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未解決だったシュリヴィジャヤの謎⇒学者の誤解した、もしくは触れなかったシュリヴィジャヤ。

シュリヴィジャヤについてはセデスの書いたシナリオが「正しいもの」とし世界にまかり通っているが、「終始一貫」完璧なまでの間違いである。これを過去1世紀近く正せなかった歴史家の責任は重い。セデスの功績は「クドゥカンブキット碑文」(683年)の中から「シュリヴィジャヤ」という文字を発見し、それを「室利仏逝」と結びつけたぐらいである。パレンバンでその碑文(戦勝記念碑)が発見されたために、セデスはパレンバンをシュリヴィジャヤの首都が683年に建設されたと決めつけてしまった。既にそのあめに義浄は671年に「室利仏逝」を目指してインドに向かいタイ立ち、室利仏逝の朝貢使節は入唐している。いずれにせよパレンバンはシュリヴィジャヤ支配下の14の属領の1つにしか過ぎなかったのである。シュリヴィジャヤという単語自体を最初に発見した人物はHendrik Kernという人で1913年にバンカ島のKota Kapur碑文(686年の年号)の中から発見している。セデスがKedukan Bukit碑文(683年)の中に同じ単語を発見したのはそれから5年後の1918年ことであった。セデスはそれを室利仏逝王国と結びつけ壮大な「シュリヴィジャヤ物語」を構築していったのである。彼の想像力は豊かなものであったが、残念ながら歴史的事実を踏まえたものではなかった。そのことがようやく21世紀の今になって明らかにされたのである。

過去の歴史家が不思議なことに触れなかった漢籍における重要テーマがある。それは『新唐書』室利仏逝の条に書かれている「有城一四、以二国分総」という言葉と「西曰郎婆露斯」という地名である。この言葉の意味を深く追求していけば、セデスのような根本的な間違いはもっと早く正されたはずなのである。

セデスはシュリヴィジャヤだけでなく「真臘」の歴史においても間違いや誇張が多いことをMichael Vickeryは数多くの論文で明らかにしている。ヴィッカリーの論文(Michael Vickery's Publications; Googleで検索可能)はあまり日本では知られていないが、私のHPでアップロードしつつある「扶南と真臘」のなかで追々紹介していく予定である。ヴィッカリー自身も扶南などについては基本的な大きな間違いを犯してはいるが。

また、唐時代まで使われている「闍婆」という言葉はマレー半島以南を指す言葉であった。’Suvarnadvipa'は「黄金の島もしくは半島」を意味する言葉なのである。このところで多くの歴史家が誤りを犯し、とんでもない東南アジア古代史を形成してしまった。

その1「有城一四、以二国分総」および西曰「郞婆露斯

その2 闍婆はジャワ島か?(2012-12-14)

その3.賈耽の航海案内では迷子になる?(2014-12-18)
    羅越がジョホールだなどという珍解釈の元凶?

その4.ラクダ牛(新唐書、室利仏逝の条)

「有橐它,豹文而犀角,以乘且耕,名曰它牛豹。又有獸類野豕,角如山羊,名曰雩,肉味美,以饋膳。」とはいかなる牛か。この問題は文献学上解を得られなかったが、マレー半島にはこういう牛が実在していたという写真が出てきた。Mohamad Ridzuduan Kassem氏の提供。



その5.丹流眉国

『宋史』にある丹流眉国とはどこか特定できていない。「単馬令」の間違いだという説もある。しかし、宋史に取り上げられている以上、簡単に「単馬令」の間違いであったと断定するわけにはいかない。わたしにも目下のところアイデアすら浮かんでこない。これからの課題である。

「丹眉流國,東至占臘五十程,南至羅越水路十五程,西至西天三十五程,北至程良六十程,東北至羅斛二十五程,東南至闍婆四十五程,西南至程若十五程,西北至洛華二十五程,東北至廣州一百三十五程。

  其俗以版為屋,跣足,衣布,無紳帶,以白紵纏其首;貿易以金銀。其主所居,廣袤五里,無城郭;出則乘象車,亦有小駟。地出犀、象、鍮石、紫草、蘇木諸藥。四時炎熱,無雪霜。未嘗至中國。

  咸平四年,國主多須機遣使打吉馬、副使打臘、判官皮泥等九人來貢木香千斤、鍮鑞各百斤、胡黃連三十五斤、紫草百斤、紅氊一合、花布四段、蘇本萬斤、象牙六十一株。召見崇德殿,賜以冠帶服物。及還,又賜多須機詔書以敦獎之。 」

『諸蕃志』には

登流眉國

  登流眉國在眞臘之西。地主椎髻簪花,肩紅蔽白。朝日登塲,初無殿宇。飲食以葵葉為椀,不施匕筯,掬而食之。有山曰無弄,釋迦涅槃示化銅像在焉。產白荳蔲、箋沉速香、黃蠟、紫礦之屬。


『南溟網』によれば「程良」は’Tanen Teunggi'山脈一帯をさすという。「羅斛」はロップリである。ここに行くのに陸路で25日かかるという。「程若」はTrangだという。ここまで15日というのは陸路だろうか?宋史の書き方は水路か陸路か判然としない。また、「洛華」はビルマのTavoyだという。理由はわからない。これからみると「Tenasserim」辺りかも知れない。「羅越」を水路15日というのはジョホールにあたるが、宋史の筆者が賈耽の『皇華四達記』を読み間違えているとしか思えない。



その1「有城一四、以二国分総」および西曰「郞婆露斯

私は1938年生まれだが、アジアの一員としてどうしても解明しておきたいことがあった。それは東南アジアの古代史の謎である。特に東西貿易の歴史は問題が大きい。未開状態が長かった国が実は大変に発展していたとか、その逆であったりする。マレー半島などはほとんど歴史家からも重視されることなく、文化的な発展から取り残されたまま近代を迎えたような扱い方がされてきた。インドから中国に伝わった仏教は実はマレー半島経由のものが多かったのである。

義浄はおかげさまでパレンバンまでいってサンスクリット語を半年も勉強したことにされてしまった。義浄が行った仏教国とは元は盤盤といわれた室利仏逝ことチャイヤーだったのだである。『通典』で一大仏教拠点として記述された「盤盤」ことチャイヤーを中心とする王国の詳細について誰も論じないまま、Coedèsの説に引きずられてパレンバンこそが義浄も尋ねた仏教拠点であるなどというありもしない作り話が世界に通用してしまった。

セデスが「シュリヴィジャヤの首都はパレンバン」であると決めつけてからは、それが世界的に支持され、現在に至っている。しかし、繰り返すが、残念ながらセデスの説は間違いであった。したがって、古代の東南アジアの東西通商史も極めてゆがんだ姿になっている。また、仏教の伝来ルートについても同じである。

私は若いとき、1975年に住友金属シンガポール事務所の駐在員になった。私はその地の歴史を勉強しようと思いHallの「東南アジア史」に取り組んだ。ところが最初のほうで引っかかってしまった。というのはHallはセデスのシュリヴィジャヤ論を鵜呑みにしているのである。私も当初はセデス理論に疑問を抱きつつも、もしかしてそうかもしれないと一時期思ったが、いかにもストーリーに合理性がなく、駐在員仲間も「パレンバン説」を支持するものは誰もいなかったように記憶している。その後も「室利仏逝」の謎に挑み続けてきた。ついに、東洋大学を65歳で定年退職し、30年後に時間的余裕ができ、漢籍を直接読む機会も恵まれ、その骨格は私なりに解明できた。

それは『シュリヴィジャヤの謎』という書物にまとめ2008年に自費出版し、さらにその改訂版の『シュリヴィジャヤの歴史』(2010年)と英語版の"The History of Srivijaya"(2012年)という2冊の書物にまとめて世に問うことができた。後の2冊は「めこん」社の桑原曟社長と編集者の面川ユカさんのおかげである。面川さんは私の間違いだらけの英語の原稿にはだいぶ手こずられたらしい。今でも申し訳なく思っている。

東南アジアの古代史といっても頼りになるのは漢籍と現地で発見された数多くの碑文である。アラブ人の書いた文献はかなり理解が荒っぽいのでまともには使えない。ただし、彼らが伝聞で残したものがあり、そのうちのいくつかは参考にすべきものもある。主な碑文はフランス人やアメリカ人(ヴィッカリー)やインドネシア人が解読していて、それを使わせてもらった。しかし、碑文の「解釈」ということになるとセデスなどは限度を超えた個性的な解釈をしていて、それが通説となり世の中にはびこっている。それをとがめた歴史家として
Claude JaquesやMichael Vickeryがいる。彼らの功績は偉大である。彼らによってクメールについてのセデスの主要な仮説はほとんど否定されるに至った。

