4.三仏斉について(前ページに戻る)
(08年11月12日、09年6月9日修文

室利仏逝と三仏斉とは連続性があり、ともに呼び名はシュリヴィジャヤであるというのが通説になっている。しかし、室利仏逝は唐時代の呼称であり、三仏斉は主に宋時代以降の呼称である。

中国の史家が両者を同じものと考えていたかどうかは必ずしも明確ではないが、実体は大いに異なるものであった。ただし、王家の血統は扶南以降、「山の王」シャイレンドラ家系統でつながっていたかもしれない。少なくとも、支配者は「大乗仏教」という信仰が「タテ糸」として繋がっていた。

両者について共通して言えることは、いずれも単独の「港湾国家」ではなく、多くの港湾国家を支配する「貿易帝国」であったということである。さらにいうならば、中国の王朝に入貢し、多くの「貢物」を持参し、お返しに中国の高価なお土産をいただいてくる東南アジア諸国の「窓口国家」であったということである。

現代風に言えば、マレー半島周辺の諸国の対中国貿易を集中しておこなう「窓口商社」とでも言うべきものであった。両国は中国に入貢する港湾都市がいくつもあっては「過当競争」になって具合が悪いので、周辺諸国を押さえつけてチャンピオンになった国が「代表」となって中国との朝貢貿易をおこなうという仕組みを作ったのである。

その典型が隋時代の「赤土国」であり、唐時代は室利仏逝であり、宋時代は三仏斉であったということである。

唐のはじめに盤盤というクニが「赤土国」を始め周辺諸国を併合したものと考えられるが。唐の役人からは「赤土国」の消息を聞かれたら、
「武力で強制統合いたしました」とはいえないので、「室利仏逝なる連合国家を形成いたしました」と返答したことであろう。

そうなると盤盤という国は「室利仏逝」という帝国を形成して対中国貿易に従事せざるを得なくなり、「盤盤」という看板を捨てて「室利仏逝」に「屋号」を変えてしまったと見るべきであろう。そのようなことはいかなる「史書」にも書いてないが、そのように推理しないと、前後関係がスッキリと繋がっていかない。

その後も、室利仏逝は周辺国を説得もしくは武力による制圧によって自分の支配下に組み入れることなる。その結果
、室利仏逝には14の城市(港湾都市国家)を有することになり、南北に支配領域が拡大しすぎたので、国を2つに分けて支配するということにもなった(『新唐書』)。

どのような形で2分割統治がおこなわれたかは明らかでないが、北(Aルート)はチャイヤーで南(Bルート)はケダが各各の首都機能を果たすという形が採られたのではないだろうか。ケダはマラッカ海峡の入り口を支配し、その後の室利仏逝の「南進」の基地になったと考えられる。

(三仏斉)

もともと三仏斉というのはアラブ商人が
Sarboza、またはSerbozaと呼んでいた地域のことで、その音訳が三仏斉であるという説(桑田博士)が有力である。しかし、逆に「三仏斉」という呼称が訛ってSarboza、またはSerbozaとしてアラブやインドの商人・船乗り達が「呼称」にしていたと考えたい。

漢籍を読んでいくと「三仏斉」の「仏斉」とは「室利仏逝」のことだとほとんどの執筆者は考えているように見えて仕方がない。そもそも「室利仏逝」などといわずに「仏誓、仏逝」などと略称しているケースは随所に見られるのである。

私は「三仏斉」というのは「室利仏逝」の属領(『新唐書』の14の城市)の主要3カ国、すなわちケダ、ジャンビおよびチャイヤー(パレンバンは主要国とはいえなかった)が宋王朝に対し、これからは「三仏斉」の名前で朝貢するという届けを出して認可を受けたものであると考えたい。14城市のほかの国も全て「三仏斉」の看板で朝貢するというものである。(当初はパレンバンを主要国の1つと考えていたが、そうではなさそうである。)

朝貢への宋朝の回賜は「三仏斉」に対しておこなうという事になっていたようである。これは「三仏斉詹卑(ジャンビ)」の1079年の入貢のときにこの問題が起こる。実施はジャンビの入貢なのだが、返礼は「三仏斉」に対しておこなうというのが宋朝の態度であった。

