4.三仏斉について(前ページに戻る)
(08年11月12日、09年6月9日、13年10月4日加筆修文、2014年8月31日加筆修文)

室利仏逝と三仏斉とは連続性があり、ともに呼び名はシュリヴィジャヤであるというのが通説になっている。しかし、室利仏逝は唐時代の呼称であり、三仏斉は主に宋時代以降の呼称である。

中国の史家が両者を同じものと考えていたかどうかは必ずしも明確ではないが、実体は大いに異なるものであった。ただし、王家の血統は扶南以降、「山の王」シャイレンドラ家系統でつながっていたかもしれない。少なくとも、支配者は「大乗仏教」という信仰が「タテ糸」として繋がっていた。

両者について共通して言えることは、いずれも単独の「港湾国家」ではなく、多くの港湾国家を支配する「貿易帝国」であったということである。さらにいうならば、中国の王朝に入貢し、多くの「貢物」を持参し、お返しに中国の高価なお土産をいただいてくる東南アジア諸国の「窓口国家」であったということである。

現代風に言えば、マレー半島周辺の諸国の対中国貿易を集中しておこなう「窓口商社」とでも言うべきものであった。両国は中国に入貢する港湾都市がいくつもあっては「過当競争」になって具合が悪いので、周辺諸国を押さえつけてチャンピオンになった国が「代表」となって中国との朝貢貿易をおこなうという仕組みを作ったのである。

その典型が隋時代の「赤土国」であり、唐時代は室利仏逝であり、宋時代は三仏斉であったということである。

唐のはじめに盤盤という国が「赤土国」を始め周辺諸国を併合したものと考えられるが。盤盤はタイのバンドン湾を中心とするモン族系の王国であり、チャイヤーとタクアパを結ぶマレー半島横断通商路を領土としていたが、3世紀に扶南の范師蔓将軍に征服され、以後扶南の属国として存在していた。6世紀中頃扶南が真臘によってメコン・デルタから追放されると扶南の支配者は海軍や技能者集団を引き連れてタイ湾の対岸にあった「盤盤国」に亡命し、そこの支配権を奪い、新たな政権を樹立していた。

「新しい盤盤」はそこで政権基盤を強化し、扶南として唐との貿易を継続し唐時代になっても2回朝貢している。これは6世紀中頃に故地を追われた政権としては本来ありえないことである。朝貢船の出発港はバンドン湾(チャイヤー)であったと考えられる。「新盤盤}は経済的にも強化され周辺諸国の合併統合に乗り出したのであった。しかし、よくよく考えると5世紀に始まった盤盤の朝貢は扶南の承認なしにはできなかったことであり、盤盤は独立して「交易権」を持たない国だったのではないかと考えられる。換言すれば
「盤盤の輸出は実質的に扶南の輸出」だったとみるべきであろう。

「新盤盤」の当面の最大の戦略は「赤土国」の吸収合併によってマレー半島からの朝貢を独占することにあった。赤土国は隋から「大国」と認定されながらも608,609,610年の3回入貢したのみで「消息不明」になる『隋書』にも何の説明もない、不思議な国である。唐の役人からは「赤土国」の消息を聞かれたら、
「武力で強制統合いたしました」とはいえないので、「室利仏逝なる連合国家を形成いたしました」と返答したことであろう。

盤盤自体も唐永幑年中(651~655年)を最後に朝貢を止めてしまう。その前後に扶南・盤盤政権は「室利仏逝」という帝国を形成して対中国貿易に従事することになり、「盤盤」という看板を捨てて「室利仏逝」に「屋号」を変えてしまったと見るべきであろう。そのようなことはいかなる「史書」にも書いてないが、そのように推理しないと前後関係がスッキリと繋がっていかない。「室利仏逝」が登場してからはマレー半島からは他の朝貢国は消滅してしまう。

その後も、室利仏逝は周辺国を説得もしくは武力による制圧によって自分の支配下に組み入れることなる。その結果
、室利仏逝には14の城市(港湾都市国家)を有することになり、南北に支配領域が拡大しすぎたので、国を2つに分けて支配するということにもなった(『新唐書』)。

どのような形で2分割統治がおこなわれたかは明らかでないが、北(Aルート)はチャイヤーで南(Bルート)はケダが各各の首都機能を果たすという形が採られたのではないだろうか。ケダはマラッカ海峡の入り口を支配し、その後の室利仏逝のスマトラ島方面攻略の「南進」の基地になったと考えられる。

(三仏斉)

もともと三仏斉というのはアラブ商人が
Sarboza、またはSerbozaと呼んでいた地域のことで、その音訳が三仏斉であるという説(桑田博士)が有力である。しかし、それは少し変でアラブ人の言葉を漢訳して中国に届け出て承認をもらうなどということは考えられない。逆に「三仏斉」という呼称が訛ってSarboza、またはSerbozaとしてアラブやインドの商人・船乗り達が「呼称」にしていたと考えるほうが自然であろう。

漢籍を読んでいくと「三仏斉」の「仏斉」とは「室利仏逝」のことだとほとんどの執筆者は考えているように見えて仕方がない。そもそも「室利仏逝」などといわずに「仏誓、仏逝」などと略称しているケースは随所に見られるのである。

私は「三仏斉」というのは「室利仏逝」の支配国(『新唐書』の14の城市)の主要3カ国、すなわちケダ、ジャンビおよびチャイヤー(パレンバンは主要国とはいえなかった)が宋王朝に対し、これからは「三仏斉」の名前で朝貢するという届けを出して認可を受けたものであると考えたい。14城市のほかの国も全て「三仏斉」の看板で朝貢するというものである。(当初は私も通説にしたがってパレンバンを主要国の1つと考えていたが、それは間違いであった。)

