ→ネッツ→マーベリックス→ロケッツ→サンズ→バックス→ホークス→ホーネッツ→スパーズ→ウォリアーズ→キャブス→キングスの順番である。つまり、のべ13チーム(実際は12チーム)に在籍したことになる。
9.ピストンズの初代オーナーは、ピストン工場の会長である。ちなみに、デトロイトの前の本拠地はフォートウェイン。
10.現ソニックスの監督であるネイト・マクミランは、キャリアで平均2ケタ得点を1度も記録したことがないのにも関わらず、ソニックスの永久欠番選手(10番)になっている。彼はディフェンスの名手であった。
11.ネイト・マクミランはルーキーシーズンに、1試合25アシストという新人記録を打ち立てた。
12.現ネッツ監督のバイロン・スコットは、1987−88シーズンにM.ジョンソン、J.ウォージー、K.A.ジャバーを抑えて、平均21.7点でレイカーズのトップスコアラーとなった。それにも関わらず、彼は現役時代に1度もオールスターには選ばれていない。
13.ウルブズのアービン・ジョンソンは、22歳で大学に入学した。バスケを本格的に始めたのは、大学からだという超遅咲き。
14.セルティックスのビン・ベイカーの趣味は料理で、好きな食べ物はカニチャーハンである。
15.ウィザーズのギルバート・アリナスが、アリゾナ大学時代に背番号0をつけた理由は「お前のアリゾナ大での出場時間は0分だ」という陰口からである。また、ウォリアーズでもつけていた。
16.名字が似ているギルバート・アリナスと阪神タイガースのジョージ・アリアスは、同じ大学の出身である。ちなみに、アリアスの方が年上。
17.クリッパーズの監督のマイク・ダンリービーは、1982−83シーズンにスリーポイント成功率リーグ1位(34.5%)になっている。
18.クリッパーズ時代に主将を務めたショーン・ルックス(現ホーネッツ)のデビュー戦の成績は、20点だった。2巡目指名のルーキーながら、開幕戦スターターに抜擢された。
19.元マジックでJBLでもプレイしたこともあるドナルド・ロイヤルは、1990−91シーズンにイスラエルでプレーしていた。湾岸戦争が勃発する直前に、辛うじて最後のフライトでアメリカに戻ることができた。
20.ブルズのGMのジョン・パクソン(元ブルズ)とキャブスのGMのジム・パクソン(元ブレイザーズ)は兄弟。
21.ジャズのアンドレイ・キリレンコの奥さんは歌手である。
22.アンドレイ・キリレンコの背番号47の由来は、彼のイニシャルのA・Kと旧ソ連が開発した銃の名前「AK47」とをかけたものである。
23.マイケル・ジョーダンは水泳が苦手である。その理由として、子供のとき、彼の住んでいた街で溺死自己が相次いだため。
24.カール・マローンは2003年オフ現在で、ターンノーバー数歴代1位(4421)である。ちなみに、歴代2位は彼と長年コンビを組んでいたジョン・ストックトン(4244)。
25.1987〜90年のサクラメント・キングスに、マイケル・ジャクソンと同姓同名の選手がいた。キャリア通算成績は、89試合で188点(平均2.1点)である。
26.1963-64シーズンのロサンゼルス・レイカーズに、メル・ギブソンと同姓同名の選手がいた。キャリア通算成績は、9試合で13点(平均1.4点)である。
27.ネッツのケリー・キトルズは、消火活動に参加したことがある。
28.ブルズは、1984年ドラフト10巡目208位で陸上のカール・ルイスを指名した。しかも、ルイスはNFLのドラフト経験もある。
29.ウォリアーズは、1981年ドラフト7巡目171位で元全日本選手の岡山恭崇を指名。しかし、キャンプにも参加せず。
30.ブレイザーズのアルビダス・サボニスの趣味は、アコーディオンを演奏することである。
31.サンズのショーン・マリオンの背番号31の由来は、高校時代に「レジー・ミラーに似ている」と言われたことである。
32.ニックスのシャンドン・アンダーソンは、背番号49を着用した史上2人目の選手である。
33.グラント・ヒルの父は、かつてNFLのダラス・カウボーイズで活躍したカルビン・ヒルで、カルビンはNFLの新人王をとったことがあるので、親子そろっての新人王である。
34.NBA歴代最短身選手のマグジー・ボーグス(160cm)は、中学時代はレスリング部に所属していた。
35.チャッキー・ブラウンとタイ記録のキャリア所属チーム数のトニー・マッセンバーグ(12チーム)は、ジャパンゲームスを2度経験している。それは、クリッパーズ時代の1994年とネッツ時代の1996年のことである。
36.現マジック監督のグレン・リバースのあだ名「ドック」の由来は、大学時代の練習でドクターJ(ジュリアス・アービング)のTシャツを着たことに由来している。
37.クリッパーズからロケッツに移籍したエリック・パイカウスキーは、球団史上で最も長くクリッパーズに在籍した選手(9年)である。
38.1985年ドラフト2位(ちなみにクリス・マリンは7位、カール・マローンは13位)で、97年までペイサーズ→キングス→サンズで活躍したウェイマン・ティスデイルの趣味はベース演奏である。しかも、ベーシストとしてのレコーディング経験もある。
39.ホークスのシャリーフ・アブドゥル=ラヒムは2003年オフ現在で、プレイオフ経験のない現役選手で最多試合出場(533試合)&最多得点(11,045点)選手である。
40.1980年のオールスターには、新人ながらオールスターメンバーに選出された選手が3人もいた。ひとりはマジック・ジョンソンで、もうひとりはラリー・バード、さらにもうひとりは現ブルズ監督のビル・カートライト(平均21.7点を記録!キャリア唯一のオールスター)であった。
41.マイケル・ジョーダンは、1990年のバレンタインデーに行われたマジック戦では、12番のジャージーを着用していた。その理由は、試合前にジャージーが盗まれるというハプニングがあったから。その試合、チームは延長負けを喫したが、ジョーダンは49点の大活躍!
42.1987年新人王のチャック・パーソン(2000年まで現役)のあだ名「ライフルマン」は、俳優のチャック・コナーズが出た同名のTVドラマから来ている。しかも、パーソンの母親がコナーズのファンで、パーソンの本名は「チャック・コナーズ・パーソン」である。
43.元ペイサーズのリック・スミッツの両親は柔道教室を開くほどの柔道家で、スミッツは子供の頃に柔道をやっていた。
44.NBA50傑であるモーゼス・マローンは、オールスター選出経験のある選手の中で、最も所属チーム数(9チーム)が多い。
45.マイケル・ジョーダンの背番号23の由来は「背番号45の兄の半分でもうまくなりたい」ということからである。
46.マイケル・ジョーダン以前に、ブルズの背番号23をつけていた選手は6人いる。
47.マジック・ジョンソンは1980年のファイナルで、ビビーの父であるヘンリー(当時シクサーズの選手)と対戦していた。
48.ダンクコンテストとスリーポイントコンテストの両方に出場したことのある選手は、マイケル・ジョーダン、レイ・アレン、アラン・ヒューストン、ブレント・バリー、ニック・アンダーソン、ケニー・スミス、ボブ・スーラ、マイケル・クーパーの8人である。
49.ニック・アンダーソンは2003年オフ現在で、オーランド・マジックの通算得点王(10,650点)である。
50.セドリック・セバロスは、レイカーズ時代の1994−95シーズンにチーム1位の平均21.7点を記録し、オールスターに選出されたが、怪我のために出場を断念した。彼がオールスターに選出されたのは、この1度きりである。
51.アイザイア・トーマスがマイケル・ジョーダンを嫌ってたのは、1985年のオールスターの時に、エレベーターでジョーダンが挨拶をしなかったからである。(情報提供:通りしがりA様)
52.ケリー・キトルズはルーキーの時に来日をしたが、その際にシューズを日本に置き忘れて帰国した。ちなみにそのシューズは島本和彦氏が持っている。(情報提供:ジュ様)
53.ウィルト・チェンバレンは、2万人の女性とベッドを共にした。・・・チェンバレン著の自伝より。(情報提供:ジュ様)
54.ジェイソン・キッドはグリーンボーイだった頃、ジャンプシュートが下手だったので、「ジェイソン(Jason)なのにJが無い」という意味でエイソン(ason)・キッドと陰口を叩かれていた。(情報提供:ジュ様)
55.シャキール・オニールが発表した1stアルバムは、ミリオンセラーを達成した。(情報提供:ジュ様)
56.AC・グリーンは昨年(当時38歳)まで童貞だった。(情報提供:ジュ様)
57.ショーン・ケンプは全米のあちこちに異母の子供がいる。(情報提供:ジュ様)
58.ナゲッツの会場には、ナゲッツファンのアイドル的存在の女性ファンがいる。その人の自宅は、まるでナゲッツ博物館のようになっている。(情報提供:ジュ様)
59.NBAレギュラーシーズンの連勝記録は、71−72シーズンのレイカーズが記録した33連勝である。(情報提供:ジュ様)
60.世界的ショーマンシップバスケ集団でお馴染みのハーレムグローブトロッターズに、チェンバレンは1年だけ在籍していた。ちなみにビル・ラッセルにも入団の誘いはあったが、面接時のオーナーの人間性に不快感を覚え、断った。(情報提供:ジュ様)
61.ジョン・ストックトンはデニス・ロドマンに自伝の中で「ゲーム中最も汚い選手だ」と名指しされた。(情報提供:ジュ様)
62.ピストンズのホームコート、ザ・パレス・オブ・オーバンヒルズのビジターチームが使用する選手控え室のロッカーは、普通の会社で使用されているような開き戸式のロッカーである。(情報提供:ジュ様)
63.マーベリックスのホームコート、アメリカンエアラインズアリーナでは、選手の練習風景を見ながら食事できるレストランがある。(情報提供:ジュ様)
64.スティーブ・フランシス、ムーチー・ノリス、ウォルト・ウィリアムズの3人は幼馴染である。しかも、1999〜2002年までのロケッツで、3人とも同じチームでプレイしていた。(情報提供:ジュ様)
65.ラリー・バードは、NBA入りする前にバツイチになっている。(情報提供:ジュ様)
66.ラリー・バードは高校卒業後、インディアナ大に入学するも一ヶ月で退学。その後ガソリンスタンドで働きながら、19歳で結婚した。(その後離婚。63番のネタにつながってます) (情報提供:ジュ様)
67.クリス・ウェバーは、日本酒の飲み方は熱燗が一番好き。(情報提供:ジュ様)
68.NBA史上最高身長のマヌート・ボル(231p)と、NBA史上最低身長のマグジー・ボーグス(160p)は、同じチームに所属してた事がある。これは、1987−88シーズンのワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)のことである。(情報提供:ジュ様)
69.スラムダンク、エアボールなど、お馴染みのNBA用語は、レイカーズ専属アナだったチック・ハーンの造語である。(情報提供:ジュ様)
70.ボストン・セルティックスは、NBAで初めて先発メンバー全てを黒人選手で起用した。(情報提供:ジュ様)
71.NBA史上最低得点試合は、1950年11月22日に行われたピストンズ−レイカーズ戦で、19−18というスコアだった。ちなみにそのゲームがきっかけとなって、24秒ルールが採用された。(情報提供:ジュ様)
72.NBA創成期から存在するチームは、ボストン・セルティックスとニューヨーク・ニックスの二つだけである。(ウォリアーズも初年度から存在したが、この時のフランチャイズはフィラデルフィア。初年度から同じフランチャイズに存在するチームは、上記の2チームだけである) (情報提供:ジュ様)
73.シクサーズは2001−02シーズンの途中で、メンバー全員がヘッドバンドを着用してプレイしていた。これはアイバーソンがチームの結束を固めるために、選手全員に促した事。ちなみにムトンボは最後まで「オジサンだから」という理由で拒んでいました。(情報提供:ジュ様)
74.キングスのファンは、2001−02シーズンのカンファレンスファイナルで、応援時に発せられる声量の世界記録に挑戦していた。(情報提供:ジュ様)
75.マイケル・ジョーダンが2001−02シーズンのブルズ戦で魅せたブロック&スティール(ロン・マーサーに対してかました、後ろからレイアップを空中でキャッチしたプレイ)を、その年のプレイオフでケニオン・マーティンがバロン・デービス相手に密かに決めていた。(情報提供:ジュ様)
76.ポール・ピアースとティム・ダンカンは幾何学が得意。(情報提供:ジュ様)
77.マイケル・ジョーダンの1984年レギュラーシーズン初戦の相手は、ワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)だった。(情報提供:ジュ様)
78.ムーチー・ノリスは、CBAの他に、フランス、チリ、ベネズエラでプレイした経験がある。(情報提供:ジュ様)
79.ウォルト・ウィリアムズは大学時代、コーチに「俺はポイントガードもできる」と言った。(情報提供:ジュ様)
80.ベン・ウォーレスの1996年のNBAレギュラーシーズンデビュー戦の成績は、ベンチから19分出場し、10リバウンドだった。
81.リッキー・ピアースの1989−90シーズン(当時バックス)の成績は、全試合ベンチ出場ながら、平均23.0点を記録していた。
82.リッキー・ピアースとショーン・ブラッドリーの趣味は、乗馬である。
83.オーランド・マジックの球団初年度(1989年)のメンバーには、元ブルズ選手が4人もいた。レジー・セウス、シドニー・グリーン、サム・ビンセント、デイブ・コージンという面々だ。セウス以外は、マイケル・ジョーダンと一緒にプレイした経験がある。
84.シャキール・オニールは、キャリアでスリーポイントを1本だけ決めたことがある。1995−96シーズンの出来事だった。
85.往年の名センターであるウォルト・ベラミーは、1968−69シーズンに歴代最多となる1シーズン88試合に出場した。シーズン中にニックスからピストンズにトレードされ、スケジュールの都合(ニックスで35試合、ピストンズで53試合)で試合数が82試合より多くなった。
86.スリーポイントシュートは、1979年から導入され、成功第1号選手は、クリス・フォード(当時セルティックス)である。
87.クリス・フォードがスリーポイント成功第1号選手となった試合は、ラリー・バードのNBAデビュー戦だった。
88.最高得点試合は、1983年12月13日のピストンズVSナゲッツで、186−184(両チーム合計370点)でピストンズが勝利した。その試合には、現ペイサーズ監督のアイザイア・トーマスや現デトロイト・ショック(WNBA)監督のビル・レインビアも出ていた。
89.80年代に最も得点した(ナゲッツ在籍時の1980〜90年の総得点は21,645点)選手と言われるアレックス・イングリッシュは、詩集を出したことがある。
90.ウォリアーズのアドナル・フォイルは、かつてテレビ東京系で放送された「NBAウィークリー」という番組の司会のドナ・ウィニキと同じコルゲート大学出身である。
91.ブルズに移籍したケンドール・ギルの背番号13は、かつてギルの叔母がつけていた番号で、ギル家では「伝統の番号」である。
92.アレン・アイバーソンのデビュー戦の1996年11月1日のシクサーズVSバックスは、レイ・アレン(当時バックス)のデビュー戦でもあった。この試合は、A.アイバーソンが30点、R.アレンが13点という活躍で、バックスが111−103で勝利している。
93.ソニックスやニックスなどで活躍したゼイビア・マクダニエルは、マザー・テレサに関する本を多く持っている。
