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2011-4~5月の南タイ紀行 (2011-4-27)


Tha Chana とKhan Thuli (2011-5-07)



ラチャブリと羅越 (2011-4-27)
⇒室利仏逝はチャイヤーであることが決定的になった。

私は2010年5月めこん社から『シュリヴィジャヤの歴史』なる本を出版したが、そのなかで「羅越」についての一文を載せた(p115~118参照)。

「羅越」というのはマレー半島南端のジョホールにありというのが「通説」であるが、『新唐書』を読む限り、この通説なるものははっきりいって「間違い」だと言わざるを得ない。そういう解釈をすると『新唐書』のほかの記述と明らかに矛盾する。「箇羅」はケダであり「哥谷羅」はタクアパ(コ・コ島)だと考えられるが、これがパレンバンの近くの港だと考えないとどうにもならなくなる。

なぜ「羅越」がジョホールになったかといえば、元をただせば、「シュリヴィジャヤ=パレンバン説」に引きずられて、唐の宰相賈耽の書いた『皇華四達記』の『新唐書』における引用を「パレンバン説」に都合のいいように解釈した結果であるとも考えられる。

過去の歴史家は賈耽の文章に出てくる「海峡」という言葉を①シンガポール海峡か②マラッカ海峡かという二者択一でしか考えていない。このどちらも間違っているとしたら正しい解はそもそも得られない。

歴史学者というのは誠に悲しい人たちが多く、大学の指導教授がいった説を鵜呑みにしないと生きていけないらしい。東洋古代史についていえば大権威者のセデス先生が20世紀の初期に唱えた(論証したとはとても言えない)「シュリヴィジャヤ=パレンバン仮説」を金科玉条の真理としてたてまつってきたというのが世界の歴史学者および出版社の大勢である。

『新唐書』地理志七には陸路経由の話として「一曰陸真臘、其南水真臘。又南海至小海、其南羅越國、又南至大海。」とあり真臘(Cambodia)に近い海を隔てたところに羅越があると書いてある。

広州からの海路では「又両日行、到軍突弄山。又五日行至海硤①、蕃人謂之「質」、南北百里、北岸則羅越、南岸則仏逝國、仏逝國東水行四五日、至訶陵國、南中洲之最大者。又西出硤②、三日至葛葛僧祇國、在仏逝西北隅之別島、国人多鈔暴、乗舶者畏憚之。其北岸則箇羅国。箇羅西則哥谷羅。    ・・・」とある。

海硤①、蕃人謂之「質」の「質」とはマレー語でSelat(Strait)でシンガポール海峡のことであるというのが「通説」であり、このことに異議をさしはさんだ人を見たことはないが、「Selat」の漢音訳が「質」であるという根拠不明の強引な解釈である。しかも、これがシンガポール海峡だというのは問題である。だいたいシンガポール海峡は幅10KMであり、100里というのは約40KMもあり、計算が全く合わない。

計算が合わないのは賈耽の書き方が「イイカゲン」であるという解釈である。『新唐書』はイイカゲンだな歴史書だという見方が藤田豊八博士を始め多くの権威ある歴史家によってなされているが、私はそのようなことはないとみる。むしろ近代の歴史家の解釈・理解力の狭さに起因していると思えてならない。現地の地理や、権力構造(誰がどこを支配していたかなど)などほとんど解明できていない。

そもそも、シンガポール海峡の北岸を「羅越」としたら、南岸は「リアウ諸島」であり、室利仏逝國ではない。当時室利仏逝國が領土としていたのはマレー半島中部とスマトラ島南部(ジャンビ、パレンバン、バンカ島)である。

しかし、この「質」というのは「固有名詞」であることも考えられる。「海峡」はマレー語で「質」というなどと船頭がいうだろうか。これは次の②の海峡と区別するためにあえて賈耽が書き入れた単語ではないだろうか?「質」というのは「シ」という音に聞こえたとしたら、バンドン湾の「シ・スラット」すなわち”Suratani"かもしれない。スラタニは昔は「シ・スラット」と呼ばれていた。現に’Wat Si Surat'という仏足石のある古代からの寺院も現存する。

それと海硤①と硤②とは同じではない。硤②はどうもシンガポール海峡であろう。葛葛僧祇國というのはリンガ諸島(Malayuと当時いわれていた)のどこかであろう。海賊の隠れ家でもあったらしい。

わたしは『新唐書』の前半の文脈を考慮に入れれば海硤①はチャイヤーのある「バンドン湾」ではなかろうかと考える。バンドン湾の湾口は大変に広く計算によっては40KMくらいはある。バンドン湾の北方は羅越で南は室利仏逝であると考えれば、羅越の位置に「無理」がなくなる。

