2005年ブジャン渓谷訪問記

初めてケダのブジャン渓谷を訪れた。ケダは東西貿易の要の港であり、5世紀の初めに法顕がセイロンからベンガル湾を直接横断して耶馬提(Yaba-dvipa)にたどり着き、そこで風待ちのため5か月を費やした場所である。義浄が672年ベンガルに渡航する途中で立ち寄ったのもケダ(羯茶)である。

そこにはヒンドゥー寺院、仏教寺院あわせて55か所の遺跡があり、イギリスの考古学者クオーリッチ・ウェールズが1930年代に発掘調査を行った。私は東洋大学を65歳で辞めてから、なんとしても「シュリヴィジャヤの歴史」を死ぬまでに解明したいと思い、1年間準備期間をおいてから現地調査に出かけたいと思い立ちまずケダに向かったのであった。

1話 マレーシア、ケダー州ブジャン渓谷ヒンドゥー・仏教遺跡見学記(05221日、06129日加筆修正)私が今回東南アジアに旅行した目的は古代東西貿易のマレー半島の貿易港のひとつと考えられているケダー州を見に行くことであった。もともと私は経済学的には「歴史学派」に属している(?)と自称しているが、歴史の専門家ではない。しかし私は東南アジアという地域が歴史的にどのような発展を遂げてきたかというアウト・ラインだけは何とかは認識したいという思いから、現在市中で買える何十冊かの書物(英文を含む)を入手し、一応読んでは見た。ホールの「東南アジア史」やセデスの「名著」を読んでも、なんとなく胃の腑に落ちないものを感じざるを得なかった。そのポイントの1つはシュリヴィジャヤ王国という概念のあいまいさにある。シュリヴィジャジャは10世紀以前は「室利仏逝」であり10世紀以降は「三仏斉」という国が唐末から宋時代、1178年までしばしば朝貢に訪れる。

欧米人の歴史学者の認識は内容的は大同小異であった、首都はパレンバン(スマトラ島のムシ河上流100Kmの町)で、それがやがてジャンビというところに移るという「通説」である。 しかし、この「通説」は現在、揺らぎつつあるが決定的な否定論は出てきていないように思われると深見純生氏はいう(岩波講座、東南アジア史第25ページ以降の深見純生氏の論文参照)。しかし、実際は誰もセデスの説に異論を唱えていない。深見氏もパレンバン説に依拠して論文を書いている。あとで分かったことだが、米人のMichael Vickery博士もクメール史では痛烈にセデスを批判している。セデスは歴史家というより「歴史小説家」だというのである。ともかくCoedèsの論文は間違いやこじつけが多いことは確かである。

この通説への疑問は拙著『東南アジアの経済と歴史』でも取り上げた。もっとも素朴な疑問は唐時代の仏僧、義浄が旅行記『南海寄帰内法伝』で広州を出発して20日そこそこで南シナ海を横断して、パレンバンに行き着けたのかという点である。

7世紀の当時の帆船は可なり大型のものであったとしてもあまりに時間的に短か過ぎはしないかという素朴な疑問である。次に、パレンバンは義浄が言う千人もの仏僧がいる僧院があったにしてはほとんどそれらしき遺跡がないといわれている。また、パレンバンは10世紀以前において本当に東西貿易の拠点であったのかという疑問である。東西の船の交流する場所であれば末羅瑜(ムラユ=リアウ諸島)で十分だったはずで、パレンバンには地理学上の特段の利点は見当たらない。

