2008年南タイ旅行記
この記事は07年7月にクラビ、トランヲ旅行した記事の姉妹編でもありますので「南タイ中間ルートの旅」を御参照ください。 newpage8trip07.html へのリンク
1.ワット・クロン・トム(08年9月15日)
9月15日に早朝バンコク市内のホテルを発ってスバンナプーム空港に向かう。ここは国際空港だが、チェンマイやプーケットやクラビといった国際的に有名な観光地に向かう飛行機はここから飛び立つ。その他の空港はドン・ムアンからのものが多い。どちらから飛び立つかはホテルで調べてもらうほうが確実である。
航空券の予約はしなかったが出発の2時間前に行けば何とかなるだろうとの見込みで早めに行く。案の定切符が取れ、右側の窓際の席を確保できた。
それから空港内のレストランで食事である。なるべく込んでいる店を見つけ「お粥」を注文し、持参の梅干をおかずにいただく。美味であった。値段は税・サ込みで117バーツ(400円弱)であった。
8時出発の飛行機はほぼ満席(90%以上)であった。9時10分にクラビに着く。クラビの街には行かず、空港からクロン・トム寺院内にある博物館を目指す。前回は水曜日に行き休館であったので今回は月曜日にした。一般的にはタイの国立博物館は月曜日と火曜日が休館なので注意を要する。
クラビ空港から30Kmほどのところだがタクシーは600バーツ(約2,000円)だという。カネが無いわけではなかったが、バンコクより割高なのが気に入らない。少し時間かかるが相乗りが楽しいソンテウ(小型トラックの荷台に幌をかけた乗り合いバスで行くことにした。
空港沿いの国道に出るとモーター・サイ(オートバイ・タクシー)が待っていた。
ワット(寺院)・クロン・トムにいきたいというと遠いからいやだという。次々にソン・テウがやってくるがなかなかとまってくれない。リュックを背負った外国人風の老人なので敬遠されたのかもしれない。
みかねたオートバイ・タクシーの運転手が手を上げて1台止めてくれて、行き先をソンテウの運転手に告げて乗せてくれた。それも運転手の助手席という特等席である。旅先での庶民の親切さはうれしいものだが、中には悪党もいるので素人は要注意である。ただし、南タイでは悪党風のヤカラに遭遇することはまずない。旅人にはたいてい親切で、ボッタクリ屋の店などまずないといってよい。
30分ほど走り見覚えのあるワット・クロン・トムに着く。料金は30バーツだという。チップを多少弾んでお礼を言って分かれる。
上の写真はワット・クロン・トムの正門から左手を写したものである。奥はかなり広く、右手は葬儀場としても現在周辺の住民に使われている。左手奥は「博物館」になっている。
大型倉庫のような博物館の入り口には靴が2足脱ぎ捨ててあった。きしむガラス戸をガラリと開けると男が2人丸いテーブルを囲んで新聞を読んでいた。私も靴を脱いで中に入り、入館料はいくらかと聞くと、無料だという。さほど広くない部屋にガラスのケースがいくつもおいてある。
中にはガラス片をはじめいろいろのものが陳列されされている。しかし、英語の説明書がないのでサッパリわからない。タイ語の説明書が数冊おいてあったが館長がいないので、書棚のカギが開けられないという。
写真をとってもいいかと聞くと、ドーゾご随意という。この辺が「国立博物館」とは違うところである。ケースの中を良く見ると確かに小さな青いガラスの破片が無数に並べられていた。メノウの原石のようなものはほとんど見当たらなかった。
中にいた男は実は博物館のスタッフではなく、留守番のようで何を聞いてもわからなかった。ただ、発掘現場はここから2Kmほど離れたところで、時代は紀元前までさかのぼるらしいという話だった。
ビーズのネック・レースみたいなものが少なかったので、聞いてみると、「オレが持っているから売ってやってもいいよ。値段は6,000バーツ(約2万円)だ」という。本物にしては安いが物欲がもともと希薄な私としてはお断りした。
