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ケダの製鉄遺跡

ケダについての私の従来の認識は4世紀に入り、南インド、スリランカ方面からの大型帆船がベンガル湾を横断し、マレー半島の西岸に達するルートが開発され、それ以降ケダーは後背地に水田稲作地帯があり、ジュライ山から湧き出る清水の量が豊富で絶好の寄港地となったということである。しかし、南インド方面から来る船はマレー半島についても、マラッカ海峡から吹き上げる南西風によってマラカ海峡を南下できず、冬場の東北風をまって初めてマラッカ海峡を南下できるようになる。その間5~6か月の船待ちが必要となる。5世紀初めの法顕の場合は5か月の風待ちを余儀なくされたと書かれている。

しかし、ケダは貿易港としてでなく、古代から製鉄基地でもあったことが最近の発掘調査によって知られるようになった。場所はメルボク川上流のスンゲイ・バトゥウ(Sungei Batu)
地区で国道の両側でかなり大規模な発掘調査が今でも行われている。その報告によるとBC500年から13世紀ごろまで続いたという。BC500年というのはそれにしてもオーバーではないかと思う。これはしかし、鑑定が可能かもしれない。

このサイトには6本のジェッティ(船着き場)も確認されており、頻繁に鉱石の搬入や製品の出荷が行われていたことが窺われる。製品としては鉄鋳物による農具が主体であったように思われる。



ここには当然「鉄滓」があり、ズシリとした重みがあった。確かにここは古代製鉄所跡」ではあるが、いつ作られたものか、またどのように作られたものかは今後の詳細な調査を待たなければならない。




また思いがけないことに、中国北宋時代に編纂された『太平御覧』というエンサイクロペディアの第787巻に、呉の孫権時代に扶南に康泰(Kan Tai)が報告書として書き残した『扶南土俗』(本体は散逸して見られない)の一節に「康泰≪扶南土俗≫曰:諸薄(ショボ=ジャワ島?)之西北有耽蘭之州。出鐡」という記述がある。「耽蘭之州」は特定できていないが。マレー半島にあったことはほぼ確実である。康泰は扶南で諸薄について聞いたことを書きとめたものと思われるが、彼が扶南に出張した西暦230年頃にはすでにマレー半島に鉄を作る国があったことが窺われる。なお同じ『太平御覧』には金や錫を産する国についての記述もある。