94.1993−94シーズンのMIPのドン・マクレーンは、60年代に「アメリカン・パイ」をヒットさせた歌手と同姓同名である。
95.マグジー・ボーグス(元ホーネッツ)がダンバー高校時代に、レジー・ルイス(元セルティックス)、レジー・ウィリアムズ(元ナゲッツ)、デビッド・ウィンゲイト(元ソニックス)と一緒にプレイした。
96.NBA歴代最長身選手のマヌート・ボルの1988−89シーズンのウォリアーズ時代のチームメイトに、224pのラルフ・サンプソンがいた。
97.レイ・アレンは高校時代、背番号は20番をつけていたが、コーチに「もっと強そうな番号をつけろ」と言われ、現在の34番にした。
98.ブレイザーズが1972年ドラフトでいの一番に指名したラルー・マーティンは、4年のキャリアで平均5.3点という悲惨な成績だった。
99.元ブルズのルーク・ロングリーの趣味はボディーサーフィンである。しかし、1996−97シーズンにボディーサーフィン中に肩を脱臼し、約1ヶ月も試合を欠場したこともあった。
100.1994年のジャパンゲームスで来日したロイ・ボート(当時クリッパーズ)の趣味は、絵画である。
101.2000年に交通事故死したマリク・シーリーのファーストネームの由来は、人種解放運動家「マルコムX」からである。シーリーの父は、マルコムXのボディーガードをしていた。
102.ウィルト・チェンバレンは、1962年3月4日の試合で、1試合100得点を決めた。その100点のうちわけは、フィールドゴール36本成功(72点)、フリースロー28本成功である。
103.チャールズ・バークリーの趣味は、カラオケである。
104.アントワン・ジェイミソンのデビュー戦(当時ウォリアーズ)の成績は、5分出場、1点(フリースロー1本のみ)、1スティールだった。
105.スティーブ・カーは、ブルズ時代にチームメイトから「オムツ換えの名手」と言われたことがある。子煩悩なお父さんなだけに…。
106.歴代最長身タイのマヌート・ボルは、ルーキーの時にブロックでリーグ1位(平均4.96本)になっただけでなく、オール・ディフェンシブ・2ndチームにも選出された。
107.2003年オフにキングスに移籍したブラッド・ミラーは、ルーキーシーズンの最終戦(1999年5月5日のセルティックス戦)で、ベンチから32点を叩き出した。しかも、この数字は2003年オフ現在でキャリアハイ(タイ記録)である。
108.そのB.ミラーが32点を叩き出した試合では、同じく当時ルーキーだったリッキー・デイビス(現キャブス)もベンチから32点を叩き出した。そのときの彼のシーズンアベレージは、平均12.1分出場、4.5点だった。
109.カリーム・アブドゥル・ジャバーは、UCLA1年生のとき、カリーム率いる1年生チームが学内の練習試合で上級生チームを破った。なんと上級生チームは、その年のNCAAチャンピオンであった。(井上雄彦「SLAMDUNK」の通常版第2巻にも書いてある話でもある)
110.カリーム・アブドゥル・ジャバーのIQ(知能指数)は132である。
111.カリーム・アブドゥル・ジャバーは、ブルース・リーの遺作「死亡遊戯」(1978年公開)に悪役として出演していた。カリームはリーに武術を教えてもらった間柄である。
112.1981年ドラフト2巡目24位指名は、ジェイ・ビンセントという選手であるが、この選手はルーキーシーズンに平均21.4点という数字をあげて、マーベリックスのトップスコアラーになっている。(ちなみに、この年の新人王は、当時ネッツのバック・ウィリアムズである)
113.ジェイ・ビンセント(マーベリックスなどでプレイ)とサム・ビンセント(セルティックスやマジックなどでプレイ)は兄弟である。
114.カール・マローンは1985年のドラフトの時のインタビューで「ユタの街でプレイできることを光栄に思います」とコメントした。その後に、当時のジャズの監督であるフランク・レイデンに「君、ユタは街じゃないよ」と突っ込まれた。
115.チャールズ・オークリーは、10年間在籍(1988〜98年)したニューヨークと故郷のクリーブランドにある洗車屋のオーナーでもある。
116.かつてジャズやグリズリーズ等で活躍したガード/フォワードのセオドア・エドワーズのニックネーム「ブルー」の由来は、彼の姉がベビーベッドで哺乳瓶を喉につまらせている光景を見て、このニックネームをつけたことである。
117.名シューターとして知られるミッチ・リッチモンドは、キングスに移籍(1991年)した当初、新しいチームメイトに「Welcome to hell.」と言われた。それぐらいに、当時のキングスは悲惨な状況であった。
118.ミッチ・リッチモンドはキングス時代、古巣のゴールデンステイト・ウォリアーズがあるオークランドからキングスの本拠地のサクラメントまで車で通勤していたことがあった。
119.ミッチ・リッチモンドがアトランタ五輪の代表メンバーに選ばれたのは、マイケル・ジョーダンが絶賛したことにあると言われている。
120.ラトレル・スプリーウェルは、カー用品店を経営するほどの大の車好きで、アメリカ大陸を自動車で横断したという武勇伝を持つ。
121.1995−96シーズンにブルズに在籍していた控えセンターのジャック・ヘイリーは、UCLA時代、学生寮の自分の部屋にファッション雑誌の切り抜きを貼りまくった程にファッションにこだわりがある。
122.ジャック・ヘイリーは、1995−96シーズンのブルズ在籍時には「デニス・ロドマンのベビーシッター」と呼ばれた。スパーズ(1993〜95年)でもブルズでもロドマンのチームメイトであり、ロドマンが心を通わすほどの親友であるからだ。
123.1996−97シーズンにジャズに在籍していたセンターのグレッグ・フォスターは、その年のファイナルの対戦相手だったブルズに解雇された過去がある。ファイナル第3戦で17点を入れる大活躍をして、ジャズのファイナル初勝利に貢献したのはそのためなのか?
124.1984年にジョン・ストックトンを指名することを決めた当時のジャズのオーナーは「何か物が飛んでくるんじゃないかとビクビクしていたが、意外と静かだったよ」とコメントしていた。
125.1995−96シーズン前半にシクサーズに在籍していたシャロン・ライト(1994年ドラフト全体6位のフォワード/センター)は、この年に72勝したブルズと対戦した後に「ブルズにはスーパーマンとバットマンとロドマンがいる」とコメントした。
126.ディケンベ・ムトンボの本名は「ディケンベ・ムトンボ・ンポロンド・ムカンバ・ジャン・ジャクー・ワムトンボ」という長い名前である。
127.ディケンベ・ムトンボは、英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、5つのコンゴの部族語が話せる超知性派。
128.セルティックスはボストンガーデン時代、アリーナ内のホコリを1ドルで販売していた。(情報提供:ジュ様)
129.2000−01シーズンの最優秀監督に選ばれたリック・カーライル(現ペイサーズ監督)は、大学時代にラルフ・サンプソンと共に来日していた。(情報提供:ジュ様)
130.2002年オールスターに出場したポール・ピアース、アントワン・ウォーカーの二人は、開催地のフィラデルフィアまでボストンから車で行った。(情報提供:ジュ様)
131.ケニー・アンダーソンは9・11(ニューヨーク無差別テロ事件)後から、レギュラーシーズン中に1アシストを記録するごとに、ニューヨークへ50ドルの寄付を行っている。(情報提供:ジュ様)
132.アントワン・ウォーカーは「はしゃぎすぎ」という理由で、テクニカルファウルを取られた事がある。(情報提供:ジュ様)
133.ロドニー・ロジャースは01−02シーズン中にサンズからセルティックスにトレードされたが、その時セルティックスのGMからロジャースの家族の名前が入ったTシャツを渡される、という歓迎を受けた。(情報提供:ジュ様)
134.80年代レイカーズは、マジック・ジョンソンを中心とした「ショータイム・レイカーズ」と呼ばれるアップテンポなゲームを展開していたが、ホームゲームでは、その速効性に磨きをかける為に、ボールの空気圧を高くしてよく弾むようにしていた。(情報提供:ジュ様)
135.セルティックスはレイカーズとのNBAファイナルのシリーズで、レイカーズの控え室の空調を動かないようにしていた事があった。(情報提供:ジュ様)
136.2001−02シーズン・ファイナルで、ネッツが用意したレイカーズの控え室には、木製のベンチが二つ置いてあるだけだった。(情報提供:ジュ様)
137.NBA全30チーム内(2004年にシャーロット・ボブキャッツ創設)に、日本人スタッフが4人いる(どのチームにいるていうのは忘れましたけど・・・確かネッツに一人います)。(情報提供:ジュ様)
138.ベン・ウォーレスとチャールズ・オークリーは師弟関係にある。(情報提供:ジュ様)
139.作曲家の馬飼野康二の変名(MARK DAVIS=マーク・デイビス)と同じ名前のNBA選手がいた。マーク・デイビスは、1995〜2000年までウルブズやシクサーズなどでプレイし、1996−97シーズンには、シクサーズのシックスマンとして平均8.5点をあげた。
140.ウルブズやナゲッツ、ブレッツ(現ウィザーズ)等に在籍したトム・ハモンズの趣味は、カーレースであり、オフシーズンにはカーレースの大会に出場するほどのレース狂だ。
141.元ブレッツのラリー・スチュワートは、ルーキーシーズンの1991−92シーズンに平均10.4点をあげて、ドラフト外選手で初めてオール・ルーキー・チーム(2ndチームに選出)に選ばれた。
142.80年代後半でのバックスでの活躍が知られ、7球団に在籍したテリー・カミングスは、ペンテコスト派の牧師、ミュージシャン、脚本家の顔を持つマルチタレントである。
143.2003年オフにキャブスに移籍したケビン・オリーはNBA歴6年にして、キャブスで10球団目となる。
144.ケビン・オリーのチームの変遷は、マーベリックス→マジック→キングス→シクサーズ→ネッツ→ブルズ→ペイサーズ→バックス→ソニックス→キャブスである。しかも、シクサーズ時代には控えガードとしてファイナルを経験している。
145.PJ・ブラウンの「PJ」は、彼の大好物である「ピーナッツバター&ジャム」の略である。
146.PJ・ブラウンは、1992年ドラフト2巡目29位でネッツに指名されたが、1992−93シーズンはNBAでプレイせず、ギリシアで1年間プレイした後、ネッツでNBAデビューを果たした。
147.1995〜98年のロケッツでアキーム・オラジュワンの控えだったチャールズ・ジョーンズには、NBAでプレイしたコールドウェルとメイジャーという2人の兄がいる。3人ともセンター、オルバニー州立大出身、ロケッツでのプレイ経験ありという共通点がある。
148.アロンゾ・モーニングは、親友であるディケンベ・ムトンボの長い本名について「自分で飼っている犬の名前も入っているんじゃないのか?」というジョークを言った。
149.NBAのキャンプに参加した経験のある女性がいる。その名は「アン・メイヤーズ」で、彼女は1979年にペイサーズのキャンプに参加した。結果は不合格だった。
150.アン・メイヤーズの兄の「デイブ・メイヤーズ」は、1975年にUCLAからドラフト1巡目2位指名され、K.A.ジャバーとのトレードに関わった選手のひとりである。1975〜80年までバックスでプレイし、キャリア平均11.7点、6.3リバウンドの成績であった。
151.デリック・コールマンとアンソニー・メイソンは、MLBのニューヨーク・ヤンキースのファンという共通点がある。
152.1997年に球団史上初のプレイオフ進出を果たしたウルブズには当時、2人の素晴らしいルーキーがいた。ひとりは、ステフォン・マーブリーで、もうひとりは、当時30歳の最高齢ルーキーだったディーン・ギャレットである。
153.ディーン・ギャレットは、シラキュース大が1987年に優勝したときのメンバーである。1988年ドラフト2巡目38位でサンズに指名を受けたが、88〜96年までヨーロッパでプレイしていた。
154.ウォーリー・ザービアックの両親は、国際派である。父は元スペインリーグのスターだったバスケ選手で、母は16〜17歳のときに日本の学校に通っていた。
155.ヒューバート・デイビスの叔父のウォルターは、サンズの永久欠番選手(6番)にもなった名シューターであった。しかも、ヒューバートと同じノースカロライナ大出身である。
156.ジャズのマーク・ジャクソン(Mark Jackson)は、歴代新人王の中で最も低い指名順位(1987年ドラフト1巡目18位)だった。
157.NBAの歴史にクリフ・ロビンソンという名前の選手が2人いた。ひとりは、現ウォリアーズのクリフ(正確には「クリフォード」)・ロビンソンで、もうひとりは、1979〜91年までキャブスやシクサーズなどでプレイしたクリフ・ロビンソンだ。
158.話題の2003年ドラフト1位のルーキー、レブロン・ジェームス(キャブス)の好物はアイスクリームである。
159.カーメロ・アンソニー(ナゲッツ)のニックネーム「メロウ」の由来は、彼が温厚な性格だということにある。
160.デュエイン・ウェイド(ヒート)は21歳のルーキーにして、既婚者で子持ちである。
161.セルビア・モンテネグロ出身のブラデ・ディバッツの結婚式は、彼の母国で全国放送された。
162.フィル・ジャクソンの現役時代のキャリアハイは、1973−74シーズンの平均11.1点、5.8リバウンドである。
163.フィル・ジャクソンは、オール・ルーキー・チーム(1967−68シーズン)に選ばれたことがある。
164.かつて、フィル・ジャクソンと似たような名前の「フィル・ジョンソン」というコーチがいた。キングスの監督経験があり、ブルズでアシスタントコーチをやったときに、1試合だけ監督代行をしている。監督通算成績は、236勝306敗である。
165.パット・ライリーの現役時代のキャリアハイは、1974−75シーズンの平均11.0点である。
166.現松下電器の監督であるポール・ウェストヘッドが、1979−80シーズンにレイカーズの監督代行をすることになった理由は、監督であるジャック・マッキニーが自転車で事故に遭ったから。
167.チャールズ・バークレーの「走る冷蔵庫」というあだ名は、彼の体格からつけられたものである。
168.チャールズ・バークレーがもらったあだ名のひとつに「ボーイ・ゴージ」というのがあるが、カルチャークラブのヴォーカリスト「ボーイ・ジョージ」と大食漢を意味する「ゴージ」をかけたものである。
169.チャールズ・バークレーがもらったあだ名のひとつに「クリスコ・キッド」というのがあるが、西部劇のヒーロー「シスコ・キッド」と油脂の一種「クリスコ」をかけたものである。
170.カール・マローンは江川卓からインタビューをうけたことがある。ちなみに、江川氏は日本のテレビ番組の企画でインタビューした。
171.アラン・ヒューストンとピート・マラビッチの共通点は、大学時代のコーチが自分の父親であること。
172.ジャズは2003年現在、1985年から始まったドラフト・ロッタリーに参加したことがない。
173.ダニー・フェリーは、1989年にドラフト2位指名されたにも関わらず、クリッパーズに入るのが嫌で、1年間イタリアでプレイした。
174.ビル・レインビアは、1979年ドラフト3巡目65位でキャブスに指名された後、1年間イタリア(ブレチアというチームで、平均21.1点を記録)でプレイして、1980年からNBAデビューした。