セデス崇拝は特に日本において著しい。東京大学の東洋史学科はほとんど無批判にセデス理論をうけいれてきたといても過言ではないであろう。大学院生の採用には最近までフランス語が必修とされてきた。フランスの極東学院の業績が重視されてきたといってよい。また、セデスはタイ政府の顧問を務めていた。ダムロン親王はセデスを極めて高く評価していたという。タイは歴史教育においてセデス理論をかなり採用してきた。だから、チャイヤーがシュリヴィジャヤの首都であったなどといっても信じない人も少なくない。そもそもマレー半島通商路の存在すら否定するタイ人歴史家がいるのには驚かされる。

私のような経済学者は幸か不幸か「異教の神様」は研究の対象ではあったも、崇拝の対象ではない。アダム・スミスがいみじくも言ったように「経済学は憂鬱な科学」である。偉い人のご都合などには関心がない。
「事実は何か」ということだけが問題なのである。

もっとも、「経済学」といってもさまざまであり、世の中には政府や財界に迎合する経済学者も少なくないが彼らは科学者としての立場を最初から放棄しているのであろう。ヨーロッパの危機などというテレビ番組に出てくる学者先生のお話などいくら一生懸命聞いていてもわけがわからない。ギリシャ人などはみなナマケモノ集団(アリとキリギリスの例え)だということで片付けられてしまう。

碑文の「解読」と「解釈」とはまったく別物である。それと碑文は内容的に王様の名前とか係累とかの事績がごく簡単に刻まれているものがほとんどで、そこからその時代の歴史の全体像を構築するのには学者の相当なる想像力(イマージネイション)に依存せざるを得ない。その想像力がたまたま正しければまだ救われるが、間違いであったり、不正確であったりするととんでもない歴史の歪曲につながっていく。

シュリヴィジャヤの歴史とそれにかかわる「東南アジアの古代史」は率直にいって間違いのオンパレードである。歪みに尾ひれがついた代物が世の中に「定説」・「通説」としてまかり通っている。それらの歪みと間違いを作り出し、増幅してきた歴史学者が「主流の地位」を占めてきたのである。

その学者が善意の人であるか、単なるハッタリ屋であるかは関係ない。たとえばパレンバン近郊で発見された「クドゥカン・ブキット碑文」にはダプンタ・ヒヤン(Dapunta Hiyang)なるシュリヴィジャヤ遠征軍の総司令官と思しき人物が登場する。彼は遠征軍の勝利の後に、全軍を閲兵した様子が碑文からは読み取れる。



ところが、そこには彼はどういう人物なのかはどこにも書いてない。Hiyangというのはクメール語で「神聖な」というほどの意味があるというから多分ブラーマン出身の家柄の王族の一人であったと思われる。その後、タラントゥオ(Talang Tuwo)というところ発見された碑文にはジャヤナシャ(Jayanasa)という人物の名前が出てくる。彼はパレン
バン王国の新しい王にシュリヴィジャヤ本国から任命されたと考えられる人物で、住民のための「植物園」を開いた。大乗仏教を信仰するシュリヴィジャヤの王の一人であることは確かであろうが、セデスのいうようにシュリヴィジャヤ帝国全体の王(マハラジャ)であるとは、碑文には書いてない。



ところが天才セデスはこの2人を同一人物であるとして、しかもジャナシャ(王)はシュリヴィジャヤ全体の大王(マハラジャ)であると決めつけてしまう。それを疑う歴史家もまたいないようである。680年代のはじめに200隻の手漕ぎボート(海軍)を引き連れてシュリヴィジャヤの大王が命の危険をおかして遠征軍の総司令官として出陣するものであろうか?

こういう時の司令官はたいていは王族の武将かベテランの将軍が軍を率いるものである。しかも、その二つの碑文にはパレンバンがシュリヴィジャヤの本拠地であったなどとはどこにも書いてない。

さて本論に取り掛かるが『新唐書』の「室利仏逝」の条には
室利佛逝,一曰尸利佛誓。過軍徒弄山二千里,地東西千里,南北四千里而遠。有城十四,以二國分總。西曰郞婆露斯。多金、汞砂、龍腦。夏至立八尺表,影在表南二尺五寸。國多男子。

という記述がある。この中でまず、「有城一四、以二国分総」という記述に着目したい。これに対する解釈が歴史家のあいだで今まであまりなされて来なかった。(私はこの部分の解説を見たことがない)。この部分についてセデスも触れていない。この文は要するに室利仏逝はシャム湾からマラッカ海峡、スマトラ、ジャワ島にかけて14の国々を支配下に置いていたというのである。

たまたま672(インドへの往路)と687年(インドからの帰途)にこの地を訪れた義浄は「帰途」の記録として室利仏逝が
末羅瑜(ムラユ)などを次々支配下におさめたを驚きをもって記録している。羯茶(ケダ)も室利仏逝の領地であることも書いている。それらが合わさって「有城一四」という風に唐王朝では認識していたのであろう。おそらくスマトラ島のパレンバンもジャンビも680年代に室利仏逝の一連)の軍事行動の結果、支配下に組み入れられたとみるべきである。

14の国々(多くは港湾都市国家)を獲得するにはもちろん軍事力によるものがほとんどだったと考えるべきであり、パレンバン制圧作戦の戦勝記念碑が
「クドゥカン・ブキット」碑文であると考えるのが自然である。その碑文の年号は西暦683年である。その頃、ジャンビもムラユ(末羅瑜)も室利仏逝の支配下にはいったと考えられる。

室利仏逝は670~3年の間(おそらく670年)に最初の朝貢を行ている。多分670年が室利仏逝の第1回の朝貢であろう。
義浄は翌年(671年)にペルシャ船に乗って室利仏逝まで連れて行ってもらう。そこで義浄はサンスクリット語の文法(声明)を半年間学習する。室利仏逝には当時1000人以上の仏僧が仏教を学習していたと義浄は記録している。

そこでの仏教学のレベルは比較的高く、仏教寺院も10か所以上あったといわれる。義浄はのちにインドに修行にいく中国人の僧は室利仏逝で1~2年事前に勉強してから行く方が良いとアドバイスしている(
『根本説一切有部百一羯磨巻五』の注書き)。要するにそこ(室利仏逝)でかなりハイ・レベルな仏教の基礎知識が学べるというのである。それは672年の話である。パレンバン占領以前の話なのである。

(郎婆露斯とはどこか)⇒室利仏逝の所在地はマレー半島であった。

次に注目したいのは
「西曰郞婆露斯」である。室利仏逝の西側には「郎婆露斯」という国があるということである。ところがこの「郎婆露斯」については今まであまり深い議論が行われてこなかった。ところがパレンバン説にしてしまうと「郎婆露斯」が西側に存在するといっても西側には海しかない。これは結論を先に言うとマレー半島に近いニコバル諸島のことである。室利仏逝はマレー半島の中央部を東西に領有していた国であると考えると、この『新唐書』の記述は事実を正確に述べたものであるといえよう。

「郎婆露斯」とはイブン・フルダ-ドベーの記述ではセイロン(Sirandib)を出てから
ランガ・バールス(Langabalus)'までが10~14日かかり、そこからKilah(Kedah) まで6日間という旅程が示されている。
同時代に書かれた
『シナ・インド物語』という藤本勝次関西大学教授が訳されたアラブ史料に登場する「ランガ・バルース」のことでニコバル諸の国を指すものと考えられる。インド西南海岸のクラーム・マラヤ(胡臨国)を出て「ランガ・バールス」を経てマレー半島の「カラー・バーラ(ケダー)」に至り、さらにティオマン島、パァンドゥランガ(ベトナム南部、奔陀浪)、チャンパから漲海(南シナ海)を航行して広東に到着するという航路が示されている。(池永佳昭、法顕『仏国記』の『南海寄帰内法伝』航路考・(上)を参考にしております。)

