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タイ中部・北部の仏足跡探訪(2013年4月28日〜5月9日の現地調査)


南タイの仏足石については松久保秀胤先生の数次にわたる調査団の現地調査もあり、実態はかなり詳しく解明されつつある。私自身もシュリヴィジャヤ史研究の現地調査も兼ねてしばしば南タイに出かけ、仏足跡も見てきた。この地域は仏教伝来の過去にさかのぼって仏足跡も制作され今日に残っているという特徴がある。

結論的には各港付近の丘の上の岩盤に彫りこまれた足型だけの素朴な仏足跡が多く、またスコタイ・アユタヤ以降に作られた装飾も豪華な大型のものも存在する。しかし、それら大型仏足石(跡)も多くはその近くに原始的なものが存在するか、その古いもののうえに新しい仏足跡を乗せた例もある。

今回の私の旅の目的は、タイ大陸部でビルマとのつながりの深い西部、中部と北部の一部にある仏足跡がいかなるものであるかを観察したいと思って出かけた。古代の東西貿易は主にベンガル地方のタムラリピテ(現在のカルカッタの近く)港からインドの物産をビルマ沿岸に運び、それをチャオプラヤ水系などを使ってタイ湾にまで陸送し、その多くは扶南がオケオ港に運び、そこから中国やインドシナ半島に運ぶというルートが確立していた。

当時、ビルマ沿岸で貿易に従事していた民族は「モン族」であり、彼らはインドの宗教(ヒンドゥー教、仏教)の影響を交流の当初から(紀元前数世紀)受けていたことは間違いない。

古来ビルマ側のテナセリム(Tennaserim)は頓遜として漢籍に記され、3世紀に扶南の范師蔓の開発した手漕ぎのスピード・ボートの海軍によって制圧された主要港の1つである。ここには毎日1万人の商人が集い、無いものはないとさえいわれたところである。

『梁書』は范師蔓の事績について次のように語っている。「蔓勇健有権略、復以兵威攻伐傍国咸服属之。自号扶南大王。乃治作大船、窮漲海、攻屈都昆、九雅、典孫等十余國、開地五六千里・・・」とある。扶南は領地の拡大を目指したものではなく、その主眼はあくまで貿易上の拠点の拡大である。そのために当時の交易上の要地を支配下に収めたのである。この戦略は後のシュリヴィジャヤにも受け継がれた。彼らは軍事力としては徹底的に海軍力の強化と維持に注力した。海も陸もという欲張った考え方ではない。

そのテナセリムでインドなどの外国商人から仕入れた財貨は三仏塔(スリー・パゴダ)峠を越えてカンチャナブリに運ばれた。そこからかメクロン川(Maeklong River)を使って船で下流のラチャブリやペチャブリ(ペブリ)に運ばれた。そこからタイ湾を使い扶南の主要港であるオケオまで運ばれ、さらに中国への朝貢も最初はオケオ発の船で運ばれたものと推察される。その後、バンドン湾のチャイヤーやスラタニ港にも運ばれるようになったに相違ない。西方からの輸入品はこちらのほうが便利である。タクアパからの積荷もここに来る。

もう一つのビルマとの交流地点は北部のターク県のメー・ソット(Mae Sot)である。これもメー・ソットからターク市まで財貨が運ばれ、それがピン川を使ってチャオプラヤ水系を利用してタイ湾にまで出て、同じくオケオまで運ばれたものであろう。また、タークからスコタイ方面にも運ばれた。タークは交通の要衝であった。

この地域に居住し支配していたのはモン族である。したがってモン族は仏教の受容も早かったはずであり、紀元1〜2世紀にはすでに始まっていたとみてよいであろう。モン族の集落にはインド商人や金属加工の職人などが合流した。そこにインド人の仏僧がベンガル地方からやってきた。

仏教の信仰を広めるためには何らかの「崇拝の対象」が必要となる。仏像がこの地に本格的に登場するのはおそらく6世紀になってからであろうから、その前は「仏足跡(石)」を作って拝んだと考えられる。これは南タイでも同じことである。