三仏斉は宋時代にはよく出てくるが「元史」には記載されていない。南宋の終わりには実質的には消滅したと考えられるが、明の時代の洪武帝の時代に朝貢が再開され、またひょっこり再登場する。
ただし、これはパレンバンが自称したものであり、ニセの三仏斉だったのである。もっとも、1225年の諸蕃志には浡淋邦(パレンバン)は三仏斉の属領であると記されている。しかし、これは宋王朝が認めていた三仏斉であるとは到底言えない。後世この「ニセ三仏斉」がシュリヴィジャヤだと認識され、古代史が書かれてしまったのは、何とも悲劇としか言いようがない。歴史学者の研究不足である。

『宋史』によれば「三仏斉国、蓋南蛮之別種、與占城為隣、居真臘、闍婆之間、所管十五州」とある。真臘(クメール)とジャワの間にあり15の国を支配していた。そのほとんどは港湾都市国家であった。『宋史』、巻489、列伝第248、外国5には「占城から5日間の航海で三仏斉にいける」と冒頭に書いてある。とすると三仏斉はマレー半島東岸が想定されていたと考えざるを得ない。もちろん奥行きは深く、パレンバンやジャンビも三仏斉の領域であるが、中国からの至近の場所はマレー半島東岸である。

「汎海使風二十日至広州。其王号詹卑、其国居人多蒲姓。」ということから順風で20日ほどで広州に行けた。国王は詹卑(ジャンビ)と号していた。住人は蒲という姓が多かった。ということはアラブ人が多く住んでいたという意味である。蒲というのはアラブ人に多かった名前の「Abu」から来たものであるという。宋史の記述では三仏斉の中心地はジャンビということになりそうである。

ジャンビが三仏斉のチャンピオン国であったという説は「通説」といってよいが、その枠組みがいつまで続いたかは問題である。11世紀の前後にはケダ(カダラム)が三仏斉の中心として意識されるようになる(特にチョーラによって)

一方、爪哇はある時期(特にマジャパヒト王国)から属国としてパレンバン、ジャンビを認識しており、三仏斉が「クニ」であるという認識は爪哇には無かった。明初にパレンバンが「三仏斉」を自称したのである。

明の馬歓が1416年に著した瀛涯勝覧(エイガイショウラン)には「旧港すなわち浡淋邦は昔の三仏斉であり、爪哇が管理している。風俗は爪哇と同じ。移住してきた中国人が多い。海賊もいた」とある。これは馬歓の誤解である。

室利仏逝と三仏斉との連続性について考えてみると、室利仏逝としての最後の朝貢が742年で終わりになり、三仏斉が唐王朝の最後の時期の904年に朝貢に現れる。その間の162年間はどうなっていたのであろうかという疑問が当然出てくる。

その問いに対する私の答えは上述(前編)のごとく、室利仏逝の後継は訶陵(後期)である。なぜそうなったかといえば、盤盤(バンドン湾)に本拠を置いた室利仏逝が北から来襲した真臘に750年前後に、チャイヤーやリゴール(ナコン・シ・タマラート)を占領されてしまったからである。その頃真臘は第1ルート(タクアパーチャイヤ)を一時期支配したものと考えられる。

その後、760年代後半以降数次(767、774、787年)にわたり、訶陵(シャイレンドラ王家)はジャワの海軍を引き連れてマレー半島東岸(リゴール、チャイヤー)、真臘、チャンパを攻撃する。それは中国への朝貢ルートの独占のためであった。

その遠征は首尾よく成功をおさめ、シャイレンドラ王は故地のリゴールに(実際はチャイヤーといわれている)に碑文を建てる。その年号は775年である。

また、そのとき捕らわれた真臘の王子、後のジャヤヴァルマン2世はおそらくジャワに連れて行かれ、その後帰国を果たしクメール王としての即位宣言を802年におこなう。

一方、ジャワではシャイレンドラ王朝がボロブドゥール寺院(大乗仏教)の建設などおこなうが、その後、東ジャワから来た(カム・バックしてきた)勢力(サンジャヤ王家)に破れ、820年ごろ中部ジャワからパレンバンに逃れたとされる。そこで、彼等は三仏斉と呼ばれる貿易のための「連合王国」を再編成する。

三仏斉はジャワ以外の旧室利仏逝の有力港湾都市をまとめて朝貢貿易を再開したと考えるべきであろう。有力な都市とはチャイヤー、ジャンビ、ケダの3都市(クニ)と考えてよいであろう。三仏斉は唐の末期の天佑元年(904年)にはじめて入貢するが、唐王朝が新参の「三仏斉」をすんなり受け入れたのは、三仏斉が「室利仏逝」傘下の3つの城市の「連合国」であるという認識があったためではないかと考えられる。

