第2話、シュリヴィジャヤの謎、05年4月26日、06年2月18日、9月11日、07年3月27日、7月28日、08年7月24日追加、補正)
『シュリヴィジャヤの謎』
シュリヴィジャヤ=パレンバン説を批判するために、この本を書きました。自費出版である関係上出版社朝日クリエ社には販売権を付与いたしておりませんのでご注意ください。
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鈴木 峻(すすき たかし)
(本書の骨子)
漢籍や碑文の研究をベースに「東西交渉史」を論ずるというより、「交易ルート」に重点を置き、その中でシュりヴィジャヤがどういう役割と変化を遂げてきたかを論じるものです。旧来の定説ではシュリヴィジャヤ=パレンバンということでしたが、これは完全な間違いです。少なくとも義浄が訪問した「室利仏逝」はタイのチャイヤーというところです。室利仏逝は『新唐書』、『通典』、『南海寄帰内法伝』などから少なくとも北半球に位置するということは明らかです。
セデスはパレンバンがマラッカ海峡とジャワの中間点にあり、東西貿易の中心的な中間点であったと主張していますが、ジャワが東西貿易の中で果たした役割は決して大きなものではなかったのです。パレンバンよりはジャンビのほうがマラッカ海峡に近く、三仏斉時代はジャンビが首都の1つになりました。パレンバンというのはシュリヴィジャヤ・グループの属領の一つにしかすぎません。一度たりとも首都になったという証拠もありません。
むしろマレー半島横断ルートの役割の方がずっと大きかったのです。少なくとも唐時代の終わりごろまではそうでした。宋時代の三仏斉になると貿易のあり方が室利仏逝時代とは変わってきますが、ケダの役割の方がパレンバンなどとは比較にならないくらい大きかったのです。入試問題などで室利仏逝の首都は「パレンバン」が正解だとしたら、それはとんでもない間違いです。少なくとも室利仏逝の首都は西暦742年まではチャイヤー(タイのスラタニ付近)にあったのです。この点高校の世界史担当の先生方にはご留意いただきたいと存じます。試験問題で「シュリヴィジャヤの首都はパレンバンである」とされると不正解になります。受験生からアピールを受けると申し開きできなくなります。
以下に掲載する文章は『シュリヴィジャヤの謎』に手を加えたものです。もっと深く研究されたい方は『シュリヴィジャヤの歴史』2010年めこん社をご覧いただくか、本HPのほかの文章をお読みください。
シュリヴィジャヤの謎・目次
序にかえて
第1部 マレー半島の旅
―シュリヴィジャヤの跡を求めて
第1話 マレーシア
―ブジャン渓谷ヒンドゥー・仏教遺跡見学記
マレー半島横断ルートの重要性
第2話 南タイ旅行記
2-1 ナコン・シ・タマラート
2-2. スラタニとチャイヤー
2-3. タクアパ
第3話 ソンクラから再びブジャン渓谷へ
第2部 シュリヴィジャヤ考
はじめに
1.古代の東西交易について
1-1.インド人の役割
1-2. 東西貿易の流れ
扶南の登場
中継貿易の変化
2 室利仏逝について
2-1.「赤土国」はどこにあったか 常駿らの赤土国訪問
2-2.室利仏逝の登場
2-3.扶南の衰亡と真臘の興隆
2-4.室利仏逝の勢力拡大の歴史
3.中国への朝貢を行った国々の変遷
3-1.隋時代の終わりまで
3-2.唐時代前半の朝貢(618~756年ま(…) で)
3-3.唐時代後半の入貢(757~907年)
4.マレー半島横断通商路の推移
(Aルート)(Bルート)(Cルート)
5.三仏斉について
5-1.三仏斉の朝貢
5-2.チョーラ以降の朝貢
5-3.宋時代の貿易の変化―南宋の自由貿易体制
5-4.『諸蕃志』にみる三仏斉
5-5.注輦の三仏斉諸国への侵略
5-6.単馬令=タンブラリンガの役割
パレンバンの碑文の意味するもの
仏教美術からのアプローチ
大乗仏教のつながり
まとめー 三仏斉体制の終焉
5-7.明時代の三仏斉
補論;ランカスカ考
『梁書』における狼牙須と盤盤の存在
ランカスカの再登場
参考資料;三国時代から明初までの主な朝貢国
巻末・索引
正誤表;誠にお恥ずかしいことですが、原稿ミスも含めかなりの校正ミスがありました。既に本書を入手されておられる方は御参照ください。
日本には邪馬台国論争がある。これは決着がついているようないないような論争である。ただハッキリしていることは奈良に大和王朝というものが存在した事実である。その大和王朝がいつから成立したかが最後の決め手になるであろう。魏志倭人伝に記述されている顔に刺青をほどこした原住民が輝ける大和民族の祖先であってははなはだ格好が悪いという「政治的なご都合主義」が北九州説をとなえる学者の一部にあるような気がするのは私の邪推だろうか?古来日本にはマレー系の移住民族が南から移住してきたことは間違いの無い事実であり、彼等は顔やのどに刺青をする習慣を持っていた。もちろん朝鮮半島からも稲作や鉄器や織物などの生産技術を持って移住してきた人々も多くいたことは間違いない。この両者が融合して今日の日本人を形成しているというのが私の見方である。
私の「シュリヴィジャヤの謎」を読んだ方が感想文を送ってくれて「これは東南アジアの邪馬台国論争ですね」という。ああそういう見方もあるかと思って改めて感心したが、こちらのほうは実は「論争」などというものは残念なことにここ1世紀というもの存在していない。せめて本書「シュリヴィジャヤの謎」がそのきっかけになれば私の歴史的使命は果たされたことになるであろう。
以下の文章はもともとのホーム・ページのものです。ご参考までに残しておきます。(2014年11月に加筆修文しております)
(はじめに)
私が最近改めて、東南アジアの古代史に関心を持ったきっかけは「東南アジアの経済と歴史」2002年6月、日本経済評論社をワープロに書きこんでいたときである。この本を執筆するに当たって、現代の東南アジアの経済を論じ、正しい「位置決め」を行うにはある程度、過去の歴史をさかのぼらなければならないと考えた。
数冊の専門書を紐解いているうちに、どうしても腑に落ちない点がいくつか出てきた。そのひとつは東南アジアの稲作は「焼畑→陸稲→水田稲作」という経過をたどったという議論である。少なくとも水稲の歴史は今から7000年くらいはさかのぼるという。それに先立って焼畑稲作があったなどというのは到底信じるわけにはいかない。
次に疑問に思ったのは、東西貿易について調べていくうちに唐の時代の「室利仏逝(シュリヴィジャヤ)」がなんとスマトラのパレンバンにあったという議論が未だに定説になっていることである。これは私が1970年代の後半にシンガポールに駐在した当時モノの本で読んだ理論が、30年後も何の改定もされずに生きていたのである。当時の駐在員仲間の議論では「パレンバンにそんなものが実際にあったのかというのがほぼ一致した見方であった。今でもグーグルの百科事典に「パレンバン説」が堂々と述べられている。
唐時代の高僧義浄が経典を求めてインドへ向かう途中に室利仏逝に立ち寄り、そこで半年間サンスクリット語の学習をした当時、1000人の仏僧がそこにはいた と記されている。1000人 もの仏僧を養うには、その土地の政府、軍隊、商工業者を養う大稲作地帯が背後になければおかしい。671年のスマトラのパレンバンにそんな水田が存在したとは到底考えられないし、1000人の仏僧を収容するような大寺院群が存在した痕跡もない。
しかし、これは20世紀はじめころから、かの有名な大学者ジョルジュ・セデス先生が打ち立てたところの揺るがしがたい「定説」でこれに異を唱えるものは「異端者」であるという。
私はもともと学者ではないが、学問の世界もサラリーマン社会同様かなり、窮屈なものだと思った。こんな問題だらけの説を「定説として受け入れなければ学者としてメシが食えない」などということが本当にありうるのだろうか。
その後、日本ではこの分野の学問では先駆者にあたる藤田豊八先生(1869~1929年)が大正2年に発表された論文「室利仏逝三仏斉旧港は何処か」という 名文に接する機会があった。藤田先生は冒頭にこのように述べておられる。
[室利仏逝、三仏斉、旧港は今のPalembangであるといふ。殆ど東西の学者に異論がないやうである。ここに改めて何処かなどといえば失笑する人もあるであらう。しかも予はまだ研究の余地が綽々としてあるやうに思ふ。]
藤田先生の結論もまた、室利仏逝はスマトラ島東南部であろうということになっていて私が私なりにたどり着いた結論とはおのずと異なるが、私が感銘を受けるのは藤田先生の学識の深さは言うに及ばず、学問に対する姿勢である。
何とか真実にたどり着きたいという真摯な努力の姿は、90年前に書かれた先生の論文を数行読むだけで読者の心を捉えずにはおかない。シュリヴィジャヤ論はまだ確かに綽綽(しゃくしゃく)として十分に研究の余地が今なおあるのである。
私は経済学者というより経済観察者(エコノミスト)としての視点からこの問題を改めて研究し、ここに一文をものし、大方の「失笑あるいは嘲笑」をあえて買おうと思うしだいである。
1.古代の東西交易について
東西交易のはじまりは、西はローマ帝国から中国は前漢の時代に「陸のシルクロード」といわれる交易ルートが成立していたことは知らぬものはいないが、私がここで取り上げたいのは「海のシルクロード」ともいうべき海上輸送のルートについてである。
西暦前において、すでにペルシャとインドの間で、しきりに海上交易が行われ、ローマ帝国にペルシャ経由で、インドから大量の香料や宝石や綿織物などがもたらされ、ローマは自国の特産品だけでは代価とならず、大量の金貨で支払いに当てた。
その金貨がインドで流通し、マウリア王朝時代に作られたインド製の金貨はローマの金貨と等価になるように重量が設定されていたという。つまり、ローマ帝国とインドは「同じ通貨圏」に属していた時代が古代に存在したということである。
インドとローマはいかにしてつながっていたか?それは陸路と海路両方あったが、海路の方が圧倒的に多かったと考えられる。インド洋を横断してアラビア半島、ペルシャ地区とインドとが帆船による貿易でつながっていたのである。地中海を制圧していたのはいうまでもなくローマ帝国であった。ローマ帝国の繁栄は地中海貿易の独占によって支えられていたと見ることも出来る。
アラブ商人は「大食」として、ペルシャ商人は「波斯」として中国では認識されていた。しかし、彼らの最大の取引相手はインドであり、インドとの間を行き来し大いに繁栄した。さらには中国まで帆船を仕立てて、直接乗り込んでいったのである。
それは「朝貢」という形で漢籍に記録が残されている。ヨーロッパと中国の間で、この「東西貿易」の主役とも言うべき重要な役割を担っていたのはインド商人であった。
「漢書」にはすでにインド(黄支という国)までの航路上の主要な国について記されている。後漢にはビルマやインドからも朝貢にきており、西暦166年には大秦からマルクス・アウレリウス (安敦王)の使者が来訪している。