2階には陶器がおいてあった。大きな壷がいくつかあったが説明がタイ語なのでさっぱりわからない。古いさび付いた小銃や刀などもも置いてあった。ヤシの葉と思われる古びた葉っぱに経典が刻まれていた。紙の無い時代はこのようにして経典が記されていたのである。
階下に降りて帰ろうとすると先ほどの男がプラスチックの壜入りの水を飲ませてくれた。お金を払おうとしたがどうしても受け取ってくれなかった。
この博物館は専門家の興味をそそるものらしいが、門外漢の私にはその価値が良く理解できなかった。
古代の芸術品に近い美しいネック・レースはソンクラやナコン・シ・タマラートの博物館でも立派なものが陳列されており、ガラスの破片やメノウの原石もあった。
クロン・トムという場所はマレー半島の西岸に位置し、古代からインド商人が寄港した貿易港の1つであり、クラビやトランとともに栄えた集落であったものと思われる。その集落の一角で、ビーズ玉の加工が集中的におこなわれたものであろう。
(トラン市)
寺院の外の通に出てトラン市行きのバスに乗ろうとしたがなかなかやってこない。ソンテウも満員で止まってくれない。20分ほどして大型の「本格的路線バス」がやってきて、これに乗せてもらう。トランまで80バーツ(約250円)であった。
2時間ほどしてトランに着くがようやく12時少し過ぎである。トランの超一流ホテルっといわれるタマリン・タナ・ホテルに飛び込みリュックサックを下ろす。1泊朝食つき1,600バーツ(約5,000円)である。部屋は広々としているがタイでは標準の広さである。バス・タブもついている。おまけにかなり大きな日本料理屋もある。
入ろうと思ったら、なかで大勢の人が席について会議をしていたので、邪魔しては悪いと思い、仕方なしに街に出て屋台風レストランでクェチアオ(コメの粉のキシ麺)をいただく。25バーツ(約80円)であった。どこでも同じような味付けでそうまずくはない。ただし、量が少なめである。
一休みしてトランの街に散歩に出かける。自動車とオートバイがひっきりなしに左右からやってくるのでなかなか道路を横断できない。
商店はこぎれいで整然としている。インターネット屋を見つけ入ってみる。日本人客は初めてのようで店の人がおどろいた様子であった。30分15バーツという安さである。メールと新聞などをざっと見て、日本語が出てくるよといったら店番のお兄さんが喜んでくれた。
タイのインタ-ネットはほとんどがOSにXPが使われているので日本語の表示はあるが、送信は日本語ではできないものが多い。やむなく英語で返信するが、キーボードが擦り切れていたためか後でみたらミス・タイプだらけであった。
トランという古い港町は有名ではあるが、歴史学者にはあまり重要視されてこなかったように思える。特に保守本流(?)のセデス流「パレンバン学派」はマレー半島横断ルートの重要性を軽視してきた。
このトランこそはプトレミーがいうところの「タッコラ=Takkola」であるという説が最近は有力らしい。タッコラはチャイヤーに直結している「タクアパ」だという風に信じられてきたし、私自身もその説が正しいと思ってきた。
ところが、最近になって,Stuart Munro-Hay の書いた"Nakhon Sri Thammarat"(White
Lotus,2001)はTrangの重要性を指摘している。
1820年にイギリスの密使(emissary)であったJohn Crawfurdは3日間で象に乗ってトランからナコン・シ・タマラートに行ったというのである。確かに、斜め北東のルートを通り、ラン・サカ峠を通れば、それは可能であったに相違ない。そのルートは古代からのマレー半島横断通商ルートの1つであった。
もちろん、トランから真東にパッタルンにいく街道は、それよりももっと近い。
2.パッタルン
9月16日朝食もそこそこにパッタルンに向かう。そこはワット・ワン(Wat Wan)という古寺がある。パッタルンは古い貿易港があり、かつてはかなり賑わっていたといわれている。いまでも整然とした立派な町である。