また、桑田六郎博士は『南海東西交通史論考』p199において次のごとく述べている。
「(新)唐書室利仏逝の絛には二國分総西曰
郎婆露斯とある。九世紀中頃即武宗宣宗の世のIbn Khordadzbeh及びSuleyman所記の裸人國Langabalusが是に当る。是はSirandib(Sri Lanka)から十乃至十五日程、Kilah(Kedah)まで六日程で、今のNicobar諸島を指し。その名は後世まで用いられている。」と桑田博士は室利仏逝の西にはニコバル諸島があったと明確に認識しておられた。しかし、奇妙なことに桑田博士は室利仏逝をPalembangに持って行かれてしまう。そのために桑田博士のシュリヴィジャヤ論と赤土論は支離滅裂の様相を呈してしまう。まことに惜しむべきことである。ここで桑田博士が「室利仏逝はマレー半島にあり」と考察しておられたらセデス仮説の虚構は一気に崩れ、正しい「シュリヴィジャヤ史論」が成立していたことであろう。

義浄は『高僧傳巻上』で「新羅僧二人南海汎海至室利仏逝国西
婆魯師国遇疾倶亡」と書いている。この婆魯師国(Balus)も同じである。要するに室利仏逝の西にはニコバル諸島があったという単純な事実が書いてある。しかし、室利仏逝をパレンバンに持って行ってしまうとこうはいかなくなる。これに100年間も歴史家が気が付かなかったというのはどういうことであろうか。

ついでと申してはなんだが『隋書』においては
「赤土国」の西は「婆羅娑国」である。すなわち西方に「バルス国=ニコバル諸島」があると書いてある。これを見ても赤土国は室利仏逝と同じ位置にあったことが明らかである。室利仏逝は赤土国を吸収合併して成立した国であることが確かめられる。

結論的にいうならば、室利仏逝、赤土、干陀利いずれの3国もニコバル諸島の東のマレー半島に存在したということである。

(盤盤はどこに消えたか

『通典』(801年杜祐)の「盤盤の条」に仏寺が10か所と道士寺(上級仏教寺院)が1か所あったと書いてある。盤盤は言うまでもなく南タイの「バンドン湾」にあった王国であり、扶南の亡命政権は長年にわたり扶南の「属領」であった「盤盤」を基盤にして次々にマレー半島全体を支配下に収め「室利仏逝」を形成したというのが私の仮説である。

唐時代に盤盤を上回る仏教の拠点はマレー半島以南には存在しなかった。「室利仏逝」は国名に「仏」の文字を使うことを唐王朝から許されている。これは特別な処遇であることを意味すると考えてよい。また、不思議なことに義浄は室利仏逝以外に「盤盤國「について一言も触れていない。盤盤が室利仏逝とは別の独立した存在であったとしたら、東南アジア最大の仏教国について一言あってもしかるべきであろう。実は室利仏逝は盤盤をベースにして、扶南の亡命政権が作り上げた国だったのである。


この『通典』の記事をまともに取り上げ評価している学者はいないようである。欧米の学者はなぜか『文献通考』に引用されている『通典』の文章を専ら使用している学者が多い。しかし、盤盤を室利仏逝と関連付ける学者もいない。なぜならば室利仏逝はパレンバンだとセデスが決めつけてしまったからである。セデスのおかげで「東南アジアの古代史」は大変不可解なものになってしまった。

南伝仏教(義浄らがもたらした)もパレンバン経由だなどというおかしな説が「通説」としてまかり通っている。日本では「南伝仏教」というとセイロンからタイにもたらされたテラヴァダ仏教(上座部あるいは小乗)のことで、日本にもたらされた大乗仏教は「北伝仏教」と称し、陸のシルクロード経由のものであるというされている。しからば法顕や義浄が海のシルクロード(東南アジア)を経由してもたらした大乗仏教の位置づけはいったいどうなるのであろうか?「密教」はいったいどのようにして日本にもたらされたのであろうか?

セデスはパレンバン説を補強するために6世紀初めに属国「真臘」にメコンデルタを追われた扶南の王族は
「ジャワ島」に亡命したという仮説を立てている。それまで扶南とジャワ島は歴史的にほとんど関係がない。一握りの扶南の王族がジャワに逃げて行ってそこで自らの王国を作るといった「冒険ダン吉」の物語のような奇跡が現実にありえたのだろうか?

一方、歴史的にみると盤盤は実質的に扶南の一部とも考えられる属領だったのである。盤盤は西海岸はタクアパ(ココ島)という国際港を持っており、そこで買い上げた「西方の物産」(乳香、綿織物、ビーズ玉、ガラス器、真珠など)を陸路、東海岸のチャイヤーにまで運んできていたのである。その間の距離は
およそ100kmで人間が運んでも10日足らずである。そのほとんどの行程に川が使われた。タクアパもバンドン湾(チャイヤーが主要都市)も3世紀に范師蔓が占領して以来、ずっと扶南の属領として利用され続けてきたという歴史的経緯がある。

チャイヤーに運ばれて「西方の物産」はシャム湾を横断して扶南の主要港である
「オケオ」まで運ばれたのである。また、チャイヤーから中国に直接それらの「財貨」は朝貢の貢物として運ばれた。盤盤が「朝貢国」として記録されるのは劉氏南宋の元嘉年中424~53年)である。正確な年号は記録されていないが扶南とともに朝貢をしはじめた。だからといって「盤盤」は扶南あkら独立した国であったわけではないのである。いわば「代理國」であったと解釈すべきである。独立国なら扶南が「朝貢」を許したずがない。

扶南はシャム湾周辺の諸国(狼牙須国や堕和羅鉢底)に朝貢を禁じていた。武
力による強制があったと考えられる。その中で盤盤のみに朝貢を許したというのは実質的に扶南と盤盤は「同盟関係」もしくは盤盤は扶南の「代理」であったと考えられる。

扶南が真臘に敗れたのち扶南の王族は海軍を引き連れ
て盤盤に亡命したと考えるほうが理にかなっている。真臘は内陸部の国家で扶南のの陸の通商路を担当し、農業国家であった。陸軍は扶南に卓越していたが、海軍は無きに等しかったのである。真臘は盤盤に逃げる扶南の王族(およびエリート階級)を追尾できなかったのである。真臘の王族は扶南の王族と縁戚関係にあったものが多かったとも推察される。

扶南は「滅亡したとされる後」も実は朝貢を続けている。唐時
代にも2回の朝貢の記録がある(『新唐書』)。それをみて『新唐書』はありえないことを書いているいいかげんな歴史書であると桑田六郎は批判している。しかし、「ありえた」話なのである。扶南王朝としては亡命先の盤盤から朝貢したと考えられるのである。唐王朝にしてみれば朝貢にきた扶南がどこの港から出航してきたかなどを毎回は詮索するはずもない。

盤盤が室利仏逝とどういう関係にあるかという問題は今までに掘り下げた議論はされていない。というよりそういう事実があったこと自体おそらく誰も問題にしたことはない。しかし、扶南政権が盤盤に亡命したのち、直ちに盤盤の政権を奪った。それまでは盤盤にはモン族の王が支配していたが彼等は扶南の王族にとってかわられた。盤盤はモン族の王国であったと考えられるが、軍隊は矢ジリに石を使っていた(新石器時代と同じ)と『通典』には書かれている。扶南から強い自国の軍隊を持つことを禁じられていたものと推測される。

(赤土国について)

『隋書』赤土国の条に
「東波羅剌國,西婆羅娑國,南訶羅旦國,北拒大海」とある。東の「波羅剌國」についてはいまだによくわからないがボルネオを指すものと考えておいてよいであろう。西の「婆羅娑國」は実ははっきりしている。室利仏逝の西にあるとされる「郎婆露斯」国と同じで「Lanka Balus」国すなわちNicobal諸島を指す。南の「訶羅旦國」はKelantanと考えて良い。これをジャワ島であるという主張が多いが、それは闍婆をジャワ島と考える単純な思考から出たもので、古代(唐以前)においては明らかにマレー半島以南を指す言葉であった。北は大海であるといはアンダマン海を指すと見てよい。要するに赤土国は室利仏逝の前身(盤盤を占拠していた旧扶南の支配者によって吸収合併されたのである。

盤盤の主権を奪った扶南の王族は次にマレー半島全域に勢力を拡張してその支配権を確立した。南に位置していた大国
「赤土国」を制圧したのである。赤土国はどこにあったかということ自体の定説がないといわれているが、それは単純な誤解である。桑田博士はそれはパレンバンであったといい、東大教授の山本達郎博士はシンガポールであったと主張される。西側がニコバル諸島だとすれば室利仏逝も赤土国もマレー半島中央部でなければならない。

