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タイ・ラオスの仏足石史序説

仏足石は仏足跡とも日本語では書かれるが、最近のものは石に刻んだものだけでなく、大型化し、青銅などで作られたものが増えているため、「仏足跡」と表記されるケースが増えてきた。英語ではBuddha('s) Footprint(s)である。

仏足石はブッダが入滅後、恐れ多いとして、そのお姿を形にすることが遠慮され、紀元2世紀の初めごろようやくガンダーラで仏像が作られるまでは、ブッダの「足型」が崇拝の対象になっていた。

「足型」のうえにはブッダのお姿があるものとして「両足」が信者のほうにむけられたものが「基本」になっていたようであるが、「足型」そのものが崇拝の対象となり、インドの周辺国に広まっていった。そのため「片足」の仏足跡のほうが多くなっている。これはビルマ、やタイやマレー半島にも広くみられる。

形も最初は天然の岩盤に足型のみが彫られたものであったが、やがて「法輪」が付け加えられ、さらには魚や卍や巻貝などの模様が付け加えられるようになった。大型化するにつれて「升目」模様が描かれ、その中に108個の「吉祥紋」や動物や船など様々な文様が描かれるようになる。

近年作られる仏足跡は大型化し、装飾も絢爛豪華のものが急増している。中には古い素朴な仏足石の上に新しく豪華な仏足跡が乗せられるという例も珍しくない。

仏像の出現とともに「仏足石の歴史的役割は終わった」という説はあるが、少なくともタイにおいてはそうはならなかった。特にアユタヤ王朝はテラヴァダ仏教(上座部仏教)を半ば国教としての役割を与え、各村々に仏教寺院を建設し、そこには仏像のみならず仏足跡を備えるところもあった。

アユタヤ王朝はサラブリで発見された大型仏足跡をいわば「大本山」のような豪華な建物で飾り、全国から参拝に来るように奨励した。そのため一時期は片道1週間もかけて団体でサラブリの仏足跡を拝みに来るという時代もあった。それは農民にとって大きな負担であり、次第に地方にも大型の仏足跡が設置されるようになった。

下の写真はペチャブリにあるWat Wangの本堂にある、サラブリの仏足跡詣での様子を描いた壁画である。サラブリ詣でがいかに盛大なものであったかが窺える貴重那ものである。まるで江戸時代の「お伊勢参り」のような光景である。






シュリヴィジャヤは670年ころから南宋が朝貢制度を廃止する12世紀の末まで約500年続くが、シュリヴィジャヤが信仰していたのは大乗仏教である。いやその前の扶南の王族や「盤盤国」が受け入れていたのも大乗仏教である。それも早くからチベット仏教の影響を受け、「密教的」要素が取り込まれていた。シュリヴィジャヤ期の初期においても仏足跡は導入されたが、それは岩盤に足形を彫り込む段階からやや進んで足形がはっきりし、中には法輪が刻まれたり、するものがあらわれた。

シャイレンドラ家が中部ジャワを支配していたころ、ボロブドゥールを建設したが、それは大乗仏教の大伽藍であった。三仏斉時代のジャンビ王国が残した「ムアロ・ジャンビ」は大乗仏教の世界最大の遺跡である。不思議なことにスマトラ島では仏足跡は未だ1個も発見されていない。ジャワ島も同様である。ということはジャワ島、スマトラ島においては仏教の伝播が意外に遅かったことを示唆しているかもしれない。

しかも、スマトラやジャワ島においては仏教の伝来そのものは古かったかもしれないが、仏足跡が皆無であるということは、仏教が民衆レベルにまでは浸透していなかったとも解釈される。少なくともインド人のコロニーが成立し、彼らが仏教徒であったならば必ずやインドから仏僧が渡来し、初期的な仏足跡(石)が残されたのではあるまいか?ただし、シンガポールの向かいのリアウ諸島では1個の仏足石の存在が確認されている。東西貿易の中継点であったためであろう。歴史的に末羅瑜が中継点であったことがしられており、現在では末羅瑜はジャンビであるという説があるが、実際はリアウ諸島を意味していた可能性が大である。その後ジャンビ王国の版図に組み入れられたものであろう。

あるいはジャワ島やスマトラに仏教が本格的に伝来した時代がマレー半島よりもずっと新しく、仏像が信仰の対象になって以降であるためと考えられる。

マレー半島(タイ領)には仏像の普及よりも古い時代の「素朴な」仏足跡が多数存在する。カンチャナブリやメーソットやチェンマイなどの大陸部にも広く存在する。岩盤に彫り込まれた素朴な仏足跡である。これは明らかにシュリヴィジャヤやスコタイ以前のものであり、おそらくモン族のものであろう。東北部イサーンにも存在する。ナコン・ラチャシマ県コンブリ地域にある「赤牛洞窟寺院」の仏足石も同様なものである。