さらに、葛葛僧祇國の北に箇羅があると言ってる。箇羅とはケダのことである。哥谷羅はその西にあると書いてあるが、西北であろう。ケダの西はマラッカ海峡であり、哥谷羅はスマトラではない。

また「羅越國」は同じ『新唐書』、南蛮伝下によれば商業国家なのである。また南に「哥谷羅」があると言っている。哥谷羅はどこかわからないというのが多くの歴史家の説明であるが、実は極めてわかりやすい。タクアパの外港(隣接している)ココ島のことである。言うまでもなく西方(インド、アラブ、ペルシヤ方)面からの商船が多く立ち寄り交易した一大国際商業港である。

ココ島の南半分はトゥン・トクと呼ばれ、一大集落があり、最近まで発掘調査が行われた。そこから内陸のタクアパに財貨が運ばれ、半島部を横断してチャイヤー港から中国やインドシナ方面に出荷されたのである。なおココ島と大陸部にはさまれた3角形の小さな島がKoh Ko Laと呼ばれ、ここが哥谷羅の本拠地だったのかもしれない。下の右側の写真はタクアパからみたココ島であり、波静かな入り江である。



藤田豊八博士は『前漢時代における西南海上交通の記録』の中で「哥谷羅はプトレミーのいうTakkolaであると明言されている。タッコラとはタクアパ(クラ地峡に近く、東岸のチャイヤーやナコン・シ・タマラートにつながっていた港湾都市)のことである。

「羅越者、
北距海五千里、西南哥谷羅。商賈往来所湊集、俗與堕羅鉢底同。歳乗舶至広州、州必以聞。」(新唐書、羅越の条)とある。

要するに羅越はジョホールではなくタクアパの東北方向にあった商業の中心地ということになる。となると、羅越はマレー半島の付け根部分あ(あるいは北部)と考えられ、タイ湾とビルマ側とにまたがる領土を持つ国家であったと考えられる。ビルマ側の港はテナセリムあたりではなかったろうか。そこからベンガル湾の奥の港までは5千里(2千Km)くらいという記述であろう(もとよりさほど厳密ではない)。

商賈とは言うまでもなく商人であり、彼らが船で集まってきて交易を盛んに行っていたと書かれている。これはビルマ側の港かもしれないがタイ湾側にも港をもっていたのでどちらかときめられない。民族(俗)は堕和羅鉢底(ドワラワティ)と同じであるというからモン族であると考えられる。ジョホールにモン族の国家が当時(唐時代)にあったとは考えられない。ジョホール付近はマレー系民族が多かった。

モン族というのは現在は総人口40万人程度の少数民族だが、古代においては南ビルマからマレー半島中部、東はタイの内陸の奥深くランパン(スコタイの近く)まで自分の都市国家を持ち、稲作と交易を中心に栄えていた民族である。

羅越は毎年、広州にやってきて州政府に届を出したというから、これは「朝貢貿易」とは別の民間貿易の形で「市舶司」を通じて関税を支払い交易をおこなっていたと考えられる。当時は室利仏逝がこの辺の「朝貢貿易」を独占していたためにそういう形をとっていたものであろう。

また、元時代に汪大淵によって書かれた『島夷誌略』(1349年)には「羅衛」の条に「南真駝之南。実加羅山即故名也。山痩田美、等為中上。・・。」とある。「羅衛」とは「羅越」の誤記であり、「真駝」とは「真臘」の誤記であろうと思われる(藤田豊八、桑田六郎両博士の説)ので、これはどう見ても真臘(クメール)の南である。これをジョホールだというわけにはいかない。マレー半島の北部・付け根のあたりと考えられる。「実加羅山」とは特定不能だが、ラチャブリの後方には山があり、そこから海にかけては一面の広大な水田である。

ラチャブリ市の脇にはメクロン川が流れ、上流のカンチャナブリ方面とつながる輸送水路となっている。

羅越は加羅希(諸蕃志)であった可能性があると藤田博士は見ている。加羅希はセデスはチャイヤとみなしているが、チャイヤは三仏斉の御三家(ジャンビ、ケダー、チャイヤ)であり、三仏斉の属領とは言えない。パレンバン(巴林馮)は諸蕃志には三仏斉の属国と明記してある。加羅希をチャイヤーと見てしまうと「三仏斉」の構成がわからなくなる。

ジョホールはどう見ても唐時代に商業国家であったは考えられないし、「ジョホール説」は『新唐書』のほかの部分との整合性が全く取れていないのである。そもそもジョホールらしき国は唐時代以前の漢籍には登場しない。