三国時代には揚子江流域に勢力を張った呉の孫権(AD222~52年)が朱応と廉泰を扶南国に調査に赴かせている。扶南にはすでにインドのバラモンを王にいただく交易国家が成立していた。廉泰は「扶南伝」を著したといわれるが、原本は残っておらず、その内容が各種の文献に引用されている。
マウリヤ王朝以降のインドでは経済発展とともに、貿易を行う商人階級が形成され、カースト制度の最上位に位置するブラーマン階級の中からも商人のリーダーになるものが現れたといわれる(中村元、インド古代史)。
中国とインドを結ぶ交易の主役はインド人であった。もちろん、ペルシャ人やアラブ人もいたが、圧倒的多くはインド人であった。古代においてインド人が東南アジアに進出したきっかけは経済発展にともなう貨幣経済の興隆にともなって「金」を求めて東南アジアに出かけてきた からだといわれる。
さらにマウリア王朝の名君アショカ王がBC261年に南インドの東岸(現在のオリッサ州のあたり)のカリンガ王国を攻め滅ぼしたとき、多くの支配階層、商人などが東南アジア各地に亡命者したといわれている。
カリンガ地方のインド人の亡命者、植民者が後に東南アジアでは一大勢力を占めるようになった。アショカ王はカリンガを攻め滅ぼした後に、そのときの10万人を超すといわれた大虐殺や捕虜となった人々の悲劇を悔やみ、後に仏教に深く帰依するようになったと伝えられる。
その後、アショカ王は東南アジアに亡命者したカリンガの民に対しても寛大な態度で接したものと思われる。そうなると、亡命したカリンガの民はインド本国との交流・貿易にも従事することが可能になり、後々までカリンガの影響力が東南アジアに深く刻み込まれることになったものと考えられる。
マレー半島のケダ(羯茶)という地名を始め、訶陵、干陀利などもカリンガからきた名前である。
インド商人の東南アジア進出の目的は西方(アラブ、ペルシャ、ローマなど)で珍重された胡椒などの香料や宝石などに加え、金をもとめてやってきたと考えられる。インドの通貨は、当初は「銀貨」が主流だったようだが、インドでの銀の産出が少なく、またローマとの交易で大量の金貨が輸入された。
インドでも国内で金貨が流通し始めると、経済発展とともに金貨の流通量が増し、金が不足し、金地金を海外に求めざるを得なくなり、東南アジアの金が注目されたものと思われる。
東南アジアでは金は各地で産出した。香料も然りである。また、マレー半島、スマトラ島、ビルマ、タイなどにインド商人が古代から進出し、また植民者も各地にいた。
インド商人が東南アジアに持ってきた商品は「メノウのビーズ玉」などが今日多く残されている。ビーズ玉は現住民が装身具として使ったものである。 また、今は遺品として痕跡はとどめていないが綿織物はかなり古い時代からあったと考えられる。
インド商人は交易先を東南アジアから先の中国にまで商圏を拡大し、豊な文化的先進国でもあった中国との交易に大きな利益を見出したことはいうまでもない。
しかし、インドと中国の間にはマレー半島という大きな「障害物」が横たわっていたのである。マラッカ海峡を通過していくには夏季の季節風 に乗って南インド方面からマレー半島北部に到達しても、そこから先、マラッカ海峡を南下するには逆風になるという障害にぶち当たった。またマラッカ海峡は海賊の襲撃というリスクがあった。
インドは中国との交易を進めるに当たって、第1段階はビルマとタイ経由で陸路中国に到達する方法をとったと思われる。現在のタイには、当時はモン族が居住しており、彼らはドヴァラヴァティ(Dvaravati=堕和羅)として中国に知られていた。
海上ルートを使う場合は「扶南」 や「占城(チャンパ)」のご厄介になっていた。したがって堕和羅の名前は漢籍には扶南が衰退するまでは直接「朝貢国」としては名前が出てこない(旧唐書に初めて登場)。扶南やその後の真臘の貿易港であったオケオ(現在はベトナム領)の遺跡は有名である。
また、インド商人がビルマのイラワジ川付近の港(マルタバンやモールメン)で降ろした積荷は陸上で堕和羅(鉢底)の地域を経由して中国、雲南地方に運んだケースも多く、この場合はいわば「通常の交易」であり朝貢形式はとらなかった。
第2段階はマレー半島の西側に一旦船をつけて、貨物を陸路で東海岸(シャム湾側)に運び、そこから再度船に乗せ、カンボジア(扶南後に真臘)やベトナム(占城=チャンパ)経由で中国に海上輸送した。この場合主なルートは2つあった。
その1つはクラ地峡の入り口に近いタクアパ(場合によってはやや南のプーケット島やその近くのパンガンガ周辺)と東のバンドン湾に位置するチャイヤー(今は近くのスラタニのほうが大都会になっている)のルートである。これを第1ルートと名づけ以下の話を進めていく。
その2(第2ルート)は西海岸のケダ(ブジャン渓谷付近、現在はマレーシア領)に荷揚げし、それを東側のソンクラ、パタニ(現在はタイ領)、もしくはコタバル(ケランタン州)に運ぶルートである。量的にはこの第2ルートのほうが多かったと思われる。
これら2ルートの中間に今のタイ領でプーケット島の南に位置するクラビ(Krabi),トラン(Trang)のあたりから東側のパッタルン(Phattalung)に出るルートも存在したことは間違いない。パッタルンから北上してナコン・シ・タマラートやチャイヤー(盤盤国)に出るのは日数はややかかるが比較的容易であった。また、ソンクラ湖を利用してソンクラまで積荷を運ぶことも可能であった。(パッタルンを「仏羅安」と特定しましたが、これは間違いでした。『歴史』のほうでは訂正しております。)
第3段階は中国の宋王朝の成立した10世紀以降である。インドからマラッカ海峡を南下し、スマトラ南部のパレンバンやジャンビに行き、そこで中国から来た商品(主に陶磁器)を仕入れ、インドに帰っていくという方法である。
この時代もシュリヴィジャヤ王家は存続し、中国では「三仏斉」として知られるようになる。室利仏逝の名前はこの時代には(742年以降)消滅してしまっている。
第3段階に入ってもなおかつ「マレー半島横断ルート」はかなり活用されていた。というのは宋の陶磁器がバンドン湾のチャイヤーから大量に出土したことを見てもあきらかである。
チャイヤーは近世にたるまで東西貿易上の重要な拠点のひとつだったのである。リゴール(ナコン・シ・タマラート)やその南のパタニも同様である。
第2段階においてもマラッカ海峡を南下し、南シナ海に抜けて、中国に直行するというルートは存在したが、マラッカ海峡に入ると夏季の西風が利用できず、むしろ逆風となるため大変時間的なロスがあり、 帆船は数ヶ月の船待ちを強いられるのが普通であった。
またマラッカ海峡は海賊が出没するので、長い間、「マレー半島横断ルート」が東西貿易の主流となっていたことは銘記されなければならない。
したがって、このマラッカ海峡を通過していくルートはペルシャ船やアラブ船など、マレー半島を横断する術のない「遠洋航海船」に限られたものと考えられる。彼らがマラッカ海峡に徘徊する海賊に悩まされたことは間違いない。
2. 室利仏逝と三仏斉
シュリヴィジャヤという言葉を石碑の解読から「発見」したのはかの有名なジョルジュ・セデス(1886~1965年)である。フランス政府は植民地であったベトナムのハノイに「極東学院」なる研究所を1900年に設立し、そこでインドシナ半島や日本や中国を含む周辺地域の歴史や言語などを研究させた。
その中での代表的学者はジョルジュ・セデスであり、彼らが収集したベトナムやカンボジアの遺品の多くが現在、パリのエッフェル塔の近くにあるギメ美術館に収納・展示されている。
セデスは人並み外れた想像力の持ち主であり、天才的なひらめきをもった歴史家である。この想像力こそは実証的な資料が少ない東南アジアの古代史を研究する上では欠かせない資質であることは間違いない。
彼が言ったことはほとんどそのまま「通説」になってしまうといっていいぐらいの権威の持ち主であった。(しかし、セデスの説は大筋において間違っている点にご留意いただきたい。)
セデスが「シュリヴィジャヤ」という言葉を「発見」するまでは、実は「室利仏逝」と「三仏斉」はどう読むべきなのかよくわかっていなかったようである。
この2つの言葉は 「シュリヴィジャヤ」と読むというのがセデス以降の通説になっている。私は「室利仏逝」のほうは「シュリヴィジャヤ」と読むことには何の異論もないが「三仏斉」については少し引っかかるものがある。少なくとも内容的には異なっていると考える。
そのことについては後に触れることにする。この両者にどの程度「連続性」があるかは必ずしも明らかでない。連続性があるにしても、それはかなり「曲がりくねった」連続性であろう。
室利仏逝という言葉は正史(新唐書)に残されているが、唐の時代に仏典を求めてインドに旅をした義浄が著した『南海寄帰内法伝』や『大唐西域求法高僧伝』のなかで書かれているので有名である 。この室利仏逝という言葉は唐時代に使われていたがその前には存在していない。しかも、室利仏逝なる呼称は唐の末期には消滅してしまい、代わりに三仏斉が登場する(904年)。
少なくとも唐の前の隋の時代以前は存在していない。だからシュリヴィジャヤなるものの「実態」が隋時代以前にはなかったと断定することも難しい。確実にいえることはマレー半島横断通商路を経由し、中国との通商(朝貢という形での)を行う「国」は存在した。それは盤盤であり狼牙須(ランカスカ)であり、赤土国であった。
中国の隋王朝(581~618年)の短い間に「赤土国」から朝貢に来る。隋の煬帝は屯田主事「常駿」と虞部主事「王君政」の2名を赤土国に派遣して、調査を命じた。
2-1.「赤土国」はどこにあったか
室利仏逝などについては、この時代の歴史的考察のわが国における先駆者に藤田豊八博士や桑田六郎博士(1894~1987年)がおられる。桑田博士の著作集としては『南海東西交通史論考』汲古書院、平成5年2月刊がある(以下「南海」と略す )。
桑田博士は唐時代に文献に登場する「室利仏逝」は隋時代には「赤土国」といわれていた地域であろうと推論される。その根拠は隋時代に記載されている「赤土国」の周辺の地名から考えてそこが「室利仏逝」と唐時代(618年~907年)に呼ばれたところと桑田博士は考える。
また「赤土国」は唐時代の文献からは消えてしまう。桑田博士は当初はそれはマレー半島の東海岸に存在したと考えておあっれたが、めぐりめぐって赤土国は東部スマトラのパレンンバンにあったということに最後はなってしまう。そこが室利仏逝であるというお考えである。
私は後に述べるように義浄が最初に寄港した「室利仏逝」をパレンンバンであったという説にはどうしても納得できない。ただし、唐末の10世紀以降の「三仏斉」は一時期パレンバンに首都があったかもしれないという説が多いがそれは間違いである。
それではどう考えるかというのがこれから述べようとする本論の目的である。