ケダはマラッカ海峡の北の玄関、ジャンビは南の出口、チャイヤーはタイ湾の押えという配置であったと考えられる。パレンバンはジャンビと近く、特に有力な港湾都市であったとは考えにくい。(2011年7月に修正)

朝貢体制は裏返せば「冊封」体制であり、中国の皇帝が相手国の国王に「臣下」として「官位」を与えるという関係が基本にある。そうだとすると「見ず知らず」の国がある日突然、「朝貢にやってきました」といっても簡単に認めるはずがない。

三仏斉は中国における近代商業国家ともいえる宋王朝(特に北宋時代)の出現とあいまって、大いに繁栄したことは間違いない。

三仏斉は唐末の天佑元年(904年)にはじめて入貢するが、907年唐が滅亡し、56年後に北宋の建隆元年(960年)に国王悉利胡大霞里檀が李遮帝という者を派遣し、朝貢した。翌建隆2年(961年)の夏には蒲蔑という者が使者として朝貢している。

同じ年の冬には国王室利烏耶(シュリヴィジャヤ)が茶野伽という者を使者に朝貢し、建隆3年(962年)春には李麗林という者を使者として朝貢している。まさに朝貢ラッシュといった有様である。室利烏耶王というのはシュリヴィジャヤ王というつもりであろう。ただし、この王がシャイレンドラ王家とどういう関係にあったかは不明である。

その後も971年、972年、974年、975年、980年、983年、985年、988年、992年、1003年、1008年、1017年、1028年、1079年(元豊2年以降再び増加する)、1082年、1088年(宋史には単に「五年」とのみ記されているが元祐3年の誤りー桑田説)、1090年、1094年(紹聖元年)と三仏斉の入貢は続く。その詳細については桑田博士の緻密な解説(『南海』;p236~265)に譲る。

(南インドのチョーラ王朝の支配)

三仏斉の10世紀から11世紀初頭にかけての繁栄に嫉妬(?)を感じたか、三仏斉が途中で立ちはだかり「朝貢の邪魔」になったためか、
南インドのタミール族のチョーラ(注輦)が三仏斉への侵攻を開始する。それは1017、18年に始まり、1024年以降本格化する。このとき貿易センターとして最大の繁栄を誇っていたケダ(Kadaram)は占領され、11世紀の終わり頃までチョーラの支配を受ける。

三仏斉の中国への朝貢は1028年以降1077年の50年間のブランクの後に復活する。チョーラも1020年以降朝貢せず1077年に三仏斉と同じ年に入貢を再開する。しかし、ここに大きな問題が生じる。実は1077年(熙寧10年)の入貢は三仏斉というよりチョーラによるものであったと桑田博士は論じる。

宋史には同年に三仏斉と注輦双方から入貢があったと書かれている。しかし、双方の使節が同じメンバーであった。三仏斉は使大首領「地華伽囉」來とあり(これは大首領「地華伽囉」遣使来の誤りであるという)、注輦の部には「国王地華伽囉」遣使奇囉囉とある。確かに桑田博士のいう通りで、チョーラの支配下に置かれた三仏斉が独自に朝貢するはずは無い。(南海p243.244)。

それ以降は三仏斉(1079、1082、1083、1084、1088、1094、1156、1178年)、注輦(1015、1020、1033、1034年の後1077年、1088年=元祐3年)という国名での朝貢が行われた。

チョーラ(注輦)は「三仏斉」の支配権をしばらく維持しており、1090年まで三仏斉注輦という名目で宋王朝に朝貢する。これ以降注輦の名前は朝貢国としては消える。

しかし、『宋会要』によると、その間ジャンビも1079年(元豊2年)および82年(元豊5年)に三仏斉詹卑として入貢する。実際はこれはジャンビ単独での入貢であったが、宋政府は三仏斉の傘下の1つの「クニ」として認識していたものであろう。この時期、三仏斉は未だチョーラの支配下にあったはずである。その本拠はケダであったと思われる。インド側からみれば貿易港の重要性はケダのほうが勝っていたからである。その間隙を縫ってジャンビが単独入貢したものであろう。

こうなると三仏斉(シャイレンドラ王家)はチョーラの支配を受けつつもジャンビのようにケダから離れた「クニ」は、かなり独立性を有し、「三仏斉」という看板を使いつつ独自に朝貢したものと考えられる。