また、扶南によってタイ湾への出口をふさがれたモン族は内陸の深くに浸透し、中国の雲南省に活路を開いたものと思われる。チェンマイの近くのハリプンチャイはモン族の王国があった場所として知られている。その地域は後にクメールのチェンラ(真臘)がモン族を支配下に収め、クメール王国も雲南省への通商路を確保した。漢籍にみる「陸真臘」はこのルートを使って出入りしていたクメール王国の存在を示唆するものではなかろうか。

私がまず行ってみたかったのはカンチャナブリ・ルートである。スリー・パゴダ・パスはバンコクから450Kmちかくあり、日帰りは困難とされバンコクの日本人駐在員も現地を見た人は意外に少ない。私自身もカンチャナブリ市までは映画「戦場に架ける橋」で有名であり、犠牲になった英豪軍などの兵士の墓が累々としてあることで以前訪ねたことがあるが、そこから先に行こうなどとは夢想だにしなかった。

私の今回の計画では29日にレンタカーを11日間借りてまずカンチャナブリに行き、その40Kmほど先にあるPrasart Mueang Singという歴史公園(前に行ったことがある)に行き、そこの園長のブンヤリットさんを訪ね、いろいろ相談をしながら、カンチャナブリの調査を行おうと考えていた。その話を友人の鈴木力(ちから)氏にしたところ、スリー・パゴダにはまだいったことがないので、一度トライしてみますかという話になってしまった。道中2〜3か所ある仏足石をみて時間切れになったら引き返せばよいなどと無責任な提案をした私が悪かったのである。

8時半にバンコクのホテル前を出て、ベテランの運転手さんが道をよくご存じで必死に頑張ってくれたが昼時になってもまだ峠までは到着できなかった。峠近くの途中にSangkhlaburi Wat Wang Wiwakarmというモン族の建てた寺院に寄った。そこに庭を箒で掃いていた若い仏僧がいたので、仏足跡はどこかと尋ねたら、実に流暢な英語の返事が返ってきた。彼は現在イギリスに留学中であるが休暇で一時帰国しており、来週またイギリスに帰るのだという。

立派な広大な寺院であり、仏足跡は車で数分先の別院に展示されているという。モン族の有力者が寄進して建てたものであろう。彼に本部の寺院内を案内してもらい、一連のガラス玉の数珠を買い求め(200B)、それを首にぶら下げ、私はその後の旅を続けた。

そのご利益(りやく)たるや絶大なものがあった。ともかく翌日(29日)以降の旅を無事にこなし、5月16日のSiam Societyでの講演会も成功裏に終わった。

ここの仏足跡そのものは大判のごく普通のものだったが、昔は別なものが存在していたであろうことは間違いない。白い守護の獅子像がある後ろの建物に仏足跡はあった。平凡な形の大型仏足跡であり、これはどう見ても近世の作品である。もともと古代のものもあったに相違ない。



その後、スリー・パゴダの現場に行ったが上の写真に見るごとく、極めて小型のものであった。まるでテントのような形である。その付近に日泰寺という寺があり、日本政府が資金を出して、この地域で戦時中に亡くなられた両軍兵士の霊を慰めるものだという。

その日はいそいでバンコクに引き返したが、途中カンチャナブリで簡素な夕食をとったりして、バンコクに帰ったのは夜の10時を回っていた。運転手さんは1日900Kmも走ったことになる。まことに申し訳ないことであった。

4月29日にドンムアン空港に早めに出かけ11日間契約でAvisのレンタル・カーを借りる。総額約4万円(保険一切込)でチェンマイの営業所に満タンで返す契約。いったらさらに追加で1件事故保険に入らされる。2400Bほど。これがあれば少額負担の事故も一切免責になるという。レンタ・カーの契約は日本でしていった。

10時半に車(Toyota Vios 1500CC)を借りだしたのはいいが、アユタヤ方面にどういったらよいかさっぱりわからない。途中で聞いても先に行ってからUターンしろというから空港内の道路を走り回ったが一向に出口は見えない。ようやく最後にわかったのは一旦バンコク方面の道路に出てから2Kmほど走り、それからUターンしろということだった。そう教えてくれる人は誰もいなくて空港内をウロウロ走り回り30分近く時間をロスしてしまった。