朝貢への宋朝の回賜は「三仏斉」に対して一本化して行う事になっていた。ただし、三仏斉の属国が単独で朝貢に来た場合はその国に対して回賜を授けるという建前になっていた。その実例が「三仏斉注輦」である。ただしジャンビは三仏斉の主要構成国であるので、「三仏斉詹卑(ジャンビ)」の1079年の入貢のときにこの問題が起こる。実際はジャンビの単独入貢なのだが、返礼は「三仏斉」に対しておこなうというのが宋朝の態度であった。この辺の南宋王朝の原理原則は実にはっきりしていた。

『諸蕃志』(1225年)に出てくる三仏斉の属領は以下の通りである。
①蓬豊(パハン)、②登牙儂(トレンガヌ)、③凌牙斯加(ランカスカ)、④吉蘭丹(ケランタン)、⑤単馬令(タンブラリンガ=ナコン・シ・タマラート)、⑥加羅希(カラキ?)、⑦巴林馮(パレンバン)、⑧新拖(スンダ)、⑨監箆(カンペイ)、⑩藍無里(ラムリ)、⑪細蘭(セイロン)、⑫仏羅安(トレンガヌ州のKuala Berangというのが通説であるが、パッタルン説が『嶺外代答』の例から見てもより有力である。)、⑬日羅亭(ジェルタン=コタバルのやや南)、⑭抜沓(パタニ)、⑮潜邁(不明)

③凌牙斯加(ランカスカ)を南タイのパタニと見る歴史家が多いが、ランカスカはもともと狼牙修国であり、『隋書』の常駿の記述からすればここにはランド・マークの高山がなければならず、「ラン・サカ=Lan Saka」(ナコン・シ・タマラートの北方20Km)であったはずである。パタニというのは根拠のないこじつけである。パタニは⑭抜沓(パタニ)と別に明記されている。

⑥加羅希(カラキ?)をセデスなどは強引にチャイヤーとしているがこれも根拠不明である。「クラブリ」とか「ラチャブリ」(藤田豊八博士説)のほうが妥当性が高い。またクラビ(Krabi)という説もある。

⑫仏羅安(トレンガヌ州のKuala Berang=パッタルン説あり)はパッタルン説が日本では有力であるが、趙は主にアラブ商人から聞き取りを行っており、当時アラブ商人の基地はトレンガヌ州のKuala Berangにあったと一応は考えられる。

しかし、『嶺外代答』1178年周去非の三仏斉の条に出てくる次の文章をどう解するべきであろうか、「其屬有佛羅安國,國主自三佛齊選差」。これは佛羅安國が三仏斉の中でも特別な地位を占めていることを意味している。

三仏斉の南宋への財貨の出荷(船出)はサティン・プラから行われていた。しかし、三仏斉傘下の諸国がサティン・プラまで自国の「貢献品」をおのおの持ち寄るのは非効率極まりない。そこで三仏斉はパッタルンを「集荷センター」にしていたものと考えられる。南宋王朝からの「回賜(返礼または代金)」もパッタルンで諸国に分配されていたものと考えられる。その集配の責任者は三仏斉が直接選んだ高級官僚が「国王」としてコントロールしていたものと推定することが最も理にかなっているといえよう。もしそうだとすると『嶺外代答』の「佛羅安國」はパッタルンでなければならない。

一方、『諸蕃志』の記述は「単馬令(ナコン・シ・タマラート)から帆船で6日間で「凌牙斯」(ランカスカ)」に着く。また「陸路」でも行けるとあり、さらに「「佛囉安國,自凌牙斯加四日可到,亦可遵陸」とあり、ここでも「凌牙斯」の位置が問題になる。「佛囉安國」は「其隣蓬豊、登牙儂、加、吉蘭丹類此」とあり、どう見てもパハン、トレンガヌといったマレー半島の南の方角である。此処に「Berang」説が成立する根拠がある。

しかし、パタニは「抜沓」が相当すると考えると、「凌牙斯加」の場所が見当がつかなくなる。また、ベランまで陸上のルートもあるなどと説明する必要性はあまり感じられない。アラブ商人の立場からはベランは重要な場所であり(商業基地があった)、それを趙はあえて「佛囉安國」という表記をした可能性がある。趙はもちろん『嶺外代答』を読んでいたであろうし、そこに出てくる「佛羅安」も知っていたと考えられる。

『諸蕃志』の「凌牙斯加」を巡る矛盾は私の想像では「登眉流」(マレー半島の付け根)をアラブ商人が「単馬令」と呼び間違えた可能性があると思う。『諸蕃志』の「単馬令」を「登眉流」と置き換えてみると、話のつじつまがかなりあってくる。「登眉流」から「凌牙斯加」すなわちナコン・シ・タマラートまで6日間、そこからパッタルンまで4日間ということであれば、無理のない行程である。「佛囉安國」についてはアラブ商人の頭の中にはマレー半島南部のベラン(Berang)しか念頭になかったはずであり、それはパハンやトレンガヌの隣国だという説明になっていたように思われる。趙汝适の混乱の原因はその辺にあるように思われる。どちらにせよ「佛囉安國」は『代答』の「佛羅安國(パッタルン)」ではありえないし、また「凌牙斯加」はパタニではありえない。

結論的にやはり、凌牙斯加(ランカスカ)は今のナコン・シ・タマラートと見なければならない。凌牙斯加国も自国で集めた財貨をパッタルンにまで運び、南宋王朝からの返礼(朝貢品に対する代貨)もそこで受け取っていたに違いない。ただし、『諸蕃志』には「単馬令」という記述があり、これがナコン・シ・タマラートと重複するという問題点がある。趙はこの辺の矛盾に悩み苦し紛れに「凌牙斯加」という漢字を使いの位置をあいまいなものにした可能性がある。この辺は『諸蕃志』の謎といわなければならない。

2014年に突如パッタルンから南宋の金貨幣(金葉と称する貿易用通貨)を始め多くの金製品が発見され、その多くが南宋王朝の「回賜」であろうとみられることにより、パッタルンの三仏斉における特殊な地位が確認されるにいたった。



南宋の貿易用金金貨幣(金葉=金の薄板を折りたたんだもの)。



上記の国々の中では三仏斉の主要構成国であるジャンビ、ケダーおよびチャイヤーが入っていない。これはこの3か国で三仏斉という政体が形成されていたためと考えるのが妥当であろう。

(巴林馮(パレンバン)が明時代に三仏斉国?)