嶺外代答には三仏斉の属国として仏羅安国をあげているその国王は三仏斉が選ぶとある。この仏羅安にはかつてどこからか仏像2体が飛び込んできたという伝説があるが、正確な所在はわかっていない。ここをパッタルンではないかと見る学者もいる。仏教遺跡からみればうなずける話しである。諸蕃志にはパハン州(マレーシア)の近くのような記述があるが、その辺には仏教遺跡はほとんどない。
トランからパッタルンに行くにはハジャイ行きのミニバスに乗って途中で降ろしてもらうという方法が便利である。もちろんパッタルン行きの大型乗り合いバスも出ている。バス停まではトゥクトゥク(3輪車タクシー)かモーターサイでいく。20~30バーツで行ってくれる。
バスではパッタルンの町の入り口で降ろされてしまうので、そこから先はさらにモーター・サイ(オートバイ・タクシー)に乗っていく。町外れに近いワット・ワンまで30バーツであった。距離は3キロ・メートルくらいはあったと思う。
ワット・ワンに着くとやけに立派な建物が現れる。しかも新しいではないか。中をウロウロしていると、老僧が目の前に現れた。彼は英語ができた。寺院の名前が違うので、ここはワット・ワンかと聞くと、そのとおりだという。老僧からいくつか質問され、年は70歳で一人でワット・ワンを見に来たといったら、驚いた様子であった。
奥の方に行ってみろというので、老僧と別れて山に近いところまで行くと様相は一変する。奥に洞窟があり、そこに仏像が安置されているのである。(下の図)
この辺は石灰岩の山が多く、洞窟が当初は寺院として利用されていた。トランとパッタルンの街道沿いにも洞窟がいくつかあり、仏教信仰の痕跡が見られるという。
3.ナコン・シ・タマラートとラン・サカ
07年にはナコン・シ・タマラートには行かなかった。ここのワット・プラマハタート(寺院)で作っている仏像のコピー(手のひらに乗るような平らな仏像)が幸運を呼ぶというのでタイ中から多くの仏教徒が買いに来て一大ブームが起こったのである。
そんなところに日本から呑気顔した老書生が行くと邪魔者扱いされるだけだと思って敬遠した。今年は「仏像お守り」ブームも下火になり、平静を取り戻したという話なので乗り込むことにした。
その最大の目的は「ラン・サカ(Lan Saka)」というナコン・シ・タマラートの西方25Kmのところにある峠の町に行ってみたかったからである。
下の写真はナコン・シ・タマラートのワット・プラ・マハタート(寺院)の有名なストーパである。セイロン風の美しい見事なものである。山田長政が17世紀のはじめにここの太守(知事)に任じられていたころにはこのストーパは存在していた。中にはセイロンから貰った仏舎利が収められているという。
ナコン・シ・タマラートで泊るのは町外れのツイン・ロータス・ホテルである。1泊朝食つき1,300バーツである。トランの「一流ホテル」よりはずっと良い。ナコン・シ・タマラートにはこれに匹敵するようなホテルが無いらしく、ここで軍隊のセミナーが開かれていた。
このホテルの欠点は市の中心部からかなり離れていて、ソンテウやモーター・サイを使わざるをえないことである。
ラン・サカに行くには駅までソンテウに乗って行き、そこからラン・サカ行きのソンテウの溜まり場まで歩いていかなければならない。ホテルの前で駅まで行くソンテウに乗ると20分ほどで駅につく。料金は15バーツである。途中で絶世の美女が乗り込んでくる。彼女は途中で降りてしまったが、そこはロビンソン・デパートの前であった。化粧品売り場の店員かも知れない。
駅につくと、ホテルのフロントで貰った地図を頼りに途中道を聞きながらソンテウの乗り場に行く。これはタイ語でやるしか仕方がばい。「ソンテウ・パイ・ランサカ・ユー・ティー・ナイ」(ランサカ行きのソンテウはどこにありますか?)で十分通じた。
ラン・サカまでは25Kmほどでソンテウの料金は片道25バーツであった。ナコン・シ・タマラートの町外れから緩い坂道(キレイに舗装されている広い道路)を上りきるとそこがラン・サカの町であった。警察署も病院もある立派な静かな町であった。途中病院の女性事務員と相乗りになったので病院前で一緒に降りる。そこはほぼ町外れであった。