ジャワ島においては大乗仏教はシャイレンドラ朝(760年ごろから)に入ってからいきなりボロブドゥール寺院の建設が始まり、そのころから大衆に仏教信者が増えたということであろう。スマトラ島もパレンバンやジャンビには仏教遺跡はあるがおそらくシュリヴィジャヤが占拠した680年以降に急速に仏教が広められたということであろう。初期的な段階でインド人移民が多数存在し、インドから仏僧が普及活動にやって北というマレー半島の様子とは異なる形での普及であった。ただし、スマトラのジャンビの奥地には比較的初期から仏教が普及された形跡もあるので、そこから今後何か出てくるかもしれない。

タイ領マレー半島タの実態に即して言えば、シュリヴィジャヤ時代より前の仏足石は岩盤に仏足を彫りこんだものがほとんどで、時代が下ると足の中央部に「法輪」がつけられる程度であり、スコタイ・アユタヤ時代のような大型で升目に吉祥紋などを彫りこんだものはない。

シュリヴィジャヤ初期のものと思われる「過渡的な」仏足跡も存在する。やや大型の仏足石の内部に小型の仏足石を彫りこんだ、4足仏足石もこのころ出現している(スラタニ県クライソン寺)。
(写真を下に載せていますのでご覧ください。小型のもので上段はワット・クライソンのもので最初に作られたものです。下段はチャイヤーのものでやはり初期のものです。さらに、その下のほうのものはやはりワット・クライソンのもので大型の仏足跡の中に3個の仏足が彫り込まれています。後の4段仏足跡の原始的な形もものであり、タイではおそらく唯一の例だと考えられます。)


(シュリヴィジャヤと仏足跡)

シュリヴィジャヤと仏足跡について関連があるなどという議論をした人はいまだに見たことはない。タイにおいても歴史学者として仏足跡を取り上げている人はほとんどいない。実は原始的な仏足石を含め、マレー半島タイ部には多くの仏足石が存在する。

古いものは西暦1~2世紀にまで遡れるのではないかとさえ思われるものがいくつも存在する。天然の岩盤に足型を彫っただけのものが随所に残っているのである。タクアパ、クラビ、チャイヤーなどにその実例がみられる(後述)。

不思議なことに、仏足石はスマトラやジャワ島には存在しない。通俗的には南伝の大乗仏教はパレンバンやジャワ島に最初伝わり、それがやがて中国にも伝わったという議論が横行していた(る)。しかし、実際はマレー半島が中継点になっていたと考えられるのである。義浄が671年に室利仏逝を訪れたとき、そこには1000人以上の仏僧がいたとされるが、スマトラには当時仏教の盛んであったという証拠は残っていない。仏足跡1つ発見されていないのである。

ところがそのころにはチャイヤーには初期の仏足跡が存在し、6世紀の中ごろの作といわれる高さ1.6mの石仏座像も存在する。これは扶南王朝がメコン・デルタから亡命してきたときに連れてきた仏師が製作したものである可能性が高い。パレンバンにはそのようなものは存在していない。

セデス先生なども仏足跡については歯牙にもかけない。なぜならば仏足跡(石)はパレンバンには存在しないからである(少なくとも未発見)。

ジャワ島は通俗的には5世紀ころは仏教が盛んな国であったとされるが実はここにも仏足跡は存在しない。そもそも仏教寺院の残骸そのものがボロブドゥール寺院を除いてほとんどない。シュリヴィジャヤ軍が中部ジャワの訶陵を制圧して、シャイレンドラ王朝を築いた7世紀後半から、徐々に大乗仏教が根付き始めたというのがジャワ島における本格的な仏教史の始まりであろう。

それ以前にもジャワ島の支配者とインドの仏僧との間に多少の交流はあったかもしれないが、それは仏教の本格的伝播とは関係ない。例えばインド商人のコロニーなどというものは古代においてはジャワ島には存在しなかったものと考えられる。シンガポールの向かい側のリアウ諸島のカリマウ島にのみ岩盤に彫りこまれた仏足跡が存在する。これは「末羅瑜」国の一部で東西貿易の中継点であった可能性が高い。この島にはインド商人が集落を形成していたのかもしれない。


義浄の『大唐西域求法高僧傳』には会寧という僧が麟徳年間(664-5年)に訶陵に行き、地元の若那跋陀羅と3年間かけて阿笈摩經の一部(『小乗般若經』を訳したと記録されている。この訶陵はジャワ島にあったと考えてよい。だからといって訶陵に7世紀の後半に大乗仏教が広く信仰されていたということにはならない。

ジャワ島において最古の年代が記録されているのは732年のチャンガル碑文であるが、これはサンジャヤ王が建てたものであり、シヴァ神殿で発見されたヒンドゥー教のものである。これは純粋にヒンドゥー教の寺院であり、碑文である。

次に古いのがカラサン碑文であり、これはシャイレンドラ王朝のものであり、ターラー女神の祠堂と僧院を建てたことが記録されている。この碑文の年号は778年であり、マレー半島のリゴール碑文775年ののちの年号であることが注目される。