しかし、チョーラ侵攻の段階で連合国家としての「シャイレンドラの三仏斉(シュリヴィジャヤ)」は一旦は消滅したと考えるべきであろう。

ところで、ここに奇妙な記述(?)に遭遇する。それは『宋史』「蒲甘」の条に、尚書(行政官のトップ)言として「注輦役属三仏斉」という文言がでてくる。文字通りに解釈すれば「注輦は三仏斉の属国である」ということになう。これは事実と明らかに異なる。しかし、注輦は「自国も三仏斉の一国に属領として加えてもらい朝貢に来た」と宋王朝に対し説明(虚偽の)をした可能性がある。(註:こうすることによってチョーラは宋王朝から単独で「回賜」(宋王朝からの返礼)をもらうことができた。)

朝貢関係は中国の王朝と朝貢国の間に「冊封」関係があるという「建前」になっている。いわば、「朝貢国」は中国の王朝の「属領」である。それを第3国が中国王朝の許可なしに占領してしまうことは、中国王朝にとっては許しがたい「犯罪行為」である。

注輦としても三仏斉を征服し「次からは注輦が朝貢します」とは言えなかった事情があったものと推測される。従って、注輦としてはあくまで「三仏斉」の支配下にある「メンバー国」ということで、宋王朝に朝貢したものと思われる。


(三仏斉の主権回復?

1094年以降朝貢国として名前が出てくるのは「三仏斉」としてだけである。『宋史』
には詹卑入貢の記事は見当たらないが「三仏斉」を詹卑とみなしたのかもしれない。ケダが入貢したのかもしれない。詳しい記述がないので分からないのである。宋史における三仏斉の入貢は1178年(淳熙5年)で終わる。

1158年の朝貢については桑田博士の詳しい考察がある(南海p263)。これは三仏斉としては実に62年ぶりの入貢である。国王は悉利麻霞囉陀(スリ・マハラジャ)でこれは称号だけしかわからない。おそらく本名を出したくない事情があったのであろう。しかし、マハラジャを名乗る大王はケダにいたというのがアラブ人の認識であったようである(マジュムダールの説)

貢物は「龍涎1塊36斤、真珠113両、珊瑚1株240両、犀角8株、梅花脳板3斤、梅花脳200両、瑠璃39事、金剛錐39個、貓児眼晴指環・青瑪瑙指環・大真珠指環共13個、番布26条、大食糖4瑠璃瓶、大食棗16瑠璃瓶、薔薇水168斤、賓鉄長剣9張、賓鉄短剣6張、乳香81,680斤、象牙87株共4,065斤、蘇合油278斤、木香117斤、丁香30斤、血竭158斤、阿魏127斤、ニクズク2,674斤、胡椒10,750斤、檀香19,935斤、箋香364斤など」アラビア方面の香料や東南アジアの香料や象牙、インドの織物など多彩な貴重品が大量に献上されたことがわかる。特に中国では香料は死者の遺体を長く屋内に保管し霊を弔う習慣があり、需要が多かった。


(宋時代の貿易の変化)北宋;960~1126年、南宋;1127~1279年

宋時代になると前にも述べたように、中国からの輸出品の主役が陶磁器となり、かつ貿易政策の自由化(市舶司制度)により、中国商人が南シナ海を冬季に北東風に乗って一気に南下し、スマトラ南部のジャンビや、ムラユに直行するというルートが主流になってきた。このようなことは中国の歴史上初めてのことといってよい。

北宋時代(960~1126年)は朝貢が依然として貿易の主要な形態であったことは間違いないが、南宋時代(1127~1279年)に入り市舶司制度の充実により、中国商人がライセンスを得られれば、海外に出かけて自由に貿易活動ができるようになると様相が一変する。

陶磁器などの巨大カーゴを自国の船(ジャンク)を仕立て海外に持ち出せるようになると中継地点での交易商品の売買が多くなる。中継地で高価な陶磁器を自分の目で確かめてから買ったほうが買い手のリスクが軽減するからである。

そうなると中継地点としての三仏斉の諸港(ジャンビ、ケダ、サティン・プラ、タンブラリンガなど)の役割は増大する。

しかしながら、南宋時代には周辺国の朝貢が占城(ここもある意味では中継地)を除いて少なくなってしまう。朝貢貿易という機能自体が必要なくなってしまったのである。南宋王朝に朝貢貿易をおこなう、財政力が無くなったという指摘もあるが、自由貿易(市舶司制度)の影響の法が大きかったと見るべきであろう。