三仏斉は宋時代にはよく出てくるが「元史」には記載されていない。南宋の終わりには実質的には消滅したと考えられるが、明の時代の洪武帝の時代に朝貢が再開され、またひょっこり再登場する。ただし、これはパレンバンが自称したものであり、ニセの三仏斉だったのである。もっとも、1225年の諸蕃志には浡淋邦(パレンバン)は三仏斉の属領であると記されている。しかし、これは宋王朝が認めていた三仏斉であるとは到底言えない。後世この「ニセ三仏斉」がシュリヴィジャヤだと認識され、古代史が書かれてしまったのは、何とも悲劇としか言いようがない。歴史学者の研究不足である。

『宋史』によれば「三仏斉国、蓋南蛮之別種、與占城為隣、居真臘、闍婆之間、所管十五州」とある。真臘(クメール)とジャワの間にあり15の国を支配していた。そのほとんどは港湾都市国家であった。『宋史』、巻489、列伝第248、外国5には「占城から5日間の航海で三仏斉にいける」と冒頭に書いてある。とすると三仏斉の領土の一部はマレー半島東岸が想定されていたと考えざるを得ない。もちろん奥行きは深く、パレンバンやジャンビも三仏斉の領域であるが、中国からの至近の場所はマレー半島東岸である。

「汎海使風二十日至広州。其王号詹卑、其国居人多蒲姓。」ということから順風で20日ほどで広州に行けた。国王は詹卑(ジャンビ)と号していた。住人は蒲という姓が多かった。ということはアラブ人が多く住んでいたという意味である。蒲というのはアラブ人に多かった名前の「Abu」から来たものであるという。宋史のここでの記述では三仏斉の中心地はジャンビということになりそうである。当初はジャンビの王が三仏斉の代表人(代表取締役)として唐王朝に届けたものと考えられる。

ジャンビが三仏斉のチャンピオン国であったという説は「通説」といってよいが、その枠組みがいつまで続いたかは問題である。11世紀の前後にはケダ(カダラム)が三仏斉の中心として意識されるようになる(特にチョーラによって)
三仏斉は複数の主要国の「連合政体」であると考えるほうが理にかなっている。時代時代で首都を移転したなどという説は混乱のもとであり、実態を反映したものではあるまい

一方、爪哇のマジャパヒト王国は14世紀にはすでに属国としてパレンバン、ジャンビを認識しており、三仏斉が「クニ」であるという認識は爪哇には無かった。上述のごとく、明初にパレンバンが「三仏斉」を自称したのである。

明の馬歓が1416年に著した瀛涯勝覧(エイガイショウラン)には「旧港すなわち浡淋邦は昔の三仏斉であり、爪哇が管理している。風俗は爪哇と同じ。移住してきた中国人が多い。海賊もいた」とある。この「昔はパレンバンは三仏斉」であったというのは馬歓の誤解である。正しくは「三仏斉の属国であった」と書くべきであった。

室利仏逝と三仏斉との連続性について考えてみると、室利仏逝としての最後の朝貢が742年で終わりになり、三仏斉が唐王朝の最後の時期の904年に朝貢に現れる。その間の162年間はどうなっていたのであろうかという疑問が当然出てくる。

その問いに対する私の答えは上述(前編)のごとく、室利仏逝の後継はシュリヴィジャヤ・グループの最新の属領である中部ジャワのシャイレンドラであり、訶陵(後期)と称して朝貢していたのである。なぜそうなったかといえば、盤盤(バンドン湾)に本拠を置いた室利仏逝が北から来襲した真臘に750年前後に、チャイヤーやリゴール(ナコン・シ・タマラート)を占領されてしまったと考えられるからである。それに寄ってシュリヴィジャヤ・グループは「司令部」が一時的に崩壊してしまった。それによってマラッカ海峡のコントロールがなくなり、アラブやペルシャからの直接入貢が急増した。

先に見たように、シャイレンドラはパレンバン、ジャンビ、バンカ島を680年代前半に制圧すると、次は訶陵王国が支配する中部ジャワに兵をすすめた。686年のバンカ島・コタ・カプール碑文にその様子が記録されている。シュリヴィジャヤは総司令官シャイレンドラ(Dapunta Selendra=Sojomerto碑文)に現地で「シャイレンドラ王国」を樹立されるが、内政はサンジャヤに任せ、シャイレンドラは貿易と海軍を掌握していたにとどまった。訶陵の王権を尊重し、名目的にはサンジャヤ家を王にしていた。中部ジャワにはシャイレンドラとサンジャヤの2重政権が存在していたのである。

一方、ジャワ島ではシャイレンドラ王朝がボロブドゥール寺院(大乗仏教)の建設などおこなうが、その後、旧訶陵の王家(サンジャヤ王家)に権力闘争で破れ、シャイレンドラのバラプトラ王子は海軍を引き連れて830年ごろ中部ジャワからそれ以前のシュリヴィジャヤの支配地(スマトラ島とマレー半島)に逃れる。

その後740年代にシュリヴィジャヤの本拠地が真臘に攻撃され、チャイヤーが占領され、シュリヴィジャヤは大混乱に陥った。その後、760年代に、訶陵(シャイレンドラ王家)はジャワの海軍を引き連れてマレー半島東岸(リゴール、チャイヤー)と真臘の南部を攻撃する。それは室利仏逝の失地回復であり、シュリヴィジャヤ・グループの中国への朝貢ルートの独占体制を固め、維持するするためであった。「災い転じて福となす」結果になったが「室利仏逝」は消滅したまま新しい秩序が出来上がった。その中心はジャワ島の「シャイレンドラ王国」であった。