また、782年のケルラク碑文も「この大地はシャイレンドラ王家の装飾であるインドラ王によって支配される」とあり、文殊菩薩の像が建てられる。インドラ王とはチャイヤー・ナコン・シ・タマラートを一時的に占拠していた真臘軍を一掃した「パナンカラン王」であると考えられる。

リゴール碑文(775年)はシャイレンドラ家がチャイヤー地区を真臘(クメール)から奪還した功により、シュリヴィジャヤ諸国の代表のマハラジャとして認定されたことが記されている。そのあとでシャイレンドラ王家がジャワ島での覇権を確立したという前後関係にある。

その謎を解くカギはバンカ島を687年に出発したシュリヴィジャヤ軍が同年もしくあ688年に中部ジャワを占領した。バンカ島のコタ・カプール碑文に「ジャワ島」攻略が宣言され、さらにペカロンガン近くのソジョメルトで「ダプンタ・セレンドラ(Dapungta Selendra」の名前のはいった碑文が発見されている。「ダプンタ・セレンドラ」とは個人名で「シャイレンドラ総司令官(?)」といった意味であろう。パレンバン近く発見されたケドゥカン・ブキット碑文ン(682年)には「ダプンタ・ヒヤン(Dapungta Hyang)」の名前が見える。これも「ヒヤン総司令官」といった意味であろう。Hyangというのはクメール語で「神聖」という意味があるがこの場合はブラーマン出身の総司令官の姓かもしれない。

ヒヤン総司令官もセレンドラ総司令官もシュリヴィジャヤ国から派遣された遠征軍のトップであり、シュリヴィジャヤ国王ではなく、多分王族の一人であったと考えるほうが妥当であろう。シュリヴィジャヤのマハラジャ(大王)が遠征軍を直接率いていたとは考えにくい。

シャイレンドラは中部ジャワの軍事的制圧には成功したが、訶陵王国(多分サンジャヤ系の王族が支配)の既存政権と共存を続けたものと考えられ、表向きはサンジャヤ王家を中部ジャワの支配者として顔を立てていたものであろう。中部ジャワは訶陵のサンジャヤ王家とシュリヴィジャヤのシャイレンドラ王家の2重権力によって支配されていたと考えられる。

シュリヴィジャヤの目的は訶陵の通商権と軍事的支配を目的としたものであり、中部ジャワ全体の統治権を目指してはいなかった。既存の「訶陵国」(サンジャヤ王統)を廃して、シャイレンドラ王国を築いたのではなく、サンジャヤ王家には農民支配(年貢の取り立てなど)を任せ、シュリヴィジャヤ王家は貿易・外交を担当し海軍力を肘していたものと考えられる。シュリヴィジャヤ「帝国」は内陸部の支配というより地域の貿易港を支配することに力点を置いていたとみられる。そっれは扶南以来の伝統でもあった。中部ジャワでは「平行王国」が存在していたと考えるべきである。ただし唐王朝に対する正式な国名は「訶陵」であった。

要はシャイレンドラがジャワ島で覇権を確立するまではジャワ島の仏教は「言うに足りない」程度のものであったとみるべきであり、それ以前の仏教遺跡は目ぼしいものは存在していない。逆にシャイレンドラ家が7世紀末以降ジャワ島の支配権を掌握した直後から大乗仏教の発展は目覚ましものがあった。

(法顕の耶婆提)

411年にセイロンを出帆してベンガル湾を横断した法顕が難航海の末に「耶婆提」にたどり着いたと記録しているが、その「耶婆提」はジャワ島と断じて疑わない歴史家は多いが、この「耶婆提」はマレー半島西岸のどこかの港ーおそらくはケダーであることは間違いない。

夏のモンスーンでバンガル湾を横断しても、冬風を待たないとマラッカ海峡を南下できないので、法顕の一行200名の船客は「耶婆提」で5か月間の風待ちをしたのである。そこでは食糧(米)の供給も豊富であったことが窺われる。

いずれにせよ、「耶婆提」はジャワ島と狭く特定するのは明らかな間違いで、もともと提(Dvipa)の意味は「両側に水のある」ということだからスマトラ島ともマレー半島ともあるいはジャワ島とも受け取れるが、この法顕の記述によれば明らかに「マレー半島」の意味である。こ頃から唐代にかけて使われるSvarunadvipaという言葉の意味はマレー半島を指しているケースが多いと考えたほうが良い。インドの仏僧が仏教徒もさほど多くないスマトラ島にわざわざ出かけていく用事はほとんどなかったはずである。

また、付言すると、『高僧傳』(求那跋摩(グナヴァルマン)が布教のため滞在したとされる「闍婆」も通説では「ジャワ島」と解釈されているが、仏教普及の状況から考えると、マレー半島と解釈すべきである。求那跋摩は師子国(セイロン)からベンガル湾を横断して「闍婆」に行ったというが、ベンガル湾を季節風に乗って到達した先は法顕同様マレー半島である。