赤土国は『隋書』時代の初期に突如朝貢国として登場し、608~610年の間に3回だけ記録され、以後は歴史の舞台から消えてしまったのである。私は赤土国は盤盤・扶南王国に7世紀の前半に併合されたとみている。しかし、隋の煬帝は特使(常駿ら)を送ったほどの大国であった。

赤土国の前身は干陀利が狼牙須国を併合したのちに作られた新国家だと私は考えている。マレー半島の東海岸はソンクラが「窓口」の港であり、本拠地は西海岸のケダーであったというのが私の仮説である。それは「干陀利」国の原型でもあった。扶南の政治的混乱に乗じて、
干陀利がその北部の隣国の「狼牙須」(ランカスカ)を吸収してできたのが赤土国である。その時期は6世紀の終わりごろである。狼牙脩(須)国の最後の朝貢が568年(陳、光大2年)だから、そのあとである。

3回朝貢し、610年を最後に消えてしまい「誰もいなくなってしまった」のである。盤盤も消えて唯一残ったのが室利仏逝である。室利仏逝は扶南の王族がマレー半島の主要国を統一したのちに作った新国家なのである。だから「室利仏逝の前史」などは漢籍のどこを探しても出てこない。

干陀利は東海岸のソンクラから西海岸のケダにかけての貿易国家である。干陀利とはケダの別名である。明史は干陀利を「三仏斉」だと書いている。確かに干陀利はジャンビとチャイヤーとともに三仏斉を形成していた。ケダ(羯茶)は5世紀以降南インド方面からベンガル湾を季節風(夏季の偏西風)にのって「直行」してくる貿易船の寄港地であり、次にマラッカ海峡を南下するための季節風(冬季の東北風)を待つための停泊地だったのである。

ケダは同時に商業港としは繁栄した。ケダは幸い扶南とは距離があったために扶南の直接の干渉を免れていた。また、干陀利は東海岸にも貿易港を持っていたそれはソンクラやパタニであったと推測される。

扶南の干渉がなかった(もしくは緩かった)ため干陀利や丹丹といった南の通商国家が独立して存在しえたのである。
干陀利は狼牙須国(ナコンシ・タマラート)を併合して「赤土国」を形成し、隋王朝の公認を受けた朝貢国家になったと考えられる。

『梁書』には干陀利の王については「其王
瞿曇脩跋陁羅」とあり『隋書』には赤土の王は「其王姓瞿曇氏,名利富多塞」とある。両国とも国王の姓が瞿曇(クドン=ゴータマ)で一致している。これはたまたま偶然の一致といえなくもないが、干陀利はケダを中心にして東海岸にも領地をもつ国であることからして赤土の前身は干陀利であったと考えて良い。干陀利はもともと!Kan-Do-ri」であり、タミール語でケダの呼称からきたものである。サンスクリット語ではケダは'Kha-la」であり哥羅、箇羅などの漢訳がある。どちらも同じ国である。国王の姓が「クドン」だからといってもちろんシャカムニの末裔ではない。

Coedèsとその亜流の歴史学者は干陀利はスマトラにあったと決めてしまったがゆえに、後々の議論がすっかりおかしくなってしまった。赤土の位置も特定できなくなってしまった。室利仏逝ももパレンバンに決めてしまったから全体的な地理体系収拾のつかない混乱に落ちいてしまった。何とか政府合成をつけようとすれば、後は嘘と無視しかない。従って
Coedèsの東南アジア古代史は嘘とこじつけのオンパレードとなってしまった。

この赤土国と狼牙修国の場合建前はあくまで
建前上は朝貢国同士の「平和裏」の合併である。ある朝貢国が「武力」で他の朝貢国を併合することは中国の王朝の厳しく禁じるところであった。実態はどうあれあくまで表向きは「平和裏」の合併ということにしないと朝貢国としては認められなくなる。そのような新国家として「赤土国」は登場したはずである。

(室利仏逝は赤土国を合併して成立)

室利仏逝もそういう形で登場した。盤盤・扶南は狼牙須国と赤土国を
「平和裏」に統合し、新国家「室利仏逝」を形成した。それは650年前後であったと推測される。盤盤の最後の朝貢が648年であるからそのあとであると考えられる。670年以降は室利仏逝以外にマレー半島からの朝貢国は室利仏逝以外にはなくなる。

盤盤・扶南がなぜ「室利仏逝」というような比較的「良い国名」を唐から与えられたかというと、盤盤・扶南は仏教のインドからの中継国として中国に大きな貢献を歴史的に行ってきたから「仏」という文字を国名に使うことを許されたのではないかと考えられる。そうでない国は堕和羅鉢底(ドワラワティ)などというものすごい漢字をあてられてしまう。

室利仏逝は言うまでもなく「シュリヴィジャヤ」の漢訳である。シュリヴィジャヤという名前(語源)はどこから来たかというと、それは盤盤王国にあったヒンドゥー教と仏教の聖地である「カオ・シ・ウイッチャイ(シュリヴィジャヤ山)」からとらえれた名前であろうと私は推測する。

「シュリヴィジャヤ山」とは「カオ・シ・ウィッチャイ」として古代から知られる小高い山であり、スラタニ市の郊外にあり、近くをプンピン川が流れている。プンピン地区は古代からの物資の集散地であった。ところがタイの学者は「カオ・シ・ワイッチャイ」というのは比較的新しくつけられた名前だと主張する人がいる。その真偽は私には目下のところ解明できないが、古い名前であことは確かであろう。

逆に「シュリヴィジャヤ山」という名前を後から付けたとすれば、それは室利仏逝との何らかの関係を意味したものであろう。この山は全体が聖域であり、8か所ほどのヒンドゥー寺院(一部は仏教寺院)とが発見され、有名なヴィシュヌ神像(左のもので現在はバンコク国立博物館所蔵)も発見されている。右はシュリヴィジャヤのヴィシュヌ像のモデルになったものと考えられる扶南の古都アンコール・ボレイ(プロム・ダ)から発見された高さ2.86mのもので、現在はプノンペン国立博物館で展示されている。



かくして室利仏逝は成立したが、その支配下にある国々はチヤーを本拠と
して東海岸では南隣のナコンシタマラート(狼牙須国)、ソンクラ、パタニ、ケランタン、パハン、トレンガヌ、西海岸ではタクアパはもともと盤盤の領地だったので別格として、クラビ、クロントム、トラン、ケダが考えられる。当初支配下にあった国はこれら10カ国足らずであった。いずれも貿易港国家であった。

マレー半島を制圧した室利仏逝は次にマラッカ海峡を支配することを考える。
マラッカ海峡を支配しないとインド、ペルシャ、アラブの国々が中国に直行して「朝貢」を行うからである。マレー半島横断通商路を使ってくれれば室利仏逝は「介入」の余地があり、それなりに経済的利益も確保できるが、素通りして中国へ行かれてしまっては「西方の物産」の仕入れもままならなくなり、シュリヴィジャヤの存立基盤が危うくなる。

そこで室利仏逝はマラッカ海峡の南側とりわけ外国船の停泊地である末羅瑜(ムラユ)とジャンビとパレンバンを武力で制圧した。これは海軍力を使って行われた。683年の年号のクドゥカン・ブキット碑文がパレンバンの郊外にあるが、それは室利仏逝軍の戦勝記念碑である。バンカ島も制圧した。これらの地域は朝貢国ではなかったので室利仏逝の新領土として唐王朝には堂々と申告したものと思われる。

中部ジャワには「訶陵」として唐に正式に朝貢している王国があった。室利仏逝は最初は訶陵王国と話をつけて「秩序ある朝貢」を訶陵に申し入れた。これは「朝貢」の「過当競争」を避ける狙いがあった。しかし、訶陵は室利仏逝の申し入れを拒否した。そこで室利仏逝は訶陵の武力制圧を行った。それはバンカ島にのこされたコタ・カプール碑文(686年)に明瞭に記されている。セデスはシュリヴィジャヤ軍は「西ジャワ」の多羅摩国に向かったとしているがそれは方向違いである。シュリヴィジャヤの目標はあくまで中部ジャワの「訶陵」国であった。

ジャンビ、パレンバン地区を占領した室利仏逝はそこから軍隊の大部分を引き揚げてバンカ島に集結させ、訶陵遠征軍を編成したのである。ジャンビ、パレンバンには室利仏逝出身者による新政府を置いたが軍事力は手薄となった。そこで室利仏逝は原住民が「反乱を起こさないように」威嚇するための仕掛けとしていくつかの碑文を残し「忠誠を誓わせる呪い」をおこなった。