パレンバンが東西貿易の拠点であるためにはマラッカ海峡が東西貿易の主要通路になっていなければ話が通じない。しかし、インド・セイロン側から偏西風に乗ってインド洋、ベンガル湾を通って来た帆船がそのままマラッカ海峡を同じ風で通過し、シンガポールの先端を回ってシャム湾側に一気にでられたと考えるのは変である。この時期(夏季)はマラッカ海峡を南下する帆船は斜め逆風を受けるからである。困難であるからこそ、マレー半島のしかるべき港で積荷を降ろし、半島を陸路、象や牛車に荷物を積んで横断し、シャム湾側に出て、そこから再び船に積んでカンボジア、ベトナム、中国方面に輸送していたのである(マレー半島横断ルートの重要性)。シャム湾側の港は北からスラタニ(チャイヤー)、ナコン・シ・タマラート、パタニ、コタバルなど可なり多くの港があり、比較的近世にいたるまで港として機能していた。マレー半島西側やその付け根のビルマ側にもいくつかの港があったことはいうまでもない。北からいえばビルマのモールメン(現在のタイへの陸路の出入り口でもあった)やタボイやメルグイ(テナセリム)やタクアパやケダーである。マレー半島の西と東のつながりから言えば、タクアパースラタニ、チヤイヤ、ナコン・シ・タマラート、ケダ(ブジャン渓谷)-ソンクラ、パタニ、コタ・バルといったルートが考えられる。この2つのルートが東西貿易上重要な存在であった。

私は、そのなかでもケダは非常に重要な意味を持つ港であったと考えている。なぜならケダは古代からの水田稲作地帯であったからである。米の生産地であるということは、多くの人口の存在の基礎となる。

余剰の米は外国の商船の乗組員の食糧となるし、場合によっては「輸出商品」になる。人口が多いということは、その地域の支配者にとって、強力な軍隊を維持できることを意味する。ケダの港といっても2箇所あり、ケダー州の州都のアロール・スターの外港ともいうべきクアラ・ケダーであり、もう1つはそこから南に60-70Km下ったブジャン渓谷=タンジョン・ダワイ(Tanjung Dawaiダワイ港)周辺である。また、現在葉タイ領であるが、サトゥン(Satun)にまで船を移動させ、そこから真東に進むとハジャイ経由ソンクラまで平坦な道を進むことができる。サトゥンもかつてはケダ王国に属していたという。

ダワイ港はスンゲイ・メルボクやムダ川という大河の河口に位置する。このメルボク川やムダ川をさかのぼれば可なり内陸にも船が入れたことであろう。

また、この大河にはブジャン川が支流として流れ込んでいる。また、ケダの平野部はかなり広く、ムダ川の上流は一大水田地帯であり、これは可なり昔から水田稲作が行われていたと考えてよいのではないか?日本の「稲作論」はなぜか「焼き畑・陸稲・水田」という3段階論が主流になっているが、3段階論というのは可なり怪しい。その必然性があまり感じられない。私が目指したブジャン渓谷(Lembah Bujang=独身者すななわち僧侶の谷、また蛇の谷という説もある)にあるヒンドゥー・仏教遺跡である。ブジャン渓谷には飲料に最適な透き通った水が山(Gunung Jerai=ジェライ山)から豊富に流れている。ジュライ山(標高1279)頂上にはヒンドゥー遺跡があるという。(それは今は取り除かれ通信施設が置かれている)

山を神の座所とするヒンドゥー信仰にとっては、ジェライ山からその裾野にあたるブジャン渓谷というのは一大信仰拠点とも言うべきものである。その清流にそって数多くの寺院の遺跡(55箇所ともいわれる)があるのだ。チャンディ(寺院)・バト・パハット(石ノミ)などもその1つである。インド側から数ヶ月かけて長旅をしてきた貿易船にとっては停泊地で飲料水と食料の補充ができなければならない。また、清流での沐浴は何よりの楽しみであったはずである。その意味でこのダワイ港周辺こそは当時はコメと飲料水が十分に補給できる良港の1つであったことは間違いない。