求那跋摩はそこで国王の母に「五戒」を授けたとされる。5世紀の初めごろ仏教がある程度普及していたのは「盤盤国(バンドン湾の王国)」ではなかったろうか?もちろん羯茶(ケダー)というケースも想定されるが法顕は「ケダーはバラモン教とが主流を占めていた」と語っている。いずれにせよ「ジャワ島」ではあまりに不自然でる。ジャワ島には当時どういう王国が存在しかも明らかではない。

モンスーンを利用してのベンガル湾横断航路がいつから開設されたかということは不明である。法顕は411年に大型商船(200人乗り)で横断しているので、その数十年前からこの直接横断航路は開設されたとみてよいであろう。頻繁に横断航路が使われ始めたのは5世紀に入ってからであろう。

東晋に師子國(セイロン)の朝貢が行われたのは405年頃という記録がある。これは『梁書』に書かれている。「義熙初年、師子国、始遣献玉像、経十載之至、像高四尺二寸玉色潔潤計製殊特、殆非于人工。」とある。「十載」とは10年がかりでやってきたという意味からすると、ベンガル湾沿いの航路をたどってやってきたとも取れるが、おそらくは大変な航海の末に到着したという意味であろう。師子国は南宋(劉氏)に428,429、430及び435年に朝貢している。

ただし三仏斉(宋)時代に入るとジャンビが三仏斉の主要都市(ほかにケダとチャイヤー)になり、大乗仏教を信仰していたために、インドやチベットの仏僧が出かけて行ったことは大いに考えられる。現在「ムアロ・ジャンビ」として知られる遺跡は世界最大の「大乗仏教」遺跡と考えられる。

義浄が671年に広州から20日間かけて行った「室利仏逝」はスマトラのパレンバンであるというような大間違いがまかり通っている世の中ではあるが、我々日本人が信仰している仏教がどういうルートで中国にもたらされ、誰が日本に伝えたかくらいは正確な知識が確立されてもよさそうなものである

中国にはシルク・ロード経由でインドから大乗仏教が伝えられたという説は間違いではないが、全面的に正しいわけではない。敦煌の仏教遺跡は巨大なものであるが、不思議なことにシルク・ロードには仏足石は残されていない。玄装三蔵は7世紀の初めに陸路でインド巡礼を果たしたが、法顕は往路は陸路を使ったが、帰路は多くの仏典を携えてセイロンから船で帰ってきた。

義浄の『大唐西域求法高僧傳』を紐解けばインド巡礼の旅は「海路」が中心になっていたことがわかる。海路はどういうルートであったかは「海のシルクロード」とはいかなるものであったかを考察すれば答えは明らかである。

私の「シュリヴィジャヤ史」は「室利仏逝」を特定することによって、間接的に仏教の南伝の問題にも触れている。すなわち「マレー半島」を経由したという認識である。唐以前の受け皿は「盤盤」国であったことが杜祐の『通典』に記述されている。盤盤は扶南の属領であったから扶南の貢献も大きかった。

唐の時代に入ると義浄が訪れたのは「室利仏逝」であり、その前身は「盤盤」国であった。その首都は言うまでもなくチャイヤーである。

不思議なことに、タイの歴史家でさえも仏足跡はシュリヴィジャヤ期には存在しないと主張する人すらいる。そもそもお釈迦様はタイで生まれたとか、生存中に弟子とともにタイにやってきたということを信じている人もいる。もともとはセイロンの高僧がそういったということを頭から信じているのだろうが、荒唐無稽な議論としか言いようがない。歴史学というのは本来その程度のレベルの学問なのかもしれない。

今日においてすら「耶婆提」はジャワ島か東南スマトラ(パレンバン・ジャンビ辺り)かで学者の説は2分されているそうだが、残念ながら両方とも間違いである。これは夏季における季節風の特性を考えない限り、正解は得られない。漢籍の文字だけをいくら読んでもなぜ5か月も耶婆提に滞在したかはわからない。そこには初歩的な経済・地理学的知識が求められるのである。

法顕は耶婆提について、そこでは仏教はさほど普及しておらず(仏法不足言)、「外道婆羅門興盛」と記している。この地は婆羅門教(ヒンドゥー教)の天下であった。5世紀の初めにはケダーのあたりには仏教はまだ入って間もなく、とるに足りない存在であったという有力な証言が得られる。

5世紀まで仏教がさほど普及していないということは、ケダの辺りは仏足石は少なかったという根拠にもなる。5世紀以降は仏足石よりも「仏像」がいきなり普及するからである。ただし、元ケダの領域と考えられるタイのサトゥン(Satun)には仏足跡は存在する。古代の「素朴な仏足石」は仏像が普及する前の産物と考えるほうが普通ではないだろうか?