175.80年代前半のブレッツで活躍したリック・マホーン(208cm、114kgのパワーフォワード)とジェフ・ルーランド(208cm、124kgのセンター)の巨漢コンビは「Beef Brothers」と呼ばれた。
176.リック・マホーンとアレン・アイバーソンの母親は、高校の同級生。そのため、マホーンの現役最後の所属チームは、1998−99シーズンのシクサーズである。
177.アイバーソンの母であるアンさんは、15歳の時にアレン・アイバーソンを出産した。
178.アイバーソンは、2002年のオールスターで、往年の名選手であるジュリアス・アービング(ドクターJ)と同じ6番をつけた。
179.アイバーソンの好きな食べ物は、おばさんの作ったラザニアである。
180.ケビン・ジョンソン(元サンズ)は、1991年のオールスターで試合終了直前に逆転スリーポイントを放ったが、カール・マローン(当時ジャズ)が空中にあるボールに触ったため、ウェストの逆転勝利はならなかった。
181.ケビン・ジョンソンがオールスターで41番をつけた理由は、当時のチームメイトのマーク・ウェストへの敬意である。
182.マイケル・フィンリーは高校時代、地元シカゴのTV局の企画でマイケル・ジョーダンと対戦した。
183.1989年のシックスマン賞で、1981〜99年までプレイしたエディ・ジョンソンは、意外なことにオールスターには1度も選ばれていない。
184.エディ・ジョンソンのニックネームは、ファーストレディならぬ「ファーストエディ」である。理由は、シュートのリリースが早いから。
185.チャーリー・ウォードは大学時代、バスケとアメフトで活躍。しかも、アメフトではハイズマントロフィー(MVP)を受賞するほどである。
186.1977年ファイナル(ブレイザーズVSシクサーズ)第6戦の前、ブレイザーズの熱狂的ファン「ブレイザーマニア」は、午前4時半の早朝にも関わらず、空港でブレイザーズのメンバー乗せた飛行機を出迎えた。しかも、出迎えたブレイザーマニアの数は5000人を超えた。
187.ヒートのアシスタントコーチのスタン・バンガンディは、ロケッツの監督のジェフ・バンガンディの兄である。しかも、兄弟そろってパット・ライリーのアシスタントを務めた経験がある。
188.1990−91シーズンのシカゴ・ブルズはシーズン中、ロースターを一度もいじることなく、球団初優勝を飾った。
189.1953−54シーズンのミネアポリス・レイカーズは、9人の少数精鋭で優勝をもぎとった。
190.ダーク・ノビツキーの姉のシルクさんは、NBAオフィスの国際部門で勤務している。
191.ビンボー・コールズ(バーネルという本名がある)のニックネーム「ビンボー(Bimbo)」は、カントリーミュージックに由来している。
192.スコッティ・ピッペンは1997年のNBAファイナルで当時ジャズのカール・マローンに「日曜日は郵便配達はお休みです」というマローンのニックネーム「メイルマン」をネタにしたトラッシュトークをした。このトラッシュトークをした試合は、日曜日に行われた。
193.ジャマール・ティンズリーはルーキーシーズンの2001年11月22日のウィザーズ戦で19点、23アシスト(2003年オフ現在のキャリアハイ&球団記録)、11リバウンドのトリプルダブルをやってのけた。当時ウィザーズにいたマイケル・ジョーダンは「偉大な司令塔に教わっている成果だ」と賞賛した。
194.マーベリックスからロケッツに移籍したエイドリアン・グリフィンは1999−2000シーズンの新人時代(当時セルティックス)、11月の月間新人王に輝いた。その1ヶ月間の活躍は、平均11.4点、7.9リバウンド、2.34スティールというドラフト外の新人とは思えないものだった。
195.アントニオ・ダニエルズはブレイザーズ在籍時以外、背番号33を着用していた。その由来は亡くなった兄クリスがデイトン大で着用していた番号で、兄の遺志を継ぐためである。
196.ナゲッツのメイベナー・ヒラリオは「ネネ」という名前で選手登録した。「ネネ」は彼のニックネームで、ポルトガル語で「baby」という意味がある。彼の母国ブラジルでは、ニックネームで選手登録することは当たり前である。
197.「バッドボーイズ」と呼ばれた時代のピストンズの一員だったジョン・サリーは、マイケル・ジョーダンを「ハゲ頭」と罵ったことがある。
198.WNBA選手のシェリル・フォード(デトロイト・ショック)は、あのカール・マローンの娘(高校時代から深い仲にあったポニータ・フォードさんとの間に産まれた)である。彼女は、父親(13位)よりも指名順位が高く(3位)、ルーキーながらオールスターに出場し、レギュラーシーズンは10.8点&10.4リバウンドというアベレージを残した。
199.2003−04シーズンで9年目を迎えるドン・リード(ピストンズ)は、1995年ドラフトで最後に指名された選手である。
200.セルビア・モンテネグロ出身でピストンズのゼルコ・レブラカは、1994年ドラフトで最後に指名された選手である。
201.ピストンズの2003年ドラフト2位指名権(ダルコ・ミリチッチを指名)は、1997年のオフにグリズリーズとのトレードによって手に入れたものである。当時のグリズリーズの見解は「6年後にはドアマットを脱出しているから、そのときにはいらないだろう」である。
202.ソニックスのドラフト指名の最高順位は、1990年の2位である。そのときに、ゲイリー・ペイトンを指名した。
203. 1995−96シーズンに、チャールズ・バークリーとブレント・バリーのトレードの噂があった。
204.デニス・ロドマンは1995−96シーズン開幕戦(VSホーネッツ)にて、開始わずか4秒でテクニカルファウルを宣告された。それは、当時ホーネッツのルーキーだったジョージ・ジティックに肘打ちを食らわしたためである。
205.ブレント・バリーの父であるリックは、現役時代に下手投げでフリースローを行ったことがある。(「SLAMDUNK」通常版第14巻にもその話が載っている)
206.スコッティ・ピッペンはドラフト前に代理人に「費用はブルズが持つから、ドラフトの日にハワイに隠れてくれないか」と言われた。
207.2003年オフにウォリアーズからマーベリックスに移籍したイリ・ウォルシュの生年月日は、当サイトの管理人スラムと1日違いである。ウォルシュは1980年1月27日生まれ。(これこそ、究極にどうでもいいことである。管理人の生年月日については「自己紹介」を参照)
208.かつてジャズに、ダンクの得意なデビッド・ベノワという名前の選手がいたが、彼と同姓同名のフュージョンのミュージシャンがいる。
209.1988−89シーズンのペイサーズは、シーズン中に4人も監督が交代した。ジャック・ラムジー、メル・ダニエルズ、ジョージ・アーバイン、ディック・バーサスがこのシーズンに監督を務めた。このシーズンは当然、ものすごい不調(28勝54敗)であった。
210.先日引退を表明したエリック・モントロスはキャリアのうち、5シーズンはフリースロー成功率が40%以下であった。キャリア最低は、2000−01シーズンに記録した25.8%という脅威の数字である。
211.エリック・モントロスの祖父は大リーガーであった。
212.マイケル・ジョーダンはフリースローが不調な時に「モントリシア」という表現を使った。これは、フリースローが苦手な大学の後輩にあたるエリック・モントロスをネタにしたもの。
213.キャブスのカルロス・ブーザーはアラスカ州出身である。また、1999〜2002年にキャブスに在籍していたブーザーの大学の先輩にあたるトレジャン・ラングドンもアラスカ州出身である。
214.カナダ代表経験のあるセンターのマイク・スムレックは、ジョーダンとマジックのチームメイトになった経験がある選手である。彼は1985〜86年にブルズに在籍し、86〜88年はレイカーズに在籍した。
215.2003年開幕時点で最年長は1962年9月6日生まれのケビン・ウィリス(41歳)であり、最年少は1985年6月20日生まれのダルコ・ミリチッチ(18歳4ヶ月)である。その年の差は約23歳、ほぼ四半世紀だ。
216.クリッパーズは30年以上の歴史があるにも関わらず、永久欠番選手が1人もいない。(2003年9月現在)
217.クリッパーズはカンファレンス決勝に進んだことがない。また、プレイオフで初戦突破したのは、まだチーム名が「バッファロー・ブレイブス」だった1975−76シーズンの1度きりである。
218.リバウンド王を7度もとったデニス・ロドマンであるが、オールスター出場はピストンズ時代の2度だけ。
219.ホーレス・グラントとハーベイ・グラントは双子であるが、ホーレスが9分早く生まれたので、ホーレスが兄である。
220.ハーベイ・グラントは、1992−93シーズンにキャリアハイの平均18.6点を記録した。この数字はホーレスのキャリアハイ(15.1点)より高い得点アベレージである。
221.ハーベイ・グラントは、クレムゾン大学でホーレスとのポジション争いに負けて転校した。
222.1977−78シーズンにワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)を優勝させた当時の監督であるディック・モッタは、「勝負は最後まで分からない」という意味で「オペラは太った女性が出るまで終わらない」という名言を言った。
223.ロケッツの監督を長年務めたルディ・トムジャノビッチは、1994−95シーズンに「チャンピオンの心意気を甘く見るなよ」という名言を言った。そのシーズンは、ロケッツは6位シードながら優勝を果たした。
224.マーベリックス初の永久欠番選手は、1980〜92年までマーベリックスで活躍したポイントガードのブラッド・デイビスである。
225.エイブリー・ジョンソンの兄は、かつてピストンズで活躍したビニー・ジョンソンである。
226.ニック・バンエクセルは、ウォリアーズにトレードされた後に背番号37のジャージーを着ることになったが、ウォリアーズの歴史の中で背番号37を着る選手は彼が初めてである。
227.シャキール・オニールとジョー・スミスの共通点は、マジック・ジョンソンに憧れて32番のジャージーを着た経験があることである。
228.ジョー・スミスは、ルーキーの時に「シンバ」というあだ名をつけられた。シンバとは「ライオンキング」の主人公の名前である。
229.マイケル・ジョーダンは1995年にB.J.アームストロングがブルズから放出されたときに「B.J.を失ったことを後で後悔するよ」とコメントしていた。
230.B.J.アームストロングは「ジョーダン邸で最も多く朝食をごちそうになった選手」と呼ばれていた。
231.サム・パーキンスは、レイカーズ、ソニックス、ペイサーズの3チームでファイナルを1度ずつ経験した。そのうち2度は、大学の後輩であるマイケル・ジョーダンのいるブルズと対戦した。
232.ピストンズのジョー・デュマースGMは現役時代、マイケル・ジョーダンに「最も厄介なディフェンダー」と呼ばれたことがある。
233.マイケル・ジョーダンの奥さんとジョー・デュマースの奥さんは、とっても仲が良い。
234.キャブスのジム・パクソンGMは、現役時代にブレイザーズからキャブスにトレードされる話があったが、都合でご破談となった。
235.ロバート・オーリーは、ロケッツに在籍していた1994年2月に当時ピストンズにいたショーン・エリオットとのトレードが行われようとしたが、健康面の問題でこのトレードはご破談になった。
236.ロバート・オーリーは、サンズ時代に当時監督だったダニー・エインジに、試合中にタオルを投げつけた。これがシーズン中にレイカーズにトレードされるキッカケだった。
237.シクサーズに大型トレードで移籍したグレン・ロビンソンのあだ名「ビッグドッグ」の由来は、パデュー大学時代に守衛が「ビッグドッグが餌を食っているときは静かにしておけ」と言ったことからである。
238.ビッグドッグと同じ大型トレードでホークスに移籍したテレル・ブランドンはかつて、メディアから「ナンバーワン・ポイントガード」の称号を貰ったことがある。
239.モーゼス・マローンはロケッツ時代の1981年のセルティックスとのファイナルで、「あんな程度の奴等は俺の田舎のストリートバスケの奴等でも勝てるぜ」とコメントした。これがセルティックスの逆鱗に触れてしまい、ロケッツが2勝4敗で敗退した。
240.ヒートからクリッパーズに移籍したエディ・ハウスは、パット・ライリーの娘に気に入られたことがある。
241.コービー・ブライアントとその父であるジョーは、親子そろってデル・ハリスのコーチングを受けたことがある。
242.先日引退を表明したブライアン・ショウは、1989−90シーズンにイタリアリーグに在籍していた頃、当時イタリアに住んでいて、後のチームメイトであるコービー・ブライアント(当時11歳)と1対1で対戦して負けたことがある。
243.2003年オフにロケッツと契約したジム・ジャクソンは、これでキャリア在籍チーム数歴代3位タイの10チーム目(マーベリックス→ネッツ→シクサーズ→ウォリアーズ→ブレイザーズ→ホークス→キャブス→ヒート→キングス→ロケッツ)となる。キャリア平均得点が2ケタの選手の中では、一番在籍チーム数が多い。
244.トニー・クーコッチは、ブルズ時代にチームのボウリング大会で優勝したことがある。
245.P.J.ブラウンの奥さんは、同じ大学(ルイジアナ工科大)の女子バスケ部の選手だった。
246.ホーネッツの控えフォワードのロバート・トレイラーは、大学時代にダンクをして、ゴールを破壊したことがある。
247.マジックからホーネッツへ移ったダレル・アームストロングは昔、毛糸工場で働きながらプレイする機会を待っていたことがある。
248.ダレル・アームストロングは、試合前に砂糖入りコーヒーを飲み、ハーフタイムにチョコレートを食べている。
249.ホーネッツのベテランのジョージ・リンチは、迷信深い人らしい。
250.デレック・アンダーソンは、大学時代に薬学を専攻していた。
251.ジャーメイン・オニールは、ルーキーシーズンに最年少出場記録を作った。そのときは、18歳1ヶ月24日であった。
252.ソニックスの監督であるネイト・マクミラン(1964年8月3日生まれ)は2003年10月現在で、いまだに現役を続けているカール・マローン(1963年7月23日生まれ)やケビン・ウィリス(1962年9月6日生まれ)より年下である。
253.アトランタ・ホークスは、試合観戦に来た子供にポケモンカードを無料でプレゼントするというサービスを行ったことがある。
254.ラッパーのマスターPは、ホーネッツのキャンプに参加した経験がある。
255.1997年のサンズVSソニックスのプレイオフで、サラリーキャップの空きがないために最低年俸(20万ドル台)で契約したサンズのレックス・チャップマンが大活躍であったが、ソニックスと3200万ドルの長期契約をしたジム・マッキルベインは、あまり出番がなかった(5試合で28分出場)という対照的な光景が見られた。
256.1997年のオールスターでMVPになったグレン・ライスは「僕は一日だけの世界一の選手だ」とコメントした。
257.ヒートのカロン・バトラーは、10代の頃に補導された経験がある。
258.2003−04シーズンのヒートにはデュエイン・ウェイドの他にも、ラマー・オドムという若くして子持ちになった選手がいる。
259.ヒートの球団創設当時の共同オーナーには、世界的ラテン歌手のフリオ・イグレシアスがいた。