ただし、難点はダワイ港からシャム湾までの距離が可なり長いことである。 アロール・スターからシャム湾側のコタ・バルまで
400Kmはある。一方、一番短いクラ地峡は直線距離で
チュンポンまで60Km>の幅しかない。 しかし、東北への道をたどればタイのパタニまでは比較的容易に出られたはずである。しかも途中の内陸の要衝都市ヤラ(<span lang=EN-US>Yala、パタニから43Km内陸))から海岸のパタニまでは比較的川幅の広いパタニ川が通じている。 パタニ川はマレー半島内部にかなり食い込んでおり、この水路を使えば、陸送はだいぶ楽だったはずである。コタバルにもスンゲイ・ケランタンという大き川が流れている。主要な港にはだいたい川がつきものである。

また、「パタニを24Kmほど遡航した右岸に、小村ヤラン(Yarang)がある。それから5Kmほど離れた地点で、1962年、古代のこの国の首都であったと思われる遺蹟が発見された。そこには城壁の痕跡が認められ、この遺構がきわめて古いものであることを示唆している。」と千原大五郎氏はその名著「東南アジアのヒンドゥー・仏教建築、p100)で述べておられる。また、アロール・スターからタイのソンクラへも横断道路が通じている。これらマレー半島を横断する道路はいくつもあり、そのほとんどが古代からの「通商路」だったのである。ケダ州南部の、コメと飲料水がふんだんにあるということは当時としては相当なメリットであった。このダワイ港周辺には古代(おそらく3,4世紀あるいはそれ以前)からインド商人が何世紀にもわたって出入りしていた。そうすると、そこにはインドの宗教(ヒンドゥー゙教、仏教)が一緒に入ってきたことはいうまでもない。また、ケダは製鉄業もあったことが後に判明した。

ただし、ケダは南インドのヒンドゥー教徒(タミール族)の影響が強く、仏教はあまり栄えず、仏教徒はもっぱらシャム湾側に集まって、中国僧との交流も活発であったようである。これはモン族が支配力の強かった地域で仏教が広まったということも影響しているかもしれない。ジャワ島でも同じことで、中部ジャワは初めはヒンドゥー教が盛んだったが、シャイレンドラ王国が成立した7世紀の終わりごろから大乗仏教が普及し始め、100年後にはボロブドゥール遺跡(世界最大の大乗仏教寺院)が建設され、9世紀中頃にはサンジャヤ王家はプランバナン・ヒンドゥー寺院を建設した。

このブジャン遺跡はその重要性の割にはあまり広く知られていない。おそらく10世紀の後半以降、中国・南宋からの陶磁器の輸出が盛んになると、南スマトラのジャンビやパレンバンが地理的優位性を発揮するようになる。パレンバンの優位性は中国から北東風にのって冬季に寄港するには便利だったということである。後に述べるように10世紀の北宋、その後の南宋の時代になって、中国からの輸出品が「陶磁器」が主体になり、かつ中国商人の海外渡航が許されるようになると、ジャンビ、パレンバンの優位性は急速に高まる。

その後ジャンビに引き継がれていき、15世紀からはマラッカへと引き継がれていく。その結果、ケダの貿易拠点としての意味は次第に薄れていったのではないがと推測される。

近世に入り、マラッカ帝国の成立以降はブジャン渓谷は貿易上の地位を失ってしまい、さびれた場所になってしまった。しかし、最近は日系企業の進出によりかなり勢いを取り戻している。しかし、ケダ周辺も東西貿易史を研究するには最重要の遺跡であることは間違いない。

上に述べた理由から、マレー半島西岸では マラッカ王国成立以前はケダのダワイ港が相当にぎわっていたのではないかと思われる。ジャワのシャイレンドラ王朝がケダーを中心として勢力を盛り返したということすら言われている。(前掲、深見著125ページ)私が、この遺跡に興味を持ったのは、かなり以前に壮大なヒンドゥー・仏教寺院跡が発見されたという紹介がなされていたことである。シュリヴィジャヤ王国の1つの重用拠点であることは間違いないであろうという感じがしたのである。しかし、室利仏逝王国内のケダの位置づけがいまだにはっきりなされていないのは「パレンバン」説のせいである。

ところが、鋭い問題意識を持って、現地調査をして、立派な論文を発表していたイギリス人がいたのである。その人の名は、クオリッチ・ウェールズ(Quaritch Wales)博士である。彼は1930年ごろ夫人を伴って、このあたりを踏査し、発掘調査も行いながら、おびただしい論文を発表してる。

しかし、なぜか彼の著書はあまり日本人では紹介されていない。セデスの論敵であったために彼は嫌われていたとしか考えられない。正しい議論をすると「異端者」扱いされるのだろうか?