一方、タクアパ辺りは扶南がインド方面からの財貨の受け入れ港としていたため、北インド、ベンガル商人の出入りが頻繁で4-5世紀或いはそれ以前からすでに仏教が伝わり、仏足石も設置されたものと考えられる。仏教伝来もタクアパ⇒チャイヤー地域とケダー地域では数世紀のズレがあったと考えざるを得ない。

私はマレー半島の仏足跡(石)は東西貿易の中でインド人商人が自分たちのコロニーを形成し、そこにやってきた仏僧が崇拝の対象として広めたものであろうと考える。これは日本における仏足跡研究の第1人者である
松久保秀胤先生(薬師寺前管主のお説でもある。松久保師はインドと中国の貿易の中継地点はマレー半島に相違なく、その交易の流れに沿って仏教が伝播したと考えておられる。

インド人コロニーといっても先住民族であるモン族との共住ももちろんありえたと思われる。モン族は下ビルマからマレー半島にかけて幅広く分布し、交易や農耕や工芸に携わっていた有力民族であった。

タイの仏足石の初期のものは南タイのマレー半島部に見られる。それはそこが有史以来のインドからの商人の渡来地であり、現地に定住して集落を形成した場所だからである。さらに言うならば、インド商人はビルマ側の海岸に最初に上陸し、そこに居住していたモン族と共にタイの大陸部を東に勢力を拡大していったとみることもできる。インド人とモン族の共生は当然広範に存在した筈であり、モン族も仏教を受け入れた。

モン族がいかに幅広く展開していたかを見るのはマレー半島、タイ大陸部などfr「xxxburi]という地名を見かけるが、そこはモン族の居住地であったことを染めしている。カンチャナブリ、ラチャブリ、クラブリ、ロップブリなどすべてそうである。それらはすべて交易の中継点であった。

下図は古代のマレー半島横断通商路を示すものであるが、西海岸はケダーを除いてすべての港湾の近くに岩盤に刻まれた仏足跡が存在する。ケダーの近くではサトーン(タイ領)にそれがみられる。サトーンは古代においてはケダー王国の一部で、ここからも西方の財貨がハジャイ⇒ソンクラ方面に運ばれたものと考えられる。

東海岸ではパタニとケランタンはいまだ仏足石は発見されていない。双方とも今はイスラム教徒が多数を占める地域であり、仏足石は過去において取り除かれたことも考えられる。


(モン族のルート=ドワラワティ・ルート,タイの西部・中部・北部)

このマレー半島ルートとは別にビルマ沿岸部(テナサリムやタヴォイ)を起点として仏教を受容したモン族(のちにドワラワティ王国として知られるようになる)のルートも存在する。現在のカンチャナブリ県やターク県を経由して入ってきた仏足跡(石)もある。また、私個人としてはラチャブリ、ペチャブリ(ペブリ)やプラチョウブ・キリ・カンについてはまだ詳細な調査ができていないが、この辺りは漢籍でいう「羅越」国のあった場所ではないかと考えられる。

どちらも初期の仏足石のオリジンは北インドである。マレー半島の西海岸経由でもたらされた初期の仏足石はすべて北インドの仏僧がもたらしたものと考えてよい。後のスコタイ・アユタヤ時代以降にもたらされた大型かつ華麗な仏足跡はテラヴァダ仏教の伝来と密接に関連しており、そのほとんどはセイロン(スリ・ランカ)またはビルマ経由でもたらされたものである。

伊東照司氏『タイ仏足石信仰の源流』(『南方文化』(天理大学)1981年11月号)において「いうまでもなく、タイ国における南方上座部仏教の受容は、一般にタイ族のスコータイ朝(13世紀中頃―15世紀中頃の時代に、セイロン(スリランカ)よりなされた。この時代以前の仏足石の違例は筆者の知る限り知らない。」と断定される。

東南アジアの仏教遺跡に詳しい伊東氏のこのような断定には驚かされるが、タイの歴史家、仏教徒も伊東氏と同様の見解を持つ人は少なくない。むしろ主流の説かもしれない。初期の岩盤に刻まれた仏足跡は顧みるに値しないという見解の人は意外に多い。

これは明らかに事実と異なる。南タイ(マレー半島側)に行けば自然石にブッダの足型を掘り込んだ素朴な「仏足石」がクラビ、パンガ、スラタニなどに数多く見られる。これらは「仏足石」ではないと断定することは不可能である。

諸蕃志によればセイロン(細蘭)は三仏斉の属領であり、三仏斉時代の後半にはセイロンのテラヴァダ仏教がマレー半島に広められたことは事実である。13世紀にはタンブラリンガ(ナコンシタッマラート)のチャンンドラバヌ王は仏歯を求めてセイロンに遠征軍を贈り、1260年には決定的な敗北を喫し、13世紀末には、スコタイ王朝のラムカムヘン王に支配権を奪われてしまった。