『隋書』の初めの方に「西婆羅娑國,南訶羅旦國,北拒大海,地方數千里。其王姓瞿曇氏,名利富多塞,不知有國近遠。稱其父釋王位出家為道,傳位於利富多塞,在位十六年矣。」とある。「婆羅娑」とは『新唐書』のいうs「室利仏逝・・西曰郎婆露斯」と同じである。郎婆露斯とは”Langka Balus"すなわちニコバル諸島を指す言葉である。すなわち室利仏逝も赤土国もマレー半島にあったと漢籍には明瞭に書かれているのである。これを日本の歴史家(西欧人はもちろん)は読み取れなかったのである。
とりあえず、「赤土国」の所在地のひとつの仮説はマレー半島のソンクラ、パタニ、ケランタンの港からケダ(ブジャン渓谷周辺)を結ぶマレー半島横断ルート(私はこれを第2ルートと呼ぶ)の一帯ではなかったかという見方を提起したい。
赤土とはマレー語のタナ・メラ(Tanah Merah)の漢字訳である。タナは「土」であり、メラは「赤い」という形容詞である。しかし、赤い土はマレー半島にはあちこちに見られる。ケダ州のブジャン渓谷周辺でも目にも鮮やかな紅色の土を目撃した。
それはさておき「赤土国」には大王がいてきちんとした官僚システムが整っていたという。いわば、バラモン的政治体制が一応整った形で機能し、東西貿易を行い財政も豊かで、周辺部にかなり広い稲作地帯が存在し、人口も多く、兵士も多く養えた豊な王国であったと考えられる。
おそらく、バラモン階級がリーダーとなっていたインドの商人集団(あるいはインドからの移住者集団)がその土地を統率していたことであろう。バラモン自身が王であったかもしれない。インド人がこの東南アジアに進出したのは、バラモン教(ヒンドゥー教の前身)を広めるためではない。通商のためにやってきたのである。
インド商人たちは、通常は夏の季節風に乗ってやってきて、冬の季節風にのって南インド・セイロン方面に帰っていくが、一部は現地にとどまり、現地の女性と結婚し、現地化していった人もかなり多かったはずである。当然彼らの集落も出来上がった。そこには「仏足石」も残されている。
ベンガル地方の商人は数は少なかったが、冬季に北東季節風に乗って一気にマラッカ海峡を南下・通過できる。そのかわり、彼等は中国方面に向かうには翌年の春以降の南西風を待たねばならない。北インド(ベンガル方面)からの商船の待機場所は末羅瑜(ムラユ)とよばれる地域でシンガポールの南のリアウ諸島であったと思われる(ジャンビの支配下に置かれるのは三仏斉以降のことである)。
古代においては貿易目的というより、黄金を求めてこの地にやってきたインド人もいたことは間違いない。彼らの足跡はスバンナ・ブミ(黄金の土地)やスバンナ・ドゥイパ(黄金の島もしくは半島)といわれたスマトラやマレー半島やタイなどの東南アジア大陸部にその足跡は残されている。
文化的にも当時は格段に進んでいたインド商人たちは、この地の支配者の娘と結婚するなどして、この地の王となるものも出てきたことは想像に難くない。 また、古くからインド人のコロニーも存在し、手工業や農業に従事していたことは十分考えられる。インド人がもたらした農業技術や工業技術は当時としては最先端のものであった。
1世紀末から2世紀初頭に扶南の王となった混填(カウンディニヤ)もそういう例であり、現地の王女「柳葉」と結婚し、国王となった と伝えられている。
また、4世紀末にバラモンの僑陳如(カウンディニヤ=こちらもそ読む)は「盤盤(チャイヤー)」経由で扶南にやってきて国王となり、さまざまな制度改革をおこなったといわれる。バラモンが商人になった例は少なくないことは中村元博士の「古代インド史」(春秋社)に詳しい。
中村博士によると、バラモンというのはもともとはインドに入ってきたアーリア族の村落の宗教指導者であったが、時代を経るにつれ、次第に階層内分化を遂げ、商業などに従事するものが現れたという。
東南アジアの王は政権維持の費用の一部は「東西貿易」すなわちインドからもたらされる商品や地元の香木、香料、樟脳などの産品を中国(隋・唐王朝など)に売りさばいて利益を上げ、まかなっていたことであろう。
また、周辺にはかなり広大な水田稲作地帯を有していたに違いない。それによって膨大な人口と兵員が確保でき、王国としての独立性を保てたと考えたい。 海上輸送はおそらく「海軍」にも似た兵員(水夫)の護衛が必要であったに違いない。
そういう意味では室利仏逝もインドシナ半島(今のカンボジア)に君臨していた扶南と似たような性格の国家であったのではないだろうか。そればかりか、室利仏逝は扶南の亡命政権なのではないかという見方すらできる=セデス説)。
貿易関係でも盤盤と扶南の関係はきわめて密接なものがあった。盤盤は現在のタイの半島部のスラタニ周辺のバンドン湾にあり、その商業・宗教的中心地は当時はチャイヤーであったと考えられる。扶南の中心的貿易港と考えられるオケオ(Oc
Eo )は盤盤とシャム湾を挟んで対岸にあった。
「赤土国」に話を戻すと、現在でもタナ・メラという比較的大きな都市が存在しているのである。それはマレー半島の東海岸のケランタン(Kelantan)州の州都であるコタ・バル(「新しい町」という意味のマレー語)という港町からケランタン川にそって40Kmほど上流にいったところである。
このタナ・メラ市を「赤土国」であると論じている学者にはあまりお目にかからないが、案外タナ・メラ市は赤土国と何か関係があったのかもしれない。
タナ・メラという町は上に述べたケダ州のブジャン渓谷周辺まで陸路でつながっている。古代においてはブジャン渓谷周辺の港湾とコタ・バルの通商路(マレー半島を横断する、第2ルート)上にあったことは確かである。
このタナ・メラ市はかなり内陸に入っていて「港湾都市国家」とはいえないではないかという疑問が当然沸いてくるが、それは当時としては海賊や外国の攻撃にそなえて港湾都市といえども内陸部に首都機能を備えた集落や城を持っていたケースが少なくない。真臘もアンコールに遷都して陸真臘を形成したのと同じ理由である。陸真臘は「貿易国家にあらず」というのは誤解である。
すなわち、内陸に40~50kmも入っていれば、例えば海賊の襲撃をある程度緩和できるからである。また、ケランタン河を使えば、港との交通もさほど不便とはいえない。
したがって、大昔は今のタナ・メラ市の方が本拠地(王の住居がある)でコタ・バルのほうが出先 (玄関口)だったのではないかという推理も成立するかも知れないが、その証拠は見つかっていない。
また、 隋の煬帝に調査を命じられて「赤土国」に出張を命じられた常駿の報告では、港で盛大な歓迎を受けた後に、上陸してから「王城」にたどり着くまで30日間を要したというから、赤土国の「王城」はケダにあったということも考えられる。実際、ケダ地方はタナメラよ呼ばれていた形跡もある(後述)。
すなわち、第2ルート(ケダからパタニ、ケランタンまで)が赤土国だった可能性もある。 もともと、マレー半島横断ルートを使う「東西貿易」は半島の両岸の港と横断ルートとしての道路や河川を支配していないと成り立たない話しである。
隋書によれば「常駿」の行程は大業3年(607年)10月に広東を出発してから、「安南の沖を通過し、西に狼牙須国の山を望み、南下し、雞籠島島に達し、赤土之界にいたった」と記している。
桑田博士は「赤土国」の四周が室利仏逝と一致する と主張されるのである。赤土の西は婆羅娑国、義浄のいう婆魯師国、その先が末羅遊ということになっている。
ところがこの婆羅娑国というのがどこかは判然としないがニコバル諸島を示すものと考えられる。室利仏逝の西は「郎婆露斯」と『新唐書』にあり、赤土の西も「婆羅娑」で同じ場所を指していると考えられる。ニコバル諸島の「東」は言うまでもなくマレー半島である。スマトラ西岸の樟脳の積出港として有名であったバルス(Barus)港ではないかという説がある。しかし、これはセイロン・南インド方面からの航路上にあり、スマトラ北部のニコバル諸島のあたりを指すことは明白である。イブン・クルーダドベの著書にもそのように書いてある。
狼牙須というのは「ランカスカ」と読み、その場所はパタニであるというのが「通説」である。その根拠は必ずしもはっきりしていない。多くの漢籍に記載されているので中国から西に向かう場合のもっとも便利な寄港地のひとつであったことは間違いない。
ここで私がおかしいと思うのは狼牙須をパタニと狭く限定すればパタニ周辺には常駿がいうような、海上から目印になるような目立つ山がないことである。
山ならむしろもっと北方のナコン・シ・タマラートの背後にあるカオ・ルアン山(1855m)のほうが海から見た場合はよっぽど目立つはずである。さらにいうならばナコン・シ。タマラートのやや西方にラン・サカ「Lan Saka」という地名の町がある。ランカスカという音(オン)に極めて近い点が気になる。隋の使節の狼牙須国の山のくだりを考え合わせると興味深い。
隋時代の地理学では狼牙須はナコン・シ・タマラートあたりからソンクラ、さらにパタニあたりまでが含まれていた(広域の)可能性もある。そうとでも解釈しないとパタニをランカスカと関連付けることはできない。『諸蕃志』にもランカスカがパタニであるとは明示していないのである。
また、マレー半島西海岸のトラン(Trang)という港町からパッタルン(Phattalung)までほぼ真東にぬけて、そこから北上するとナコン・シ・タマラートに到着する横断道路が古代から存在した。三仏斉の時代にはケダ⇒ハジャイ⇒ナコン・シ・タマラートというルートがかなり用いられた。
ナコン・シ・タマラート周辺の豊な田園地帯の存在を考え合わせると、貿易ルートが古代から存在したとすれば中国への朝貢もおこなっていた可能性否定できない。
一方、狼牙須の本命(?)と考えられてきたパタニは西海岸のケダからの道が通じている。しかし、ケダ(ブジャン渓谷)からはソンクラにも出られるし、南の「タナ・メラ=コタ・バル」へのルートもある。パタニとコタバルは現在はタイ領とマレーシア領にわかれているが距離的には近い。
ケダ州のスンゲイ・ペタニ(ブジャン渓谷の近くの町)からアロール・スターを経て、タイの国境を越え、さらにハジャイを経てソンクラに行くルートは現在は高速道路でつながっている。途中は低い山(というより丘)が連なっているが、このルートは古代からの通商ルートであったことは間違いない。
ソンクラの博物館に行ってみれば一目瞭然であるが、仏教やヒンドゥー教関係の豊富な遺品が陳列されている。陶磁器も同じである。狼牙須というとパタニに限定して、現在は見られているが、実際はソンクラも包摂されていた可能性は高いと考えられる。いな、さらに北のナコン・シ・タマラートも視野にいれて考え直す必要がありそうだ。
ソンクラはまた、内陸の巨大湖(ソンクラ付近で海につながっている)のタレ・ルアン(ソンクラ湖ともいう)を通じて、パッタルンにつながっている。室利仏逝時代においてはかなり重要な港湾都市であったことは間違いない。