260.ヒートは球団創設初年度に開幕17連敗し、次の試合で勝利した時に当時の監督は「エンパイアステートビル級の重荷を降ろした気分だ」とコメントした。
261.ナゲッツで開幕ロースター争いをしているジュニア・ハリントンと田臥勇太は、誕生日がわずか3日違いである。
262.キャバリアースのデサガナ・ジョップの背番号52の由来は、彼の母親が1952年生まれであることに由来している。
263.レブロン・ジェームス(キャブス)とえなりかずきは、同じ歳である。レブロンは1984年12月30日生まれで、えなり君は1984年11月9日生まれである。
264.ルーク・リドナー(ソニックス)は、高校時代にテニスもやっていた。
265.クリッパーズは、球団が創設されてから最初の7年間(当時はバッファロー・ブレイブス/1970年創設)に3人もの新人王を出した。それは、1973年のボブ・マッカドゥー、74年のアーニー・ディグリゴリオ、77年のエイドリアン・ダントリーである。
266.オルデン・ポリニス(クリッパーズ)は、ジャズ時代に警官相手に記念に貰った警察バッヂをちらつかせるというお騒がせを起こした。
267.ジェイソン・キッドとジム・ジャクソンは、マーベリックスで一緒だったときに、ひとりの女性の取り合いをしたことがある。
268.カッティーノ・モブリーのニックネーム「キャット」の由来は、子供のときに絵本「Cat In The Hat」が好きだったことに由来している。
269.アール・ボイキンスは、身長165cmでありながら、ベンチプレスで137Kgを持ち上げることができる。
270.カール・マローンは、NBAデビュー当初はフリースローを苦手としていた。
271.マイケル・ジョーダンは1度だけオールスターのスリーポイントコンテストに出場したが、結果は最下位だった。
272.ビタリー・ポタペンコ(ソニックス)はかつて、あるコーチから「奴を止めるには30個のファウルが必要だ」と言われた。
273.クリス・チャイルズ(前ネッツ)は大学卒業後、どこのNBAチームにドラフトされず、酒に溺れ、アルコール依存症になったという暗い過去がある。
274.ウォリアーズの往年の名選手であるクリス・マリンは、若手時代にアルコール依存症になり、立ち直ったという過去がある。
275.サクラメント・キングスとオーランド・マジックとニューオリンズ・ホーネッツは、背番号6番を「ファンの番号」として永久欠番にしている。
276.長年ジャズで活躍したブロックの名手であるマーク・イートンは現在、ソルトレイクシティ郊外でレストランを経営している。
277.セルティックスには、リタイアード・ナンバー(永久欠番)の他に、引退した専属アナウンサーの功績を讃える「リタイアード・マイクロホン(『永久欠マイク』とでも言うべきか?)」なるものがある。これは、ジョニー・モストという人物のものである。
278.ナゲッツの永久欠番選手のひとり、バイロン・ベック(背番号40)のキャリア平均得点は11.5点に過ぎなかったが、永久欠番選手に選ばれている。地元出身であり、熱のこもったプレイで人気を博した選手であった。
279.セルティックスの永久欠番の1番と2番は、元選手のものではない。1番は球団創設者のウォルター・ブラウンのもので、2番は監督や球団社長として貢献したレッド・アワーバックのものある。
280.ニックスの永久欠番の中にある不思議な番号「613番」は、元監督のレッド・ホルツマンのものである。その理由として、彼は1967〜82年までのニックスの監督時代に613勝しているからである。
281.ジャーニーマンとして有名なトニー・マッセンバーグ、チャッキー・ブラウン、ジム・ジャクソン、タイロン・コービンの共通点は、キングスでのプレイ経験である。(某NBAサイトのチャットでの私の発言より)
282.サクラメント・キングスは昔、「シンシナティ・ロイヤルズ」という名前だったが、カンザスシティに移転する際、MLBの「カンザスシティ・ロイヤルズ」と名前を被らなくするために、似たような意味(『royal=王族』)の「キングス」という名前を使った。
283.ホーネッツのルーキーのデビッド・ウェスト(David West)は、同じチームのデビッド・ウェズリー(David Wesley)とスペリングが8文字も同じである。(私は混同してしまうかもしれないです)
284.2003年オフに引退したクリス・ダドリーは、10代の頃に患った糖尿病を克服してNBA選手になった。
285.NBA最年長のケビン・ウィリスは、大学時代にファッションデザインを専攻し、自身のブランドのスーツを持っている。
286.チャールズ・バークリーは8歳の時、マントを着けて、窓から飛び降りたことがある。そのときは、気絶しただけで済んだ。
287.NBAで最も点差がついた試合は、1991年12月17日のキャブスVSヒートである。148−80でキャブスが68点差で勝利している。
288.史上最大点差で負けた当時のヒートに在籍していたグレン・ライスとスティーブ・スミスは、のちに優勝を経験している。ライスは9年後の2000年(当時レイカーズ)に、スミスは12年後の2003年(当時スパーズ)に優勝を経験した。
289.1997−98シーズンのロケッツのテレビ中継のテロップで「Where there’s a Willis」という文字がでたが、これは「Where there’s a will, there’s a way.(意志があれば道は開ける)」という諺と、当時活躍していたケビン・ウィリスの名字「Willis」とをかけたものである。「ウィリスがいれば道が開ける」という意味合いである。
290.ジョーダン、ピッペン、ロドマン等といった主力がごっそり抜けた1998−99シーズンのブルズは、1試合平均81.9点というチーム平均得点の歴代最低記録を作ってしまった。
291.1998−99シーズンのブルズは、チームでわずか49点(歴代チーム最低得点)しか取れなかった試合があった。
292.1997年4月6日のマーベリックスVSレイカーズで、マーベリックスは第3クォーターにわずか2点(フリースロー2本のみ)しかとれず、1クォーターでの最低得点記録を作ってしまった。
293.AC・グリーンが連続出場記録保持者(1192試合)であることは有名だが、歴代2位のランディ・スミス(元クリッパーズ他)に286試合もの差をつけて引退した。
294.現ネッツ球団社長であるロッド・ソーンは、かつてNBA副会長をやっていた時に「暴力部長」というニックネームがつけられた。それは、当時の彼の仕事の中に、乱闘などを起こした選手に課す罰金の額や出場停止の試合数を決めるものがあったから。
295.ロケッツとウィザーズ(当時はブレッツ)で活躍した名選手のエルビン・ヘイズのキャリア出場時間は、なんと50,000分ピッタリである。これは、歴代3位の記録となる。
296.5度もの延長になった1989年11月5日のソニックスVSバックスで、当時ソニックスのデイル・エリスは、1試合出場時間の歴代記録となる69分(わずか4分しかベンチに下がっていない)もの出場を果たした。
297.現サンズ監督のフランク・ジョンソンは、あるNBAゲームで、ゴーグルをかけている白人選手の姿に登録されていた。ちなみに、フランク・ジョンソンは実際、ゴーグルをかけていなかった。(某NBAサイトのチャットで知った話です)
298.ケビン・ジョンソン(元サンズ他)は、3度の延長となった1993年NBAファイナル第3戦(サンズVSブルズ)で、NBAファイナル記録となる62分間(わずか1分しかベンチにいない)の出場をした。
299.2003年にオールスター初出場を果たしたジドルナス・イルガウスカス(キャブス)は、オールスターで4分プレイしたが、これは2003年11月現在でオールスター最低出場時間のタイ記録である。
300.怪我をしたレイ・アレンの代役として、2003年ジャパンゲームスで存在感を現したソニックスの2年目のロナルド・マレーは、ルーキーシーズンは、14試合でわずか27点とっただけの選手にしか過ぎなかった。
301.現レイカーズのブライオン・ラッセル(Bryon Russell)は、ジャズ時代の1996年プレイオフの試合終了時のインタビューで「バイロン」と呼び間違えられたことがある。
302.MLBのシアトル・マリナーズのイチローは、1994年のジャパンゲームスの始球式(内容はジャンプボールの時に、ボールを高くあげる)を行い、さらに6年後の2000−01シーズンのソニックスの試合の始球式も行ったという貴重な経験の持ち主。
303.レイカーズ時代のニック・バンエクセルは、クリッパーズと対戦していた時に、余裕で勝っていた第4クォーターで30点差がついた後にタイムアウトを取ったクリッパーズに、なんと「バイバイ!」と監督に向かって手を振った。(情報提供:ミカイル様)
304.ジョージ・マックラウドは、2000−01シーズンの1試合での最多アシスト(22本)を記録していたことがある。(情報提供:ミカイル様)
305.コービー・ブライアントの名前は、神戸牛のステーキからつけられた。(情報提供:ミカイル様)
306.トニー・デルク(現マーベリックス)は、2000−01シーズンのサンズ時代は平均12点ぐらいだったのに、キャリアハイは53点取ったことがある。(情報提供:ミカイル様)
307.トレイシー・マレー(ウィザーズなどで活躍)とラモンド・マレー(ラプターズ)は従兄弟である。(情報提供:ミカイル様)
308.1試合の最多アシストの保持者はスコット・スカイルズの30アシストである。(アシスト数歴代1位のジョン・ストックトンでさえ、28アシストが最高です)(情報提供:ミカイル様)
309.ビンス・カーターとトレイシー・マグレディーは従兄弟である。(情報提供:ミカイル様)
310.カール・マローンは、少年時代は泣き虫で、兄とバスケをやって点を入れると殴られていた。(情報提供:ミカイル様)
311.最初のスティール王は、ラリー・スティール(元ブレイザーズ)という選手である。(情報提供:ミカイル様)
312.ジョン・ストックトンは高校時代、監督を朝4時に起こして体育館を空けさせていた。(情報提供:ミカイル様)
313.チャールズ・バークレーは、「ヤオ・ミンが20点取ったら、馬のケツにキスしてやる!」と言った。(情報提供:ミカイル様)
314.ビンス・カーターの父は現在、義理の父で嫌われている。(情報提供:ミカイル様)
315.ニックスは第8シードではじめてファイナルにいったチームである。(情報提供:ミカイル様)
316.フラシンスはグリズリーズに指名されたが、ヒューストンでおばさんのラザニアを食べたいなどとわがままを言ってトレードされた。(情報提供:ミカイル様)
317.ある年の一指名のルーキーは、試合に出る前に麻薬で死んだ。補足として、この選手は1986年2位指名のレン・バイアス(メリーランド大→セルティックス)である。(情報提供:ミカイル様)
318.1999年のカンファレンスファイナルで、ラリージョンソン(当時ニックス)が4ポイントプレイをしてファイナル進出をした時、ファールをしたのはアントニオ・デイビス(当時ペイサーズ)である。(情報提供:ミカイル様)
319.アンソニー・メイソンは、フリースロー打つときは片手で打っている。(情報提供:ミカイル様)
320.セドリック・セバロスは、ダンクコンテストで優勝したとき目隠しをしてダンクしたが、後で観客に透けていたのを見せたら、なぜか大歓声が送られた。(情報提供:ミカイル様)
321.グリズリーズのバンクーバーでの最後の試合は、皮肉にもスティーブ・フランシス(314番参照)のヒューストン・ロケッツと当たって、フランシスは安全のため、試合が終わる前に退場した。(情報提供:ハロルド M.様)
322.マイケル・ジョーダンとチャールズ・オークレーは、子供のときからの友達である。(情報提供:ミカイル様)
323.ジェイソン・キッドとゲイリー・ペイトンも、子供のときから友達である。(情報提供:ミカイル様)
324.マイケル・ジョーダンとチャールズ・バークレーは、一緒に引退しようと約束していた。(情報提供:ミカイル様)
325.マイケル・ジョーダンの背番号23は、兄が45だったので、「兄の半分とちょっとの力が欲しい」ということで使っていた。(情報提供:ミカイル様)
326.2001年のシーズン前、ポール・ピアース(セルティックス)は、バーである男にめった刺しにされたが、そのシーズンは無事に出て、一気に20点スコアラーに成長した。(情報提供:ミカイル様)
327.ジェイソン・キッド(ネッツ)に「バスケをやっていなかったら、どんな職業についていたのか」と尋ねてみたら、学校の先生になっていたという。その理由は子供が好きだから。(情報提供:ミカイル様)
328.ボビー・ジャクソン(キングス)にも、325番と同じ質問をしたら、「ミュージシャン」と答えた。(情報提供:ミカイル様)
329.ウォーリー・ザービアック(ウルブズ)の尊敬する選手は、クリス・マリン(元ウォリアーズ)で、理由は家が近所だから。(情報提供:ミカイル様)
330.2000年のオールスターでグラント・ヒルが、わずか19分しか出なかったのは、試合中にコンタックトをなくしたため。(情報提供:ミカイル様)
331.スティーブ・カー(ブルズやスパーズなどで活躍した)は、実はダンクは出来るのだが最後にやったのは大学生のときで、NBAでは1度もやっていないという。(情報提供:ミカイル様)
332.NBAで1番早くダンクが出来たのは、ジェリー・スタックハウスで12歳のときだという。(情報提供:ミカイル様)
333.NBAでプレイした最重量選手は、トーマス・ハミルトン(過去にセルティックスやロケッツなどに在籍)の163Kg。(情報提供:ミカイル様)
334.出場時間の平均で、最多記録はチエンバレの48.2分。48分越した理由は、1度も退場せず、延長戦なども出ていたから。(情報提供:ミカイル様)
335.NBAファイナルの3ポイント成功数の記録は、デレック・ハーパーの17本である。これは、彼がニックスに在籍していた1994年のファイナルの記録である。(情報提供:ミカイル様)
336.1試合の最多ブロックは、エルモア・スミス(元レイカーズ等)の17ブロックである。(情報提供:ミカイル様)
337.フリースロー連続成功は、マイケル・ウィリアムズ(元ウルブズ等)の2シーズンかけて作った97本である。(情報提供:ミカイル様)
338.フィールドゴール成功率の記録は、ウィルト・チエンバレン(元シクサーズ等)の72.7%である。(情報提供:ミカイル様)
339.カート・トーマス(ニックス)は、絵本を出版したことがある。
340.カート・トーマスは、現役生活の途中にアシスタントコーチをしていたことがある。マーベリックスに在籍していた1997−98シーズンの5試合目に怪我をして、シーズン出場絶望になった後に、アシスタントコーチを務めた。
341.マジック・ジョンソンは、ホテルなどのカウンターで「マジック・ジョンソン様のご予約は承っていますが、アービン・ジョンソン(本名)様のご予約は承っていません」と言われたことがある。
342.先日、背番号31がセルティックスの永久欠番になったセドリック・マックスウェルは、ロバート・パリッシュのあだ名「ザ・チーフ(酋長)」の名づけ親である。
343.ロバート・パリッシュのあだ名「ザ・チーフ(酋長)」の由来は、映画「カッコーの巣の上で」に登場する酋長の歩き方に似た歩きをしたからである。
344.ピストンズやレイカーズ、ウルブズ等に在籍経験のあるトニー・キャンベルは、アイザイア・トーマスとマジック・ジョンソンと一緒にプレイしたという貴重な経験がある。