結論的に賈耽のいう海峡の「質」はシンガポール海峡ではなく、スラタニ市、チャイヤーのある「バンドン湾」ということになる。これをシンガポール海峡であるとする「通説」は決定的に間違っている。シンガポール説をとると支離滅裂な東南アジア地図になってしまう。羅越は明らかにケダ(箇羅)やタクアパ(哥谷羅)の北に位置している。

余談だが、唐の末期に高岳親王(当時82歳?)がインドに渡ろうとして唐に行き、唐人のアドバイスによって「羅越」経由でインドを目指した。親王は広州から冬の季節風に乗ってマレー半島に向かい羅越に上陸し、その後行方不明になったという事件があった。年齢から察して病死されたものと推測される。

その高岳親王はジョホールのジャングルで虎に食われて死んだなどという説が、まともに信じられていて、誰かが20世紀に入り、ジョホールのどこかに(私は行ったことがないが日本人墓地に)親王の墓を建てたという。羅越をジョホールだとする「通説」が高岳親王がジョホールでジャングルに迷い込んで虎に食われたなどという「奇説」を生んだものと思われる。イイダシベは何と新村出博士であったそうな。しかし博士は羅越がジョホールであるとの確信を持てないまま「最終原稿」の執筆をあきらめたという。

羅越は有数の国際貿易都市であり、そこからは山越えであるがビルマ側の国際港に抜ける通商路があり、そこに出入りするインドの商船に乗ってベンガルに行きなさいというのが唐の人たちのアドバイスであったに相違ない。おそらく親王は旅の途中に病にかかり亡くなられたとみるのが自然の見方であろう。虎に食われたなどということはいかなる文献にも書かれていない。

明治時代の無知な日本人の「歴史家」がジョホール⇒ジャングル⇒虎というような勝手な連想をしてつまらぬ空説をデッチ上げたに相違ない。それを後世21世紀の今日信じている歴史学者がいるというのはいかにも情けない話である。

高岳親王は高野山にゆかりがあるため、そのジョホールの墓地(後から勝手に日本人が建てたもの)付近の土を持ってきて高野山にばら撒いて涙にむせんだなどという話がある。大昔の話であったとしてもやはりある程度の合理性は求められるであろう。

おそらく高岳親王はインドに行く最短かつ安全な経路を唐の人に教えてもらい、ラチャブリあたりに上陸し、ビルマ側に山越えで出てそこからのインド行きの船に乗ろうとしたに相違ない。そのルートの方がチャイヤー⇒タクアパルートよりもホップに位置するが、インド行き(ベンガル行)の船を捕まえやすいと教えられたものと推測される。

唐の僧侶は当時としては最も安全かつ常識的な道順を日本の皇族の僧に教えたはずである。マレー半島の先端まで行ってしまうと、はたしてベンガル湾行きの船があるかどうかもわからない。ジョホールには当時商業都市は存在していなかった。

今や羅越がラチャブリであることはほぼ確実である。これは実は重大なことを意味する。というのはバンドン湾を境にして北は羅越、南は室利仏逝だと賈耽が書いていたことが確実になったことである。『新唐書』にそれらが全て書き込んであったということである。それを過去の歴史家は読み取れなかったということである。その理由が新参者の私には理解できない。

(ラチャブリ紀行)

それはさておき、実は私はラチャブリに行ったことがなかった。ラチャブリ=羅越説を唱えるからには一度は現地を見に行かなければならないと思い、2011年4月27日にローズ・ガーデン・ホテル(ナコン・パトムより20KMほどバンコク寄り)を朝7時ごろ出発した。

ナコン・パトムまではタクシーで行き(200バーツ)、そこからラチャブリまではエアコンバス(40バーツ)であった。終点で降り、まず古都があったと言われるKhu Boa(クー・ボア)遺跡までトクトク(3輪タクシー)で行った。距離は10Kmほどであり、料金は80バーツであった。途中はほとんどが水田であり、昔はクー・ボアのあたりが海に近かったらしい。ラチャブリにはメール・クロン川が流れている。国鉄の駅もある。

ちなみに、RatchaburiというのはRaja(王様)の町(Buri)だというのだ。それは事実かもしれない。広い水田があり、貿易の拠点であれば、大軍を養えるし、一大国家だ成立してもおかしくない。ただし、海軍力が弱かったのでシュリヴィジャヤ勢には太刀打ちできなかったということであろう。

中央と左の写真がクー・ボアの遺跡である。右の建物がラチャブリ国立博物館である。




ラチャブリ国立博物館にも行ったが、期待はずれであった。チャイヤーやナコン・シ・タマラートの博物館には到底かなわない。ビルマ海岸からの交易は唐時代以降あまり栄えなかったためかもしれない。

6世紀には堕和羅鉢底(ドワラワティ)というモン族の王国が出現し、唐王朝に朝貢する。しかし、この時ラチャブリの近くのナコン・パトムが其国の首都になっていたようである。現在でもタイ最大のストーパのある大都市である。住民はとても豊かそうである。