隋書では赤土国の王の居城は「僧祇城」となっているが、これはどう考えてもソンクラをさすものであろう。これは対外的(対中国)な窓口の王城であり、マレー半島の東海岸にあったと考えてよいであろう。シンガポールだという学者もいるが、後背地が無いに等しいシンガポールに「本拠地」を置くとは思えない。シンガポールには水はともかく水田はなく、多くの人口が存在していたとは考えられない。
しかし、隋書の後段で常駿一行は赤土の港に上陸後1ヶ月以上かけて「其の都」にたどり着いたことが記録されている。これはマレー半島を横断して「赤土国」のマラッカ海峡側の本拠地(対インド向きでケダにあったと考えられる)とみてよい。
上の写真はブジャン・バレーの博物館の陳列品を撮影したものである。ブッダグプタ(Buddhagupta)という船長が安全祈願のために奉納したものと推測されている。おそらく5世紀ごろ作られたものであろうとされている。問題はそこに地名が記されているのである。その地名とはサンスクリット語でRaktamrttikaすなわち「赤土国」なのである。
ということはケダーのブジャン渓谷あたりはかって「赤土国」といわれていた可能性がある。ここに赤土国の「本拠」があったとすれば「常駿」一行が上陸してから30日も旅をして連れてこられたのがこの場所だったという推定も成り立ちうる。もしそうだとすると常駿の一行はソンクラに上陸し、ここまでやってきたのである。
ちなみに、赤土国はいつできていつ消滅したのであろうか。7世紀の初めに3回隋王朝に朝貢して」、それで終わりである。私はこの赤土国の前身は「干陀利」だと考える。干陀利が狼牙修国を併合して隋王朝には「赤土国」として登録しなおして朝貢に赴いたに相違ない。
2-2. 室利仏逝の登場
唐時代に入り、義浄はインドにいって仏典を収集すべく671年に広東を出発して20日ほどの航海で一挙に室利仏逝に到着した。しかし、そこがパレンバンであったということにはいくつかの解きがたい疑問が残る。
義浄は『大唐西域求法高僧伝』の中で、インドに向かう行程を「広府⇒室利仏逝⇒末羅瑜⇒羯茶⇒裸人国⇒耽摩立底(Tamuluk)」と記している。広府とは広州である。
この場合現在はっきりと特定できる地名は羯茶⇒裸人国⇒耽摩立底の部分である。羯茶は現在のマレーシアのケダであることは間違いない。しかも、そこはジェライ山のふもとのブジャン渓谷の近くの港(現在のスンゲイ・ペタニ市近くのメルグイ河河口)であったと考えたい。もちろん、そこから北上してアロール・スター市の近くの港湾も利用されていたであろうし、現在タイ領になっているサトン(Satun)もケダの支配下にあったとみてよい。
ケダの港は南インド、セイロン方面あるいはベンガル地方から南下してくる商船のターミナル港であり、食料(米)と飲料水の補給が容易にできた。その上、マレー半島を横断して東海岸のソンクラやパタニやコタ・バルの港に通じる道の出発点でもあった。ベンガル湾横断航路が開発された4世紀以降は東西貿易の代表的な中継点だった。 また後背地には豊な水田地帯が当時から存在した。411年にセイロンを出発した法顕がたどり着いた「耶馬提」はこの辺りであったと考えて良い。
特に南インド方面から夏季の偏西風にのってベンガル湾を横断してスマトラ島の北端のアチェ(当時はラムリという地名)のあたりを通過してやってきたインド商人やアラブやペルシャの商人たちがここに集まったのである。
インド商人はタミール系(南インド)の人たちが多かったといわれる。彼らは商人ギルド(同業者組合)を作って、組織的に通商を行っていたものと推定される。そのためにも1ヵ所に多くの船や商人が集まれる場所が、商品交換の市場として、また情報交換の場所として必要であった。
また、裸人国というのはスマトラ島の先にあるニコバル諸島の島のひとつであったであろう。耽摩立底(Tamuluk)はベンガル地方のインドの玄関口のひとつであった。
ところが末羅瑜(ムラユ)の場所がハッキリしないが、が現在のジャンビ(内陸)とジャンビ川の流域あたりであろうというのが大方の説であるが、リアウ諸島と見るほうが理にかなっている。義浄はインドからの帰路に末羅瑜に立ち寄り、ここが室利仏逝に併合されたことに驚いている。ジャンビが末羅瑜と同一地域ではなく、別の王国であった可能性が高い。三仏斉時代になるとジャンビはシュリヴィジャヤ・グループの中心的な位置をしめ、末羅瑜も傘下に収めていたことは明らかである。ジャンビ川下流域のムアロ・ジャンビからは最近かなりの仏教遺跡(時代は11世紀以降のものが多いといわれるが)発見されている。末羅瑜がジャンビであるとすると、セデスの言うように室利仏逝をパレンバンだと考えると、両者の位置は余りも接近しすぎている。
「室利仏逝はパレンバンだ」という説にこだわるがために、その後の東南アジア史の研究はほぼ1世紀に亘りとんでもなくゆがんだものになってしまうのである。 なにしろ、それが世界的な「通説」なのだから逆らえないなどという発想はそれ以外のあらゆる合理的な問題点の検討を排除してしまう。
まことにもって学問の世界というより、中世の暗黒世界を思わせる。桑田先生も、さんざ苦心の末、晩年にはパレンバン説に落ち着いてしまわれた。そうなると赤土国もパレンバンになってしまうのであろうか?
デデスの「通説」はよくよく考えると変な点がいくつもある。
義浄がペルシャ船に乗って広州(香港か)を出発したのは室利仏逝が入貢した670年の翌年の671年のことであった。(室利仏逝の朝貢は741年まで記録されている。)
疑問その①-当時たった20日間でパレンバンまで到着できたか?
義浄は20日間の船旅の末に最初の寄港地である室利仏逝に到着したと『大唐西域求法高僧伝』以下、「高僧伝」と略す)にある。そこはパレンバンであるというのが「通説」になっている。
しかし、パレンバンという、ムシ川を100Kmもさかのぼる港が当時、大乗仏教文化が咲き誇り、1000人もの仏僧が居住し、大寺院がそこかしこにあった「シュリヴィジャヤの首都」であったなどというのはどうも腑に落ちない。100Kmの川を帆船でさかのぼるだけでも最低4~5日はかかっていたであろう。
7世紀ごろの帆船はインドシナ半島の沿岸部をさほど離れないで湾曲しながら航行していったとすれば20日間でパレンバンまで行き着くのはいかに風の具合がよくても無理ではないかと思われる。
疑問その②-パレンバンに1,000人もの仏僧が存在したか?
義浄によれば室利仏逝には1,000人もの仏僧がいて、そこで十分な仏典の翻訳(漢訳)ができるだけの施設が整っていたという。インドの仏教の総本山とも言うべきナーランダに匹敵する規模であったという。
そうなると、パレンバンにはそれほどの規模の大きい仏教寺院の遺跡らしきものは無い。むしろケダのブジャン遺跡のほうが仏教やヒンズー寺院の遺跡は豊富である。
ただし、義浄によればケダ(羯茶)は室利仏逝の一部ではあっても室利仏逝そのもの(中心地もしくは首都)ではない。あくまでインド行きの船のターミナルか中継地という位置づけである。とすると室利仏逝はブジャン渓谷の寺院群よりもさらに大規模な寺院群を有していたことになる。
そうなると、それは到底7世紀のパレンバンではありえないということになろう。
クオリッチ・ウェールズ(Quaritch Wales)博士は1930年代のはじめころ、ブジャン渓谷を始め、各地のヒンドゥー、仏教遺跡を発掘調査して歩き、マレー半島のバンドン湾に面したチャイヤーこそが義浄が最初に寄港した「室利仏逝」であるという結論に達した。
ウエールズ理論の特徴は西岸のタクアパと東岸のチャイヤーとを同一の通商路と考えている点にある。両者は貿易港として表裏一体なのである。これはきわめて当然な考え方ではあるが、パレンバン説にはこういう発想はそもそも存在し得ない。
チャイヤーは現在は寂れた田舎町であるが、歴史の古さは肌に感じさせる不思議な霊気に似た雰囲気を漂わせている町である。
現在は近くのスラタニ市のほうが大都会であるが、そこから60kmほど北に行ったところにひっそりとたたずむチャイヤーはヒンドゥー遺跡、大乗仏教遺跡の宝庫なのである。
そこから出た見事な仏像などはバンコクの国立博物館に数多く収蔵・展示されている。 門外漢の私には理由はよくわからないが、わが国では、残念ながらウェールズ博士の業績はあまり評価されていないようである。
誰か偉い先生が「ウェールズ取るに足りず」というようなきめ付けを行ったせいであろう。他にも多くの学者が立派な研究業績をのこしているが、ウェールズ博士の研究は 現地での発掘調査も数多く手がけており一段と内容が濃いように思われる。
「アンコールへの道=Towards Angkor」などは読み物としてもなかなか面白い本であるが、彼の数多くの論文は殆ど引用もされていないし、残念ながら邦訳された文献はない。
インドの学者マジュムダール(Majumdar)博士の系列として、「誤謬にみちた理論」としてあっさり「問題外」とされてしまっているようだ。しかし、東南アジアの歴史をインド側からみる視点はきわめて重要である。
遺憾なのは文献資料がほとんどインド側になく、現地の呪文交じりの碑文や中国の歴史書などに頼らざるを得ない。こういう制約が東南アジアの10世紀までの歴史研究を困難にしている。そういう状況では特定の権威者の理論や仮説が、かえって強固な「定説」にもなりやすい。
このチャイヤーこそは中国の正史にしばしば登場する「盤盤国」であった。この盤盤は424年~53年の南朝・宋(劉氏)の文帝の時代から朝貢を始め、その後しきりに中国に朝貢し、中国ではおなじみの国であるが唐時代の永微年間(650~655年)を最後に朝貢の記録は絶えてしまった。盤盤の朝貢は扶南の商人がなければありえなかったはずである。狼牙須国などは400年の歴史があるなどという割には朝貢国として記録されるのは梁時代の515年に案ってである。逆に言えばこのころから扶南の威光に陰りが出たとみてよい。
なお、盤盤について『通典(唐時代の)』には「又其国多有婆羅門、自天竺来、就王乞財物。王甚重之。」とあり、さらに「有僧尼寺十所、僧尼読佛経、皆肉食而不飲酒。亦有道士寺一所、道士不飲食酒肉、讀阿修羅王経、其国不甚重之。」とあり、すでに10箇所もの僧院が存在したとされている。さらにワン・ランク上の道士の寺が一箇所あり、道士はさすがに酒を飲んだり、肉食はせずに、阿修羅王経を読んだりしている。しかし国はこれを大変尊重してはいない。ということで、「道士専用のハイレベルの寺院もあった」ということである。とにあれ、盤盤はバラモンの往来も多く、数多くの仏僧が存在する宗教のメッカでもあったのである。
この周辺(スマトラ島を含め)このような大規模な仏教寺院が存在したという記述は盤盤以外には見当たらない。
次に、盤盤国の後継国はどこかということになる。実は 盤盤こそが室利仏逝の前身ではないかと思われるのである。室利仏逝は咸亭年間(670~73年)から朝貢を開始しているのである。
疑問その③-シュリヴィジャヤ王がパレンバンを占領したのはいつか?
