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チャイヤーの石仏について(2013-9-11)


南タイのヴィシュヌ像


チャイヤーの国立博物館の石仏坐像は扶南の亡命政権がメコン・デルタから真臘によって追放された時に連れてきた仏師・彫刻技術者による作品ではないかという仮説を提起したが、南タイのいくつかのヴィシュヌ神像についても同じことが言えるのではないか。

というのは扶南の国都があったアンコール・ボレイの郊外にある聖山ともいうべきプノン・ダ(Phom Da)からも多くのヴィシュヌ神が発見されそれらはかなり南タイのヴィシュヌ神と類似しているものがある。

ヴィシュヌ信仰は仏教同様インド人の移住者が南タイにもたらした。ヴィシュヌ信仰は婆羅門の移住者がかなり多かったことは漢籍に語られているとおりである。当初インドからもたらされたヴィシュヌ像は純粋に「インド型」であり、像のデザインも修飾に富んでいた。

(左の像はタクアパの郊外のWat Khao Phra Naraiにあったもので現在はプーケットの博物館で展示されている。7世紀の作といわれるが形式から見てもっと古いと考えられる。右の像はチャイヤーのWat Sala Tongにあったもので、4世紀の前半の作といわれ現在はバンコク国立博物館に展示されている。)


ところがスラタニ郊外のカオ・シウィチャイ(Khao Si Wichai=シュリヴィジャヤ山)遺跡から発見されたヴィシュヌ像はだいぶ趣を異にしている。プラチンブリから発見されたものもほとんど同類である。同類のヴィシュヌ像はほかにも何体か存在する。

プラチンブリ(Prachinburi)のヴィシュヌ像。
7世紀後半の作といわれる。
このヴィシュヌ像は当時プラチンブリを支配
していた真臘の王が作らせたのもである。


一方、カンボジアのプノン・ダから発見されたヴィシュヌ像はかなりサンプルが多い。真臘は扶南を放逐したのちは仏教(大乗)を排してヒンドゥー教を重んじたのでかなり多くのヴィシュヌ像がのこされた。

いずれにせよ扶南とその後継国の室利仏逝(シュリヴィジャヤ)には文化があったことがよくわかる。

左はオケオから出たヴィシュヌ像であり、6cの作である。

Phom DaはAngkor Boreiのすぐ近くで神殿や遺跡が多い。
雨期には孤島になっている。Angkor Boreiから67Kmほど
メコン河を下ると、扶南の主要港であったオケオに出る。



南タイの菩薩(Bodhisattva)像について

扶南から亡命してきた(あるいは政権の亡命時に連行されてきた)仏師等の技能者集団はブッダ像とヴィシュヌ神像にとどまらず、菩薩(Bodhisattva)像も製作したことは間違いない。現在ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている菩薩像は7世紀のもので南タイのスラタニで発見されたものだと説明されている。

スラタニの郊外にはカオ・シワイッチャイ(シュリヴィジャヤ山遺跡)があり、そこから出土したものかもしれない。

ニューヨーク・メトロポリタン美術館蔵の菩薩像。
7世紀初めスラタニにて作られたとみられている。
これによく似たものがスラタニから出ている。6世
紀の作品。


カンボジアにおいても同じような菩薩像が存在する。

左は7世紀プレ・アンコール期のもの、右はプノム・ダ出土

下のものはチャイヤで7世紀に作られた菩薩像です。




右の写真はプーケットのThalang 国立博物館蔵とありますが、実際はバンコク国立博物館にあります。私の撮影した左の写真と同じものです。身長は114㎝とあり、これぞ扶南系職人の作と思われます。この髪形は次の奈良大安寺の馬頭観音によく似ています。これはチャイヤのWat Sala Thungから出たものだそうです。チャイヤで作られたBodhisattva Avalokitedshvara(観音菩薩)であることは確かです。製作年代は7世紀であるといわれています。


奈良・大安寺の馬頭観音像

義浄の高弟道慈が大安寺を建立するに際し馬頭観音像として設置したもの。
タイのヴィシュヌ像や菩薩像が参考にされたものと考えられる。多分義浄が
チャイヤーの仏像などをスケッチして持ち帰ったのではないかと推測します。

下の写真は左がギメ美術館肖像の菩薩像。右がカンチャナブリのプラサート・ムアン・シン(Prasart Muang Singh)からでた菩薩像です。顔がジャヤヴァルマン7世に似ており12世紀末から13世紀初めに作られたものと思われます。現在はバンコク国立博物館蔵。クメール帝国は大乗仏教を信仰しており、これでみると13世紀まではタイは大乗仏教国であったということになる。上座部仏教が取り入れられたのは13世紀末に成立したスコタイ王朝のラムカムヘン王がセイロンと正式に国交を開いて以降の話である。