私は、Q.ウェールズを全部読破したわけではないが、彼の著書は文章としても面白く、問題意識もシャープで大いに感動させられる。イギリスで社会科学を学んだ人だけのことはある。考え方が「合理主義的」なのである。ここがセデスと決定的の異なる点である。ウェールズが日本にあまり紹介されていない原因のひとつに日本人の学者の「権威主義」があるような気がしてならない。特に漢籍を読みこなせた日本の学者はもっとCoedèsの説に対し批判的でなければならかった。セデス批判を試みたのは藤田豊八博士であった。惜しむらくは藤田豊八博士は『新唐書』の一部を誤読されたために、『新唐書』を過小評価されてしまった。私が当時の歴史の「ミッシング・リンク」を埋めながら読むと『新唐書』は実によく書かれた歴史書であることに気が付いた。特に8尺棒の夏至における影の長さ問題や、賈耽の『皇華四達記』の解釈をすべての歴史家が間違われてしまい、「俗論」が今日まで1世紀以上もはびこってきた。「羅越」がジョホールだったなどという愚説が現在も大学で教えられているというからあきれるほかない。

残念ながら世界中のお歴史学者が最後は「セデス、セデス」と草木もなびく現象が起こっていたのである。タイ政府などはセデスを顧問として雇っている。日本人はフランス極東学院の「研究成果」を頂戴するのが大学の役割だなどと勘違いした悲しい国立大学もあった。フランス人も間違うし、ハッタリをかます学者もいたのである。もともと日本人は「虫歯」にかかりやすい(?)体質なのかもしれない。

ウェールズ博士には「Towards Angkor」や「The Malay Peninsulain Hindu Times」など多数の著作がある。東京大学の東洋文化研究所付属図書館に行けば現物が閲覧できる。若い学徒(私より)には一読をお勧めしたい。もちろんウェールズにも間違いがあるが、基本的シナリオが歴史学においては必要である。

本論に戻るとして、私が昨(
04)年6月にクアラルン・プールの国立博物館にいった時には詳しい英語のパンフレットは見つからず、マレー語で書かれたものが若干あっただけだったので、業を煮やして、今回意を決してアロール・スターに乗り込んだ。

アロール・スターはケダー州の州都で、交通の要衝でもある。立派な建物が随所に立つ大都会である。といってもやはり地方都市であり、あまり洗練はされていない。イスラム色が強く、近くのスーパーにいってもビールなどは売っていない。
英語もあまり通じない。クアラルンプールからマレーシア・エアラインが3往復、エア・エイシア(格安路線)が3往復出ている。私は朝745分発の朝1番のマレーシア航空(運賃片道187リンギ=約5000円)で乗り込み、アロール・スターには840分ごろ到着し、ホテル(グランド・コンチネンタル・ホテル=1泊税・サ・朝食込みで127リンギ=3800円)に直行した。かなりオンボロ・ホテルであった。午前中は市内の州立博物館(無料)に見物に行き。午後からいよいよ夢にまで見たブジャン渓谷にタクシーをチャーターして乗り込んだ。タクシーでは片道1時間15分を要した。国道をペナン方面に南下し、ベドン(Bedong)という町の交差点を右折し20分ほどのところにその遺跡はあった。