ラン・サカは峠の町であるが周辺は広々した田んぼである。その向こうに高い山々が連なっている。最も高いのがカオ・ルアン山で標高1,835メートルである。
ラン・サカの峠をさらに西に下っていくとクラビやクロン・トム方面に繋がっている。要するにこのラン・サカというのはマレー半島の西側の港湾とナコン・シ・タマラートを結ぶ関所のようなな役割を果たしていたと考えられる。
下の写真はランサカの町の西側を写したものであり、道路の左側にも右と同じような小山がある。この道が古代の通商道路であったことは間違いない。この辺のどこかに王城があったに相違ない。
すぐ上の写真はラン・サカの病院であり背後に小山が見える。
私の考えでは『シュリヴィジャヤの謎』のなかでふれたように、ランカスカ(狼牙脩)はこの地ではないかということである。諸蕃志(趙汝适撰)1225年に「凌牙斯加」という地名を挙げているが、「狼牙脩」、「狼西加」、「狼牙須」、「郎迦戌」など多くの字が当てられている。
隋の煬帝の使者である常駿が記録した「狼牙脩の山」を望み、そこから南下して赤土国の領域に入った」とあるはナコン・シ・タマラート沖の海上からカオ・ルアン山を望見してのことであろう。
何しろマレー半島東岸にはこの辺にしか高い山は無いのだ。明時代の「武備志」に「狼西加」(ランサカ?)として地図に載っているのは、ソンクラの南隣だから、そこは「パタニ」に違いないということになってしまった。これは誠に傑作な「誤認」であるとしか言いようが無い。
パタニにいってみればすぐにわかるが「海から見える山」などそこには存在しない。明らかに常駿が見た「狼牙脩の山」などどこにも無いのだ。
それでは隋以前の「狼牙脩(ランカスカ)王国」とは一体何かというと、実は「ナコン・シ・タマラート王国」だったということである。国王は居城をラン・サカに置き、そこから港湾都市「ナコン・シ・タマラート」を支配していたのである。
ナコン・シ・タマラートは港湾であり海からの外敵の襲撃に弱いので、そこからやや離れた峠の「要衝」の地に本拠を構えていたに相違ない。そこをコントロールすれば西海岸からの財貨の受け入れ窓口にもなりうるのである。いわば、「東西交易」の中継地でもあったと考えられる。
しかし、問題はラン・サカの地に「王城」があったという「遺跡」は今日まで発見されていないのである。国立ナコン・シ・タマラート博物館のアノン館長も私の説には興味を示しながらも考古学的な物証がないとなんともいえないということであった。ごもっともな話しである。
しかし、ラン・サカが「交通の要衝の峠」であったことは間違いなく、いずれ何らかの発見がなされることを期待したい。目下のところ、私のような説を唱える学者はタイにはいないし、また財政事情からして「調査のための予算」などとうていとれないというのがアノン館長の嘆きでもあった。
私のタイ人の友人が調べてくれたところによると、”Lan”とは谷という意味であり、古くは”Langka”という言い方をしていたというのである。そうだとすれば隋の時代にはこの地は"Langka Saka"(ランガサカ)と呼ばれていた可能性が高い。
時代が進み、ナコン・シ・タマラートの支配者の財力が増え、強大な「常備軍」が維持できるようになると都(王城)はラン・サカから平地と港湾のあるナコン・シ・タマラートに移されたに相違ない。その地は後世「タンブラリンガ=単馬令」として中国に知られるようになる。
「室利仏逝」時代(7世紀~9世紀末)は「狼牙脩国」はその支配下に置かれていたようで、唐王朝への朝貢国としてな名前が出てこない。旧唐書や新唐書には「盤盤国」の隣であると記されているだけである。
下の写真は国立ナコン・シ・タマラート博物館である。内容はきわめて充実している。内部の写真撮影は禁止されており紹介できない。残念ながら英語の解説が簡単なものなので、あまり世界的には知られていない。