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Tha Chana とKhan Thuli (2011-5-07)


チヤーの北方にター・チャナというやや大きい町がありそこから10Kmほど北にカントーリという集落がある。チャー・タナは古代においては大きな貿易港であったといわれている。切り立った石灰岩の大きな山(石窟寺院がある)はタイ湾を北上する舟にとっては何よりのランド・マークであったに相違ない。ター・チャナからタクアパまでそう遠くはない。

その両方の集落からはヴィシュヌ像や仏像が発見され、かつて(シュリヴィジャヤ以前?)にインド人が住み着いて交易をおこなっていたという可能性がある。

このあたりの歴史はあまり研究されていないが、今後研究に値するかもしれないと思い、チャイヤーから足を延ばして行ってみた。ター・チャナには巨大な石灰岩の山と洞窟があり、Wat Tham Jai(大洞窟寺院)がある。

洞窟を寺院として信仰の場とするケースは南タイにはある。しかし、その後の発展はその周辺が「交易」の通路として機能しなければ、自然に廃れていくのはやむをえない。

ター・チャナは今日も比較的人口が多いが、そこから10Kmほど北に行った海岸沿いの集落のカントーリのほうは周辺がパーム椰子の畑で、近くに小さな小山があるが、遺跡らしいものは残念ながら見当たらなかった。

(ター・チャナの石窟寺院)


ミニ・バスでスラタニからター・チャナに行く途中、英語の上手な元役人という人と乗り合わせ、大洞窟寺院に案内してもらった。



石窟寺院に通じる石段は250段ほどあった。洞窟は優に100畳ほどはあり、60体以上の仏像と寝釈迦像があった。内部はきれいに整理、清掃されていた。



カントーリには意外にも長いプラット・フォームのついた駅舎があり、駅長がたった一人で番をしていた。向こうに見える小山になりかありそうだったがモーター・サイのおじさんにあそこまでいってくれというのは気の毒だったので、後日下調べをしてから行くことにした。

古寺があるところをみると、かつてはそれなりの集落があったものと見られるが僧侶はおらず、写真だけとって引き返した。ここからはアマラヴァティ様式の仏像やヴィシュヌ神像やビーズが出土したといわれている。

近くには川があり、そこが交易の拠点であった可能性がある。

チャイヤー国立博物館(2011-5-7、アップロードは7-3)



左の上下の石仏は6世紀中ごろの作とみられ、義浄も参拝した可能性がある。これをバンコクの博物館に持って行かれなかったのはチャイヤー博物館にとっては何よりの幸運である。右上の青銅ドラムはドーソン・ドラムといって上のの国立博物館はガラスのケースの奥に厳重に保管してあるが、ここでは入口の右手の土間に転がしてある。指先で叩いてみるとボーンという深い響きがする。2000年の時を隔てた柔らかな音色である。ただし、たたいてはいけないことになっているので管理人のお嬢さんに御小言を頂戴した。

石佛の写真ももちろん撮影禁止であったが、英文の著書に乗せると言ったら取らせてくれた。この石仏は6世紀の作とみられており、おそらくインドから運ばれてきたものであろうと当初は単純に考えていた。しかし、その後調べてみるとインドには類似の仏像は見当たらない。出版されている仏像の画像を見る限りは頭部にお椀を伏せたような「髷」が乗っかっているのである。

このように頭のてっぺんがほぼ平らな仏像はタイにも見当たらない。不思議だと思ってカンボジアの仏像を調べてみるとアンコール・ボレイ(扶南の首都があったとされる)から出ている仏像に類似のものを見出した。これは私にとっては大発見であった。

このことから想像を逞しくすると、真臘に追われた扶南の支配者が盤盤国(バンドン湾)に亡命したときに仏師を一緒に連れてきて、チャイヤーでこの石仏を製作させたのではないかという仮説が成立する。チャイヤーの石仏も6世紀半ばの作といわれ扶南王朝の亡命のタイミングと一致する。上の写真からはよくわからないが仏像の表情も「クメール顔」なのである。唇は厚めで両端がやや上向きになっており、かすかな笑みを浮かべている(クメールの微笑)。黒くクスンではいるが屋内に保管されていたと見えて痛みもない。これはタイにとては大変貴重な仏像である。

671年暮れにこの地にたどりついた義浄も日常的に参拝した可能性ががる。そう思うと何とも厳粛な気分になるが、何の飾りもない石仏(104cm)なのでバンコクの国立博物館に持っていかれないで済んだのはチャイヤーにとって幸運であった。まさに「国宝級」の石仏である。

Angkor Borei Museum
Angkor Borei Museum