季節風の関係で中国まで到達できない船は占城で積荷を売却してして帰航するケースも多々あったと思われる。


1178年(淳熙5年)で宋時代の朝貢は終わる。南宋に入ると入貢回数が激減する。その理由として桑田博士は①南宋側の経済力の衰退、②市舶司制度のおかげで入貢という形が貿易を行う上で重要でなくなった、③中国船の外洋航海貿易が盛んになり、民間が自由に交易できるようになったことなどを上げておられる。そうなると中継貿易帝国とも言うべき三仏斉そのものの存在意義が薄れてくることにもなる。

こうなるとシャイレンドラ王家はチョーラの支配を受けつつジャンビを拠点に存続していたのであろうか?しかし、チョーラ侵攻の段階でシャイレンドラの三仏斉(シュリヴィジャヤ)は一旦は消滅したと考えるべきであろう。しかし、チョーラの三仏斉支配も11世紀末までに終ったとみられる。

1094年以降の朝貢は「三仏斉」の名前で続くが、これは注輦ではないし、ジャンビかどうかも疑わしい。これ以降、リゴール(単馬令=タンブラリンガ=ナコン・シ・タマラート)のマレー半島における役割が大きくなっていった。詳細については後述する。

南宋の時代には中継貿易は朝貢体制が激変し、回数が極度に減るが、大食(アラブ)は朝貢を何とか続ける。それは中継点で取引するよりも宋朝廷と直接取引するほうが有利だったことと、中国にはすでに多くのアラブ商人が居住しており、彼らと取引するほうがより有利と考えたからであろう。(桑原隲蔵、「蒲寿庚の事蹟」平凡社、東洋文庫参照)

南宋時代の朝貢貿易が激減した原因については上に見た桑田博士の指摘があるが、南宋政府の財政事情の悪化を物語るものとして土肥祐子氏の優れた研究があるので要旨を紹介したい。

『南宋期の占城の朝貢―『中興礼書』にみる朝貢品と回賜』日本女子大学歴史研究会第44号(2003年11月)で南宋王朝が朝貢品の全てを受け取れず、10分の1だけとし、その回賜(返礼)の品も「朝貢品」の価値の2分の1か3分の1しか返さなかった(別に官職用衣装などの礼物はあるにせよ)という分析をしておられる。残りは港の「市舶司」が全量買い取って中国の商人に「専売」して莫大な利益を上げたということでる。中央政府の財政事情も「朝貢制度」の変更にかなり、影響していた様子がうかがえる。

ほとんどの輸入品が「市舶司」の管理下におかれ、それを市舶司が原則的に「全量買い上げ、特定の商人(問屋)に専売する」というシステムがとられたようである。こうすることによって、南宋政府は「朝貢」の儀礼や「回賜」のテマを省け、膨大な広義の「関税」を得ることができた。

南宋時代までは中国船はマラッカ海域から先へはなかなか進まず、パレンバンやジャンンビで積荷を降ろし、西方からもたらされた物産や現地の産物を積んで、中国に帰るというルートが主流であった。

ただし、イブン・バトゥータは元代(14世紀)に多くの中国船がアラブやインドにまで来航していると書いている。

明代に永楽帝の命により鄭和がマラッカ海峡からインド洋、ペルシャ湾、東アフリカまで大船団を率いて遠征したのは、未知の領域の探検と通商路の開設をもくろんでのことであった。それまではこれらの海域についての中国人の情報が限られたものであった事の証左でもあろう。

中国商人あるいは仲買人はスマトラ半島(ジャンビ、パレンバンなどから)からケダまで積荷を運び、そこでアラブ商人やインド商人が西方から運んできた物産と交換するという方法もとられ、ケダは南インド方面からの商船のターミナルであった。チョーラの侵略以降衰退に向かったとはいえ、マラッカ王国がこの地域の貿易センターとなる1400年ごろまでケダかなり栄えていた。

インド商人も主な輸出品である「綿織物」を東南アジアにもたらし、主にマレー半島(横断通商路の起点となるやタクアパ)への直行を続けていたが、パレンバンまで陶磁器をとりに行く、あるいは南スマトラ(パレンバン、ジャンンビなど)からケダまで陶磁器を運んでから西に運送するという貿易をおこなっていた。

 