4.チャイヤー
チヤーに行くのは今回で4度目である。ナコン・シ・タマラート駅の近くのミニ・バス乗り場に出かけ、8時発のミニ・バスに乗る。満員になり次第出発するので、時間は不定期である。スラタニまで2時間で定宿のワンタイ・ホテルの前で止めてもらう。1泊朝飯つきで790バーツ(≒2500円)、バス・トイレ付きの広い部屋である。
2泊予約し、街に昼食を食べに行く。本当はホテルのレストランが料理もうまく、値段も手ごろなので外出する必要も無かったが、インターネット屋に行ってみようと思って出かけた。ソンテウにのって街の中心部に出る。早速インターネット屋を見つけメールのチェックなどをおこなう。20台ほどパソコンが置いてあって客は2名しかいない。
これでやっていけるのかと店番に聞いたら、隣の小学校の授業が終わるとたちまち満員になって商売は大繁盛だという。料金は1時間20バーツ(60円)であった。
夕食はホテルのレストランでする。入り口のその晩の「お勧め料理」のサンプルが3品ほど置いてあって、高いもので100バーツ(310円)である。バナナの葉でソフト・ボールほどの大きさに円く包んだ炊き込みご飯風のものがあったので食べてみた。その美味たるやタイの米料理のナンバー・ワンの折り紙を付けたいぐらいの逸品であった。値段は80バーツ(250円)であった。
食事をしていると、外から家族連れが次々食べに来るぐらいだから相当なものなのであろう。
翌朝は8時前にホテルを出てミニ・バスでチャイヤーに出かける。乗り場までソンテウで20バーツ、ミニバスの料金が80バーツであった。チャイヤーまでは1時間、街の中心部の少し手前のワット・ボロム・タート・チャイヤーという大寺院前で降ろしてもらう。そこのは国立博物館が併設されている。
昨年(07年7月)はここに寄らず、ワット・ケウなど周辺の古寺を見て回った。このチャイヤーを代表するシュリヴィジャヤ時代の大寺院に参拝しなかったバチが当たって過去1年間ロクなことがなかった。『シュリヴィジャヤの謎』という本を1冊出しただけに終わった。
ワット・ボロ・タートの中央の塔は2年前とは打って変わって、キレイに塗り替えられ補修が施されていた。中に入ると10名ほどの若い男女が団体で合掌しながら塔の周りを時計と逆回転で回っていた。俗臭フンプンたる私としてはどうにも身の置き所がなく、片隅で彼らの祈祷を見守っていた。やがて一人になってから、寺院の中を見物した。
その後、隣接の博物館に入った。靴を履いたままでよいという表示があったのに、それが読めず靴をぬいで中を見て回った。見慣れた青銅の菩薩像が置いてあったが、ここのものはコピーであった。本物はバンコクの国立博物館にある。
ところがここには5~6世紀(シュリヴィジャヤ前)の石仏坐像(1メートル強)がある。これは本物であるが、近くに番人がいて写真は撮らせてもらえなかった(全館撮影禁止)。しかし、きわめて優美な作品でその前からしばし動けなかった。「室利仏逝」の前身の「盤盤国」の時代から大乗仏教が入ってきていた動かぬ証拠である。
帰りに、気がついたのだが、境内で1人の農民が籾を広げ乾燥させていた。ここは古代から豊な水田地帯に囲まれた「米どころ」だったのである。
米が豊富に作れる場所は当然人口も多く、兵士の動員力もあり、強国になりえたのである。チャイヤーが古代において大きな「国際貿易都市」であったというのはクオリッチ・ウエールズ博士の説であり、昨年訪れたワット・ケウなどはチャンパ風の寺院であるという。盤盤は林邑(チャンパ)とも交流があったのである。
漢籍にしばしば登場する「盤盤国」というのはここを指すものであるが、チャイヤーの町はその港から10Kmほど離れている。次に、今回はその「盤盤」の港をどうしても見たいと思った。