スコタイ王朝とそれに続くアユタヤ王朝は以前にもましてテラヴァダ仏教をセイロンから導入し、それをいわば国教としてタイの支配領域全体に広めた。その際一般民衆が崇拝する対象として仏足跡が大いに利用された。その代表例がサラブリの仏足跡(石)であり、今日までタイ随一の仏足跡として王室の保護を受けている。

タイに長さ1メートルを超え、108の吉祥紋などで飾られた「絢爛豪華」な仏足跡が全国に作られるようになったのはスコタイ・アユタヤ王朝以降である。当初は全国からサラブリの仏足跡詣で行われていたが、全国の主要地域にこれら大型仏足跡が置かれるようになり、「仏足跡村」といった地名も付けけられるようになった。

10世紀にはインド本土で仏教が衰退が明らかになり、セイロンに熱心な仏教徒が集まりテラヴァダ仏教(上座部あるいは小乗仏教)として隆盛を極め、スコタイ・アユタヤ王朝はそれをナコンシタマラート経由で輸入したと考えられる。それを我が国では「南伝仏教」と定義している。ナコンシタマラートのマハタート寺院には大型のセイロン風ストーパが建設された。


したがって義浄等の中国人仏僧がマレー半島経由でシュリヴィジャヤ初期(7世紀末ごろ)持ち込んだナーランダを中心とする北インド系の大乗仏教はいわば「迷子」になって、我が国では強引に「北伝仏教」のカテゴリーに入れられている。チベットを源流とする「密教」もこのマレー半島経由でもたらされたと考えられる。

それらは皆「北伝仏教」とされる。奇妙な定義づけといわざるを得ない。日本の仏教学者は仏教伝来の歴史的事実に無関心なのだろうか。それで国民に仏教を伝えることには差支えないというならそれはそれで結構だが「真実不虚」とはいかないであろう。

マレー半島の仏足跡


どこに最初の仏教の布教が行われたかは学問的には定かでない。その開始時期も定かでない。それらは今後の研究課題といえるが、将来何らかの解答が得られる保証はない。しかし、其の手がかりとしてタイの各地に存在する仏足跡(石)が存在する。

世界の仏足石の歴史をたどれば、岩盤にブッダの足型を彫りこんだものが最初である。それがいつ作成されたかについては確証がないが、タイには同様の仏足跡が複数存在する。中には比較的後期に作られたものもあるかもしれないが、現在みられる素朴な原始的タイプの仏足石はおそらく紀元後まもなくもたらされた可能性がある。

南タイに即していくつかの例を見てみよう。

(例1、Wat Kraison Khetharamの仏足石)上の大型のもののまえに小型のものが作られていた。



(例2、チャイヤーの山中の仏足石,2か所)チャイヤーの初期の仏足石である。


クライソン寺とチャイヤーで丸型の原始的な形状の仏足石が発見された。クライソン寺のものは上記の仏足石の近くで松久保秀胤師が偶然発見したものである。それとは別にやや大型の岩盤型のものがある。チャイヤーのものは古くから存在が知られ、チャイヤー国立博物館職員が所在場所を教えてくれたものである(撮影者は小山直之氏)。

これらの仏足石は岩盤にブッダの足型を単に彫りこんだだけのものである。同様のものはほかにも例があるはずである。

マレー半島部、特にクラ地峡の周辺の港湾も使われた。それは東側に出るのに距離が短かったからである。東側の港としてはチュンポンががる。チュンポンにも岩盤に刻み込んだ初期の仏足石がみられるし、古代の遺跡としてはKhao Sam Kaeoが有名である。それはチュンポン地区の初期のインド人集落があった場所であり、ビーズの加工も行われていた。2005年から09年にかけてタイとフランスの共同発掘調査が行われた。

クラ地峡⇒チュンポン経由のマレー半島横断通商路はせいぜい5世紀までで、扶南後期(盤盤への亡命期を含む)、室利仏逝期にはマレー半島横断通商路は南下し、タクアパ⇒チャイヤがメイン・ルートになってしまった。チャイヤーのあるバンドン湾は懐が広く、海賊が外からやってきてもどこを襲撃すべきか目標がなかなか定まらなかったであろう。おまけにサムイ島には守備を固める海軍基地があり、バンドン湾の入り口付近で外敵は食い止められてしまう。

こういう通商ルートの変更を行ったのは扶南王国である。扶南の都合に合わせてタクアパとバンドン湾を結ぶルートが確立されたと考えてよい。このルートのマレー半島部が「盤盤」國にあたるのである。

4世紀末からはベンガル湾を直接横断する航路が開発されて南のケダが商業港や季節風待ちの停泊港として商人に多用されるようになる。ケダに出入りしていた商人(船)は南インド系、セイロン系が多かったことであろう。ケダからはソンクラ、パタニというルートが多用されるようになる。これを利用していたのは「干陀利」「赤土」「丹丹」といった国々である。彼らは後に「室利仏逝」に統一されてしまう。その統合が完了したのは660年頃である。ケダは歴史的に扶南の直接支配を受けていなかったものと考えられる。