345.トニー・キャンベルは、ウルブズ在籍時の1989−90シーズンに平均23.2点を記録したが、これは前年比プラス17.0点の驚異的な進歩である。
346.デイル・エリスは、4年目にマーベリックスからソニックスへ移籍して、平均24.9点を記録したが、これは前年比プラス17.8点の驚異的な進歩である。
347.ブルズやレイカーズ、ピストンズ等に在籍したオーランド・ウーリッジは、マイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソン、アイザイア・トーマスと一緒にプレイしたという貴重な経験がある。
348.数々のチームでプレイしたフォワード/センターのフレッド・ロバーツは、ラリー・バートとマジック・ジョンソンと一緒にプレイしたという貴重な経験がある。
349.今ではソニックスの監督であるネイト・マクミランは、選手として来日した1992年のジャパンゲームスのソニックスVSロケッツの第2戦で、ベンチから33分間出場して、24点・7リバウンド・5アシスト・5スティールという大活躍をした。
350.ネイト・マクミランはジャパンゲームスで、1992年に選手として2連勝を経験し、2003年に監督として2連勝を経験した。
351.いろんなチームのポイントガードとして活躍したセデル・スリートは、ジュリアス・アービング、マイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソン、アキーム・オラジュワンと一緒にプレイしたという貴重な経験がある。
352.セデル・スリートは、マジック・ジョンソンのバックアップとして1991年のオフにレイカーズに移籍したが、そのマジックが引退発表をしたため、先発に抜擢された。しかも、キャリアハイの平均15.1点&7.2アシストのアベレージを記録した。
353.カール・マローンとデニス・ロッドマンは、プロレスで対決したことがある。(情報提供:ミカイル様)
354.スコッティ・ピッペンは、デニス・ロッドマンがブルズに入団してくる前は「あいつとは絶対口聞かない」といっていた。(情報提供:ミカイル様)
355.出場停止の最多記録はラトレル・スプリーウェルが、ウォリアーズ時代に当時の監督であるPJ・カーリシモの首をしめたときの記録である。(情報提供:ミカイル様)
356.グラント・ヒルのお父さんはNFLのダラス・カウボーイズのオールスタープレーヤーだった。(情報提供:ミカイル様)
357.アレン・アイバーソンはひどく貧乏で水道もよく止められていた。(情報提供:ミカイル様)
358.カール・マローンは頭が悪く1年留年したことがある。しかし、1年留年していなかったら、ジョン・ストックトンとは、同じチームにはなっていなかっただろう。これは何かの運命を感じる。(情報提供:ミカイル様)
359.デニス・ロッドマンはプレイオフで、ジョン・ストックトンのシュートが決まり続けるものだから、弾き飛ばしたらしい。(情報提供:ミカイル様)
360.クリッパーズのコーリー・マゲッティは、大学時代ベンチだった。(情報提供:ミカイル様)
361.ショーン・ケンプは大学いく予定だったが、結局頭が悪く行くところがなく、NBAに入った。今ではたぷたぷ。(情報提供:ミカイル様)
362.レイカーズ2連覇時にベンチだったトニー・キャンベルは、ウルブズの初代エースになった。(情報提供:ハロルドM.様)
363.コーリー・マゲッティはデューク大にいた頃、監督の「コーチK」ことマイク・シャシェフスキーに「まだNBAでプレイすることは無理」だと残ることを勧めた。(情報提供:ハロルドM.様)
364.セドリック・セバロスは、ハワイ州生まれである。これは珍しい経歴だ。
365.一時期、NBAに2人の「ジョン・ウィリアムズ」という同姓同名の選手がいた。そのうちひとりは、元キャブス等で活躍し、「ホットロッド」というあだ名をつけられた。
366.元キャブスでなく、ブレッツ(現ウィザーズ)やクリッパーズ等でプレイした方のジョン・ウィリアムズは「ホットプレート」というあだ名をつけられた。その由来は、何でもホットプレートで焼いて食べることから来ている。
367.かつてキャブスやホークス等でディフェンスの名手として活躍したクレイグ・イーローは、マイケル・ジョーダンからよく「お前に俺は止められない」と言われていた。
368.クレイグ・イーローは、アトランタ五輪の聖火リレーに参加したことがある。
369.ダン・マーリーが1995年のオフにジョン・ウィリアムズと交換でサンズからキャブスにトレードされた時、チャールズ・バークリーはチームに対して、マーリーをトレードしたことを怒った。
370.ダニー・フェリーの父のボブはピストンズやブレッツ(現ウィザーズ)等でプレイ経験のある元NBA選手で、現役引退後はエクゼクティブ・オブ・ジ・イヤー(最優秀ジェネラルマネージャー)を獲ったことがある名GMだった。
371.ダニー・フェリーには、ハーバード大卒の兄(ボブJr.)がいる。しかも、バスケをしていて1985年ドラフト7巡目146位でホークスに指名されたことがある。
372.ビタリー・ポタペンコの好きな料理は、中華料理である。
373.ナゲッツのグルジア出身選手であるニコラス・ツキシビリは、寿司好きである。
374.ウルブズのフレッド・ホイバーグは昔、生まれた街で行われた市長選で、自分の名前が書かれた無効票が入ったことがある。
375.ペイサーズが1990〜97年まで使用したジャージーをデザインしたのは、あの陸上選手のフローレンス・ジョイナーである。
376.ビン・ベイカーの父は、自動車機械工と牧師の二足のわらじを履いていた凄い人である。
377.トニー・クーコッチは少年時代、意外なことに卓球をやっていた。しかも、14歳のときに、この年齢の部で全国優勝をした。
378.ケビン・ガーネットは、子供の頃に「バスケがうまくない自分は、いぶし銀的選手になりたい」とマリク・シーリーに憧れていた。(情報提供:ハロルドM.様)
379.ケビン・ガーネットの背番号21は、マリク・シーリーがつけた番号から来ていて、ウルブズにシーリーが契約した際、背番号を譲ろうとした話もあったほどである。(情報提供:ハロルドM.様)
380.80年代にボストン・セルティックスは、アップテンポなレイカーズに走らせまいと、ホームゲームでリングのネットをきつくしてボールの通過を遅らせたという。(情報提供:ハロルドM.様)
381.リック・フォックスが、レイカーズに移籍してから着用した背番号17の由来は「古巣のセルティックスが通算17回目の優勝をする前に、自分が優勝を経験する!」という決意の表れであった。しかも、その3年後には決意が実った。(情報提供:ハロルドM.様)
382.ビンス・カーターは「NBA選手の5%はゲイだ」とビックリするような発言したことがある。(情報提供:Taylor様)
383.ウィルト・チェンバレンのように「神をも恐れない」という理由で背番号13を着用した選手もいる。(情報提供:ハロルドM.様)
384.ヒートに所属するレイファー・アルストンのニックネームは「Skip To My Lou」と言う。由来は「トリッキーで派手なプレイをした時に、スキップをしているかのように見えた」ことからである。(情報提供:ハロルドM.様)
385.マイケル・クーパー(元レイカーズ、現WNBAのロサンゼルス・スパークスの監督)は、ラリー・バードから「最もやりにくい相手」と言われたことがある。(情報提供:ハロルドM.様)
386.デニス・ロッドマン(現ABAのロング・ビーチジャム)は、一番手ごわい相手として、元レイカーズのジェームス・ウォージーをリストアップした。(情報提供:ハロルドM.様)
387.名ポイントガードのマーク・ジャクソンは、背番号13が使えないときに、背番号31を使っているが、これは「父親が1931年生まれ」ということだけでなく、かつてのチームメイトのレジー・ミラーに対する敬意も含まれている。(情報提供:Taylor様)
388.サルナス・マーシャローニスは、1995−96シーズンにキングスに在籍したが、当時のチームメイトには、ソウル五輪でマーシャローニスが在籍していた旧ソ連の準決勝戦の相手だったUSA代表にいたミッチ・リッチモンド(当時は大学生)がいた。
389.ウルブズやブレイザーズ等で活躍したアイザイア・ライダーは、ウルブズ在籍時の1996年3月10日のジャズ戦で、審判に退場を宣告されて、判定に納得できず退場しなかったが、観戦に来ていた彼の母親に説得されて退場した。
390.中国人選手で初めて先発出場を経験したのはヤオ・ミンでなく、メンク・バテルである。ヤオより1シーズン早くNBA入りした彼は、ナゲッツ在籍時の2001−02シーズンに出場27試合中10試合に先発した。
391.デュアン・ワグナー(キャバリアース)は、高校時代に1試合で100点を入れたことがある。
392.ニックスの往年の名司令塔であるウォルト・フレイジャーのあだ名「クライド」の由来は、映画「俺たちに明日はない」の主人公クライドと服装が似ていることからである。
393.ウォルト・フレイジャーは、映画「エディー〜勝利の天使たち」の中で、自身の永久欠番ジャージーを燃やされた。
394.ニック・アンダーソンがマジック等で着用していた背番号25の由来は、射殺された高校時代の友人であるベン・ウィルソンが着けていた背番号からである。
395.ショーン・ブラッドリー(マーベリックス)の両親は背が高く、父親は208pであり、母親が183pである。
396.ラリー・ブラウンの兄ハーブもNBAの監督経験者である。1975年から3年間、ピストンズの監督をしていた。
397.ハズレ選手の代名詞でもあるパービス・エリソンは、歴代MIPの中で唯一、ドラフト全体1位指名の選手である。
398.2003年までの歴代MIPのうち、ドラフト10位以内で指名された選手は、7名いる。アルビン・ロバートソン(7位)、デイル・エリス(9位)、ケビン・ジョンソン(7位)、ロニー・サイカリー(9位)、パービス・エリソン(1位)、モックムード・アブドゥル=ラウーフ(3位)、トレイシー・マグレディー(9位)である。
399.1959〜61年にかけて、オールスターゲームで3年連続ルーキーがMVPになった。59年にエルジン・ベイラー(元レイカーズ)、60年にウィルト・チェンバレン(元ウォリアーズ他)、61年にオスカー・ロバートソン(元ロイヤルズ他)が選出された。
400.クリスチャン・レイトナー(ウィザーズ)のファーストネームの由来は、映画「バウンティ号の反乱」のフレッチャー・クリスチャン(艦長)と、映画「若き獅子たち」のクリスチャン・ディーゼル(ドイツ兵)という2人の映画の登場人物からである。
401.クリスチャン・レイトナーがデューク大学に在籍していた頃、観客席には「Laettner Lovers」と書かれたシャツを着た女性ファンが大勢観戦していた。
402.現ウルブズGMで、元セルティックスのケビン・マクヘイルは「俺を止めるにはダブルチームしかない」と発言したことがある。
403.ジャズなどで活躍したジェフ・ホーナセックのシュートの弧が高いのは…リングのあった裏庭に電線があってそれを超えて打っていたからと言われている。(情報提供:ハロルドM.様)
404.マーク(Mark)・ジャクソンはとても歌が巧く、UTA時代にキリレンコに「彼ならCDデビューできる」と言わしめた。(情報提供:Taylor様)
405.マーク(Mark)・ジャクソンが、有名なクロスポーズを思いついたのは2000年5月30日深夜のこと。(情報提供:Taylor様)
406.イチローがオリックス在籍当事に、ロッテのフランコ(現アトランタブレーブス)にねだってもらったTシャツが、ニック・バンエクセルのものであった。これは、300番と301番の発展形である。(情報提供:伊木肉朗様)
407.マイケル・ジョーダンとチャールズ・オークリーの仲の良い二人がファイナルの最中に一緒に食事に行ったことで、マジック・ジョンソンはマジで切れていた。これは、320番の発展形である。(情報提供:伊木肉朗様)
408.ダンクコンテストでジャージ姿で出たブレント・バリー(当時クリッパーズ)の着ていたTシャツには「White man can jump」とプリントされていた。(情報提供:伊木肉朗様)
409.マーク・ブラント(セルティックス)が取った20点&20リバウンド以上の活躍は、セルティックスでは10年ぶりのこと。(情報提供:ミカイル様)
410.2003-04シーズンのロサンゼルス・レイカーズで、カール・マローンが出た42試合のうち、負けたのは、たったの9試合である。(情報提供:ミカイル様)
411.レブロン・ジェ−ムズが2004年2月9日にとった通算1000点は、コービー・ブライアントを抜く最年小記録である。ちなみに、カーメロ・アンソニーも史上3番目の若さで記録した。(情報提供:ミカイル様)
412.キングスのクリス・ウェバーは、2004年1月24日にCBAの共同オーナーになっていた。(情報提供:ミカイル様)
413.元ブルーハーツ、現ハイロウズのヴォーカルである甲本ヒロト氏は、アキーム・オラジュワンのファンである。
414.1993-94シーズンのヒューストン・ロケッツには、レギュラーシーズンで平均2ケタ得点を残した選手が5人いるが、その中のひとりに、シーズン終盤に契約し、わずか3試合しか出場しなかったクリス・ジェントがいる。
415.落語界の大御所である立川談志氏は、NBAフリークで、好きな選手がジェイソン・ウィリアムズ、好きなチームがサクラメント・キングス(かつてジェイソンがいたから)である。
416.バーノン・マックスウェルの1994-95シーズン(当時ロケッツ)のプレイオフ成績は、出場1試合、16分出場、3点というものだった。
417.バーノン・マックスウェルは1994-95シーズン、試合中に観客を殴って、10試合の出場停止を受けた。
418.70歳の高齢ながら、グリズリーズをプレイオフに出場させ、2003-04シーズンのコーチ・オブ・ジ・イヤーになったヒュービー・ブラウンは、その年にプレイオフをニックスで指揮していた1983-84シーズン以来、20年ぶりに経験した。
419.ヒュービー・ブラウンは、かつてのニックスのスターであるバーナード・キングのダンクを「まるで鳥が飛び立つようだ」と形容した。
420.そのバーナード・キングは、マイケル・ジョーダンのルーキーイヤーの得点王である。キャリアハイの平均32.9点を記録した。
421.バーナード・キングは、得点王を獲得した次のシーズン(パトリック・ユーイングのルーキーシーズンでもある)に怪我で全休した。
422.バーナード・キングのキャリア3年目の平均得点は、19試合出場でわずか9.3点と、2年目までの平均より13点も低下した。それでも、ゴールデンステイト・ウォリアーズに移籍した次のシーズンは、平均21.9点に立て直した。
423.バーナード・キングの1987-88シーズンのワシントン・ブレッツの移籍初年度は、平均得点が17.2点と全盛期より約10点以上も低下したが、徐々に平均得点を伸ばし、1990-91シーズンに平均28.4点をあげ、34歳でオールスターに返り咲いた。
424.ミネソタ・ティンバーウルブズは、球団設立15年目にして2003-04シーズンに球団初のディビジョン&カンファレンス首位になった。これまでは、ディビジョン3位&カンファレンス5位が最高順位だった。
425.メンフィス・グリズリーズとミネソタ・ティンバーウルブズは共に、プレイオフ初出場の時のシード順が6位である。