最近出版された『東南アジア史』(岩波講座)のシリーズで深見純生氏は(第1巻、9マラッカ海峡交易世界の変遷、271頁)でパレンバンで発見された石碑の一つである「クドゥカンブキト石碑」について言及され、それには682年 (義浄の行った後)に、シュリヴィジャヤ王が遠征してそこ(パレンバン)に町を作ったと書いてあるとのことである。
この石碑の解読はかのセデスがおこない「シュリヴィジャヤ」という文字を発見したことで有名になったものである。
この石碑の文面が正確なものであったとすると、義浄はシュリヴィジャヤがパレンバン征服(682年)する以前(671年)その地を「室利仏逝」であると認識し、戦争の前後に1,000人もの仏僧がパレンバンでお経をあげていたという、全く説明がつかない話になってしまう。
さらに、深見氏は「シュリヴィジャヤ王は扶南の故地からパレンバンに至り、マラユ国を征服して、ここを自らの首都としたのである。」とされている。 ここでは当時商業的にきわめて重要であったマレー半島はスッポリと抜け落ちている。カンボジアからマレー半島を飛び越えていきなりスマトラのパレンバンまで行ってしまうというのはどうも腑に落ちない。
パレンバンを首都とする必要性は何であろうか?深見氏は「マレー半島横断ルート」がすでにこのころ廃れ、マラッカ海峡を航行してマレー半島の先端(シンガポールの沖)を通って中国に向かうルートが確立したと考えておられるようである。それは全くの事実誤認である。
ところが実際は南インド方面から夏季のモンスーンに乗ってやってきた船は、そのままパレンバンには直行できず、まずマレー半島の西側のどこかの港(例えばケダ)に立ち寄ったはずである。そこから、マラッカ海峡を南下してパレンバンあたりまで行こうとすると季節風の影響で逆風になってしまう。そこでは5か月~半年の風待ち期間が必要となる。法顕は「耶馬提」に5か月間とどまったと記録している。
マレー半島横断ルートが主要な交易ルートであればパレンバンは場所違いである。この点が重要な議論の分かれ道となる。
深見氏の説によるとカンボジアを真臘に乗っ取られたシャイレンドラ王家(シュリヴィジャヤの支配者)がいきなりパレンバンに行ったというセデス説に近いお考えであるが、私にはどうもその理由、必然性が納得できない。
私は、シャイレンドラ王家は真臘に圧迫されて扶南の地を追われて、主要港であったオケオなどが使えなくなると、まず最寄の盤盤(チャイヤー)に本拠を移したと考える。扶南は東西貿易の必要上以前からマレー半島の東西の主要港を支配するか、そこの支配者とは 古くから友好(もしくは支配-従属)関係にあったと考えられる。(セデスもそう考えておられたらしい)
そこで、扶南の直接の「貿易窓口」であった長年の属領、盤盤に本拠を移したのではないかと考えられる。
深見説の次の問題点は、当時既にマラッカ海峡直通ルートが主流になっており、マレー半島横断ルートは衰退していたのではないかという点である。 そうなると、確かにマレー半島の諸都市は視野から外れてしまうであろう。
私はマラッカ海峡直通ルートが主流になるのはもっと後で、11世紀以降のことではないかと考える。それは2つの理由からである。
その1は偏西風に乗ってインド方面からきた船はマラッカ海峡を南下するときに、いわば南西の斜め「逆風」を受けることになり航海日程を大幅にロスするからである。これは帆船の宿命である。 インド商人はこのロスを避ける工夫をさまざまめぐらしたに相違ない。
その結果「マレー半島横断ルート」が 開発されたことは間違いない。
その2は当時(唐以前)の貿易商品はさほど「重量物=陶磁器」はなく、中国に運ぶ商品も香料、宝石、象牙、犀角、綿製品などであった。陸送で西岸と東岸を結んだほうが早くて安全(マラッカ海峡の海賊を避けられる)であったことは容易に想像がつく。
晩唐時代から中国の陶磁器の生産は活発化し、貿易品目にもあがってきているが、本格化するのは次の宋時代以降である。
実際のところ、マレー半島横断ルートはかなり後の世まで盛んに使われていた形跡がある。というのは扶南、室利仏逝は言うまでもなく、13世紀末のスコタイ王朝やその後のアユタヤ王朝もマレー半島の「両岸支配」に大変注力しているのである。
インド方面から来た多くの商船は食料 と飲料水が豊富なケダ(水田稲作が主流であった)の港に入り、そこが東西貿易の一大ターミナルであったことは疑いない。義浄の乗ったインド行きの船も羯茶(ケダ=たぶんブジャン渓谷近く)をターミナル港としていた。
ブジャン渓谷遺跡をみれば、そこには4世紀ごろから15世紀ころまでの豊富なヒンドゥー・仏教遺跡が存在する。ケダはインド人のコロニー (植民地)があったことも推測される。
もちろん原住民たるマレー人やモン人との通婚が行われたが、文化的および軍事的に優位に立つインド人が支配者になったであろうことは想像に難くない。
一方、スマトラ島南部に位置するパレンバンはさほど豊かな稲作地帯であったとも思われない。当時、何の経済的メリットがこの都市にあったのかということがそもそもよくわからない。マラッカ海峡から100Kmのどムシ川を遡上したところに位置し、海賊対策上は地理的に有利であったこと だけは確かであろう。
また、中国から冬季の北東風に乗ってくると確かに直接パレンバンにはいけた。北東風に逆らってマラッカ海峡を北上する必要はまったく無い「直線ルート」である。しかし、それが7世紀の唐の時代に本当に20日間でいけたかどうかは上に述べたように大いに疑問である。
たしかにパレンバンはジャンビ同様に「中国からの直行ルート」のターミナルではありうる。
しかし、繰り返しになるが、それがフルに活用されるのは11世紀以降、宋で陶磁器の大量生産体制が確立されて、重量貨物が貿易品の主流になってからのことであろう。
たとえば「南方白磁」とよばれるものは中国本土ではほとんど発見されていない(破片は広東省から見つかっている)がジャワなど東南アジアでは数多く発見されている。これは広東省潮州で大量に「輸出用」に焼かれたものであると考えられている。
陶磁器は破損防止のために藁などに厳重に包み、それをさらに場合によっては木枠に入れたりして輸送しなければならず、陸送 (マレー半島横断)も行われたが、大量輸送には明らかに困難を伴う。(しかし、チャイヤーのレン・ポー海岸からはその破片が大量に発見されている)
また、宋時代には民間の中国が許可さえ取れば自由に貿易船を仕立てて商品を輸出できるような体制が出来上がった(市舶司制度=この研究においても藤田豊八博士は先駆的研究をおこなった)。
パレンバンやジャンビが黄金時代を迎えるのは11世紀になってからのことであり、それ以降、マラッカ海峡が同時に通商のメイン・ルートになっていったと考えるほうが自然であろう。
もちろん7世紀には大食国(アラビア方面)や波斯から中国に朝貢(貿易)に渡航してきており、それらの船舶は時間をかけてマラッカ海峡をくだり、中国(当時は主に広州)に赴いたことは間違いない。
しかし、天竺(インド)からやってくるインド商人の船はマレー半島西岸のタクアパまたはケダ(羯茶)にやってきて、そこで荷卸して陸送してシャム湾側の港( チャイヤーやパタニ、コタ・バルなど)に積荷を運びそこから再度別の船で中国方面に輸送したに相違ない。それが時間的に最も効率が良かったからである。
ところで義浄が旅に出た671年当時はインドシナ半島のカンボジアのほうは「扶南」から「真臘」に政権が交代してから1世紀以上もたっている。
扶南の 単独の朝貢は588年が最後であり、代わって真臘が616年から朝貢を始めている。扶南の王族はカンボジアから追われて盤盤(チャイヤー)に逃げ込んだ可能性がある。この亡命した王家はシャイレンドラ王家であったという説はありうる話である。しかし、シュリヴィジャヤ王国の総本家がシャイレンドラ家であったとは断定できない。(扶南は唐時代にも2度朝貢を行ったという記録がある。しかし、それはチャイヤーから朝貢船を出したものであろう)。
シャイレンドラとは「山の王」という意味で、ヒマラヤ山脈を指す。ガンジス川はシャイレンドラの娘であるといわれている。扶南は「プノン=山の王」という意味だといわれている。そこにはヒンズー世界の権威者としての連続性が見て取れる。扶南の王族、カウンディニヤはガンジス流域のブラーマンの出身であったと想像することも可能である。彼らが精神的に頼りにしていたのはガンジスの故地であった。
扶南は貿易立国である。6世紀の後半において扶南が自からマレー半島の直轄地に根拠地を移し変えたことは容易に想像がつく。真臘もマレー半島の港湾を支配すべく、旧「扶南」勢力を追いかけて、チャイヤーの占領を企てたことはいうまでもない。しかし、内陸国家であった真臘には海軍力がなく当面どうにもならなかった。
真臘はシム・レアップ(トンレサップ湖の北側)からきた国名ではないかというのは藤田豊八博士の説である。もともと内陸型国家であり、当初は海軍力がさほど強くなかった真臘にとっては港湾都市国家チャイヤーへの攻撃は海上からは困難であった。
そこで真臘は陸路の活用を考え、現在のタイ領を横断して、ビルマのマルタバン港などを使うルートを整備した可能性がある。タイ領を北上して雲南方面に通じる通商路は古代から存在し、そのルートも活用されたに相違ない。中国側からは「陸真臘」または「文単」として記録されている。「文単」はヴィエンチャンかもしれない。813年には「水真臘」という別の国が朝貢する。その素性は不明である。真臘から分裂したものであろうが、独立性を維持していたかどうかも定かではない。
とにあれ真臘のクメール文化はかなり現在のタイ領に拡大されているのである(ピーマイのクメール寺院遺跡など)。
その後、742年以降一時的に真臘はチャイヤーやその南のナコン・シ・タマラートを武力で占拠した可能性が大である。そのため真臘 の圧力に押されてシャイレンドラ王家(あるいはシュリヴィジャヤの王族)はすでに勢力を伸ばしていたジャワ島に逃げ込んだかもしれない。(確証はない
その場合も、ケダ⇒ソンクラ、パタニ、ケランタンのルート(第2ルート)まで真臘が支配できなかった模様である。真臘の南下はナコン・シ・タマラート(リゴール)でとまったと考えられる。
それは、真臘の実力では、それ以上支配権を拡大することは兵力の面から言っても無理であったろうし、そもそもタクアパ⇒チャイヤーのルート(第1ルート)を確保できれば、それ以外のルートを押さえても経済的なメリットがさほどなかったと考えられる。
盤盤を中心に勢力を固めた扶南政権は7世紀中ごろにはマレー半島の諸国家を統一し、新たに室利仏逝を建国したものとみられる。さらにマラッカ海峡にも触手を伸ばしていった。末羅瑜のような従来の友好国も傘下に収めてしまったことは義浄も驚きをもって記録している。それは何のためかといえば、この周辺国家(港湾都市)の中国貿易(朝貢)の「独占」を狙ったと考えられる。
義浄によれば、彼がインドから帰国途中に立ち寄った羯茶(ケダは室利仏逝の領土となっていたと記している。またスマトラのパレンバンにシュリヴィジャヤの勢力が及んだことを示す石碑が存在することは上に見たとおりである(クドゥカンブキト石碑、683年)。
その室利仏逝はさらに当時訶陵といわれていたジャワに勢力を伸ばし(686年のバンカ島のコタ・カプール碑文)、やがてそこでシャイレンドラ王国が成立する。その王国はシュリヴィジャヤ・グループの最新の属領であった。
ジャワ島のシャイレンドラ王国はチャイヤー地区を占領した真臘を760年前後には追い出し、いわばシュリヴィジャヤの故地を回復する。其の功によりシャイレンドラ王はシュリヴィジャヤ帝国のマハラジャ(大王)の地位を授けられる。(リゴール碑文、775年)