その例が「トゥラガ・バトゥ(Telaba Batu)碑文」である。これの碑文の頭部から水をながし、それを飲ませることによって「裏切ると天罰を受ける」と臣民を脅迫したのである。下の左側の写真である。中央がバンカ島で発見されたコタ・カプール(Kota Kapur)碑文である。コタ・カプール碑文でも同様に住民に対する威嚇がその内容であり、スマトラ島のジャンビ付近で見つかったカラン・ブラヒ(Karang Brahi)碑文(右側)とほぼ同内容であるといわれている。




ジャワ島の訶陵王国は中部ジャワのペカロンガンを本拠にしていた。そこを室利仏逝軍は急襲してあっさり勝利を収めた。その時の室利仏逝軍の司令官Dapunta Selendra (ダプンタ・セレ
ンドラ)の名前を刻んだ石碑が1963年にペカロンガン郊外のソジョメルト(Sojomerto)見つかった。これで室利仏逝軍はペカロンガンを攻略したことが判明した。セレンドラというのはサンスクリット語ではシャイレンドラとなる。彼がシャイレンドラ王朝の始祖である。シャイレンドラというのは「山の上」という意味らしいが、いうまでもなく扶南の王族の一つの家系であった。



セデスは西ジャワのタラマ国に行ったといっているがこれは完全な間違いである。西ジャワにはシュリヴィジャヤの競争相手は存在しなかった。多羅摩(タラマ)国があったというがタラマ国なるものは唐王朝への朝貢実績はない。西ジャワの土壌は火山灰が酸性であるため、当時は稲作はあまり行われず、人口も少なかったはずである。セデスが西ジャワにこだわる理由は、そもそも扶南王朝は「ジャワ島」に逃げてきたというのがセデスの仮説であり、「亡命先」に攻撃を仕掛けるのは「自己矛盾」となるから、せめて攻撃目標を「中部ジャワ」でなく、「西ジャワ」にしたのであろう。

セレンドラ(シャイレンドラ)司令官はそのまま占領地中部ジャワにとどまり、シャイレンドラ王国の創始者となる。セレンドラはマレー語であり、サンスクリット語ではシャイレンドラなのである。ただし、訶陵国の王であった一族(サンジャヤ系?)に表向きの王権を保持させていた。シャイレンドラが中部ジャワの王となるのは760年代にチャイヤーを占領していた真臘軍を打ち破ったのちのことである。この勝利によってシャイレンドラの王はシュリヴィジャヤ全体の大王(マハラジャ)に推挙されたからである。

中部ジャワを版図に入れて室利仏逝は7世紀末に最大となった。しかし、742年を最後に室利仏逝は朝貢国としての記録が途絶えてしまう。その直後に何か重大な事件が起こったと考えられる。それはおそらくは真臘(チェンラ)がチャイヤやナコン・シ・タッマラート地域を占領したものであろう。しかし、その後775年の年号を持つ「リゴール碑文」なるものが登場する。それにはジャワ島に本拠地を持つシャイレンドラ王国がチャイヤー周辺の敵(おそらく真臘)を殲滅し、シャイレンドラの王がシュリヴィジャヤ全体のマハラジャ(大王)に推挙されたという趣旨のことが記されている。

ここで「有城一四」の全体像がほぼ明らかになる。

マレー半島では東海岸ではナコンシタマラート(狼牙須国)、ソンクラ、パタニ、ケランタン(丹丹)、パハン、トレンガヌ、西海岸ではタクアパはもともと盤盤の領地だったので別格として、クラビ、クロントム、トラン、ケダの10カ国が考えられる。それにスマトラ島のムラユ(末羅瑜)、ジャンビ、パレンバン、バンカ島とジャワ島の訶陵である。合計で15か国になってしまうが、クロン・トムはクラビと同じと考えるとちょうど14カ国(城)となる。14か国の厳密特定は困難であるが、おおよそこの
ようなものであろう。

「以二国分総」は明らかである。版図が広いので国を2つに分けて管理していたという意味である。すなわちシャム湾側(東海岸)はチャイヤーに本部があった。マラッカ海峡サイド(西海岸)の本拠地はケダであったに相違ない。

ところが室利仏逝の本拠地をパレンバンということにしてしまうと、「以二国分総」の意味が皆目分からなくなる。だから歴史学者で「以二国分総」の意味をまともに議論した人は誰もいない。彼らがいうのは『新唐書』はでたらめな記述が多く信ずるに足らずと公言している人もいる。『新唐書』がかなり正確であったということになると彼らにとって何かと不都合が生たのかもしれない。


その2 闍婆はジャワ島か?(2012-12-14)

このテーマは東南アジア古代史を研究する上で極めて大切な意味を持つ。ここで間違えてしまうと到底東南アジアの古代史は解明できない。仏教が東南アジアに伝来したのはスマトラ島であるというような必然性のない議論から抜け出せなくなる。

スヴァルナ・ドゥイパの意味)

まず第一にスヴァルナ・ドゥイパ(Suvarna Dvipa)をどう解釈するかという問題がある。Suvarnaとは「黄金」という意味である。したがってSuvarna Bhumiといえば「黄金の土地」という意味である。しからば”Suvarna Dvipa"は「黄金の島」ということであると、単純に理解してしまうととんでもないことになる。実はDvipaというのは「両側に水のあるところ」という意味である。Majumdarはその著”Suvarna Dvipa"でそう述べている。Paul Wheatleyも同じことを述べている。

「両側が水」ということは「島」だけでなく「半島」も含まれているのである。したがって、
スマトラ島だけでなく「マレー半島」も含まれているのである。ほとんどの歴史学者はスヴァルナ・ドゥイパはスマトラ島を意味すると誤解している。しかし、そう考えると、マレー半島の重要性がスッポリ抜け落ちてしまう。仏教が東南アジアに伝来したのはスマトラ島もしくはジャワ島ということが「定説」化してしまう。その誤解がたったこの一語の単語の意味の無理解から生じてしまうのである。実に恐るべきことである。

(法顕はどこへ連れて行かれたか?)

法顕が411年にセイロンからの船旅でたどりついたのが
「耶婆提」というところでそこに5か月滞在したと記録されている。法顕のこの短い記述が後世に非常に大きい事実を教えてくれた。

通俗的な解釈は「耶婆」とはジャワ島であり、「提」とは”Dvipa”だから「島」でありジャワ島のどこかだという。しかし、船がベンガル湾を偏西風に乗って航行し、どの陸地にもブチ当たらずにジャワ島にたどり着くのは物理的に不可能である。ベンガル湾を偏西風(モンスーン)で横断したら、突き当たる場所はマレー半島のどこかである。先ず法顕は「耶婆提」という言葉がマレー半島を意味していたことを我々に教えてくれたのである。

また、夏の偏西風でベンガル湾を渡ってきた船がそのままマラッカ海峡をすり抜けて南下するということも不可能である。なぜならば夏場は風が南西風であり、マラッカ海峡を南下するには逆風になってしまう。したがって彼らは冬場の「北東風」を待たなければならない。その船待ちに5か月ぐらいは必要なのである。

法顕の乗った船は
「耶婆提」というところで5か月滞在したとある。従って、法顕一行はマレー半島のどこかで5か月間風待ちをしたのである。船には200人の乗客がいたとされる。船員も含めて200人以上の人間が毎日食事をして待つためにはコメの生産地に近くなければならない。

それはマレー半島ではケダが最有力地である。ケダには背後に1217メートルのジュライ山があり、その山が
ランド・マーク(地上の目標)となっていた。ほかにもタクアパやクラビもよくつかわれていた。食料と水という意味ではケダが最も地の利を得ているし、マラッカ海峡の入り口にもなっている。。

法顕が411年にセイロンを大型船で出発したということは船主(長)にしてみれば、最初から寄港地の目星はついていたはずである。ケダには5世紀初めの遺物としてブッダ・グプタの祈願文石碑ががる。それはブッダ・グプタという船長が公開の無事を仏に祈願するために奉納したものである。本物はカルカッタ博物館にあるそうだが、レプリカはケダのブジャン渓谷歴史博物館にある。



古代における闍婆とはマレー半島以南)