その頃はもチュンポンは港湾としてはすっかり忘れ去られた存在になっていた。チュンポン港は手狭であり、かつ外敵(海賊など)からの防御に弱かったことが考えられよう。ただし、西暦の初めころははインド商人はクラ地峡を重視していたことは間違いない。だからこの地域にもビーズ玉の加工工場を作ったのである。

初期の小型の仏足石は山上にあったり、あるいは港湾の近くの海岸の岩にあったりして「奇跡的に現在まで残った」というえる代物が多いためかあまり写真を見ることができない。しかし、現存地だけはおおよそわかる。熱心な地元の仏教徒がいまだに「崇拝の対象」としているからだ。しかし、それらは多くは町の真ん中にはない。あるとすれば新たに作られたか作り替えられたものが多い。平地にも存在したであろうことは確かだが千年以上の歳月の中で度重なる洪水被害などにあい、土砂に埋没してしまったものも少なくないであろう。

初期の仏足石の実例としては南タイではタクアパ
(Wat Narai Nikaram=下の左の写真)にも存在する。真ん中の写真はパンガーに近い4118号線から少し入ったWat Rat Upatham (Wat Bang Riang)という観音菩薩を祀った大きなお寺のものである。岩に彫って造形したもののようです(あるいは岩盤に彫り込まれたものを切り取ったものか?)。塗装を施したのちに本殿の中に安置したものであろうと思われます。「法輪」が刻まれています。ほかに小型の岩盤に掘ったものはチャイヤーにもまたスラタニ市カンチャナディット(Wat Si Surat)にもある。サトン県、ソンクラ、ヤラなどにも存在する。西海岸でインド人が古代から利用していた港やその周辺の島などには「素朴型」仏足石は現在でも残っているのである。それらはいずれも港湾近くとか通商路出入り口か中継点に近い位置にある。仏教徒の集落が近くにあったことを物語っている。

たとえば、スラタニ県の西部の
Ban Ta KhunWat Kraison Khetaramでは初期のものではあるがやや大型(1.5m)の仏足石があり、内部に小型の仏足が3個掘り込んであるという珍しいものが存在する。ここは内陸部に入っているが、かつてマレー半島通商路の要路にインド人集落があった名残であるとみることができる。現在はメインの国道から外れてしまい、寺自体も寂れているが仏足跡自体は寺の裏側にある小高い山の上に現存している。


上の写真の上部左側のものはタクアパの
Wat Narai Nikakaramのものである。もともとは自然石の岩盤をくりぬいたものであったが、後に仏足石の部分だけ切り取って寺院に安置したものである。中央はパンガー県のThap Put地区にあるWat Rat Upathamという観世音菩薩を祀った大きな美しい寺院の本堂に飾られている仏足石で中央部に法輪が見える。近くにあったものを切り取って装飾を施してここに安置したに相違ない。

下はスラタニ県西部の
Wat Kraison Khetaramの裏山の自然の岩盤に彫りこまれたもので、上の写真の僧侶の背中部分のくぼみがそれである。長さは1.5m位はあったと思う。最後の写真は松久保調査団が撮影したクライソン寺のものでたまっていた水を掻きだした後の貴重な写真である。内部にさらに3個の中・小型の仏足跡が刻まれている珍しいしいものである。これはのちの「シー・ロイ(4段)」仏足石の原型といえるかもしれない。この地はタクアパ⇒チャイヤー通路の中継点であったと考えられる。この地におそらくモン族の集落があり、インド人も加わり、「流通の中継点」としての機能があったと考えられます。上の右端で僧侶の背中にあるものです。水を掻い出したら小型の仏足跡がでてきました。)





仏足跡の所在地を調べるのは容易でない。自力では調べられるのはごく一部にしか過ぎない。それでもグーグルなどで検索すると「有名」仏足跡が50か所ぐらいは見つかる。しかし、それらは世に知られたものであり、多くはアユタヤ王朝以降に作られた「絢爛豪華」なものが多い。アユタヤ王朝は全国を支配するにあたったテラヴァダ仏教(セイロンから輸入された上座部仏教)をいわば国家的な宗教として採用し、国民に仏足跡を崇拝させた。

同時に国民の大部分が一度は僧院で出家生活を送るというような「道徳的な義務」を習慣化させていった。僧院は貧困家庭の男子にとっては無料の学校でもあった。

もちろん仏教寺院も各地に作られ、仏像も設置されたが、それまでに存在した仏足跡を利用するほうがコストが安いというメリットがあった。仏足跡は露天のものも少なくないし、安置する建物も小型のものがほとんどである。

アユタヤ王朝は仏足跡の「総本山」をサラブリ(Sara Buri)に置き、多くのタイ人がそこに参拝するような大型で華麗な特別の施設を建設した。日本における伊勢神宮や出雲大社のような一大神殿である。それと似たような「神殿」が各地に建設された。プラ・プタバット(Phra Putthabat=神聖なブッダの足跡)と呼ばれるものである。それらの実例がグーグルなどで検索できる(buddha footprintとかphra phuttabat).。



