モンビー玉 
Gymocalycium monvillei Pfeiffer
    異和名 雲竜、ピカ玉、観音蛇竜、(騎士玉)  原産地 パラグアイ
    写真の球の栽培者 守口市 庵田 知宏 氏  径16cm、高10cm


我が国で古くからモンビー玉として栽培されているものに2つの系統がある。1つは3本刺が整然としていてイボのあまり突出しないタイプで、1つは写真の球のようにイボの突出するタイプである。
その他、5本刺のものもあるが、3本刺のものも小苗のうちは5本であり、大球になっても時折5本出ることもあるから、3本刺は完全に固定したものではない。即ち5本のうちの2本は退化しつつある段階であろう。このように親木になるにつれて刺数の少なくなる例は他の属にも見られる。鑑賞上から言えばイボが突出していて、3本刺のものが面白いであろう。
本種はピカ玉と呼ばれたように、肌はつやつやとした光沢を持ち、特に小苗時代はいちじるしい。
イボは大きくなるにつれて次第に突出し、蛇竜丸とは感じが異なってくる。刺は黄褐色から灰白色、1.5cm位、切り口は楕円形で肌にそってゆるくカーブする。真中の刺は下方に向き、先端が横へねじれる。
3本の刺はT状に出る。アレオレは小さく楕円形。球体は始め扁球形で、やや円錐状。次第に球形から円筒状となる。強光線下ではイボの先端が黄色くなる。成長は早く、直径15cmに達する。特に小苗の時の成長は旺盛で、径3cm位のものは1年で7〜8cmになる。花は白色で剣弁、花糸が赤い。花筒の長いのも特徴。津田宗直氏は以上の花の特徴で蛇竜丸とは明らかに別種だとしている。
外国で言う Gym. monvillei は日本のモンビー玉とは違うようである。Br.& R.は稜線がはっきり通っていないがイボの突出したものと、多花玉によく似たものの2つの写真を載せ、どちらが本当か判らないとしている。
Backeberg 記載のものは多花玉に近似していて、この写真のようなものは記載が見当たらない。
Backeberg が蛇竜丸に天王丸の写真を記載しているように、日本で言うモンビー玉は単に蛇竜丸の1タイプとして扱っているのではないかと思われる。とすればモンビー玉と G. monvillei の学名を持つものは別物であると言うことになるのであるが、現在我が国にあるものはこの写真のタイプのものであって、多花玉に類似した G. monvillei はまだ入っていない。少なくともこの写真の球に対して津田氏が G. monvillei をあて、モンビー玉の和名をつけて記載しているので、我が国ではすべてこれを引用している。
ここでもモンビー玉= G. monvillei としておく。
しかし、将来原記載及び外国での研究記録から見て、訂正されるかも知れないことを附記しておく。
尚変種に頌春玉 G. monvillei var. があるが、その姿から見て交配種ではないかと思う。

参考文献
Br.& R.;The Cactaceae,V,161(1922)
Backeberg;Die Cactaceae,V,(1959)
津田宗直;シャボテン,21,仙人掌栽培法(昭和11年8月)
津田 晃;シャボテン(東京カクタスクラブ),3,1,(昭和29年6月)
Borg;Cacti ,p302,(1951)


モンビー玉の思い出           伊丹 勝吉

モンビー玉、昔から言い慣らされて来た懐かしい名前である。容易に大球になり得る本属の大型種の一つであり、個体差というものは殆どなく、何れも大球になると一様な形となって来る。強いて云えば小中球の頃から分球するものと、そうでないものとがある。写真の球は後者に属し、約30年前に2個の仔を得たのみである。老球になると、そう仔を出さないようである。津田宗直氏、蓮波一美氏の是等に属するもののカキ仔の大きくしたものを古曽部園芸場に持ち込んだ筈であるが、今はラベル落ちしてどれがどれだか不明である。昔よく旅行して先輩の方々の栽培場を見学してお土産にもらった品々を今頃見る度毎に丁度アルバムを繙くと同様に当時の有様を思い出して懐かしいものである。
ギムノ属は何れも径が或る限度まで太ると其後は背が高く伸びて長円形となる。特に青肌系のものは所謂腰落ちしてみにくくなる。こうなると老境に入ったと同じく肌色も悪く、元気が無くなり、着蕾も数少なく、悪くすると一花も見ずと言う年もある。斯くなるとコットウ品然として作為を欺く場合も出て来るが、これをその段落ちの所より胴切りして切断面の乾燥を待って挿し木管理するならば、再び扁球形となり新根の発生と相待ってハツラツとした若返り球となってくる。切断面の乾燥さえ成功すれば90%成功したものとして差し支えなく、発根は至極容易である。以前は春秋の好期を選んで切断したものであったが、最近は冬期2月空気の乾燥した、腐敗のうれいの無い時期を見て行っている。この方が成績も良いようである。
腰高の新天地径8寸(24糎)球を胴切り発根させた最近の例もある。
話を前に戻して写真のモンビー玉は昭和8年頃神戸の近藤三郎氏が独乙のハーゲ商会より輸入された原産地球であって、昭和14年私の温室へ入り、戦後疎開して島根県の私の郷里に行き、24年頃古曽部園芸場に預け、30年春再び私のフレームに戻って34年秋まで愛培して待望の仔が1ヶ出たのでそれを取って紀藤氏の元へ、その間私が胴切りしたのが2回、曰く付きの懐かしい球で、庵田氏の温室に腰入れしたのを見て、より以上に可愛がってもらわれて幸福な球ではある。


追加資料

おっちさんより、庵田さんが栽培しておられた古い時代のモンビー玉の集合写真が撮ってあったとのことで、その写真を送って下さいました。
カラーではありませんが、参考になると思いますので掲載させて頂きます。

写真後列左より、関西モンビー玉(関西地方に残っていたタイプのモンビー玉)、輸入原産地球(津田型と言われるタイプで、明治末期の松沢翁による輸入球/因みに、松沢翁は兜や鸞鳳玉などの命名者としても有名)、関西モンビー玉。
前列左より、永岡モンビー玉、小蔦モンビー玉、白仙園モンビー玉(戦前型の、おそらく津田型です)。


添付写真のカラー版が入手出来ましたので掲載します。
サボテン日本42号の表紙に使われていたものです。


小蔦モンビー玉の写真が入手出来ましたので掲載します。
宝塚市の村主 康瑞 さんの愛培品です。
写真提供:團上 和孝 さん。