ここで「耶婆」というのはマレー半島ということになる。Yava Dvipaが「耶婆提」なのだが、YavaもJavaも同じである。すな
わち古代においては闍婆とはマレー半島以南を意味していたのである。これはクメール碑文も同じ意味に使っていると考えてよい。ヴィッカリーはジャヤヴァルマン2世が「ジャワ」からやってきたというところで、「ジャワはチャム」であると述べているが、ジャヤヴァルマン2世がクメールに登場したのは、マレー半島のチャイヤーかナコン・シ・タマラートあたりから軍勢を伴ってメコン川をさかのぼりカンボジアにやってきたと解すべきである。

また、5世紀に中国に朝貢に行った国に呵羅単や婆達という国があった。

『宋書』には「呵羅単國治闍婆州」
という記述がある。これを見て多くの歴史家は呵羅単はジャワ島にあった王国であると早とちりをしてしまう。その上呵羅単は仏教国だから最初にジャワ島に仏教が伝わったなどというとんでもない「南伝仏教」説が出来上がってしまう。世界的には「ジャワ島」が早くから経済的に発展していたと信じる学説が幅を利かせている(O.Wolters)。しかし、それは全くの間違いである。

実際問題としてジャワ島には5世紀ごろの仏教遺跡は皆無といっても過言ではない。最も古い仏教遺跡はシャイレンドラ王朝が主権者となった8世紀後半のものである。ボロブドゥール遺跡が仏教遺跡としてははジャワ島では最古に近い存在といってもよいくらいである。

ただし、ジャワ島にシャイレンドラ軍が到達するまで仏教が全く知られていなかったわけではない。前期訶陵王国は高僧を招いて仏教の学習を行っていた。義浄の『大唐西域求法高僧傳』巻上には会寧律師が麟徳年中(664~665年)に訶陵にわたり、3年間その地に滞在し、同国の若那跋陀羅(ジュニャーナ・パドラ)とともに『大涅槃經荼毘文一部二巻』を翻訳したと書かれている。しかし、このことによって小乗仏教にせよ、仏教がジャワ島で民衆レベルにまで普及していたとはいえない。仏教寺院が存在したかどうかも定かでない。

呵羅単は今日の「ケランタン」であると考えるのが最も合理的であり、自然である。呵羅というのはケダのことである。呵羅単というのはケダの東海岸の領地であったか、もしくは出先機関が置かれていたと考えるべきである。カダには5世紀にはブッタ・グプタなるインド人仏教徒が居住しており(上の碑文の写真)、インド人コロニーが存在していたに相違ない。このころからケダにはバラモン教のみならず仏教も伝わっていたことは明らかである。ただし、法顕がいうように仏教徒の数は少なかったものとみられる。呵羅単すなわちケランタンが正真正銘の仏教国であった何よりの証拠が下の仏足石の写真である。これ以外にもブキット・マラク(Bukit Marak)という山には4個の仏足石が確認されている。このようなものはジャワ島にもスマトラ島にも一つもない。もちろんマレー半島のタイ領には多数存在する。インド商人の存在と仏教の普及が一致していた何よりの証拠である。



媻達(パタニか)も闍婆婆達とも書かれているが「闍婆州」すなわちマレー半島以南の国というに過ぎない。ジャワ島は金も産出されず、5世紀ごろの中国の王朝に珍重されるような貢物は産出していない。インド方面からの輸入品を貢物に加えて初めて「貢献品」の体裁が整うのである。ジャワ島はインドからは遠すぎる国であった。

また、『新唐書』の「驃国」の条に「闍婆國人曰・・・」とか「凡属國一八:曰迦羅婆提、・・・闍婆也」という形で「闍婆」が登場する。闍婆はこの場合上ビルマ、ヤンゴンから約280Km北方の「驃国」に地理的に近い国として表現されている。とうていジャワ島ではありえない。この場合の「闍婆」はおそらくマレー半島北部にあった国ではないかと考えられる。この部分の説明も歴史学者はほとんど行っていない。「不都合な記述や証拠」を無視しているかのごとしである。

(5世紀にはジャワ島は経済大国であり、仏教も普及していたというのは間違い)

かくして闍婆をジャワ島と理解して『宋書』などを読むと呵羅単、婆達、婆皇はすべてジャワ島に属し、「インドネシアでは早くから商業国家、仏教国家が成立し、中国としきりに貿易を行っていた」(O.Wolters)といったとんでもない説が飛び出してきて、それが学界の主流になっている。この時代の仏教遺跡は西ジャワにそれらしきものが若干みられるがほかには皆無といってよい。

ジャワ島のどこにそんな国があったのだろうか?何の遺跡も発見できない。仏足跡(石)ひとつ見当たらない。古代において仏教が普及していたとすれば仏足石が存在しないというのはありえない。仏足石こそは仏像が作られる以前に仏教徒がブッダのしるしとして崇拝していたもので、紀元前にインドで最初に作られ、スリ・ランカ、チベット、ビルマ、タイなどに順次普及していった。タイは最初はマレー半島部にインド人のコロニーが成立し、仏教が普及して間もなく、インド人仏僧うがもたらしたものであろう。タクアパ、クラビ、チャイヤーなどに原始的な仏足石が今でも残っている。

これらの3各国はそれぞれ呵羅単=ケランタン、媻達=パタニ、媻皇=パハン(マレーシアで当時は金の生産国であった)と考えられる。媻(婆)達はPattaniの音訳であり、媻皇はPa-hongの音訳ではないかと考えられる。劉氏南宋はこれら3国を同じ地域の仏教国と認識している。最近になってマレーシアの東岸のケランタンで古代の仏足跡が発見された。場所はケランタンのバチョック(Bachock)海岸の近くである。

西方からの輸入品は4世紀以降に入りケダにも西方からのベンガル湾直行船が集まりはじめ、それらが東海岸の港から中国に出荷された。ケダで風待ちをすると5-6か月は次官をロスしてしまう(411年法顕の例)。その中国向けの輸出港の一つが呵羅単すなわちケランタンにあったと推測される。国名からしてケダの直轄港であったかの世が高い。貨物の受け渡しはインド商人が主役を務めたものと考えられる。 新唐書の單單の項には,「在振州東南,多羅磨之西,亦有州縣。木多白檀。王姓剎利,名尸陵伽,日視事。有八大臣,號八坐。」とあり宮廷はインド風のものであったことが推測される。これは赤土国の宮廷風景と似ている。此処までは扶南も十分に干渉できなかったものと思われる。

扶南はタクアパ(ココ島=哥谷羅)から陸送し盤盤(チャイヤが首都)に運び、それをオケオまで運ぶか、あるいは直接、チャイヤーから中国に運んだ。盤盤の最初の朝貢は南朝宋(劉氏)孝建2年(455年)であった。これは扶南王朝の「許可」を得て、あるいは扶南王朝そのものが「盤盤」という看板を使って朝貢していたものであろう。

中部ジャワから朝貢下最初の国は訶陵の640年(唐・貞観14年)であった。それ以前にジャワ島から中国に朝貢した国は見当たらない。ただし、666年を最後に中断されてしまう。その後686年にシュリヴィジャヤの侵攻があったと考えられる(バンカ島、コタ・カプール碑文)。訶陵とはインドのカリンガ(現在のオリッサ州)との関連を想起させるが、確たる証拠はない。

(中部ジャワの実質的支配者シャイレンドラ王家)

687年には
シャイレンドラ司令官(Dapunta Selendra)の率いるシュリヴィジャヤ軍によって中部ジャワを支配する王家(訶陵)は屈服した。それがどういう王家だったかは実は確証を得られていない。おそらく『新唐書』に記載されているシーマ(悉莫)女王かその後継者が王だったものと思われる。

ところが、732年の年号を持つ
「チャンガル碑文」がボロブドゥールの南東のチャンガルにあるシヴァ神の祠堂で発見されている。それにはサンジャヤ王によってシヴァ祠堂が建設されたことと、サンジャヤ王の父サンナーハが長年にわたりジャワ島を支配していたことが記されている。問題はサンナーハ王がシ-マ女王と血縁関係にあったかどうかであるが、それはわからない。

サンジャヤ王は領土の拡大を図り、「穀物豊かな、金鉱に富むジャワ島」に平和と秩序をもたらしたとある。しかし、ジャワ島そのものには「金鉱」はほとんどないと考えられている。いずれにせよ730年代以前はサンジャヤ王の家系が中部ジャワの支配者であったことは確かである。