シャイレンドラは余勢をかってその後、数次(767、774、787年)にわたり、チャンパにも侵攻するし、真臘後にも侵攻する(多だし占領はしていない)。チャンパの碑文ではジャワの賊を撃退したことになっているがチャンパの朝貢はその後途絶えてしまう。林邑の最後の朝貢は746年である、次に「環王」が林邑の後継国として現れるのは793年であるが、それ1度だけで終わりとなり、北宋時代には「占城」が頻繁に登場する。

シャイレンドラ王(パナンカラン)はチャイヤー地区を真臘から奪還した功績により、シュリヴィジャヤ・グループの総帥としてのマハラジャの位を授けられ、ジャワ島においても王権をサンジャヤ家から取り上げ、自らジャワ島の支配者となり、直ちにボロブドゥール大寺院(大乗仏教)を建設する。

そのシャイレンドラの功績は室利仏逝の故地のチャイヤーに775年の年号の入ったいわゆる「リゴール碑文」(下の写真、バンコク国立博物館蔵)で顕彰される。発見されたのはナコン・シ・タマッラートなのでリゴール碑文と呼ばれているが、もともとはチャイヤーのWat Wiangに建てられたといわれている。その時シャイレンドラ軍(ジャワ島)の司令官(パナンカラン王)はシュリヴィジャヤ・グループの総帥に指名され、「マハラジャ(王の中の王)」の称号を与えられる。



また、そのとき捕らわれた真臘の王子、後のジャヤヴァルマン2世はおそらくジャワに連れて行かれ、その後帰国を果たしクメール王としての即位宣言を802年におこなったという説が主流になっている。しかし、ジャヤヴァルマン2世は本当に「ジャワ島」に連れて行かれたか否かははっきりしない。彼自身は扶南の王族の一人で真臘制圧のためのシュリヴィジャヤ軍の司令官であったと考えられる。ジャヤヴァルマン2世が単身、昔の王子として帰国しても王位につけるほど現実は甘くはないであろう。

当時は闍婆(ジャワ)の意味が広く「マレー半島」以南ということであった。『新唐書』は明らかにそういう用法をしている。「驃」国の条を見れば明らかだが「隣国」もしくは「属領」として書いてある。
ほかの漢籍をあたってみると「闍婆」の概念が「ジャワ島」のみではないという実例が随所に出てくる。これをすべて「ジャワ島」と解釈すると、とんでもない東南アジア古代史が出来上がってしまう。しかし、このことに気づいている東洋史学者はまれである。

(三仏斉と呼ばれる貿易のための「連合王国」の成立)

シャイレンドラのバラプトラ王子がサンジャヤ家との政争に敗れジャワ島を追放されて、830年ごろの一時期はシュリヴィジャヤ体制が崩れ、ジャンビは独自に入貢(852年、871年)したが
、「分裂行動」は不利益であるという認識から、三仏斉体制を構築したと考えられる。事実ジャンビはマラッカ海峡の南出口しかコントロールできず、ケダが北の入り口を支配して初めてマラッカ海峡の支配が完結する。チャイヤーはタイ湾の統括とサティン・プラからの宋王朝への朝貢を統括したものであろう。

サティンプラはソンクラのやや北に位置し、宋への朝貢用の船舶の大部分を出荷する港として利用されていたものと考えられる。シャイレンドラ時代(後期・訶陵)もこのサティンプラ港を使っていたものと思われる。ジャワ島にシュリヴィジャヤ傘下の諸国のカーゴを集めてから中国に出荷するというような「非効率」は行われたはずがない。

三仏斉はジャワ以外の旧室利仏逝の有力港湾都市をまとめて朝貢貿易を再開したと考えるべきであろう。有力な都市とはチャイヤー、ジャンビ、ケダの3都市(クニ)と考えてよいであろう。三仏斉は唐の末期の天佑元年(904年)にはじめて入貢するが、唐王朝が新参の「三仏斉」をすんなり受け入れたのは、三仏斉が「室利仏逝」傘下の3つの城市の「連合国」であるという認識があったためではないかと考えられる。

『唐会要』には天佑元年(904年)の記事として「授福建道佛斉国入朝進奉使都番長蒲訶粟寧遠将軍と書いてある。昔の室利仏逝がまた入貢したという扱いである。ただし『諸蕃志』には「三仏斉;其国自唐天佑元年始通中国」と書いている。1225年に書かれた『諸蕃志』は当然ながら三仏斉の素性を正しく認識している。

ケダはマラッカ海峡の北の玄関、ジャンビは南の出口、チャイヤーはタイ湾の押えという配置であったと考えられる。パレンバンはジャンビと近く、特に有力な港湾都市であったとは考えにくい。

三仏斉は宋王朝の朝貢体制にうまく組み込まれ960年以降大いに繁栄するが、1025年にチョーラ(注輦)に侵略され、大打撃を受け、特にケダはチョーラの直接支配を受ける。(以下については『シュリヴィジャヤの歴史』を参照してください。)

(2014年11月に修正)

朝貢体制は裏返せば「冊封」体制であり、中国の皇帝が相手国の国王に「臣下」として「官位」を与えるという関係が基本にある。そうだとすると「見ず知らず」の国がある日突然、「朝貢にやってきました」といっても簡単に認めるはずがない。

三仏斉は中国における近代商業国家ともいえる宋王朝(特に北宋時代)の出現とあいまって、大いに繁栄したことは間違いない。

三仏斉は唐末の天佑元年(904年)にはじめて入貢するが、907年唐が滅亡し、56年後に北宋の建隆元年(960年)に国王悉利胡大霞里檀が李遮帝という者を派遣し、朝貢した。翌建隆2年(961年)の夏には蒲蔑という者が使者として朝貢している。