上の左の写真はバンコクのWat Mahathatのものである。中央のの写真はサラブリにある仏足跡であり、タイの仏足跡の「代表」ともいうべきものであり、王室の手厚い保護を受けてきた。3番目の写真はランプン市にあるハリプンチャイ寺院のシー・ロイ(4段重ね)の仏足石で巨大化されたものである。最後の写真はチェンマイの北方にある有名なシー・ロイ(4段) Phra Phutthbatであり、複雑怪奇な形状から「鷹ノ巣」の異名が付けられている。(いずれも筆者が撮影)。

ところが、当初インドの仏僧がマレー半島に伝えた「仏足石」は、素朴なデザインで岩盤にブッダの足型を彫りこんだ。それらは現在でも意外に数多く残されている。タイで出版されているいくつかの仏足跡の書物にも所在地が掲載されている。それらに引用されている図版をみると、初期のものは自然石(岩)に刻まれた「足型」だけだが、そのうち足の中央部に「法輪」が記されたものが出現する。プラチンブリの「歴史公園」で展示されているものがその典型である(小山直之氏撮影)。




さらにはセイロンの直接的な影響であろうが、仏足跡(石というイメージからかけ離れる)大型のものが出現する。それには法輪のほかに108箇の吉祥紋といわれる装飾文様が刻まれる。さらに時代が下り、現在のラタナコシン(バンコク)王朝になると、金属製で小型だが優美なデザインの仏足跡が出現する。それらは持ち運びが可能なので、かなり高価な値段で取引されるものもあるという。

ビルマからドヴァラヴァティ(モン族の王国)に伝わった初期的な仏足跡も天然石(岩)に単にブッダの足型を彫り込んだものがほとんどであったものと思われる。これはターク県あたりに残された仏足跡を精査してみなければならない。現在でもいくつかの写真でそれを確認することができる。多分クラビなどの南タイのものと大差ないはずである。起源は同じくインド北部(ナーランダ地方など)のものであろう。このビルマ経由の「素朴型」仏足石はチェンマイあたりにももたらされている。山の岩盤に彫られているものがそれである。

それが、仏足石に「法輪」が刻まれるようになり、さらには法輪の周囲に装飾模様が付けられ(薬師寺仏足跡参照)、その後仏足跡が大型化し「升目」模様に「装飾(吉祥紋)」が並べられ(108個)るようになった。升目が現れるのはビルマが最も古いようである。現在ではヤンゴンから280Km離れたピイ町に保管されているタイエキッタラ時代(5~9世紀)のものが最古のものと思われる。

108吉祥紋の升目模様の仏足石はインド・ブッダガヤのマハボディ寺(Mahabodhi Temple)が最初のものであるという主張がヴァージニア・マキーン(Virginia KcKeen Di Cr0cco)女史によってなされている。”Footprints of the Buddhas of this era in Thailand"p4.4. それは11世紀の最後の10年(1090年代)に作られたものだという。しかし、それは下記のピイ町の仏足石の存在によって否定される。既にピュー(驃)王国時代に升目仏足石は出現していたものと考えられる。

ピュー(驃)王国は802年に大歌舞団を率いて唐王朝を訪問し大歓迎を受けた様は白楽天の詩や『新唐書』に活写されているが、832年に北の大国南詔に滅ぼされた。南詔に服属していたシナ・チベット語族の民族はイラワジ川中流域に集まりパガン(バガン)王国を849年に建設した。アリマンダナ王国である。

1044年にアノーヤター王(1044~77)が即位すると急速に勢力を拡大し、モン族の居住する下ビルマも其の勢力圏に収めた。当時パガンにはアーリ派(大乗仏教)が勢力を張っていたがアノーヤータ王は彼らを排除し、タトンによっていたモン族が信仰していた上座部仏教に置き換えた。

パガン朝は1044~1289/1299まで栄えたが多くのパゴダを建設し、別名「建寺王国」といわれた。タトンのモン族の仏僧をパガンに集め、モン語をベースにビルマ語を文字化した。また、パーリ語仏典を収集した。パガン朝はモンゴルのフビライによって滅ぼされた。



右のものはバガンの考古学博物館に所蔵されており11世紀のものとみられている。

タイでは最古の「升目」模様仏足石はスコタイ地域に存在するものであろう。シーサッチャナライのWat Mahathat のものなどはその一つではないだろうか。時代はスコタイ期でおそらく14世紀の初めごろのものであろう。「升目」模様そのものはインドやスリランカよりもビルマで先にできたように見受けられる。しかし、ビルマのものはスリランカに原型が求められるとも言われている。108吉祥紋の根本思想は明らかではない。現存するものは吉祥紋の形に変化が多い。

(中部・北部の仏足跡探訪記を参照してください。)