しかし、シャイレンドラ王家は同時に中部ジャワで健在であった。この時、シャイレンドラ家は何をしていたのであろうか。マレー半島ではシュリヴィジャヤ(室利仏逝)が健在であり、ジャワのシャイレンドラ家はその「統制下」にあったことは間違いない。しかし、745年頃そのご本家の室利仏逝が真臘に急襲されチヤーやナコン・シ・タマラートが一時的に占領されてしまい、「扇のかなめ」がなくなってしまったと考えられる。

742年を最後に室利仏逝は唐王朝に朝貢に表れなくなてしまい、その後も復活していないのである。ここの何か大事件が起こったと考えられる。その事件を解明した歴史家はいない。それだけでなく、「大事件」そのものの存在すら認識されていないのである。室利仏逝はどこに行ったのであろうか?もし、パレンバンに存在していたのであれば「朝貢を止めてしまう理由」は全くないはずである。ここにも「パレンバン説」の重大な欠陥がある。

本家の室利仏逝が真臘に占領されたのちに、残った十数カ国のシュリヴィジャヤ諸国家は真臘からチャイヤーを奪還する準備を進めたに相違ない。その中で最大の人口を持つ中部ジャワのシャイレンドラ王家が急きょ海軍の増強を行い、765年ごろチヤー周辺を占拠していた真臘軍に一斉攻撃をかけ奪還したというのが真相であろう。

その時の戦勝記念碑が
775年の年号を持つ「リゴール碑文」である。リゴール碑文はもともとチャイヤーに建てられ、ワット・ウィアン寺にあったものを1200年代に単馬令(ナコン・シ・タマラート)の王として三仏斉から独立し、マレー半島の支配者となったチャンドラバヌ王がナコン・シ・タマラートに移したといわれている。



上の写真はバンコク国立博物館509号室で展示されている
リゴール碑文である。左は表(A面)であり、755年に彫られたものである。右はその裏側(B面)であり、3行半ほど書かれ、後はない。これはジャワ島から追放されたバラプトラ王子が祖父の偉業を誇り、自分のマハラジャ(大王)としての「権威」を主張するために「落書き」したものと考えられる。

シャイレンドラ王家のパナンカラン王(当時は王子か?)は組織した海軍を率いてチャイヤーを奪還した。その功績により、シュリヴィジャヤの諸王から
マハラジャ(大王)の称号を与えられ、シュリヴィジャヤ帝国の統括者に任命された。

そうなると、シュリヴィジャヤ王家としてはサンジャヤ王家から中部ジャワの支配権も渡してもらわなければならない。そして、実際にそれは簡単に実現した。サンジャヤ王家が拒否すればシャイレンドラ軍と戦争になり、とうてい勝ち目はない。

ということでサンジャヤ王家のものとされてきた
「マタラム王統」に突如、シャイレンドラ王家のパナンカラン王が入り込むことになった。

それが907年の年号を持つ
バリトゥン王の銅板碑文である。そこには9人の王の名前が書かれているが、相互の関係の記述は一切ない。9人の王とは下表のとおりである。言うまでもなく、パナンカラン王と次のパヌンガラン王(サマルトゥンガ王いずれもリゴール碑文に出てくる)はシャイレンドラの王であり、この表自体がサンジャヤのねつ造である。

 日本語通称    推定在位  記載碑文
 1.サンジャヤ Mataram
Sanjaya 
 732-760  Cangal
 2.パナンカラン Panangkaran
Pancana
 760-780  Kalasan
Ligor A面
 3.パヌンガラン
  (インドラ)
Pannanggalan
Sanggramadhananjaya 
 780-800  Kelurak
LigorB面
 4.ワラック  Warak
Samaragrawira
 800-819  Nalanda
 5.ガルン  Garung
Samaratungga
 819-838  Penggin
Karangtengah
 6.ピカタン  Pikatan
Jatingrat
 838-850  Shivagrha
Tulangairほか
 7.カユワンギ  Kayuwangi
Lokapala
 850-890 Shivagrhaほか
 8.ワトゥフマラン  Watuhumalang
Dewendra
 890-898 Poh Dulur 
 9.ワトゥカラ  Watukura
Balitung
 898-910  Mantyasih

出所;Wikipedia
下の段は個人名

この中で3.パナンカラン王と4.パヌンガラン王とは同一人物ではないかとか4.サマラグラウィラ王と5.サマルトゥンガ王とは同一人ではないかという説もある。2.パナンカラン王はチャイヤー奪還戦争の立役者であり、リゴール碑文に出てくる人物ではないかと思われるが、上記のWikipediaはそうはみなしていないようである。その息子が4.のサマルトゥンガ王でDarmasetsu王(従来のシュリヴィジャヤの統括者)の娘
ターラ(Tara)を第2夫人として娶り、その息子がピカタンに敗れたバラプトラ(Balaputra)だと私は単純に理解していた。

この王統については諸説あって必ずしもはっきりしない。ただ事実としていえるのはサンジャヤ王統のピカタンに敗れたバラ・プトラ王子は中部ジャワからスマトラやマレー半島に亡命し、そこでもマハラジャを名乗っていたということである。

サマルトゥンガ王には第1夫人との間にできた
王女プラモダ・ヴァルダニ(Pramodawarddhani)がサンジャヤのピカタン王子と結婚し、サマルトンガの死後しばらく「女王」として君臨していたが、弟バラプトタがピカタンとの戦いに敗れ中部ジャワをおわれると、ピカタンが王位についてしまった。

かくしてシュリヴィジャヤ・グループはジャワ島を失ってしまった。シャイエンドラ王国も消滅してしまった。それでシュリヴィジャヤはダメになったかというと決してそうではない。彼らは三仏斉(ジャンビ、ケダ、チャイヤーのトロイカ体制)を設立し、マラッカ海峡とタイ湾を支配し、宋時代の朝貢を取り仕切ったのである。その柔軟な戦術はまことに近代的かつ合理的である。ジャワ島の支配を確立した古マタラム王国(サンジャヤ家)は「闍婆国」という名前で820年、831年、839年と3度の朝貢が記録されている。しかし、その後はシュリヴィジャヤ勢の海上封鎖にあったためか朝貢貿易の手段を奪われたままであり、992年にジャンビに遠征軍を送ったが結局シュリヴィジャヤ軍を制圧するまでには至らず、宋王朝からも「出入り禁止」の措置を受けたとみられる。



其の3.賈耽の航海案内では迷子になる。

唐の宰相、賈耽は『皇華四達記』なる書物(801年刊)を著し、唐から西方に向かう主要な航路を示した。それが『新唐書』の地理誌に引用され残されている。そのうち師子国(セイロン)までの東西交易路の主要部分が次の通りである。

「廣州東南海行,二百里至屯門山,乃帆風西行,二日至九州石。又南二日至象石。又西南三日行,至占不勞山,山在環王國東二百里海中。又南二日行至陵山。又一日行,至門毒國。又一日行,至古笪國。又半日行,至奔陀浪洲。又兩日行,到軍突弄山。又五日行至海硤,蕃人謂之「質」,南北百里,北岸則羅越國,南岸則佛逝國,佛逝國東水行四五日,至訶陵國,南中洲之最大者。又西出硤,三日至葛葛僧祇國,在佛逝西北隅之別島,國人多鈔暴,乘舶者畏憚之。其北岸則箇羅國。箇羅西則哥谷羅國。又從葛葛僧祇四五日行,至勝鄧洲。又西五日行,至婆露國。又六日行,至婆國伽藍洲。又北四日行,至師子國,其北海岸距南天竺大岸百里。」

軍突弄山とはホーチミン・シティの沖合のCondol島(崑崙島ともいう)のことである。此処には広東方面からの多くの商船が立ち寄る。さらにそこから5日間マレー半島に向かって航海すると海硤に行きあたる。これを現地人は「質」といい、マレー語では’Selat'の意味だという解説が一般的になされていて、しかもこのSelatはシンガポール海峡だという。

この通俗的な解釈、というより歴史家の間では「通説」としてまかり通っている説明通り、船を進めていくとたちどころに迷子になり南シナ海をあてどなくさまようことになる。この一見常識的と思える解釈がとんでもない地理学上のミスにつながっていき、「羅越」がジョホールだったりする。それは賈耽の責任にされてしまうのである。

賈耽の意図はどこにあったのかを見れば、実は間違いようがないのである。賈耽は広東からセイロン(スリランカ)までと、そこから先の航路を示している。セイロンまでのまでの間に、主要な港はどこにあるかをあらまし示したのが賈耽の『四達記』である。問題はコンドル島から先である。

先ず上の文章には「海峡」という文字が2か所記されている。最初最初の「海峡」は地元民(蕃人)が「質」と呼んでいたといい、2番目の「海峡」にはそれがない。通俗的解釈では「質」とはマレー語で’Selat'という意味でこれは「海峡」を意味し「シンガポール海峡」のことだということで万人が納得してきた。ところがよく考えてみるとこの「質」はどうも普通名詞ではないようである。賈耽がマレー語をこんなところでわざわざ紹介すること自体不自然極まりない。実はこれは2番目の「海峡」と区別する意図で書かれたに相違ない。とするとこれは地元民が普段呼称する「固有名詞」ではないだろうか?