同じ年の冬には国王室利烏耶(シュリヴィジャヤ)が茶野伽という者を使者に朝貢し、建隆3年(962年)春には李麗林という者を使者として朝貢している。まさに朝貢ラッシュといった有様である。室利烏耶王というのはシュリヴィジャヤ王というつもりであろう。ただし、この王がシャイレンドラ王家とどういう関係にあったかは不明であるが、シュリヴィジャヤ(室利仏逝)の存在は明らかに意識されている。多分それはチャイヤー国のことであろう。ケダーからは地理的の朝貢に行くのは無理がある。したがって、ジャンビとチャイヤーから三仏斉として朝貢に赴いたものと考えられる。

その後も971年、972年、974年、975年、980年、983年、985年、988年、992年、1003年、1008年、1017年、1028年、1079年(元豊2年以降再び増加する)、1082年、1088年(宋史には単に「五年」とのみ記されているが元祐3年の誤りー桑田説)、1090年、1094年(紹聖元年)と三仏斉の入貢は続く。その詳細については桑田博士の緻密な解説(『南海』;p236~265)に譲る。

(南インドのチョーラ王朝の支配)

三仏斉の10世紀から11世紀初頭にかけての繁栄に嫉妬(?)を感じたか、三仏斉が途中で立ちはだかり「朝貢の邪魔」になったためか、
南インドのタミール族のチョーラ(注輦)が三仏斉への侵攻を開始する。それは1017、18年に行われ、タンジョール碑文(1024年)なるものに記録が残される。このとき貿易センターとして最大の繁栄を誇っていたケダ(Kadaram)は占領され、11世紀の終わり頃までチョーラの支配を受ける。

チョーラ(注輦)はもっぱらケダの支配に注力し、そこに王族の代官デヴァ・クロ(地華伽囉)を常駐させた。タミール人はマレー半島の西岸の主要港(タクアパなど)も支配し、マレー半島横断通商路を独占したものと考えられる。ジャンビなどはチョーラによる厳しい支配を受けていなかったと考えられる。

三仏斉の中国への朝貢は1028年以降1077年の50年間のブランクの後に復活する。チョーラも1020年以降朝貢せず1077年に三仏斉と同じ年に入貢を再開する。しかし、ここに大きな問題が生じる。実は1077年(熙寧10年)の入貢は三仏斉というよりチョーラによるものであったと桑田博士は論じる。

宋史には同年に三仏斉と注輦双方から入貢があったと書かれている。しかし、双方の使節が同じメンバーであった。三仏斉は使大首領「地華伽囉」來とあり(これは大首領「地華伽囉」遣使来の誤りであるという)、注輦の部には「国王地華伽囉」遣使奇囉囉とある。確かに桑田博士のいう通りで、チョーラの支配下に置かれた三仏斉が独自に朝貢するはずは無い。(南海p243.244)。

それ以降は三仏斉(1079、1082、1083、1084、1088、1094、1156、1178年)、注輦(1015、1020、1033、1034年の後1077年、1088年=元祐3年)という国名での朝貢が行われた。

チョーラ(注輦)は「三仏斉」の支配権をしばらく維持しており、1090年まで三仏斉注輦という名目で宋王朝に朝貢する。これ以降注輦の名前は朝貢国としては消える。

しかし、『宋会要』によると、その間ジャンビも1079年(元豊2年)および82年(元豊5年)に三仏斉詹卑として入貢する。実際はこれはジャンビ単独での入貢であったが、宋政府は三仏斉の傘下の1つの「クニ」として認識していたものであろう。この時期、三仏斉は未だチョーラの支配下にあったはずである。その本拠はケダであったと思われる。インド側からみれば貿易港の重要性はマレー半島横断通商路の入り口にあたるケダのほうが勝っていたからである。その間隙を縫ってジャンビが単独入貢したものであろう。

こうなると三仏斉(シャイレンドラ王家)はチョーラの支配を受けつつもジャンビのようにケダから離れた「クニ」は、かなり独立性を有し、「三仏斉」という看板を使いつつ独自に朝貢したものと考えられる。

しかし、チョーラ侵攻の段階で連合国家としての「シャイレンドラの三仏斉(シュリヴィジャヤ)」は一旦は消滅したと考えるべきであろう。

ところで、ここに奇妙な記述に遭遇する。それは『宋史』「蒲甘」の条に、尚書(行政官のトップ)言として「注輦役属三仏斉」という文言がでてくる。文字通りに解釈すれば「注輦は三仏斉の属国である」ということになう。これは事実と明らかに異なる。しかし、注輦は「自国も三仏斉の一国に属領として加えてもらい朝貢に来た」と宋王朝に対し説明(虚偽の)をした可能性がある。(註:こうすることによってチョーラは宋王朝から単独で「回賜」(宋王朝からの返礼)をもらうことができた。)

朝貢関係は中国の王朝と朝貢国の間に「冊封」関係があるという「建前」になっている。いわば、「朝貢国」は中国の王朝の「属領」である。それを第3国が中国王朝の許可なしに占領してしまうことは、中国王朝にとっては許しがたい「犯罪行為」である。

注輦としても三仏斉を征服し「次からは注輦が朝貢します」とは言えなかった事情があったものと推測される。従って、注輦としてはあくまで「三仏斉」の支配下にある「属領のうちの1国」ということで、宋王朝に朝貢したものと思われる。そうであれば「三仏斉注輦」は独自に宋王朝から「回賜」を頂戴することができる。

ところがジャンビは三仏斉の構成メンバーだからジャンビが朝貢で持参した「貢物」への「回賜」はジャンビには渡さずに「三仏斉」に渡すというのが宋王朝の建前であったはずである(上述)。三仏斉の属国である注輦とは立場が違うのである。このような見方をすれば、その間のナゾが解ける。

(三仏斉の主権回復?