その後シャイレンドラ王朝はジャワ島でも主権者となるが、830年ごろには訶陵時代のサンジャヤ王家との主導権争いに敗れ、バラプトラ王子はジャワ島を追放され、かつてのシュリヴィジャヤの領地(スマトラ島とマレー半島)に逃れる。シャイレンドラ家はジャンビなどと図って、そこで改めて「三仏斉国」をつくり、中国貿易(朝貢)の独占を目指した。
7世紀の段階ではスマトラ島のパレンバンも有力な貿易港の一つではあったかもしれないが、東西貿易という意味合いからは7世紀当時はまだ2次的な役割を果たしていたに過ぎないものであったと考えたい。インドから直接やってくるには不便でもあり、方向違いである。
ただし、パレンバンは冬季に中国から船で西に向かうのには便利な港であったことは確かである。しかし、マラッカ海峡に近いジャンビには太刀打ちできなかった。
ところが、パレンバンが7世紀に室利仏逝であったという「決定的な証拠」がパレンバンから「シュリヴィジャヤ」という単語が書かれた石碑が2個発見されたからだというのである(クドゥカンブキト碑文682年ほか)。
しかし、その碑文を子細に検討してみるとクドゥカンブキト碑文は単なる戦勝記念碑であり、そこがシュリヴィジャヤの本拠であったなどとは到底読み取れない。後リゴール(ナコン・シ・タマラート)でもバンカ島(Kota Kapur,686年)からもシュリヴィジャヤ関係の石碑が発見されており、それらを総合的にみるとパレンバン石碑のみが特に重要なものとは考えられない。
特に、バンカ島の石碑にはジャワを攻略しようとし海軍を派遣するに当たり、地元住民いシュリヴィジャヤに反逆すると天罰が下るというようなことが書いてある。同時にこれは室利仏逝がちゅぶジャワ(訶陵国)に版図を広げたようとした様子を物語っているともいえる。
また、パレンバンも碑文もさることながら、マレー半島東側(シャム湾側)のリゴールで発見された石碑(775年の年号)の意義(後述)も大きいように思われる。というのはリゴールやその北方のチャイヤーにはかなり大規模な仏教遺跡が実在し、古くからの大きな政治勢力の存在を物語っているからである。
義浄が広州から航海してきて、たぶん最初に上陸したのはチャイヤーであろう。ナコン・シ・タマラート(リゴール)の可能性も否定できないが、遺跡という面からはチャイヤーの可能性が高い。ウエールズ博士はチャイヤーに比べリゴールの歴史はさほど古くないといわれている。
ところが、このリゴール石碑はもともとチャイヤーにあったものをリゴール王が強引に自国に持っていったものだといわれている。ウェールズ博士によればリゴールが勢力を持つのはチャイヤーよりも後の時代になってからだという。彼は室利仏逝はリゴールではなくチャイヤー説である。
義浄は室利仏逝の次に末羅瑜(ムラユ)に入っている。そこがどこかもまた問題である。深見純生氏は末羅瑜はパレンバンでなければならないとされている。(上掲書「マラッカ海峡世界の形成」、270頁)
また、桑田博士は室利仏逝がパレンバンで末羅瑜とはジャンビであったと書かれている。ちなみに、末羅瑜に相当すると思われる「摩羅遊」は644年に朝貢している。末羅瑜の方が室利仏逝よりも古くから中国には認識されている。
義浄は室利仏逝でいったん下船しそこで6ヶ月間サンスクリット語の音韻学を学んでから末羅瑜(ムラユ)に行き、そこで2ヶ月滞在してから羯茶(ケダ)にいき、そこからインドへと旅立っていったのである。
末羅瑜(ムラユ)の場所は特定しにくいが、上に述べたように、スマトラ 島東南部(ジャンビ周辺)かリアウ諸島のどこかの港であったことは間違いない。
義浄は広州からペルシャ船に乗ったという。当時中国に船で乗りつけたのはペルシャ(イラン)の船は波斯船、アラブの船は大食船、インドの船は天竺船と呼ばれていた。波斯船にもインド商人やアラブ商人が乗っていたことであろうし、インドにも寄港していたであろう。
しかし、それらの船の多くは中国への」往路にはケダのブジャン渓谷のあたりに寄港し、そこで食料と飲料水の補給をし、商品を交換したり、場合によってはマレー半島の先端を回って、広州まで行く貿易船であった。また、マレー半島東海岸に常駐して中国と往復する船もあったであろう。
当時は中国船もアラビア半島まで直接出かけて行った船は皆無に近かったものと思われる。というのは10世紀の宋時代まで中国人が海外に出かけることはほとんど禁止されていたからである。したがって、貿易活動で中国に貨物を運ぶのはインド商人が圧倒的に多く、ついでアラブ人やペルシャ人であった。
通商といっても「朝貢」として中国の朝廷に「貢物」を持ってご挨拶に伺い、そのお返しに朝廷側からたくさんのご褒美がいただけるという仕組みになっていた。
先に述べた義浄の「高僧伝」によれば無行禅師の行程は室利仏逝まで1ヶ月、末羅瑜まで15日、羯茶まで15日ということになる。帰りの旅程でみると末羅瑜はスマトラ南東部(パレンバンかジャンビ)であったろう。上に述べたように室利仏逝をパレンバンだとすると末羅瑜まで15日間もかかるはずがない。もしそうだとすると末羅瑜から広州まで5日間で行けたということになってしまう
義浄は室利仏逝の王様に気に入られて、往きには室利仏逝から末羅瑜まで船で送ってもらった。 ということは室利仏逝にとっては当時、末羅瑜は自分達にとって、安心していける友好地域(普通の貿易中継点)だったに相違ない。
義浄はインドから中国への帰路、耽摩立底(Tamuluk)を発ってから2ヶ月の船旅の後にケダ(羯茶)に到着する。「此属仏逝」と義浄は書いている。羯茶は室利仏逝の属国という意味である。さらに 、西南に航路を取れば700の駅(宿場という意味だがこの場合は距離を表す単位である)を経て「獅子州」に 行けるといっている。
獅子州とはスリ・ランカのことである。羯茶から1ヶ月南下して末羅瑜についた。そこで義浄は「今為仏逝多国矣」と書いているから、室利仏逝はかなり 勢力範囲が拡大していたことがわかる。それもマレー半島を南下しつつスマトラ側にも勢力を伸ばし、ついには貿易のライバルともいうべきジャワの訶陵をも支配下に置いたと考えられる。
いわば貿易帝国として版図を広げたのである。新唐書によれば、室利仏逝は2カ国に分かれて統治されていたと書かれている (「以二国分總」)。また、領土内には14の城市があったという (「有城十四」)。この場合第1の国の首都はチャイヤーで第2の国(南)の首都はおそらくケダであったと考えられる。ケダからマラッカ海峡を監視していたものと思われる。
パレンバンやケダ(ブジャン渓谷)は14の城市の1つであったことは確かであろう。だからといって室利仏逝がパレンバンであったという話には 到底結びつかない。
(訶陵について)
義浄によれば訶陵とあい並ぶ南海の大国が室利仏逝である。末羅遊は大乗仏教が普及していたとされる国であった。。訶陵はどこかといえば、現在は中部ジャワ島のペカロンガンあたりに本拠があった。後にシャイレンドラに占領されると首都はジョクジャカルタ付近にうつっか可能性がある。ボブドゥールやプランバナンがその近くに建設された。
訶陵は中国読みでは「kaling=カリン」であり、インドのカリンガ(東海岸にあった王国で外国との貿易もさかんであった)から出た言葉で あろう。カリンガ王国出身のインド人グループが当時支配していた地域 の1つがはジャワ島であるということであろう。この訶陵も後に見るごとく前期と後期とに分けてみルべきである。
すなわち「前期の訶陵」とはおそらくサンジャヤ王朝が支配する地域で、義浄が述べる室利仏逝との対抗勢力であった貿易大国である。そこを支配下に治めようとして室利仏逝は海軍を率いてバンカ島に結集しバンカ島のKota Kapur碑文(686年)を残したと考えられる。
室利仏逝は結局、訶陵の征服に成功し、シュリヴィジャヤの王族がシャイレンドラ王家と称しジャワの支配者として君臨する。シャイレンドラとは訶陵攻略軍の総司令官の名前であった。
「後期の訶陵」すなわちシャイレンドラ王家が768年以降シュリヴィジャヤの「朝貢権」を一手に収め唐王朝への朝貢をおこなうようになった。この場合マレー半島の東岸の港(おそらくサティン・プラかソンクラ)から「朝貢」船は出帆していたものと考えられる。わざわざ南インド方面からの貨物をジャワまで運んでそこから船出したとは考えにくい。
本家筋に当たる室利仏逝は742年を最後に朝貢を止めてしまう。その理由は謎である(誰も解明した歴史家はいない)。
考えられる理由はそれは真臘の地方の1王国(あるいは水真臘)によって盤盤やリゴール(ナコン・シ・タマラート)が占領され、第1ルートが奪われてしまったからである。それによって本家筋の室利仏逝は没落の危機に瀕し、唐王朝への入貢も742年を最後に終わってしまう。ただし、真臘が第2ルート(ケダを起点とする)まで手を伸ばさなかったのでケダを起点とするマレー半島横断ルートは健在であった(第2ルート)。
しかし、シュリヴィジャヤ・グループは反撃に出て故地奪還を試みた。その中心はジャワ島のシャイレンドラ王国であった。大軍を率いて北上し、再度リゴール、チヤイヤ(盤盤)を奪還し、775年にかの有名なリゴール碑文を立てる。そのさい、真臘の王族も捕虜になりジャワに連れてこられる。その一人が後のジャヤヴァルマン2世であると言う説がある。しかし、実際はジャヤヴァルマン2世は旧扶南の王族の一員であったと考えるほうが筋が通る。
訶陵はチャンパにも兵を進め、結局、マレー半島からインドシナ半島のチャンパにいたる全ての主要港(国)をその支配下におき、朝貢貿易の独占を果たす。
その繁栄の最盛期に建設されたのが中部ジャワのボロブドゥール寺院である。
セデスは8世紀の後半にマレー半島の東岸からチャンパにかけてのジャワの侵略はシュリヴィジャヤの「復讐」だという見方である。セデスの「復讐」説は扶南がジャワ島に6世紀中頃に亡命を余儀なくされたことの復讐を200年後の果たしたというものである。これには到底賛成できない。
742年を最後に室利仏逝の朝貢は記録に残されていない。その後「シュリヴィジャヤ」が朝貢国として中国の文献に現れるのは唐末の904年に「三仏斉」としてである。それ以後、宋時代になると各種の文献に 「三仏斉」は頻繁に出てくるようになる。ただし、中国側は三仏斉と室利仏逝とを関連付けては見ていない。
しかし、唐王朝が三仏斉を「新参者の朝貢国」とは考えていなかった可能性がある。唐王朝に限らず、「朝貢国」というのは形式的には中国の王朝に「服属している国」であり、見ず知らずの国を「朝貢国」として認知したとは考えにくい。三仏斉の場合は、室利仏逝国の国(城市)が3ヵ所(この場合はジャンビ、パレンバン、ケダか?)連合して「三仏斉」として朝貢を願い出た可能性がある。
それにしても742年から904年の間には162年間の断絶がある。 その162年という歳月はシャイレンドラが後期訶陵として「形を変えて連続させていた」というのが私の今回の仮説である。
唐末の黄巣の乱(875~884年)で広州が占領され、広州に駐在していた万余の外国人(アラブ人、ペルシャ人、インド人など)が殺害され、貿易都市としては壊滅状態に陥った。 その間は朝貢どころの話ではなかったかもしれない。しかし、それは唐末の比較的短い期間であって、162年間の中断を説明するには足りない。
北宋は960~1126年、南宋は1127~1279年であるが、この時代に東西貿易の姿が大きく変わった。その1は上に述べたように中国からの輸出品として陶磁器が主役になっていくのである。その2は中国商人が自分で船を仕立てて東南アジアやインド方面に出かけていくようになるのである。
(仏教美術からのアプローチー伊東照司氏の所説)
仏教美術の専門家である伊東照司氏は「唐代の室利仏逝と仏逝」(東南アジア史学会報、No.26、1975年11月)という論文で、仏像の特徴から室利仏逝はチャイヤーではないかと論じておられる。