まず、なぜ「質」がSelatなのか?これは漢籍には一言も説明が無く、後世の学者の勝手な解釈である。しかし、海峡はマレー語では「海峡」のことをSelatというから「質」とは海峡なんだという以外に解釈のしようがない。「質」の語源を追及して演繹的に出した答えではあるまい。そんなことが現代人にわかるはずはあるまい。実はこの海峡というのは海の通り抜けという以外に「湾の入り口」をも意味している。次に「南北100里」とあるのは約40Kmに相当すかなり広い「海峡」である。となるとシンガポール海峡は10Kmほどしかなく、明らかに別な場所の可能性がある。

それはどこかというとバンドン湾である。バンドン湾の主要都市はSurat Thaniである。地元の人はこれを(シ・スラット)Si Suratと呼んでいる。チャイヤーは湾の右手の奥にある。ここにはレンポー(Laem Pho)という船着き場がある。いまでもこの付近の海浜には陶磁器の破片が散乱している。おそらく「質」とはスラタニを指していたのではないだろうか。またバンドン湾は非常に広く測り方にもよるが最大で40Kmあはる。その中にはサムイ島もすっぽり入る。

賈耽が地名を上げる場合は国際航路の主要港が記載されているものと考えればコンドル島以降最初の寄港先はチャイヤーであったと考えられる。671年にペルシャ商船に乗って広東を出発した義浄が最初に行きついた先が「室利仏逝」であり、それはチャイヤーであった。賈耽も北岸則羅越國,南岸則佛逝國書いている。バンドン湾の北の方は羅越国であり、バンドン湾の南は室利仏逝だという説明である。羅越とはマレー半島の北半分というより付け根に近い、現代のラチャブリ辺りを本拠とするモン族の支配地域であったものと考えられる。羅越の位置については同じ『新唐書』に別の記述がある。

この湾から4-5日東水行(マレー半島沿いに南下の意味)の後に「訶陵」につくとある。バンドン湾から4-5日で中部ジャワの「訶陵」に到着するのは距離的に無理である。室利仏逝から途中の末羅瑜まででも15日は要する(高僧伝、無行の記事)。したがってこの「訶陵」はマレー半島のやや南のサティンプラ(ソンクラのやや北)辺りである。

なぜサティンプラかというとここにはシュリヴィジャヤ・グループの対唐王朝向けの商品の出荷港があったと考えられる。8世紀の末には中部ジャワのシャイレンドラ王朝がシュリヴィジャヤ・グループのリーダー国となり、マハラジャの称号はシャイレンドラのパナンカラン国王が保持していたが、唐への朝貢にあたっては中部ジャワの「訶陵」」という国名を使用していた。訶陵は言うまでもなく独立した朝貢国として640年、647年、648年、666年と相次いで朝貢していた南海の有力国だったのである。それを686年にシュリヴィジャヤが海軍を率いて制圧・占領してしまったのである。その後突如として768年に「訶陵」」が唐王朝に朝貢に現れる。しかし、この時の「訶陵」は新しい訶陵、すなわちシャイレンドラ王国の「訶陵」だったのである。

「訶陵」の帰国船に乗って現場検査に訪れた中国の官憲もしくは船員の測定した「8尺棒」による夏至の日陰の測定結果が「夏至立八尺表,景在表南二尺四寸。」であり、室利仏逝の場合は「夏至立八尺表,影在表南二尺五寸。」なのである。これはいずれも『新唐書』に記載されている。このわずか一寸の差は「誤差の範囲」といえるかもしれないが、室利仏逝時代は中国向け財貨をソンクラに集め、そこから出荷し、シャイレンドラ時代はパッタルンに集荷し、湖を渡った対岸のサティンプラから出荷したものと推測される。

ソンクラ辺りからさらに南下し、今度はシンガポール海峡(2か所目の海峡)を渡り、3日で葛葛僧祇國につくとある。ところがこれは末羅瑜といわれた地域の港らしいが場所は特定できていない。室利仏逝の北西の島だということで住民はかなり乱暴者が多く、どうやら海賊の巣窟のような書き方がしてあり、商人はここには近寄らないという。その北岸は箇羅國とある。これは言うまでもなくケダである。ケダの西側には哥谷羅國という国があるという。ところがケダの西は海であり、これは正確には西北と解するべきである。そうなるとこれはタクアパの外港のあるココ島と考えるべきである。ココ島で東西の商人は交易を行っていた。実はこの哥谷羅國については不思議なことに定説がない。しかし、マレー半島西岸の主要港といえばケダとタクアパが双璧である。賈耽がタクアパを外してケダのみを論じるはずがない。

また、葛葛僧祇國に戻して、そこから4-5日で勝鄧洲という所に着くという。これもまたどこを指すかは不明であるがスマトラ島の北端であろうと推測される。アチェの辺りであろう。そこから西(北)に5日行くと婆露國に着くという。ここはニコバル諸島であることは上の「郎婆露斯」で見たとおりである。そこから先は師子国(スリランカ)である。

これが賈耽の示した広東からスリランカまでのおよその航路であるが、最大の問題は「質」がどこかということである。いずれにせよ主要貿易港であったバンドン湾(チャイヤー)を外すということはありえないであろう。

ここで改めて賈耽が何を書こうとしていたかというと、ニコバルまでの主要国際港はマレー半島の東側にはチャイヤーとサティンプラ(訶陵の出先)があり、シンガポール海峡を越えてマラッカ海峡に入るとマレー半島の西側にはケダとココ島(タクアパ)という2大港があるといているに過ぎないのである。うっかり間違うと 葛葛僧祇國に迷い込んでしまうと、そこは海賊の巣窟ですよという注意書きをつけたのである。

このように賈耽の意図を最初から理解してこの航路を読めば何ら迷うことなくに「ニコバル諸島」にたどり着き、そこから西に向かえばセイロンに到着できるというすっきりしたストーリーになっているのである。

世の歴史家は「訶陵」といえばジャワ島だときめてかかり、賈耽の文章の難解さを嘆くばかりである。それは今でも続いている。はてには『新唐書』が程度の悪い史書だという話にまで発展してしまう。ご自分の解釈力の貧困を棚に上げて、そこまで『新唐書』が罵倒されるとは編者の「欧陽脩」も気が付かなかったであろう。

下の地図は高楠順次郎博士の原図に『賈耽』の海路図を実線で筆者が書きくわえたものである。ちなみに高楠順次郎博士の原図は「末羅瑜」の位置も不適切で、シンガポールの対岸にある「リアウ諸島」が示されておらず、いきなりジャンビの辺りにまで線がのびている。この地図から義浄はスマトラ島に赴き、そこを「室利仏逝」と考えたという説が流布されるもとにもなったと考えられる。まことに遺憾である。

義浄の航路については「シュリヴィジャヤの歴史」において既に論じているのでここでは繰り返さない。賈耽の航路については上に述べたとおり、先ず「バンドン湾」に赴き、次にマレー半島のソンクラのやや北方の「サティンプラ」を中国人の執筆者は「訶陵」の一部として認識していたのである。

このことに思い至らない限り「賈耽の航路」の謎は永久に解けないのである。ここに「漢籍」の解釈の難しさがある。




(前回の地図とは変えてあります)

ちなみに羅越は哥谷羅(ココ島)の北にあることは別文で触れたので省略する。羅越はマレー半島北部、哥谷羅はタクアパの外港である。

ラチャブリと羅越 (2011-4-27


4.rakuda


有橐它,豹文而犀角,以乘且耕,名曰它牛豹。又有獸類野豕,角如山羊,名曰雩,肉味美,以饋膳。