途中にMARA工科大学の壮大なキャンパスがあり、そこから少しいくとブジャン遺跡の標識があり、右折して山道(舗装はしてある)を2.5Kmいくと突如として平屋ながら立派な建物が現れる。そこがブジャン博物館である。(下の写真参照)玄関の手前の左脇に、炭化しかかったような黒ずんだ小船が5-6隻、屋根のかかった陳列棚に置いてあった。近くまでこの小船が来ていたことを物語る。川はスンゲイ・メルボク河(この上流はスンゲイ・ペタニ市)とつながっている。建物の中に入ると、ポロ・シャツを着た中年の小太りの男がいて、写真をとっていいかと聞くと、大いに結構とのことなのでデジ・カメで50枚ほど写真をとりまくった。大げさな言い方をするとパリのギメ美術館を訪れたときのような衝撃を受けた。

ジャヤバルマン7世の首の石像こそなかったが、想像を絶する発掘品の陳列ケースであり、それを読みながら館内を1周するには1日では足りない感じである。写真を撮るだけとって、博物館の裏手にまわると、山の斜面に何箇所か寺院(チャンディ)の礎石がある。脇には清流が音を立てて流れており、ここならば数百人の僧侶が合宿できたであろうと思われる。きれいな流水は疫病に対する何よりの予防である。

その上には、木造の建物が立っていた。その四角や円い礎石が館内にも屋外にも多数陳列されていた。館内の陳列物を見ると、明らかにヒンドゥー様式のもの(リンガなど)が混じっていた。もちろん、仏像もあったが、さほど大きなものは見当たらなかった。その他こまごました発掘品(土器を含め)が多数陳列されており、ガラス器の破片もあった。 これらは西暦初期のものもあるという。また、ヨーロッパから運ばれたガラス細工もあり、東西交易の歴史の古さを感じさせる。



こういう遺物については私はまったくの門外漢なので、せめてパンンフレットでも買って帰ろうとしたが、そういうものはないという、さきほどの管理人の答えであった。これはもちろんマレーシア政府の問題だが、もっと国際的な専門家による研究・分析があっても良いと思った。

アンコール・ワットとは比べ物にならないが、古代の重要遺跡であることは間違いないし、しかも、マラッカ海峡側にあるということはシュリヴィジャヤ王国の謎を解く上でも、何らかのカギを提供してくれることは間違いないであろう。その後、調べてみたら、日本の学者によるブジャン遺跡についての研究論文は岩本小百合氏の「シュリーヴィジャヤ」時代におけるクダーいわゆるルンバ・ブジャン遺跡についてーが「東南アジア考古学会」の機関紙、1996年号 に掲載されていることがわかった。

この論文にはブジャン渓谷遺跡が1880年代にイギリス人J.Lowによって「発見」されてから今日までの考古学的な成果・経緯などが書かれている。シュリヴィジャヤ論についても述べているが哲学的で私には理解できなかった。ブジャン渓谷では「大乗仏教」が主流であったという説も興味深い。(しかし法顕が行った5世紀初めはヒンドゥーが優勢で、仏教徒もわずかにいたが、小乗がほとんどだといていた。大乗が優位に立ったのは7世紀後半以降シュリヴィジャヤがケダを併合してからであろう。旧扶南の仏教は大乗仏教であった。)

更にケダについて是非付け加えて置かなければならないことはBC500年頃からケダのスンゲイ・バトゥ(Sungei Batu)地区で大がかりな製鉄業が営まれていたことである。
東南アジアにおける製鉄業については3世紀に康泰が扶南に出張した際の報告書に書いているとおり、確かに本格的な製鉄業が存在していたのである。『太平御覧』巻768には「康泰≪扶南土俗≫曰:諸薄(ショボ=ジャワ島?)之西北有耽蘭之州。出鐡」とある。これは紛れもなくケダの話に違いない。タイにも古代の製鉄遺跡は存在するが、原料はラテライトの浮き出た粒状の鉄分を集めて還元したものが多く、ケダのように鉄鉱石から直接還元したものは余りない。規模もケダの方がはるかに大きい。newpage6KedaIron2015.html へのリンクを参照されたし。意外にもケダは有史以来東南アジアきっての製鉄国だったのである。それが2009年に遺跡が発見され、2015年も発掘調査が行われている。