426.歴代のNBA選手で最も多い名字は「ウィリアムズ」である。当サイトのリンク集にある歴代のNBAデータが網羅されているサイト「Basketball Reference.com」によると、2002-2003シーズン終了時点で53名にも及び、2003-04シーズンの新人であるモーリス・ウィリアムズを加えると、54名になる。
427.ロサンゼルス・レイカーズのブライアン・クックの父親は、1976〜78年にセルティックスとナゲッツでプレイしたノーム・クックである。
428.2003-04シーズンのロサンゼルス・レイカーズには、2世選手が3人いる。それは、コービー・ブライアント、ルーク・ウォルトン、ノーム・クックである。
429.マイケル・ジョーダンの1つ前に背番号23を着けていたマイク・ブラッツ(1982〜83年にブルズに在籍)は、ブルズ時代は15試合出場で平均2.6点をあげたガードである。しかも、キャリアハイは1980-81シーズンのキャバリアースで平均10.0点を記録している。
430.ジョン・パクソンのキャリア初プレイオフは、スパーズ時代の1984-85シーズン(キャリア2年目)のことで、いきなり平均10.2点を残している。しかも、プレイオフで平均2ケタ得点を記録したのは、このシーズンのみである。
431.「アイスマン」というあだ名で知られる往年の名選手であるジョージ・ガーヴィンは、キャリア最後のシーズンである1985-86シーズンはブルズでプレイし、マイケル・ジョーダンのチームメイトになった。
432.ホークスのボブ・スーラは、2004年4月12日のネッツ戦で、グラント・ヒル以来7年ぶりの3試合連続トリプルダブル達成かと思われたが、後日、リーグから最後のリバウンドがイカサマと判断され、3試合目のトリプルダブルは帳消しになり、ダブルダブルになった。
433.マイケル・ジョーダンは、1989年のオールスター前夜にポーカーをジェームス・ウォージー、マジック・ジョンソン、パトリック・ユーイング、チャールズ・バークレーらと翌日の5時まで7時間やった。(情報提供:ミカイル様)
434.431番のポーカーで、マイケル・ジョーダンは1万ドル分も負けていたらしい。(情報提供:ミカイル様)
435.マイケル・ジョーダンは1989年のオールスター前夜に7時間もポーカーをやったのにも関わらず、そのオールスターでは28点と活躍し、まったく問題はなかった。(情報提供:ミカイル様)
436.レジー・ミラーは、オールスターの前夜に10時間寝るが、チャールズ・バークレーのいたずらにより、まったく眠れなかった。ちなみに、バークレーが犯人だというのが分かったのは翌日、バークレーが「昨夜は眠れたかい?」と言ってきたから。(情報提供:ミカイル様)
437.マジック・ジョンソンは、子供のころにカリーム・アブドゥル=ジャバーからサインをもらおうとしたら、そっけない態度だったらしい。(情報提供:ミカイル様)
438.ビンス・カーターは、頭越えダンクのリストを作っていたが、その中にディケンベ・ムトンボ、アロンゾ・モーニングが入っていたことに2人は腹を立て、イーストのメンバーに「オールスターでは、あいつにはパスするな」というが、ジェリー・スタックハウスとアラン・ヒューストンが、彼らがどれだけ腹を立てているのかを伝えた。カーターはすぐさま朝ホテルで会う約束をし、謝罪して事態は丸く収まった。(情報提供:ミカイル様)
439.ニック・バンエクセルの母親は銃で2,3発打たれたことがあるが命に別状はなかった。(情報提供:ミカイル様)
440.マーカス・キャンビーは、2001年のプレイオフ中に妻と息子たちを人質にされたことがある。(情報提供:ミカイル様)
441.アレン・アイバーソンがバスケをはじめたのは10歳ごろからで、当時、アレンはバスケはソフトなスポーツでフットボールの方が楽しいと思っていたが、母に無理やり練習をしろといわれ続けていた。ちなみに、高校時代はフットボールは、バスケに負けないくらいうまかったらしい。(情報提供:ミカイル様)
442.カール・マローンは、フリースロー打つときはフェイダウェイみたいに後ろに跳びながら打つらしい。(情報提供:ミカイル様)
443.ラプターズは1試合のブロック記録を持っていて、記録は24ブロックである。(情報提供:ミカイル様)
444.カール・マローンは、2001年10月18日にチームの遠征があったが、彼は母親が入院したため、母の看病をして遠征は休んだ。(情報提供:ミカイル様)
445.1991年のプレイオフで、ペイサーズ対セルティックスの5試合チャック・パーソンは平均26点を記録した。(情報提供:ミカイル様)
446.デニス・ロッドマンの連続リバウンド記録は「7」だが、2位は5回連続でモーゼス・マローンである。(情報提供:ミカイル様)
447.デニス・ロッドマンは82日間の間だけ結婚していたことがある。(情報提供:ミカイル様)
448.カレッジ時代、ロッドマンは平均16リバウンド、25得点をしていた。(情報提供:ミカイル様)
449.デニス・ロッドマンがはじめてスターターに昇格したのは、2年目のときで、最初の24ゲーム中20勝した。(情報提供:ミカイル様)
450.デニス・ロッドマンは「自分はデリック・コールマンより選手として価値は高い」と、かつて言っていた。(情報提供:ミカイル様)
451.デニス・ロッドマンは、チャック・ディリー(元ピストンズ監督他)を尊敬している。(情報提供:ミカイル様)
452.デニス・ロッドマンは、ジョン・ストックトンのことを「リーグで一番汚いポイントガード」といった。(情報提供:ミカイル様)
453.マイケル・ジョーダンが旅先などで、ホテルに泊まるときに良く使う偽名は「リロイ・スミス」である。(情報提供:ankle breakers様)
454.マイケル・ジョーダンがジャンプシュートを成功させたあとに、使うトラッシュトークに「That’automatic」というのがある。(情報提供:ankle breakers様)
455.ラリー・バードは、チャールズ・バークレーの引退が決まったときに「もし、君が私のチャンピオンリングを使いたいときは、いつだって貸してあげるよ」といった。(情報提供:ミカイル様)
456.カール・マローンが、マイケル・ジョーダンを抜いて得点歴代3位になった時の得点は、17フィート(約5.18m)のジャンプシュートであった。(情報提供:ミカイル様)
457.マイケル・ジョーダンの手の大きさは、10インチ(約25センチ)である。ちなみに、その大きさは、ティム・ダンカンより少し大きい。(情報提供:ankle breakers様)
458.マイケル・ジョーダンの自宅には、ベッドルームが11部屋ある。(情報提供:ankle breakers様)
459.マイケル・ジョーダンが、かつらなどをつけて変装してプレイしているトレーディングカードがある。ちなみに、名前は「ジョニー・キルロイ」である。(情報提供:ankle breakers様)
460.1993-94シーズンで、同じチームに2人二桁リバウンドがいたのは、ニックスだけだった。(情報提供:ミカイル様)
461.PJ・ブラウンは、ギリシアでプレイした事がある。(情報提供:ミカイル様)
462.元ネッツのインカ・ダレは、すばらしい才能だと評価されたが、結局90年代最低のプレーヤーの一人だった。(情報提供:ミカイル様)
463.ヒートのリバウンド記録は、ロニー・サイカリーが持っていて34である。(情報提供:ミカイル様)
464.トム・ホーバスというプレーヤーが、ホークス入りをひと時だけしていたがすぐに消えた。ちなみに彼はトヨタ自動車で3年連続リーグ得点王だった。(情報提供:ミカイル様)
465.1988年のリバウンド王は、マイケル・ケイジであるが、その後の成績は下降気味であった。(情報提供:ミカイル様)
466.タイロン・ヒルは、1992年にパーソナル・ファールで1位だった(315個)。(情報提供:ミカイル様)
467.マーク・プライスといえば、オール・スター4回出場したまさにスーパースター選手だが、彼は意外にも2巡目25位指名であった。(情報提供:ミカイル様)
468.サム・ミッチェルは、1985年度で一番年をとったルーキーであった。(情報提供:ミカイル様)
469.ルーク・ロングリーは、オリンピックでたことがある。(情報提供:ミカイル様)
470.1970年・73年と優勝をニックスを届けたコーチは、レッド・ホルツマンで、彼がニックスで残した613勝は、永久欠番で「613」となっている。(情報提供:ミカイル様)
471.ニックスがもっとも相手に得点を許した試合は、ウィルト・チエンバレが100点をとった試合である。(情報提供:ミカイル様)
472.パット・ライリーは、NFLのダラス・カウボーイズに指名されたことがある。(情報提供:ミカイル様)
473.デリック・コールマンは、NCAAではじめて2000点・1500リバウンド・300ブロックを達成した選手である。(情報提供:ミカイル様)
474.ジョン・サリーは、数々の芸能人の友達を持つが、その中でも有名なのが、エディ・マーフィー、アーセニオ・ホールである。(情報提供:ミカイル様)
475.ウィルト・チェンバレンは、1度だけトリプル・ダブル・ダブルを達成したことがある(22点、25リバウンド、21アシスト)。ダブルが2つつくのは、全部で20を越しているから。(情報提供:ミカイル様)
476.クラレンス・ウェザースプーンは、1992年ダンク・コンテストで、テニスシューズを履いてきた。(情報提供:ミカイル様)
477.NBAワースト勝率を記録したのが、1972-1973シーズンのシクサーズで、9勝72敗である。(情報提供:ミカイル様)
478.ウェス・アンセルドとウィルト・チェンバレンの2人は、唯一、ルーキー・オブ・ジ・イヤーとMVPを同時受賞した選手である。(情報提供:ミカイル様)
479.マイケル・ジョーダンは、1987−88シーズンに131本のブロックを記録した。本数では、ガードながらリーグ14位という記録である。しかも、19チーム(当時は23チーム)のスターティングセンターより多いブロック数である。
480.マイケル・ジョーダンは、リーグ14位のブロックを記録した前の1986−87シーズンに125本のブロックを記録した。本数では、リーグ16位である。これは、13チームのスターティングセンターよりも多いブロック数である。
481.1981−82シーズンのカンザスシティ(現サクラメント)・キングスには、スティーブ、レジー、エディの3人の「ジョンソン」がいた。
482.1995−96シーズンのポートランド・トレイルブレイザーズには、クリフォード、ジェームス、ルミールの3人の「ロビンソン」がいた。
483.パット・ライリーは、異なる3チーム(1990年のレイカーズ、93年のニックス、97年のヒート)でコーチ・オブ・ジ・イヤーに輝いたことのある唯一のコーチである。
484.2004年オフ現在で、3度もコーチ・オブ・ジ・イヤーに輝いたことがあるのは、パット・ライリーとドン・ネルソンの2人だけである。
485.歴代のコーチ・オブ・ジ・イヤーで、元セルティックスの選手は、6人(ビル・シャーマン、トム・ハインソン、ドン・ネルソン、ドン・チェイニー、ラリー・バード、リック・カーライル)もいる。
486.歴代のコーチ・オブ・ジ・イヤーで、元ニックスの選手は、4人(リッチー・ゲリン、ハリー・ギャラティン、フィル・ジャクソン、ドッグ・リバース)もいる。
487.トム・チェンバース(当時ソニックス)は、怪我で欠場したラルフ・サンプソン(当時ロケッツ)の代役として、1987年のオールスターに出場し、MVPを勝ち取った。
488.歴代新人王で、ノースカロライナ大出身者は5人(ボブ・マッカドゥー、ウォルター・デイビス、フィル・フォード、マイケル・ジョーダン、ビンス・カーター)もいる。
489.ウィルト・チェンバレンは、センターで唯一、アシスト王(1968年に平均8.6本)に輝いた選手である。
490.デビッド・ロビンソンが1993−94シーズンの最終戦で、キャリアハイの71点をあげ、シャキール・オニールをかわして僅差で得点王を獲得したことについて、シャックはスパーズの相手だったクリッパーズのディフェンスをボロクソに批判した。
491. ジェイソン・ウィリアムズ(元ネッツ)は1996年の日本の公式戦で、シューズの中に日本のお守りを入れたが、手の指をけがしてシーズン後半欠場した。(情報提供:ミカイル様)
492. インカ・ダレ(元ネッツ)は、3シーズン目で初めてアシストを記録した。(情報提供:ミカイル様)
493. シクサーズの長い歴史で創立48年目に初めて新人王を受賞したのはアレン・アイバーソンであり、今も彼一人である。(情報提供:ミカイル様)
494.スティーブ・カーは、キャリア910試合出場しているが、先発出場は30試合しかない。(NBA史上もっともベンチスタートが多い選手といえる)
495.スティーブ・カーは、8シーズン連続(1992〜2000年)で先発出場が0だったことがある。
496.かつてバックスなどで活躍したマーキス・ジョンソンは、映画「ハード・プレイ(原題:White Men Can't Jump)」に出演したことがある。
497.モーゼス・マローンのNBAデビュー戦の成績は、0点だった。(バッファロー・ブレイブスで2試合出場した後に、ヒューストン・ロケッツに移籍した)
498.1955−56シーズンのロチェスター・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)と、1986−87シーズンのクリーブランド・キャバリアースの共通点は、チーム得点の上位3人がルーキーだという脅威の記録があることである。
499.オルデン・ポリニスは、フリースロー成功率がキャリア平均53.3%とフリースローが苦手な選手として知られているが、キャリア最後の3年は、どの年も成功率31.1%以下(イチローの打率より低い)という惨めな結果だった。
500.マーベリックス時代に、ポパイ・ジョーンズと共にリバウンドの武器として渋く活躍したセンターのロレンゾ・ウィリアムズもフリースローが苦手な選手で、
キャリア平均のフィールドゴール成功率46.9%に対し、同じくキャリア平均のフリースロー成功率が37.7%という低さである。
501.コービー・ブライアントは試合前のインタビューにあまり応じない事で有名だが、間寛平は試合前のインタビューに成功した。(情報提供:ジュ様)
502.NBAの審判には審判専用のサイトがあり、そこでは毎日の試合から判定が難しいプレイのムービーがアップされている。(情報提供:ジュ様)
503.アイバーソンはある試合前の練習に遅刻し間に合わず、罰として途中出場を言い渡された。しかしその試合で40点を記録した。(情報提供:ジュ様)
504.ティム・ハーダウェイは審判に抗議し退場処分になった後、怒りが収まらずに中継用のテレビをコートに放り投げた事があった。そのテレビをダレル・アームストングが片付け、後日両者のサインがそのテレビに書かれオークションに出品された。(情報提供:ジュ様)
505.マイケル・ジョーダンは非行少年に自分のバッシュを手渡し、その場で説得して更正させた事がある。(情報提供:ジュ様)
506.マイケル・ジョーダン専属の運転手は、初めてブルズにきたジョーダンに親切に道案内をした事がキッカケで運転手となった。(情報提供:ジュ様)
507.アレン・アイバーソンは01-02シーズンにFTの際に右肘のサポーターを触ってからリリースしていた。現在それはやっていない。(情報提供:ジュ様)
508.LAクリッパーズは前身のバッファローブレーブス時代、サンディエゴへの移転の際にブレーブスのオーナーとセルティックスのオーナーと入れ替わるという事件があった。(情報提供:ジュ様)