その論旨はパレンバンからわずかに出土している仏像は南インド系(パッバラ朝、チャルキヤ朝)のものでチャイヤー出のものは中インド系(パーラ朝)の様式的な流を汲んでいるというものである。確かにWat Wiangで見つかった青銅の菩薩像はインドからの輸入品かもしれない。
義浄はベンガルの耽摩立底(Tamuluk)に上陸し、その後仏教の聖地ナーランダに向かいそこをベースに学ぶが、その後仏典を収集するために各地を巡る。義浄の足跡を正確にたどることは出来ないが、大乗仏教の盛んであった地域であり、後にパーラ朝の勢力範囲となり、パーラ様式の仏像として後世に名前の残る。
パーラ朝はチャイヤーとの関係が深く、伊東氏は仏像に関して次のように述べておられる。
「私(伊東)は左肩からかけた羊皮衣装のUPATIVAをつけた仏像が、何と東南アジアのチャイヤーのみにしか出土していない事実をつかまえた。そこでその特殊な図像を有した同種の遺例をインドに求めるに、主にインドのパーラ王朝の版図内で造られた観音像に見出すことができた。このことは中インド(ガンジス川流域)とチャイヤーとの文化的な密接な交渉関係を示唆するものである。
同様に義浄をはじめとする中国僧はこの(室利)仏逝国と中インドをタームラリプティーTAMRALIPTI港(耽摩立底=Tamuluk)を通じて往来していたのであるから、チャイヤーには中インドの特にパーラ朝美術が、東南アジアのどの地域よりもまず先に、直接かつ濃厚に導入していたことが察せられる。」
要するにナーランダ寺院を中心とするの仏教の聖地(後のパーラ王朝の支配地域)と中国はチャイヤー(盤盤)を経由して密接につながっていたと考えられるのである。チャイヤーにはそれだけの仏教的なインフラが整っていたとみるのは極く自然な見方だと思われる。
しかし、チャイヤー博物館所蔵の石仏坐像(6世紀中頃の作)はむしろカンボジアのアンコール・ボレイの石像に似ている。顔もクメール風の微笑をたたえている。
頭髪に髷がないのは珍しくアンコール・ボレイの仏像と似ている。 |
3 中国への朝貢を行った国々の変遷
東南アジアの国々で中国への朝貢を行った国のほとんどは必ずインドからの貿易ルートを持っていたと考えるべきであろう。自国の特産品のみでは中国の王朝も満足しなかったであろう。おそらく、インドからもたらされた商品に自国の特産品を合わせて、中国の時の王朝に献上したものと思われる。
劉氏・宋(南宋とよばれる)から唐王朝までを念のために列記すると次の通りである。
南宋(劉氏);420~479年、南齊;479~502年、梁;502~557年、西梁;555~558年、陳;557~589年、隋;589~618年、唐;618~907年。
次に、東南アジアの中国への海上交易のルートを次のように分類して見た。
(第1ルート)
このルートは西海岸の「タクアパ」付近から東海岸はバンドン湾の「チャイヤー」をつなぐルートである。扶南に向かうインド人はこのルートを多用していたものと思われる。漢書に現れた国名は盤盤のみである。
盤盤は424~453年の元嘉年間(南宋、文帝)のときに朝貢に来たと記録されているが、その後、455、457~464(大明中に一度)、527、529、532、533、534、540、551、571、584、(次の32年間のインターバルの間に赤土、608、609、610が間に入った可能性もある)、616、636、635、648、650~655(永徽中に一度)それ以降盤盤の名前が消える。
それを引き継いだのはおそらく室利仏逝であろう。
室利仏逝;670~673、701、716、722、724、728、741⇒その後は「後期訶陵(第3ルート、シャイレンドラ王朝、中部ジャワ)」が取り仕切ったのかも知れない。
室利仏逝は勢力拡大につれ、第2ルート、第3ルートの代表ともなる。しかし、742年以降はジャワのシャイレンドラ王朝=後期訶陵が全てを取り仕切ったとみるほうが自然であろう。室利仏逝が突如歴史から姿を消したいうことではないと思われる。
(第2ルート)
西海岸のケダを起点とし、東海岸のソンクラ、パタニ、ケランタンを結ぶルートである。
訶羅単もしくは訶羅旦は現在のジャワ島にあったという説が「通説」のごとしである。しかし、5世紀ごろにおいてジャワ島の王国が中国に朝貢のルートを果たして持っていただろうか?私はむしろ訶羅単というのはマレー半島のケランタンにあったという風に素直に考えたい。
ケランタンは東海岸にケダという貿易ターミナルを持っており、そこから中国(当時は劉氏宋)に向かったと考える。闍婆はジャワ島西部であった可能性が高い。当時はこの地域は米作地帯ではなく(西ジャワは地質の関係で米作にはあまり向いていなかった=火山灰が酸性土壌)、人口が少なく、小国だったのではないだろうか?
宋書(劉氏の宋)夷蛮伝には「訶羅単治闍婆州」と書かれている。これを後の世の学者は「闍婆の首都が訶羅単」であったと解釈してしまい、訶羅単は闍婆 の一部(首都)に「格下げされてしまう。
私のように無学な人間が普通に読めば当時(5世紀)、訶羅単は大きな政治経済力を保持していて(第2ルートの支配者)、闍婆 州(おそらく西ジャワ)もその軍事・経済的支配下においていたと考えてしまう。
現在のインドネシアとマレーシアの一都市との関係では類推できないのである。ちなみに、訶羅単はケダとのつながりを示唆する国名でもある。
訶羅単は430、433(闍婆州訶羅単)、434、436、437、452年の朝貢を最後に姿を消す(専ら劉氏南宋時代に朝貢)ただし、隋時代も存在を続けていたことは隋朝の使者であった常駿の報告に見える。
次に干陀利であるがこれはケダと考えてよいであろう。 インドではKalahaはKandariとも呼ばれていた。ケダはマレー半島の西岸であるが、貿易ルートが陸続きで繋がっている東海岸に出口を持つことは容易に考えられる。
千陀利の朝貢は441、455、502、518、520、563年が最後の朝貢記録である。
赤土は隋時代に3回だけ朝貢の記録がある。;608、609、610年である。赤土国の王と干陀利の国王の姓が同じ(瞿曇)であるということは、同じ系統の支配者のもとにあった とみることができる。干陀利=ケダ(西)と赤土(東)は第2ルートの中で連続していたのではないだろうか。
赤土国の玄関口はケランタン(今のコタバル)と考えてもよいが、実効支配領域はケダまで包摂していたと考えてよい。また、次にみるように狼牙須(ランカスカ)をもその支配領域に取り込んでいた可能性もある。
狼牙須(ランカスカ)は今のタイ南部の港湾都市のパタニであるという通説には特に今のところ否定する根拠はないが、ソンクラであった可能性もある。むしろ貿易港としての位置や周辺に残された遺跡や出土品の豊富さを考えるとパタニよりもソンクラの方がその重要性において優っていたのではないだろうか?
狼牙須は515、523、531、568(梁、陳のみ、隋時代以降は朝貢してない)の4回朝貢記録がある。
しかし、たった4回というのはパタニもしくはソンクラの重要性からしてありえないことであろう。どこかが狼牙須に取って代わったのである。それはおそらく赤土国ではなかったろうか?隋時代は赤土(608、609、610年)は第2ルートの主役であったと宇野が、上述の通り、私の見方である。
その後の第2ルートの支配者は誰であったか?
哥羅舎分;608、662年と訶羅;670~673年がその後のこの第2ルートの後継国なのかも知れない。673年以降は第2ルートの朝貢貿易は誰が おこなったのか該当する国が見当たらない。
しかし、室利仏逝が義浄の記述から推測されるように第1、第2ルートともに支配をしたとすれば、室利仏逝が673年以降すべてを取り仕切ったと考えるべきであろう。室利仏逝は上に見たように741年まで朝貢を行っており、その後は名前が消えてしまう。
(第3ルート)
次に上記の2ルートとは別の存在としてジャワ島に勢力を有していた訶陵について見なければならない。訶陵の支配領域をジャワ島と考え、ここを第3ルートと仮に位置づけた。(別に東西をつなぐルートが存在したわけではないのでルートという表現は適当ではないが)
訶陵は義浄の記述によれば室利仏逝とならぶこの地域での2大勢力の1つであった。訶陵という名はそもそもカリンガから来ているものと思われる。訶陵の訶は中国では「カ」とは発音せずむしろ「Ho=ホ」と読むべきという説もあるがカリンガという発音を当時の執筆者が訶陵という漢字を当てたのかもしれない。
いずれにせよインドのカリンガ地方の出身者が支配者であった国であろう。そういう意味ではケダと同類であったかもしれない。
訶陵の朝貢記録は;唐時代の640、647、648、666年の4回の朝貢の後に102年間(768年まで)中断している。その理由は何であろうか。768年というのは室利仏逝が朝貢をやめてから26年後のことである点に注目した。
この中断の期間は室利仏逝が南に勢力を拡大した時期であり、ジャワの訶陵(サンジャヤ王統)が室利仏逝に「併呑」されたと考えられる。この期間のうち742年までは室利仏逝が支配領域のすべての国々を代表して代表して朝貢したと想像される。
室利仏逝の朝貢の記録は;670~673、701、716、722、724、728、741年までであり、その後訶陵が再登場し768、769、770、793、815、818、827~835、860~873年の朝貢記録を残している(旧唐書には768、815、818の記載はない)。
こうみてくると前期の訶陵(640~666年までに朝貢した)は後期の訶陵(室利仏逝の支配を受けた)とは性格が違うであろうことは明らかである。
前期の訶陵のことは義浄が記述している通り、室利仏逝に並ぶ大国であった。それが室利仏逝の支配下にはいるのは早くても670年代以降のことであろう。
「後期訶陵」は室利仏逝の支配者シャイレンドラ王家の支配の元におかれたが、8世紀の後半以降(室利仏逝は741年以降朝貢記録はない)はこの地域の総体的な支配者(代表者)として朝貢(マレー半島横断ルートの第1、第2ルートを含め)を取り仕切ったという推測が可能になるように思われる。
この間、爪哇(後期訶陵)は767年、774年、787年にチャンパに侵攻し、リゴール(ナコン・シ・タマラート)を勢力下に収めている。すなわち、中国への朝貢ルートを統一(独占)する行動に出ている。
この頃先に述べたリゴール碑文が作成された(775年)。この碑文にはリゴール(あるいはチャイヤー)の仏教寺院の建設について記されているという(セデスが解読)。
碑文の主は室利仏逝王である。真臘の南下によって第1ルートを奪われ爪哇に逃れていた室利仏逝王がマレー半島東岸を攻上り、戦勝を記念するか戦死者の鎮魂のために建てられた可能性がある。
それ以前にバンドン湾(チャイヤー周辺)を制圧していた真臘もシャイレンドラ王朝の支配下に一時的に入った可能性がある。真臘は750年に朝貢をしてから813年まで中断している。767年頃から800年前後まで真臘は爪哇(訶陵)の支配下に置かれていた可能性がある。
後に真臘のジャヤヴァルマン2世として即位した王はこのときジャワに連れ去られたと考えられる。そのときにボロブドゥール寺院の建設がおこなわれていたのを見ているはずである。
真臘は750年に朝貢してから、813年まで朝貢が中断している。おそらく、767年ころから800年前後までシャイレンドラに主権とそれにともなう貿易権を奪われていたものと考えられる。爪哇にとらわれていた後のジャヤヴァルマン II世が帰国し、「転輪聖王」として即位の儀式を挙げたのは802年のことである。
真臘がクメール帝国として、インドシナ半島部・大陸部さらにはマレー半島のナコン・シ・タマラートあたりまで勢力をを伸ばし、覇権を握るのは13世紀以降のことである。
また、闍婆がその後ジャワからの朝貢国として記録に登場する;820、831、839年。