1094年以降朝貢国として名前が出てくるのは「三仏斉」としてだけである。『宋史』
には詹卑入貢の記事は見当たらないが「三仏斉」を詹卑とみなしたのかもしれない。ケダが入貢したのかもしれない。詳しい記述がないので分からないのである。宋史における三仏斉の入貢は1178年(淳熙5年)で終わる。

1158年の朝貢については桑田博士の詳しい考察がある(南海p263)。これは三仏斉としては実に62年ぶりの入貢である。国王は悉利麻霞囉陀(スリ・マハラジャ)でこれは称号だけしかわからない。おそらく本名を出したくない事情があったのであろう。しかし、マハラジャを名乗る大王はケダにいたというのがアラブ人の認識であったようである(マジュムダールの説)

貢物は「龍涎1塊36斤、真珠113両、珊瑚1株240両、犀角8株、梅花脳板3斤、梅花脳200両、瑠璃39事、金剛錐39個、貓児眼晴指環・青瑪瑙指環・大真珠指環共13個、番布26条、大食糖4瑠璃瓶、大食棗16瑠璃瓶、薔薇水168斤、賓鉄長剣9張、賓鉄短剣6張、乳香81,680斤、象牙87株共4,065斤、蘇合油278斤、木香117斤、丁香30斤、血竭158斤、阿魏127斤、ニクズク2,674斤、胡椒10,750斤、檀香19,935斤、箋香364斤など」アラビア方面の香料や東南アジアの香料や象牙、インドの織物など多彩な貴重品が大量に献上されたことがわかる。特に中国では香料は死者の遺体を長く屋内に保管し霊を弔う習慣があり、需要が多かった。


(宋時代の貿易の変化)北宋;960~1126年、南宋;1127~1279年

宋時代になると前にも述べたように、中国からの輸出品の主役が陶磁器となり、かつ貿易政策の自由化(市舶司制度)により、中国商人が南シナ海を冬季に北東風に乗って一気に南下し、スマトラ南部のジャンビや、ムラユに直行するというルートが主流になってきた。このようなことは中国の歴史上初めてのことといってよい。

北宋時代(960~1126年)は朝貢が依然として貿易の主要な形態であったことは間違いないが、南宋時代(1127~1279年)に入り市舶司制度の充実により、中国商人がライセンスを得られれば、海外に出かけて自由に貿易活動ができるようになると様相が一変する。

陶磁器などの巨大カーゴを自国の船(ジャンク)を仕立て海外に持ち出せるようになると中継地点での交易商品の売買が多くなる。中継地で高価な陶磁器を自分の目で確かめてから買ったほうが買い手のリスクが軽減するからである。

そうなると中継地点としての三仏斉の諸港(ジャンビ、ケダ、サティン・プラ、タンブラリンガなど)の役割は増大する。

しかしながら、南宋時代には周辺国の朝貢が占城(ここもある意味では中継地)を除いて少なくなってしまう。朝貢貿易という機能自体が必要なくなってしまったのである。南宋王朝に朝貢貿易をおこなう、財政力が無くなったという指摘もあるが、自由貿易(市舶司制度)の影響の法が大きかったと見るべきであろう。

季節風の関係で中国まで到達できない船は占城で積荷を売却してして帰航するケースも多々あったと思われる。


1178年(淳熙5年)で宋時代の朝貢は終わる。南宋に入ると入貢回数が激減する。その理由として桑田博士は①南宋側の経済力の衰退、②市舶司制度のおかげで入貢という形が貿易を行う上で重要でなくなった、③中国船の外洋航海貿易が盛んになり、民間が自由に交易できるようになったことなどを上げておられる。そうなると中継貿易帝国とも言うべき三仏斉そのものの存在意義が薄れてくることにもなる。

こうなるとシャイレンドラ王家はチョーラの支配を受けつつジャンビを拠点に存続していたのであろうか?しかし、チョーラ侵攻の段階でシャイレンドラの三仏斉(シュリヴィジャヤ)は一旦は消滅したと考えるべきであろう。しかし、チョーラの三仏斉支配も11世紀末までに終ったとみられる。

1094年以降の朝貢は「三仏斉」の名前で続くが、これは注輦ではないし、ジャンビかどうかも疑わしい。これ以降、リゴール(単馬令=タンブラリンガ=ナコン・シ・タマラート)のマレー半島における役割が大きくなっていった。詳細については後述する。

南宋の時代には中継貿易は朝貢体制が激変し、回数が極度に減るが、大食(アラブ)は朝貢を何とか続ける。それは中継点で取引するよりも宋朝廷と直接取引するほうが有利だったことと、中国にはすでに多くのアラブ商人が居住しており、彼らと取引するほうがより有利と考えたからであろう。(桑原隲蔵、「蒲寿庚の事蹟」平凡社、東洋文庫参照)

南宋時代の朝貢貿易が激減した原因については上に見た桑田博士の指摘があるが、南宋政府の財政事情の悪化を物語るものとして土肥祐子氏の優れた研究があるので要旨を紹介したい。

『南宋期の占城の朝貢―『中興礼書』にみる朝貢品と回賜』日本女子大学歴史研究会第44号(2003年11月)で南宋王朝が朝貢品の全てを受け取れず、10分の1だけとし、その回賜(返礼)の品も「朝貢品」の価値の2分の1か3分の1しか返さなかった(別に官職用衣装などの礼物はあるにせよ)という分析をしておられる。残りは港の「市舶司」が全量買い取って中国の商人に「専売」して莫大な利益を上げたということでる。中央政府の財政事情も「朝貢制度」の変更にかなり、影響していた様子がうかがえる。

ほとんどの輸入品が「市舶司」の管理下におかれ、それを市舶司が原則的に「全量買い上げ、特定の商人(問屋)に専売する」というシステムがとられたようである。こうすることによって、南宋政府は「朝貢」の儀礼や「回賜」のテマを省け、膨大な広義の「関税」及び再販(業者への販売)で巨利を得ることができた。