509.ラリー・バードはチャック・パーソンに「俺に殺される前に護衛を雇え」とトラッシュトークした事がある。(情報提供:ジュ様)
510.ラリー・バードはデビューしたてのチャック・パーソンとマッチアップした時、「ヘイ、ルーキー。シュートだ」と挑発し、チャック・パーソンは挑発に乗る事無く落ち着いてシュートを決め、「オレに指図するな」と言い返した事がある。(情報提供:ジュ様)
511.チャールズ・バークレーはマイケル・ジョーダンが二度目の復帰をした時、「自分も準備が出来ている」とコメントしたがジョーダンに「チャールズは節制が出来ないから無理だ」とたしなめられた。(情報提供:ジュ様)
512.ビル・ウォルトンはシュートブロックしようと思ったが間に合わなかったので、自分のシューズをボームに向け放り投げてブロックを試みた事がある。本人は「ナイス頭脳プレイ」と思ったが、当然テクニカルファウルをとられた。(情報提供:ジュ様)
513.ビリー・カニングハムはある試合の解説をしている時に、ある選手がポストアップしながら「ビリー、マイケル・ジョーダンを止めるのはどうすればいい?」と質問され、お手上げのポーズをした事がある。(情報提供:ジュ様)
514.ジェイソン・キッドには大学時代から新加入したチームのその年の勝率が上がるというジンクスがある。(情報提供:ジュ様)
515.ボンジ・ウェルズはブレイザーズ時代、地元の新聞に「俺たち選手は、ファンが何を考えているかなんて、いちいち気にしていない。俺たちにとって彼らの考えはどうでもいいんだ。ブーイングしたければ、やればいい。でも彼らは街中で俺たち選手に合うとサインをねだって来る。だから彼らは何を考えていようがファンでしかなく、俺たちはNBA選手でしかないのさ。」と過激なコメントを掲載された事がある。(情報提供:ジュ様)
516.ニュージャージー・ネッツはニューヨークをフランチャイズにしていた頃、MLBのメッツ、NFLのジェッツと同じニューヨークをフランチャイズにしていた3チームと、韻を踏んだチーム名になっていた。(情報提供:ジュ様)
517.ジャック・ボーンはスティールから速攻をした時に、反対のコート上にいたフロア清掃の少年にぶつかりそうになったが、上手く少年をかわして速攻を決めた事がある。試合後、その少年には自分のジャージにサインを入れ、プレゼントした。(情報提供:ジュ様)
518.スピーディ・クラクストンはチョコレートケーキを食べると調子が良い。スパーズ在籍時の02-03のファイナルの時、自身が活躍した試合ではチョコレートケーキを5個食べて試合に臨んだ。(情報提供:ジュ様)
519.ダラス・マーベリックスのオーナー、マーク・キューバンはIT事業で成功したにも関わらず、会場内でアイスの売り子をたまにしている。(情報提供:ジュ様)
520.マーク・キューバンはアメリカ最大のプロレス団体WWEのスーパースター、ランディ・オートンの必殺技をリング上で喰らってK.Oされた事がある。(情報提供:ジュ様)
521.マーク・キューバンはWWEの伝統的な大会をマーベリックのホームアリーナで開催した事に対する感謝の証として、同団体のスーパースター、アンダーテイカーよりWWEチャンピオンベルトを贈呈された。(情報提供:ジュ様)
522.マーク・キューバンはオーナー史上初めて、テクニカルファウルをとられた。(情報提供:ジュ様)
523.コーリー・マゲッティはクリッパーズの選手として、03-04シーズンの開幕戦に日本でソニックスと対戦したが、ドラフトではソニックスに指名され、直後にマジックにトレードされたという因縁の相手であった。(情報提供:ジュ様)
524.トレイシー・マグレイディは野球の投手としても高い才能を持ち、ヤンキースが獲得するという噂が出た事がある。(情報提供:ジュ様)
525.2002年、2003年にダンクコンテストで優勝したジェイソン・リチャードソンは、初めはアイスホッケーのプロ選手を目指していたが、自分に合うホッケーシューズが地元に無かったため、ホッケーの道を諦めてバスケットをするようになった。(情報提供:ジュ様)
526.マイケル・ジョーダン、ジェリー・スタックハウス、ビンス・カーターの三人の共通点は、大学が同じ、スウィングマン、プロ入りしてから大学卒業した。(情報提供:ジュ様)
527.マーカス・キャンビーの01-02シーズンのスタッツは、11.1得点、11.1リバウンド、1.1アシストと1並びになっている。(情報提供:ジュ様)
528.マイケル・ジョーダンはウィザーズ1年目のシーズンを終えた後、質問で「一番戦いにくかったチームはどこですか?」と聞かれ「ブルズだね」と答えた。「一番戦いやすかったチームはどこですか?」と聞かれ「ブルズだね(笑)」と答えた。(情報提供:ジュ様)
529.デイモン・ジョーンズはシャキール・オニールがレイカーズからヒートに移籍する条件として、「デイモン・ジョーンズをチームに入れる事」とオニールから条件提示されたほどの逸材である。(情報提供:ジュ様)
530.NBA評論家でお馴染みの島本和彦氏は、ジェイソン・キッドからサインを要求された事がある。(情報提供:ジュ様)
531.島本和彦氏が企画する「NBA観戦ツアーinL.A」では毎回、バーベキュー時のスペシャルゲストとしてレイカーズガールズが招かれる。(情報提供:ジュ様)
532.AC・グリーンの髪型は「ウェットヘア」と呼ばれ、「全身が光って見えてカッコイイ」と選手の間で好評だった。(情報提供:ジュ様)
533.レイカーズには難聴のスタッフがいるが、その人は一度難聴を理由に解雇された。しかしシャキール・オニールがその事に激怒し、もう一度雇うようにチームに申し立て、レイカーズのスタッフとして再就職できた。(情報提供:ジュ様)
534.ティム・トーマスはバックス時代、ヘッドバンドを二枚重ねにしてプレイしていた。(情報提供:ジュ様)
535.クリーブランド・キャバリアーズは2003年のドラフト一位指名権を得た時、「まだ誰を指名しようかなんて全然考えていないよ」とコメントしながら「JAMES 23」と刺繍されたユニフォームを記者団に見せた。(情報提供:ジュ様)
536.ポール・サイラスはリバウンド部門で歴代トップ20にはいってる。(情報提供:ミカイル様)
537.スコテイー・ピペンはバークレーのことを自己中心的、太りすぎなどといっていた。(情報提供:ミカイル様)
538.ビンス・カーターの奥さんとアントワン・ジェイミソンの奥さんは姉妹。つまり、カーターとジェイミソンは義理の兄弟となる。(情報提供:ミカイル様)
539.亡くなったマリック・シーリーは昔やっていた「NBAマニア」という番組でケンダマを見事成功させた。(情報提供:ミカイル様)
540.2006年ドラフト1巡目5位指名のシェルダン・ウィリアムズのニックネームは「ランドロード(地主)」
541.ベイノ・ウードリックのキングス移籍後の背番号19の由来は、父の誕生日の日にち(○月19日)から取った。
542.ホークスの監督のマイク・ウッドソンは2007−08シーズンの開幕前に「チームがプレイオフに進出したら髪を剃る」と公約して、チームは見事に9年ぶりのプレイオフ進出を果たしたので、公約を果たして髪を剃った。
543.セルティックスの22年ぶりの優勝に貢献して、2年目で先発ポイントガードを務めたレイジョン・ロンドは手の平が大きいという理由で「ET」というニックネームをつけられた。
544.レイジョン・ロンド(セルティックス)とジョッシュ・スミス(ホークス)は高校時代はチームメイトでルームメイトだった
545.エディ・ハウス(セルティックス)の妻はマイク・ビビー(ホークス)の妹
545.ホーネッツを強豪に押し上げた司令塔のクリス・ポールは高校時代に祖父が亡くなり、高校の試合で祖父の年齢にちなんだ61点を記録した。
546.ドワイト・ハワードの好きな映画は「ファインディング・ニモ」
547.ファイナル第3戦のヒーローだったレイカーズのサーシャ・ブヤチッチはレイカー・ガールズ(レイカーズのチアリーディングチーム)のディレクターから女性モノのヘアバンドを貰い、女性モノに関わらず試合中にそのヘアバンドを着用している。
548.NBAの選手で背番号47を着用したことがある選手はアンドレイ・キリレンコを含めてわずか5人しかいない
549.歴代のウォリアーズ選手の中で背番号37を着用したことがある選手は、2003−04シーズンに在籍したニック・バン・エクセルただひとり(2008年7月現在)
550.ドワイト・ハワードとクリス・ボッシュは親友で、北京五輪の南北アメリカ大陸予選のときに意気投合した。
551.クリス・ボッシュは日本でも御馴染みの動画投稿サイト「You Tube」で、オールスターのファン投票で自分に票を入れるように呼びかけをしたことがある。
552.アンソニー・ジョンソンはペイサーズに在籍した2006年のプレイオフで、そのシーズンの平均得点(9.2点)の2倍以上、キャリア平均の約4倍にもなる平均20.0点を記録した。
553.2008年のファイナルMVPのポール・ピアースはカリフォルニア州出身で、子供の頃はレイカーズファンで現在所属しているセルティックスは嫌いだった。
554.1998年ドラフト1巡目2位指名だったマイク・ビビーは屈辱を忘れないために、自分より先に指名された同ドラフト1巡目1位指名のマイケル・オロウォカンディのトレーディングカードを自分の財布に入れている。
555.リック・スミッツはペイサーズに入った当初はチャック・パーソンが背番号45だったので、背番号24を着用していて、パーソンが移籍した1992−93シーズン以降は背番号を45番にした。
556.ゲイリー・ペイトンはソニックスに入った当初は背番号2だった。何故ならば、1989〜92年までソニックスでは背番号20を着用したクインティン・デイリーが在籍していたから。
557.2007年ドラフト1巡目10位指名のスペンサー・ハウズの伯父のスティーブは、1974〜84年にホークスなどでプレイした元NBA選手である。しかも、共にワシントン大の出身。
558.リック・バリーとジョン・バリーの親子の共通点は「ロケッツでキャリアを終えたこと」である(ブレント・バリーが36歳でロケッツに移籍…ということは父や兄と同じくロケッツでキャリアを終える可能性もありそう)
559.2008年オフにニックスの監督となったマイク・ダントニがイタリアリーグの選手だった頃につけられたニックネームは「アルセーヌ・ルパン」で、スティールがうまいことが理由だった。
560.2007年にキングスの監督となったレジー・セウスの現役時代のプレイオフ出場試合数はわずか17試合だった(ちなみに、レギュラーシーズンは13年で1026試合に出場した。キングスには2008年オフ現在でプレイオフ出場わずか6試合のシャリーフ・アブドゥル=ラヒームがいるので類は友を呼ぶのか…)
561.ロン・アーテストのレイカーズでの背番号37の由来は、マイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」が37週連続全米チャート1位に入ったことに由来していて、ファンのアイデアによって決まった。
562.ラマー・オドムのチョコレートバーやキャンディーが好物で、インタビューで好物の話をしたら、製菓メーカーからこれらのお菓子がオドムの自宅に大量に届けられた。
563.ラマー・オドムとマイケル・オロウォカンディは共に「キャンディマン」というニックネームで呼ばれて、クリッパーズでチームメイトになった経験もある。
564.トレバー・アリーザは10歳のときに弟を転落事故で亡くした
565.マイケル・ピートラスは「エール・フランス」というニックネームで知られるが、2009年のNBAファイナルの
最中にエール・フランス墜落機での犠牲者への追悼の意を込めて、シューズに「AF447」の文字を入れた。
566.DJ・ベンガはコンゴ生まれでベルギーとの二重国籍を持つ。子供の頃にベルギーの難民支援施設に預けられたためにそうなった。
567.AND1ミックステープツアーのメンバーのエスカレード(本名:トロイ・ジャクソン)は元ペイサーズ他のマーク・ジャクソンの弟である。
568.カリーム・アブドゥル=ジャバーは生まれたころの体重は5kgを越えたほどの超ビッグな赤ちゃんだった。
569.イスラエル人初のNBA選手のオムリ・カスピのデビュー戦は、イスラエル時間では午前2時であるにも関わらず、国中で生中継が放送された。
570.ラマーカス・オルドリッジの趣味はピアノ演奏で、大学の授業でピアノを習ったことがきっかけでハマった。
571.2009年ドラフト2巡目31位指名でトレードを経てブレイザーズに入団したジェフ・ペンターグラフの趣味もピアノ演奏。
572.フランシスコ・エルソンはオランダ生まれであるが、両親は南アメリカのオランダ語圏の国・スリナムの出身。
573.フランシスコ・エルソンはナゲッツに在籍していた時代に、ウルブズ戦で当時の同チームのエースだったケビン・ガーネットに対するトラッシュトークで「お前はゲイだ!」と発言したことがある。
574.2008年にエルソンのチームメイトになったダン・ガズリッチもオランダ生まれだが、父はカリブ海出身、母は旧ユーゴスラビア出身である。
575.ルーク・ムバ=モーテのニックネーム「ザ・プリンス」の由来は、彼の父親が政府の重職も務めている村長であることから。
576.ジョアキム・ノアの父はフランスを代表する元テニス選手(現在はレゲエシンガーとしても活動)のヤニック・ノアで、母は元ミススウェーデンの彫刻家である。
577.ターボ・セフォローシャの父は南アフリカ人のミュージシャン、母はスイス人の画家であり、両親がスイスに住んでいたときに生まれたので、スイス国籍がある。
578.サンアントニオ・スパーズは2004年ドラフト2巡目52位で「ロマン・サトー」という名前の選手を指名したことがある(2010年1月10日現在でNBAでのプレイ経験はない)。彼は日系人でなく、中央アフリカ生まれである。
579.ケビン・デュラントはプレドラフト・キャンプで行われた運動能力計測で、84Kgのベンチプレスを1度も持ち上げることができなかった。
580.2011年ファイナルに進出したヒートのヘッドコーチのエリック・スポールストラの父親のジョン・スポールストラはブレイザーズやナゲッツ、ネッツなどのフロントの重職を務めたことがある経営者で、「エスキモーに氷を売る」「エスキモーが氷を買うとき」の邦題がつけられた経営学の著書もある。
581.ブレイザーズの若手ガードのウェス・マシューズJr.の父親のウェス・マシューズはドミニク・ウィルキンス(ホークス時代)、ジュリアス・アービング(シクサーズ時代)、マイケル・ジョーダン(ブルズ時代)、マジック・ジョンソン(レイカーズ時代)といったレジェンドたちとチームメイトになった経験がある。
582.2011年ドラフト1巡目11位指名でウォリアーズに入団したクレイ・トンプソンの父親は1978年ドラフト1巡目1位指名のマイカル・トンプソン。
583.クレイ・トンプソンの父親とウェス・マシューズの父親はレイカーズでチームメイトになったことがある。
584.大分ヒートデビルズの初代ヘッドコーチのジョワン・オールドハムは1984〜86年にブルズに在籍して、その頃にマイケル・ジョーダンとチームメイトなった。オールドハムがヒートデビルズのHC就任当時にちょっとした話題となった。しかも、ジョーダンとチームメイトだった1985−86シーズンにキャリアハイの平均7.4点を記録した。