この闍婆はシャイレンドラ家(後期訶陵)におわれ、中部ジャワ(今のジョクジャカルタ周辺)から東部ジャワに逃れていた勢力(サンジャヤ王家?)が勢いを盛り返し、逆にシャイレンドラ家をジャワからスマトラ(パレンバンに)追放したものではないだろうか。
それ以外に上の朝貢国のなかで場所が特定できない国々は以下のとおりである。ほとんどが室利仏逝以前のものである。
媻皇;442、449、451、456、459、464、466、媻達;449、451。この両者は宋書(劉氏、南宋)に訶羅単とともに出てくる。
媻皇はインド人学者マジュムダールによればパハン(ケランタンの南)であるという。有力な見方である。パハンは金の産地として早くからインド人が進出していた。
媻達はパタニに近いBan Thepかもしれない。あるいはパタニそのものかもしれない。パタニを漢字で表現すれば「婆達」でもおかしくない。実際、パタニから24Kmほど内陸に入ったところに「Yarang」という村があり、そこからさらに5Kmほどのところに古代の「城壁」とみられる遺跡がある。(千原大三郎著、「東南アジアのヒンドゥー・仏教建築」1982年鹿島出版会、参照」。
また、パッタルン(Phattalung)である可能性もある。パッタルンこそは西海岸のトラン(クラビやビーズ玉の加工基地クロントムも近い)と直接つながっているし、ハジャイからナコン・シ・タマラートやスラタニ(盤盤)につながる国道41号線の中継地でもある。このルートはケダ(羯茶)にもつながっている。
婆利;473、517、522、616、630、631、婆利は現在のバリ島であるという見方が多いがいささか荒唐無稽な感じがする。ボルネオ島と考えるべきであろう。、
丹丹(単単);530、535、571x2、581、585、616、666、670(単単)はケランタンかもしれない。そこからさらに南のトレンガヌあたりだとインド方面からの商品の仕入れルートがなくなる。
波羅;507、642、666,670
パレンバンを義浄のいう室利仏逝とする議論は、少なくとも下記の羯茶(ケダ)と狼牙須(ランカスカ=パタニ方面)を結ぶ第2ルートの存在を無視もしくは極度に軽視しなければ成り立たない話である。インド商人はこの第2ルートを重要視していた。
パレンバンをインドと中国との中継基地とする考え方は7世紀において既にマラッカ海峡を通過してから中国に向かうという通商ルートがメインであるということである。そんな時間とコストを度外視した経済活動が当時としても行われていたはずはないと私は考える。
上の図はPaul Wheatley博士の著書"Impression of the Malay Penninsula in Ancient
Times"から借用したものに、私なりの筆を加えたものである。Wheatley博士は扶南の支配領域が最盛時は北はDvaravatiから南はマレー半島のランカスカ(狼牙脩)にまで及んでいたと考えておられる。要するにインド商人が「東西貿易」で利用したであろう「全テリトリー」をその勢力範囲収めていたと見てよい。その時期はAD4世紀から6世紀の頃であろう。この時期、Dvaravatiはほぼ完全に扶南に包摂されていたと見なすことができる。扶南は貿易港オケオを中心に東西貿易の中継を行い大いに反映していた。
その扶南がやがて勢力を失い、真臘に取って代わられる。そこで次に出てきたのが室利仏逝であるというのが私の基本的な認識である。室利仏逝(王家は扶南を支配していたシャイレンドラ家)は最初はマレー半島の北部の盤盤に勢力の拠点を置いていた。すなわち、今のスラタニ地方、とりわけチャイヤーである。盤盤はマレー半島の西岸のタクアパ(プーケット島付近も含む)と直結していた。7世紀から8世紀中頃にかけての話しである。しかし、室利仏逝は勢力を南に伸ばし、ケダからランカスカにいたる、「第2通商ルート」も支配下におさめていた。あるいは「支配権の確認」を7世紀の後半に行った(それがケダも室利仏逝の属国になったという義浄の記録に符合するものであろう)。
さらに室利仏逝はスマトラにも勢力を伸ばし、パレンバンを支配下においた。さらに、ジャワにも勢力を伸ばしたのである。その結果、室利仏逝には14の城市(港湾都市国家)があるという新唐書(222下、列伝147下、南蛮下)のいう「有城十四、以二国分総」という記述につながっていったものであろう。
上の図からみると、既に7世紀の後半にはモンスーンを使って、海洋を直接横断する航海技術を会得していたであろう各国の商船は、旧扶南の主要港である「オケオ」に寄港する必要なく、チャンパや中国南部の港湾に向かっていったものと考えられる。それが、オケオの衰退、すなわち扶南の没落につながったという見解もありうるであろう。ただし、直接扶南の衰退の引き金になったのは真臘の勃興であったと考えたい。また、盤盤のチャイヤーからも扶南は450年ごろから朝貢船を盤盤の国名を使って出していたとも考えられる。
盤盤が扶南の許可なしに独立して朝貢などできたはずがない。
(補論;扶南と真臘)
インドシナ半島では古代から金属器文化を発展させていた。これはインド系技術者が入植していたことを物語る。インド人入植者の広範な存在が、扶南というインド人を追うとする国家の成立につながったと見るべきであろう。
「南斉書」の扶南伝によれば「為船八九丈、広裁六七尺」というかなり大型の船を持っていた。これはオケオと盤盤との連絡には十分な大きさである。
オケオの遺物からみるとインド方面からもたらされたものが大部分で、ローマ皇帝の刻印の入った金貨も見つかっている。しかし、オケオの最盛期は4世紀中頃までで、その後衰退していったというのが発掘調査を手掛けたマルレーの説である。
扶南の朝貢は三国時代の呉国の孫権が在位していた西暦226年(黄武5年)に始まる。この年に林邑と扶南が朝貢している。扶南の朝貢はその後も続き、
西晋、武帝太康(280年~289年)に入貢3度(285、286、287年)
東晋、穆帝(357年)扶南王竺栴檀、象を献上。389年にも入貢。
南宋(劉氏);434年、435年、438年、442年、448年入貢。盤盤も入貢。
南朝・斉(479~502年);484年入貢。仏僧、伽婆羅、建康(南京)にて布教。
南朝・梁(502~557年);武帝天監2年(503年)入貢。翌504年、武帝が扶南王憍陳如闍耶跋摩を安南将軍に任命する。特に武帝とは親密であった。
その後は扶南に代わって盤盤が突如入貢する形になる。(527年、529年、532年、533年、534年、540年、551年。)
この頃(550年)までは扶南も隆盛であり、属国として真臘、頓遜などを従えていたといわれている。国王は「古龍」と称していた。古龍とは崑崙という意味である。
陳(557~589年);572年に扶南、584年に盤盤入貢。
隋(589~618年);盤盤が616年に入貢。赤土が608、609、610年に入貢。真臘も616年に初めて入貢。
扶南としては梁の539年の後は入貢の回数が激減して、陳の572年と唐の627~649年に1度と合計2度しかない。
527年以降入貢回数が増えるのは盤盤である。あたかも520年代にメコンデルタ地帯で扶南の実力が次第に衰退してくるにつれて盤盤が朝貢貿易の代役として台頭したかのごとき観を呈している。これは盤盤が実力をつけて扶南から独立して入貢をしたということではないであろう。おそらく入貢の出発地点が扶南のオケオ港から、盤盤のバンドン湾に変わったと見るべきであろう。
扶南は朝貢用の「商品」を2通りのルートから集めていたとかんげられる。ひとつは南インド方面からベンガル湾を船で横断し、マレー半島西岸のタクアパで荷揚げし、それをマレー半島横断して盤盤(チャイヤー)まで運び、それをさらにオケオまで船で運んだのである。この通商路は後に「第1ルート」と呼ばせていただく。
もうひとつのルートはビルマのモールメンやテナセリム(頓遜)で陸揚げし、それをモン族の支配するドワラヴァティに運び、船でチャオプラヤ川を下り、シャム湾に出てオケオまで運ぶというルートである。このルートの難点は内陸部の輸送距離が長く、途中で「山賊」などに狙われやすいということである。5世紀の終わりごろからクメール族の真臘がシェムレアップから北に勢力を伸ばし始めると、このビルマードワラヴァティ通商路は真臘の干渉を受け、扶南としては使えなくなったということが考えられる。
ただし、このシナリオは実証されたものではない。初期においては、内陸部に基盤を持つ真臘は初めのうちはビルマの港からの陸上ルートでやってくるインド方面からの貨物をモン族から譲り受けメコン川経由で中国の雲南省に運ぶという「陸路」の貿易ルートを利用したものと考えられる。
そうなると扶南としてはオケオに貨物の集積地を維持しておく意味が無くなり、盤盤から直接中国に船を出すほうが効率的であるということになったものと推測される。その分かれ目は520年頃であろうと考えられる。
中国向け輸出センターがオケオから盤盤への変化がなぜ520年ころ起こったかについては扶南の王族の力関係が変わったという説明もありうるが、資料的には実証されていない。おそらく、それまで扶南の属国の立場にあった真臘が大陸部で勢力を伸ばしてきたためという説明のほうがその後の歴史の推移をみても合理性があるように思える。
真臘の王族と扶南の王族は婚姻関係で結ばれていたことは間違いないであろうが、なんらかの理由で真臘の勢力が強まったということであろう。そのひとつの鍵は真臘の支配地域で灌漑による水田の拡大が行われ、米の生産力が増し、人口面でも扶南を上回るということが起こったと見られる。その点、扶南は農業よりも通商・貿易国家という色彩が強かったように見える。
真臘が中国の王朝に正式に入貢(海路)するのは随時代に入って616年になってからである。
627~649年の間に扶南が入貢したことになっているが、これは何かの間違いであろうというのが桑田説である。おまけに『新唐書』はデタラメ記事が多くて信用できないとまでいう。しかし、扶南が盤盤を完全な属領としていたならば、扶南は盤盤の港(チャイヤー)を使って朝貢した可能性がある。『新唐書』にも扶南の貢献について詳しくかいrている。
唐初の扶南の朝貢はオケオの港も使えなくなり、真臘によってカンボジアからマレー半島北部の盤盤に追放されてしまった後であり、扶南王朝の「看板」だけは維持していたのかもしれない。だからといって真臘が海路メコンデルタから入貢していたかどうかは疑問である。扶南は海軍力を維持しており、タイ湾の制海権は扶南が握っていた。勢い、真臘は陸路から朝貢した。「文単」という呼称で中国側に記録されている。この文単はラオスのヴィエンチャかもしれない。
真臘が扶南を滅ぼしたのは6世紀の中ごろとか6世紀末という説があるが、比較的早い時期に扶南はメコン・デルタを去った(追われた)と見るべきであろう。それはこのころの諸国の入貢記録を見ればある程度の判断はつくであろう。
扶南最後の王といわれるルードラヴァルマン(Rudravrman)の治世が514年~539年といわれるが、この時扶南政権の内部で統制の乱れが生じ始めていたとみることができよう。
狼牙修国(ランカスカ)が入貢を開始したのは515年であり、523年、531円、568年と続く。狼牙修国は盤盤の隣国であり、扶南の威令が行き届か亡くなったのである。それを間近にみた狼牙修国が真っ先に動いたとみられる。しかし、狼牙修国は6世紀末に干陀利(ケダ)に併合され、赤土国と改名して『隋書』時代にマレー半島の主要朝貢国として登場する。
真臘は隋末の616年から朝貢を開始する。堕和羅鉢底(ドワラワティ)は唐の貞観年中(627-49)に入貢を開始する。638年、640年、643年、649年と続く。ラチャブリと考えられる加羅舎分は608年、662年に入貢する。いずれも扶南の崩壊後の出来事である。
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