南宋時代までは中国船はマラッカ海域から先へはなかなか進まず、パレンバンやジャンンビで積荷を降ろし、西方からもたらされた物産や現地の産物を積んで、中国に帰るというルートが主流であった。それも、おそらくパレンバンで荷卸しはほとんどなかったはずである。ジャンビに持って行ったほうが東西共に便利であった。

ただし、イブン・バトゥータは元代(14世紀)に多くの中国船がアラブやインドにまで来航していると書いている。

明代に永楽帝の命により鄭和がマラッカ海峡からインド洋、ペルシャ湾、東アフリカまで大船団を率いて遠征したのは、未知の領域の探検と通商路の開設をもくろんでのことであった。それまではこれらの海域についての中国人の情報が限られたものであった事の証左でもあろう。

中国商人あるいは仲買人はスマトラ半島(ジャンビなどから)からケダまで積荷を運び、そこでアラブ商人やインド商人が西方から運んできた物産と交換するという方法もとられ、ケダは南インド方面からの商船のターミナルであった。チョーラの侵略と占領支配があったにせよマレー半島横断通商路の入り口であり、東海岸のチャイヤー、ナコンシタマラート(単馬令)、サティン・プラと共に繁栄をつづけたことは間違いない。少なくともマラッカ王国がこの地域の貿易センターとなる1400年ごろまでケダかなり栄えていた。

インド商人も主な輸出品である「綿織物」を東南アジアにもたらし、主にマレー半島(横断通商路の起点となるやタクアパ)への直行を続けていたが、南スマトラ(、ジャンンビなど)からケダまで海路で陶磁器を運んでから西に運送するという貿易をおこなっていたものと考えられる。それが最終的には中間地点の新港湾マラッカにとってかわられたと解釈できるであろう。

 

(単馬令=タンブラリンガの役割

マレー半島東海岸で中国への貿易を「三仏斉グループの諸都市を代表して」取り仕切る実力があったのはサティン・プラからおそらくタンブラリンガに転換していったものと考えられる。地理的にはソンクラということも考えられるがソンクラはなぜか三仏斉の15都市には名前が挙がっていない。

『宋史』(巻489、列伝第248、外国5)には「占城から5日間の航海で三仏斉にいける」と冒頭に書いてある。とすると三仏斉はマレー半島東岸が想定されていたと考えざるを得ない。この記述に最もふさわしい「都市(クニ)」はタンブラリンガ(リゴール=ナコン・シ・タマラート)かチャイヤーあたりであろう。

また「三仏斉から20日で広州に行ける」とも書いてある。そうなるとパレンバンやジャンビを三仏斉として、そこから20日間で広州まで行けたかという議論が改めて必要になってくる。チャイヤーかタンブラリンガからなら問題はない。

1020年代前半にチョーラが三仏斉諸国を制圧し、特にマラッカ水域の支配権は11世紀の終わりころまで維持していたことが考えられるが、どこまで実際の支配権を行使していたか、あるいは、できたかについてははっきりしない。経済的な必要性から言えばケダとタイ湾の港湾を結ぶ「マレー半島横断通商路」の確保が狙いであった。

しかし、マレー半島東岸に位置するタンブラリンガ(リゴール)が11世紀以降中国との交易上かなり重要な位置を占めてくるようになる。その理由としては古代から稲作地帯を後背地に控え、人口も多く、貿易国家としてインド人が定住していたことや何よりも良港に恵まれ、また、タンブラリンガは西海岸のクラビ、トランなどとの港にもランカスカ(狼牙須国)時代から伝統的につながっていた。さらに、ロップリを経由してアンコール王朝にも影響力を持っていたことも考慮されなければならない。おそらくアンコール王朝はジャヤヴァルマン2世の時代からスルヤヴァルマン1世の時代まではシュリヴィジャヤ・グループの支配下にあり、それを軍事面で支配していたのはタンブラリンガとその出先のロッブリでアッと考えられる。(『扶南・真臘・チャンパの歴史』2016年12月、めこん社刊参照)

1178年の最後の朝貢以降三仏斉の勢力は急速に衰え自然消滅に向かった。しかし、その後やや勢力を蓄えたタンブラリンガ独自で1196年朝貢に出かけるが、適当にあしらわれて追い返される。その後はシャイレンドラ系列に属していないとみられるチャンドラバヌ(Candrabhanu)がタンブラリンガの実権を握り、1247年と1260年にセイロンに侵攻したという記録が残されている。その目的は「仏歯、仏舎利)の獲得にあったといわれている。

12世紀以降13世紀にかけてタンブラリンガが三仏斉の中では最強国になりマレー半島の諸都市を支配していた時期があったようである。タンブラリンガへの朝貢国のリストは

① Sayapuri(Telubin?不明).②Trang,③Patani,④Chumpong.⑤Kelantan.⑥Panthai Samo(不明),⑦Pahang,⑧Sa-ulau.(不明)⑨Sai-Puri(Sai Buriならパタニの南),⑩Takua-Pa,⑪ Pattalung,⑫Kra

これを見ると三仏斉のマレー半島部分をほぼ全域にわたりカバーしているといってよい。抜けているのはケダとバンドン湾のチャイヤーくらいのものである。しかし、チャイヤーはタンブラリンガのお隣である。わざわざ属国としてあげる必要は無かったとも考えられる。ケダはもともとタンブラリンガ以上の強国であり、そこに朝貢をおこなうというような国ではない。

チャンドラバヌ(Candrabhanu)王のセイロン遠征失敗後タンブラリンガは急速に衰えていくが、貿易拠点としての重要性はかわらなかった。1292年にはタイの新興国スコタイ王朝のラムカムヘン王に占領され、その後アユタヤ王朝に引き継がれ、今日ではタイ王国の一部である。アユタヤ王朝はここを拠点にして以南のイスラム小王国を支配していた。