今回はワット・ロング(Wat Long)をゆっくり見たいと思って、博物館からテクテク歩いていくとかなり大きなオートバイ屋があった。そこで「オートバイのレンタル」はやっていないかと聞くと販売専門でレンタルはしてないという。店には数人の人がいて「どこから来たのかとか一人で来たのか、どこに行くのか」と次々質問を浴びせられた。よほど物好きなジサマが日本からやってきたと思われたに違いない。
「ワット・ロングを見に来た」のだといったら、すぐそこのカドを曲がって2Kmほどいったところだと英語のできる娘さんが教えてくれた。しかたなしにトボトボと歩き始め、途中で「バナナの葉に包んだココナツとコメの粉を焼いた菓子」を屋台で売っているお婆さんのところに立ち寄って10バーツ出して買っていたら、先ほどのオートバイ屋のお兄さんがやってきて、ワット・ロングまで送っていくから後ろに乗れという。
私は、思わず感激のあまり絶句してしまった。お礼もそこそこ後ろの荷台にまたがった。ワット・ロングはその場所から実際は1Km足らずのところにあった。
ワット・ロングはレンガの廃墟同然のものを近世になって組み立てなおしたものだという。この寺にたどり着けた喜びもさることながら、哀れな老人の旅人を送ってくれたオートバイ屋一家の親切心にいたく心を打たれたのであった。タイの田舎を一人旅しているとしばしばこういう心温かい人々に遭遇するのである。
重い(さほではなかったが)リュックを背負い、チャイヤーの町の中心部に歩いていき行き、そこで何とか海岸まで行こうと思って、オトギの国の駅みたいな小さな駅の近くでウロウロしていた。
最悪、モーター・サイ(オートバイ・タクシー)に乗ろうと思っていたが、あいにく1台も見当たらない。以前駅前にタムロしていたモーター・サイはボスのような男が仕切っていて私のような観光客に料金を倍(初乗り20バーツを40バーツといわれた)に吹っかけるので印象が悪かった。そういう目に会ったのは南タイの旅ではここだけであった。おそらく、町の警察が彼らを追放したのかも知れなかった。
観光客を誘致しようというのか駅前も「昨年よりずっとキレイに」なっていた。噴水なども新設されていた。多分、ソンテウがあるはずだと思って近くの商店の人に聞くと、そこにあるのがそうだというので座席に乗り込むと一人の先客の中年の婦人が大きな荷物を持って乗っていた。
5分ほど待つと、中年の運転手やってきて、レームポー海岸まで行くかというと、もちろんOKという。助手席に乗れといので乗り込むとすぐに出発である。海岸まで10Kmほどで20分足らずで着く。先客のご婦人を途中の町で降ろして海岸まで行き、そこで待っていてくれるという。料金はと聞くと片道40バーツ(130円)で待ち時間は20分ぐらいなら追加料金はいらないという。そういわれてもチップは当然余計に払う。
海岸は狭いし、それほどキレイに整備されたものではなかったが、古代から近世にいたるまで帆船時代の貿易港として栄えた面影が残っている。この河口をさかのぼったところで船舶が停泊していたに違いない。左手に目をやれば「バンドン湾」が広々と見渡せ、漁船が見える。
ふと足元を見ると、貝殻や小石に混じり、陶器のかけらがいくつか落ちている。ものの10分ほどで10個ほど拾い集めた。うっすらと青磁の釉が残っているものや、黒い土に内外面に白い釉をかけたものなど何種類ものかけらがあった。中国やタイやベトナムか運んできたもので途中で破損したものがこの辺で大量に捨てられたのかもしれない。ともかくこのチャイヤーの港はただの港ではないことだけは確かである。
陶器のかけらをきちんと分析すれば、その生産地や時代区分がおのずと解明できるはずである。
待っていてくれたソンテウに乗ってチヤーまで戻る。途中の古びた町で、先ほどのご婦人がまた乗ってくる
。聞けばこの運転手の「プランヤー(おかみさん)」だという。
途中で2~3人の乗客を拾い、チャイヤーまで舞い戻った。時間はとみると12時半であった。もっと海岸でゆっくりしてくればよかったと悔やまれるが、またのお楽しみである。ホテルも1泊400バーツで海岸の近くにあるという話であった。チャイヤーからスラタニまでのミニ・バスはいつも運悪く30分以上待たされた。