(単馬令=タンブラリンガの役割

マレー半島東海岸で中国への貿易を「三仏斉グループの諸都市を代表して」取り仕切る実力があったのはおそらくタンブラリンガをおいてほかにはなさそうである。地理的にはソンクラということも考えられるがソンクラはなぜか三仏斉の15都市には名前が挙がっていない。

『宋史』(巻489、列伝第248、外国5)には「占城から5日間の航海で三仏斉にいける」と冒頭に書いてある。とすると三仏斉はマレー半島東岸が想定されていたと考えざるを得ない。この記述に最もふさわしい「都市(クニ)」はタンブラリンガ(リゴール=ナコン・シ・タマラート)かチャイヤーあたりであろう。

また「三仏斉から20日で広州に行ける」とも書いてある。そうなるとパレンバンやジャンビを三仏斉として、そこから20日間で広州まで行けたかという議論が改めて必要になってくる。タンブラリンガからなら問題はない。

1020年代前半にチョーラが三仏斉諸国を制圧し、特にマラッカ水域の支配権は11世紀の終わりころまで維持していたことが考えられるが、どこまで実際の支配権を行使していたか、あるいは、できたかについてははっきりしない。経済的な必要性から言えばケダとジャンビとパレンバンの3港を掌握しておけば足りたであろう。

しかし、マレー半島東岸に位置するタンブラリンガ(リゴール)が11世紀以降中国との交易上かなり重要な位置を占めてくるようになる。その理由としては古代から稲作地帯を後背地に控え、人口も多く、貿易国家としてインド人が定住していたことや何よりも良港に恵まれ、中国に近かったことが挙げられる。

12世紀以降13世紀にかけてタンブラリンガが三仏斉の中では最強国になりマレー半島の諸都市を支配していた時期があったようである。タンブラリンガへの朝貢国のリストは

① Sayapuri(Telubin?不明).②Trang,③Patani,④Chumpong.⑤Kelantan.⑥Panthai Samo(不明),⑦Pahang,⑧Sa-ulau.(不明)⑨Sai-Puri(Sai Buriならパタニの南),⑩Takua-Pa,⑪ Pattalung,⑫Kra

これを見ると三仏斉のマレー半島部分をほぼ全域にわたりカバーしているといってよい。抜けているのはケダとバンドン湾のチャイヤーくらいのものである。しかし、チャイヤーはタンブラリンガのお隣である。わざわざ属国としてあげる必要は無かったとも考えられる。ケダはもともとタンブラリンガ以上の強国であり、朝貢をおこなうというような国ではない。

そのタンブラリンガも真臘に占領され、13世紀はじめには爪哇に占領される。しかし、その後やや勢力を蓄えたタンブラリンガは1247年と1260年にセイロンに侵攻したという記録が残されている。

そのときの王は
チャンドラバヌ(Candrabhanu)であった。結局この侵攻は失敗であったと見られる。その後タンブラリンガは急速に衰えていくが、貿易拠点の重要性はかわらなかった。1292年にはタイの新興国スコタイ王朝のラムカムヘン王に占領され、その後アユタヤ王朝に引き継がれ、今日ではタイ王国の一部であり、古代からタイの領土であったと信じている人も少なくない。

インド人学者
マジュムダール(Majumdar)氏は三仏斉はリゴールにあったという説を唱えている。一理もニ理もある考え方である。実際、三仏斉が宋(北宋)に朝貢に向かったとこはリゴールから出発した可能性が大いにある。

ここに西方や東南アジアの商品を集荷しておき、適当にたまったら中国に運ぶというのは距離も近くて便利である。中国から持ち帰ったものはここから主要国に再配分すればよい。ただし、チョーラがマレー半島周辺の支配権を握ったときは支配の都合上インドからのターミナル港であるケダを根拠地にしたものと思われる。

(明時代の三仏斉)

明時代に馬歓という人が書いた『瀛涯勝覧』(エイガイショウラン)という地理書がある。瀛は現代の中国語ではインと読むようだが日本語ではエイとかヨウとかのルビが振られている。意味は「大海」である。海の果ての異国の物語である。ちなみに東瀛といえば日本のことである。

馬歓は鄭和の第4次遠征に加わり、帰国後この本を書いた。1416年の刊行である。この書物によって、それまで曖昧模糊としていた東南アジアの実態が可なりはっきりした。

[この書物に限らず、主な歴史書の東南アジア関係の漢籍が名古屋大学文学部の林謙一郎先生のご努力により、ホーム・ページで読める。ありがたいことである。(http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~maruha/kanseki/)]