インド人学者
マジュムダール(Majumdar)氏は三仏斉はリゴールにあったという説を唱えている。それはクメール支配のための作戦本部があり、三仏斉の中では一段ぬきんでた地位にあったということであって三仏斉体制の構図は変わらなかったとみるべきである。

ここに西方や東南アジアの商品を集荷しておき、適当にたまったら中国に運ぶというのは距離も近くて便利であっ他かもしれないが三仏斉諸国の朝貢品はパッタルンが配送センターになり、サティンプラから出航していたことはほぼ確実である。これは2014年にパッタルンから発見された大量の金製品(南宋からもたらされた)の存在を見ても明らかである。

(明時代の三仏斉)

明時代に馬歓という人が書いた『瀛涯勝覧』(エイガイショウラン)という地理書がある。瀛は現代の中国語ではインと読むようだが日本語ではエイとかヨウとかのルビが振られている。意味は「大海」である。海の果ての異国の物語である。ちなみに東瀛といえば日本のことである。

馬歓は鄭和の第4次遠征に加わり、帰国後この本を書いた。1416年の刊行である。この書物によって、それまで曖昧模糊としていた東南アジアの実態が可なりはっきりしたという効果は見られたが依然として不完全なものであった。

[この書物に限らず、主な歴史書の東南アジア関係の漢籍が名古屋大学文学部の林謙一郎先生のご努力により、ホーム・ページで読める。ありがたいことである。(http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~maruha/kanseki/)]

この著者(馬歓先生)は過去の中国の東南アジア諸国の地理書が実証性に乏しく、イイカゲンな書き方がしてあって、とらえどころがないと苛立ちを隠さない。まったく同感である。

彼は『瀛涯勝覧』のなかで「旧港国」として注目すべきことを書いている。

「旧港、即古名三仏斉是也。番名曰浡淋邦。属爪哇国所管。・・・」すなわち、三仏斉はパレンバンであり、ジャワの王朝の属領であったというのである。しかし、中国のほかの歴史書や琉球の文献ではパレンバンは三仏斉の属領であったとも書かれている。

いずれにせよ、浡淋邦すなわちパレンバンは一時期三仏斉国の中の有力國であったことは間違いないであろう。しかし、今まで見てきたように、三仏斉の全てがパレンバンであったとはとうていいえない。シュリヴィジャヤ史の全体(室利仏逝と三仏斉)を通じてパレンンバンを重視する議論があまりに多く、これが全体の東南アジア古代史の姿を歪めている。

なぜそうなったかといえば、セデスという天才的権威者への盲従であり、学問的方法論として翻訳された漢籍の解釈と推理がその歴史研究の中心であり、通商ルートの研究や現地調査などが不足していたためであるといわざるを得ない。

また、『明史』(巻324、列伝212、外国5)には三仏斉について次のように記述している。

「古名干陀利。劉宋孝武帝時、常遣使奉貢。梁武帝時数至。宋名三仏斉、修貢不断」とある。

明史は間違いが多く、あまりできのよくない史書という評価のようであるが、このくだりに関する限りは三仏斉についての本質を簡潔に表現しているとみる。要するに古代からケダ(カンダリ=干陀利)を起点とする貿易ルート(第2ルート)の流れを汲んでいるのが三仏斉だというのである。もちろん、梁時代の干陀利は室利仏逝の直接の前身ではなく、間に赤土国が存在した。

三仏斉はパレンバンだとかジャンビであるとか言う議論がほとんどだが、実はケダのほうが本流だったというのが明史の著者の見解である。私はそれが正しいと思う。ただし、ここでは唐時代の室利仏逝については触れられていない。

明時代の三仏斉は1371(洪武4年)、1373、1374、1375(2回)、1377(洪武10年)の洪武帝の時代に入貢している。国王の名前がしばしば入れ替わる。1371年のときの国王は「馬哈剌札八剌卜(マハラジャ・プラブ)」であり、黄金製の葉のついた小さな木の模型を献上した。それは、恭順の意を表したもので、現品の模型(?)はクアラ・ルンプールの歴史博物館に陳列してある(下の写真、KL歴史博物館所蔵参照)。それには以外にはマレー熊、火雞(ヒクイドリ?)、孔雀,五色鸚鵡、諸香、苾布(香りのよい布?)、兜羅被諸物を納めたと記録されている。



1373年の国王は怛麻沙那阿であり、其のとき国内には3人の王がいたと記されている。1374年のときの国王は麻那哈寶林邦(マハラジャ・パレンバン)とあり、これはパレンバンを治めていた王であろう。1375年9月の入貢時の国王は僧伽烈宇蘭、1376年には怛麻沙那阿(1373年)王が没したとして、後継者の麻那者巫里が翌年朝貢の使節を出している。その時求めに応じて洪武帝は「三仏斉国王」に封じる印を与えている。

ところが爪哇はこの「三仏斉」は自分の属国だということで、軍勢を送って改めて占領してしまった。これによって三仏斉の虚名すら消滅した。これを見れもわかるとおり、三仏斉というのは統一国家というより帝国もしくは連合国家のようなものであり、一時期は主要国が三仏斉の名を使って順番に朝貢(貿易)をしていた観がある。その中心がジャンビであったりケダであったということであろう。巴林馮(パレンバン)が明より前に中国に朝貢したことは一度もない。歴史家がこのことに気付かないとはどういうことなのであろうか?

1400年前後にマラッカが中継地点として急浮上したが、これはケダとジャンビの中間点という利便性があり、インド船、アラブ船、中国船が一度に会せる便利な港として利用したものであろう。

マラッカが港湾都市として発展・機能し始めるとケダやジャンビの旧三仏斉グループ諸都市は必要性が失せてしまった。しかし、そのマラッカも1511年ポルトガルのアルブ・ケルケに占領されるとイスラム商人が寄り付かなくなり寂れてしまう。