585.JBL2時代のリンク栃木ブレックスに在籍していたクリス・キングはグリズリーズの創設初年度(1995−96シーズン)の先発スモールフォワードであった。ちなみに、そのシーズンのキングの成績は出場80試合のうちの66試合に先発して、平均7.9点だった。
586.グラント・ヒルはルーキーシーズンにファン投票トップでオールスター選出を果たしたが、このときに「ファン投票トップでオールスターに選出された北米メジャースポーツで初の新人」となった。
587.A.C.グリーンに破られるまでの歴代連続試合出場記録保持者であり、1978年のオールスターMVPだったランディ・スミスはNBAドラフトでは7巡目104位指名(1971年当時はドラフト3巡目以降もあった)というとても低い指名順位だった。
588.リーグ制覇を成し遂げた2010−11シーズンのマーベリックスのチームダンサーには、日本人のメンバーもいた。そのダンサーは海東奈月さんという方である。
589.オクラホマシティー・サンダーのチームスタッフには日本人もいる。その方は森岡浩志さんという方であり、インターンを経てチームのスタッフとなった。
590.ジャマール・クロフォードは2009−10シーズンに全試合ベンチスタートでありながら、平均18.0点といった数字を記録したが、この数字は全試合ベンチスタートの選手の中ではリッキー・ピアースが1989−90シーズンに記録した平均23.0点に次ぐ歴代2位の数字でもある。
591.レギュラーシーズンで全試合出場で全試合ベンチスタートの最高平均得点は1993−94シーズンのデル・カリーが叩き出した平均16.3点という数字である。
592.1981年以降からスターター出場数が公式記録となったが、スケジュールの都合でシーズン中にトレードされて83試合以上でスターター出場した例は3度あり、1981−82シーズンのマイク・ミッチェル、2001−02シーズンのジェイレン・ローズ、2003−04シーズンのテオ・ラトリフがそうであり、3人ともそれぞれのシーズンで83試合に先発した。
593.カロン・バトラーはかつて試合中にストローをくわえる癖があったが、リーグから「子供が真似すると危険」だと指摘されたためにこの癖を止めた。
594.カロン・バトラーはストローを噛んだだけでどこのメーカーを当てる「利きストロー」なる芸当ができる。
595.カロン・バトラーは1日2リットルも炭酸飲料を飲んでいた時期もあった。
596.現在(2011年)はヒートのアシスタントコーチであるボブ・マッカドゥーは現役時代はMVPや得点王、5度のオールスターなどの栄誉に輝いた名選手であったが、NBAの歴代50傑に選ばれず、NBAプレイ後の7年はユーロリーグでプレイしたお陰もあって、ユーロリーグの歴代50傑に選ばれた。
597.2011年に初のファイナルMVPを獲得したダーク・ノビツキーには、ホルジャー・ゲシュワインダーというプライベートコーチがついているが、ノビツキーと同じドイツ人のゲシュワインダーは10代の頃からの恩師である。
598.リーグで最初に「1シーズンでスリーポイント100本成功&100ブロック」という記録を最初に達成したのはロバート・オーリー(1995−96シーズン/当時ロケッツ)であり、2度目は2000−01シーズンのダーク・ノビツキーだった。
599.ラシード・ウォーレスは30歳を過ぎたにも関わらず、2005〜08年までの3シーズン連続で「スリーポイント100本成功&100ブロック」という離れ業を達成している。
600.シカゴ・ブルズのリーグ加入初年度の1966−67シーズンの成績は33勝48敗(勝率40.7%)であり、エクスパッションチームでありながらプレイオフに進出している。
601.ケビン・ラブの父は元NBA選手のスタン・ラブであり、伯父はアメリカを代表するバンドのビーチボーイズのヴォーカリストのマイク・ラブである。
602.2011−12シーズン途中のトレードでウォリアーズからバックスへ移籍したエペ・ユドーのニックネームは「フライデー」であり、そのニックネームと映画「13日の金曜日」にかけてベイラー大やバックスでは背番号13のユニフォームを着用している。
603.2011年ドラフト2巡目60位指名でキングスはアイザイア・トーマスというルーキーを獲得したが、元ピストンズの名選手のアイザイア・トーマスとは関連性がなく、ファーストネームは旧約聖書のイザヤ書から名付けられたもの。
604.2011年ドラフト1巡目1位指名で、新人王になったカイリー・アービングはオーストラリアのメルボルンで生まれて、オーストラリアの国籍も選べたが、アメリカの国籍を選択することになった。
605.ケンドリック・パーキンスはニュージーランド代表入りを打診されたこともある。その理由は彼の父親のケニー・パーキンスがかつてニュージーランドのバスケリーグでプレイしていたことから。
606.ロックユニットのGRANRODEOのヴォーカリストで人気声優の谷山紀章氏はロサンゼルス・レイカーズのファンであり、コービー・ブライアントはルーキーの頃から応援していたと所属事務所のインタビュー記事で答えたことがある。
607.レイ・アレンは2012年4月5日の試合でベンチスタートで起用される以前は、わずか4試合しかベンチスタートで起用された経験がなく、しかも、その試合でのベンチスタートは約9年4ヶ月ぶりの出来事だった。
608.バロン・デイビスはキャバリアーズとニックスで珍しい背番号である85番のユニフォームを着用したが、その番号の由来は彼の祖母の家のある番地からである。
609.マイケル・ジョーダンは1995−96シーズンに「史上最高勝率」のチーム(72勝10敗を記録したブルズで、勝率は87.8%だった)に所属していたが、その16年後に彼は「史上最低勝率」のチームのオーナーを務めた(2011−12シーズンのボブキャッツで、7勝59敗で勝率10.6%だった)
610.2011−12シーズンにNBADLのロサンゼルス・ディーフェンダーズでプレイしているイライジャ・ミルサップはジャズの主力選手のポール・ミルサップの弟である。
611.2012年オフにブルズに移籍したナジー・モハメドは背番号を48番にしたが、NBAの歴史で背番号48番を着用した選手は1970−71シーズンのブレイザーズでプレイしたウォルト・ギルモア以来の史上2人目である。
612.2012年オフにセルティックスに移籍したダーコ・ミリチッチは背番号を99番にしたが、NBAの歴史で背番号99番の選手は彼を含めて5名ほどしかおらず(その中にリーグ創世記のスターだったジョージ・マイカンもいる)、セルティックスの選手としては1997−98シーズンに在籍したロイ・ロジャース以来の14年ぶりのことである。
613.デュエイン・ウェイドはホテルに宿泊する際に「ダーコ・ミリシッチ」という偽名を使用することもある。その偽名を使う理由は、554番のマイク・ビビーのトリビアと近い理由である。
614.2012年オフにセルティックスに移籍したジェイソン・コリンズは背番号を98番にしたが、NBAの歴史で背番号98番を着用した選手はリーグ創世記の1946−47シーズンにあったデトロイト・ファルコンズに所属したチェット・オービュション以来の史上2人目である。
615.ジェイソン・テリーが2012年オフにセルティックスに移籍した際、背番号を4番にしたが、テリーに4人の娘がいることが由来である。
616.グラント・ヒルは2012年オフにクリッパーズに移籍して、同年の10月5日に40歳の誕生日を迎えて、クリッパーズ史上初の40代プレイヤーとなった。
617.カート・トーマスは2012年オフに7年ぶりとなるニックスへの古巣復帰を果たして、同年の10月4日に40歳の誕生日を迎えて、1998−99シーズンのハーブ・ウィリアムズ(当時41歳)以来となるニックス史上2人目の40代プレイヤーとなった。
618.セルティックスやペイサーズなどでヘッドコーチ経験があるジム・オブライエンは偉大なるNBAの10人の名コーチにも選ばれているジャック・ラムジーの義理の息子でもある。
619.27歳にしてアトランタ・ホークスでNBAデビューしたアイヴァン・ジョンソンは韓国リーグ(KBL)時代に審判に対して中指を立てるジェスチャーをして永久追放された過去がある。
620.トーマス・ロビンソン(2012年ドラフト1巡目5位でキングスに指名)はカンザス大2年の時に母と祖父母を相次いで亡くす不幸に見舞われて、それを胸に押し込んでシーズンを戦い続けた。
621.2015年オールスターに初選出されたブルズのジミー・バトラーは13歳の頃に親から「顔が気に入らない」と言われて、家を追い出された悲しい過去がある。
622.ジョアキム・ノアは2007年ドラフト1巡目9位でブルズに指名されたが、その時にある記者は「ノアが使える存在になれば自分が書いた記事を食べる」と宣言した。その記者はノアの指名に異論を抱いていた。
623.2015年オールスターにパウ・ガソルとマルク・ガソルが兄弟そろって選出されたが、それ以前のオールスターの兄弟共演といえば、1970・71年のディックとトムのバンアースデイル兄弟の選出もある。ただし、兄弟両方でオールスターのスターター選出はガソル兄弟が唯一である。
624.アルゼンチン代表であり、2012-13シーズンにニックスでNBAデビューを果たしたパブロ・プリジオーニは歴代最年長ルーキーとなった(当時35歳)
625.スティーブン・アダムスは18人兄弟の末っ子という大家族で育って、彼の姉のバレリーは砲丸投げのニュージーランド代表で金メダリストであり、プロバスケ選手となった兄弟もいる。
626.アンドリュー・ウィギンスとドミニク・ウィルキンスの共通点には指名されたチームで1試合もプレイせずにトレードされたドラフト上位指名(ウィギンスは1位、ウィルキンスは3位)であり、指名から2か月ぐらい後にトレードされて、トレード相手にオールスター経験者(ウィギンスの交換相手にケビン・ラブ等、ウィルキンスの交換相手にジョン・ドリュー等)がいたことである。
627.ジェフ・ティーグ、アル・ホーフォード、ポール・ミルサップを2015年オールスターに送り込んだホークスは1980年以来の同チームからの3名選出(ジョン・ドリュー、エディ・ジョンソン、ダン・ラウンドフィールド)の快挙となった。
628.2014-15シーズンの12月のイースタンの月間新人王に選出されたニコラ・ミロティッチはスペイン出身者としては、パウ・ガソルやホルヘ・ガルバホサ、リッキー・ルビオ以来の月間新人王の経験者となる。
629.クレイ・トンプソンの父のマイカルは元NBA選手であり、クレイがNBAデビューした後は財産を管理してもらっている。
630.マイク・ブラウンとマイク・ブデンホルツァーの共通点は「オールスターゲームのヘッドコーチを務めたクレイグ・ポポビッチのアシスタントコーチ経験者」である
631.2018年ドラフト1巡目2位指名(キングス)のマービン・バグリーIII世の祖父は1964年の東京五輪のアメリカ代表だったジョン・コールドウェルである。コールドウェルもNBAのドラフト1巡目2位指名だった。
632.2018−19シーズンのオール・ルーキー・1stチームに選出された5人はドラフト1巡目1〜5位指名の選手であり、選出者全員がドラフト全体5位以内になるのは1984−85シーズン以来の34年ぶりのこととなった。
633.日本人史上3人目のNBA選手となった八村塁(ウィザーズ)は公式デビュー戦でダブルダブルを記録したが、ウィザーズのルーキーとしては1994−95シーズンのジュワン・ハワード以来の25年ぶりの快挙である。
634.ヴィンス・カーターは1990年代・2000年代・2010年代・2020年代の4つの年代にまたがって試合出場を経験したが、これはリーグ史上初の快挙である。
635.2018年ドラフト1巡目1位でサンズがディアンドレ・エイトンを指名したが、1968年から続くサンズの歴史の中では初のドラフト全体1位指名である。
636.2017−18シーズンのレギュラーシーズン最終日に当時シクサーズに所属していたマーケル・フルツがトリプルダブルを記録したが、当時の年齢の19歳317日であり、史上最年少のトリプルダブル達成でもある。
637.ベン・シモンズ(シクサーズ)はルーキーシーズンに12回のトリプルダブルを達成しているが、ルーキーのトリプルダブル達成回数としてはオスカー・ロバートソンの26回に次ぐ史上2位の快挙である。
638.サンダー時代は史上初の3年連続でシーズン・トリプルダブル・アベレージを記録したことで話題となったラッセル・ウェストブルックはウィルト・チェンバレン以来となる3部門が「20」以上の「ダブル・トリプル・ダブル」も記録した経験がある。
639.2018−19シーズンにブレイザーズでNBAデビューを果たしたゲイリー・トレントJr.は親子二代でのブレイザーズでのNBAデビューを経験した人物でもある。父親のゲイリーSr.は息子より23年前の1995−96シーズンにNBAデビューした。
640.ウォリアーズのディミオン・リーの妻のシデルはチームメイトのステファン・カリーの妹であり、ステファンとは「義兄弟」の間柄である。
641.2021年にネッツに入団したアメリカ人選手のキャム・トーマスは横須賀生まれである。母親の仕事(アーミーの人事部で勤務)の仕事の都合でもあった。
642.ヤニス・アデトクンボは一時期、オレオにハマっていたことがあり、昼夜問わずに食べて続けていたこともあった。しかも、ファンから牛乳に浸して食べると美味しいと言われたことに感銘も受けて、実践していた。
643.2022−23シーズンにナゲッツへ移籍したPGのイシュ・スミスはこれで通算13チーム目の所属となり、キャリア通算所属チーム数の歴代記録の更新となった。
644.2022年ドラフト1巡目3位でロケッツに指名されたジャバリ・スミスJr.の父親は元NBA選手であるが、2002年ドラフト1巡目1位だったクワミ・ブラウンの親戚でもある。
645.2022年ドラフト2巡目33位でラプターズに指名されたクリスチャン・コロコはデビュー4試合目に初スタメンを経験するが、この試合はパスカル・シアカムと共にリーグ史上初のスタメンに2人のカメルーン出身者が名を連ねる快挙となった。
646.クレイ・トンプソンは2年間の故障での欠場の後に復帰して、2021−22シーズンは平均20.4点を記録したが、2年以上のブランクを経て、平均20点を記録したことは2001−02シーズンのマイケル・ジョーダン以来の20シーズンぶりの快挙である。
647.2022年に優勝となったウォリアーズのスタメンのうち3人は二世選手(ステフィン・カリー、クレイ・トンプソン、アンドリュー・ウィギンス)であり、ベンチには父親が往年の名PGであるゲイリー・ペイトンII世もいた。
648.ロケッツのエリック・ゴードンは「Twitter」で日本語ツイートをしたことがあった。高校時代に日本語の授業も履修していた影響でもある。
649.シェイ・ギルシアス・アレクサンダーとニキール・アレクサンダー・ウォーカーという2人のインパクトのある名前のNBA選手がいるが、実は従兄弟同士という間柄である。
650.2006年と2011年のNBAファイナルで顔合わせしたダーク・ノビツキー(マーベリックス)とユドニス・ハスレム(ヒート)は共に同一チームで20シーズン以上の在籍を果たすことになる。ノビツキーは2019年に引退して、マーベリックス一筋21シーズンのキャリアを終えたが、ハスレムは2022−23シーズン時点でヒート一筋20シーズン目のキャリアとなっている。
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