この著者(馬歓先生)は過去の中国の東南アジア諸国の地理書が実証性に乏しく、イイカゲンな書き方がしてあって、とらえどころがないと苛立ちを隠さない。まったく同感である。

彼は『瀛涯勝覧』のなかで「旧港国」として注目すべきことを書いている。

「旧港、即古名三仏斉是也。番名曰浡淋邦。属爪哇国所管。・・・」すなわち、三仏斉はパレンバンであり、ジャワの王朝の属領であったというのである。しかし、中国のほかの歴史書や琉球の文献ではパレンバンは三仏斉の属領であったとも書かれている。

いずれにせよ、浡淋邦すなわちパレンバンは一時期三仏斉国の中の有力國であったことは間違いないであろう。しかし、今まで見てきたように、三仏斉の全てがパレンバンであったとはとうていいえない。シュリヴィジャヤ史の全体(室利仏逝と三仏斉)を通じてパレンンバンを重視する議論があまりに多く、これが全体の東南アジア古代史の姿を歪めている。

なぜそうなったかといえば、セデスという天才的権威者への盲従であり、学問的方法論として漢籍の解釈と推理がその歴史研究の中心であり、通商ルートの研究や現地調査などが不足していたためであるといわざるを得ない。

また、『明史』(巻324、列伝212、外国5)には三仏斉について次のように記述している。

「古名干陀利。劉宋孝武帝時、常遣使奉貢。梁武帝時数至。宋名三仏斉、修貢不断」とある。

明史は間違いが多く、あまりできのよくない史書という評価のようであるが、このくだりに関する限りは三仏斉についての本質を簡潔に表現しているとみる。要するに古代からケダ(カンダリ=干陀利)を起点とする貿易ルート(第2ルート)の流れを汲んでいるのが三仏斉だというのである。もちろん、梁時代の干陀利は室利仏逝の前身ではない。

三仏斉はパレンバンだとかジャンビであるとか言う議論がほとんどだが、実はケダのほうが本流だったというのが明史の著者の見解である。私はそれが正しいと思う。ただし、ここでは唐時代の室利仏逝については触れられていない。

明時代の三仏斉は1371(洪武4年)、1373、1374、1375(2回)、1377(洪武10年)の洪武帝の時代に入貢している。国王の名前がしばしば入れ替わる。1371年のときの国王は「馬哈剌札八剌卜(マハラジャ・プラブ)」であり、黄金製の葉のついた小さな木の模型を献上した。それは、恭順の意を表したもので、現品の模型(?)はクアラ・ルンプールの歴史博物館に陳列してある(下の写真、KL歴史博物館所蔵参照)。それには以外にはマレー熊、火雞(ヒクイドリ?)、孔雀,五色鸚鵡、諸香、苾布(香りのよい布?)、兜羅被諸物を納めたと記録されている。



1373年の国王は怛麻沙那阿であり、其のとき国内には3人の王がいたと記されている。1374年のときの国王は麻那哈寶林邦(マハラジャ・パレンバン)とあり、これはパレンバンを治めていた王であろう。1375年9月の入貢時の国王は僧伽烈宇蘭、1376年には怛麻沙那阿(1373年)王が没したとして、後継者の麻那者巫里が翌年朝貢の使節を出している。その時求めに応じて洪武帝は「三仏斉国王」に封じる印を与えている。

ところが爪哇は三仏斉は自分の属国だということで、軍勢を送って占領してしまった。これによって三仏斉は名実ともに滅亡した。これを見れもわかるとおり、三仏斉というのは統一国家というより帝国もしくは連合国家のようなものであり、一時期は主要国が三仏斉の名を使って順番に朝貢(貿易)をしていた観がある。その中心がパレンバンであったりジャンビであったりケダであったということであろう。

1400年前後にマラッカが中継地点として急浮上したが、これはケダとパレンバン・ジャンビの中間点という利便性があり、インド船、アラブ船、中国船が一度に会せる便利な港として利用したものであろう。

マラッカが港湾都市として発展・機能し始めるとケダやジャンビの旧三仏斉グループ諸都市は必要性が失せてしまった。しかし、そのマラッカも1511年ポルトガルのアルブ・ケルケに占領されるとイスラム商人が寄り付かなくなり寂れてしまう。