高速道路に乗りアユタヤ方面に向かい、途中で国道346号線に乗ってカンチャナブリを目指す。ところがいつの間にかこの国道346号という標識がなくなってしまう。スパンブリ方面の国道に乗ってしまったらしい。そこは鉄道の建設中でものすごい交通渋滞に巻き込まれてしまう。それでも何とかナコム・パトム行の国道に乗ることができた。その時はすでに12時になっていた。

ナコム・パトムに行けばそこからはカンチャナブリまで行ける。カンチャナブリからさらに北に40Kmほどいけばブンヤリットさんがいるプラサート・ムアン・シン歴史公園にまで行けるはずであった。到着時刻は2時半ごろと予想していた。しかし、公園への入り口が見当たらない。入り口を見つけるのにその前を2往復ほどして近くの薬屋の御主人に聞いてようやく見つけることができた。ついたら4時過ぎである。それからブンヤリットさんと話をしていたら5時になってしまった。

ブンヤリットさんはシラパコン大学卒業後、軍隊に入り「大尉」にまで昇進した。その後美術局(Fine Arts Department)に入り、プーケットに10年近くおられ、”Thung Tuk"という英語・タイ語併記の本を最近出版された。これはタクアパ⇒チャイヤー間の通商路にも触れている名著である。タクアパの外港にあたるココ島の中心部がトゥン・トクと呼ばれ、一大遺跡になっていてビーズ玉などが発掘された。私が行った時も青い色のペルシャ陶器の破片なども落ちていた。これは乗組員の飲料水を入れたものであろう。

ブンヤリットさんは今夜はどこに泊まる予定かと聞く。ホテルをこれから探すのだといったら、それなら公園内にあるロッジに泊まれという。宿泊費は600Bでエアコン・シャワー付きで静かだという。ただし飯は一切つかないから国道近くのレストランに行けという。国道近くにエアコンなしの吹き抜けの大きめのレストランがあり、そこでカオパット(焼き飯)とスープで晩飯を済ませ(ほかに大したメニューはない)、翌朝食べようと思い、カオ・スアイ(白米ごはん)を買い、ロッジにもどる。

インターネットも机のある場所にだけWifiが通じていた。シャワーを浴び洗濯をして寝る。1時間ごとに夜警が鳴り物を鳴らしながら外を通る。それでも熟睡できた。翌朝7時にブンヤリットさんが運転手つきの車でやってくる。これからカンチャナブリ市にもどり3か所の仏足跡を見に行くという。私は自分の車でついていく。



上の写真はロッジの前を流れるメクロン川である。早朝に漁師が網で魚をとっていた。水量は豊かで、カンチャナブリ市内を通り、ラチャブリに通じている。古代通商路の動脈である。このMuang Sing歴史公園は煉瓦の土塁に囲まれていて商品の集積場所であり、大乗仏教の寺院があった。モン族が作ったものであろうが、のちにクメールが占領して使っていた。一種の砦兼倉庫である。

4月30日はブンヤリットさんの案内でカンチャナブリ市周辺の3か所を見ることができた。最初に行ったのはカンチャナブリ市から20kmほど南の方に行ったPhra Thaen Dongruang Forest Park内の寺院であった。かなり大きい規模で仏足跡は2か所に分かれて存在した。



上の写真で最初のものは仏足跡ではなく、ブッダの涅槃の時のベッドの模型だという。5〜6mのかなり大きいものである。ブッダのベッドなるものを見たことある人がいたとも思えぬが並はずれて巨大なものであった。これを「仏足跡」として紹介した人もいるらしいが、同時に作られた仏足跡がこの寺には存在する。次の写真はアユタヤ時代に作られた仏足跡であり、細密な模様が美しく描かれている。長さは約1.5m。鉄格子のなかにの中に立てかけてあり、カメラを格子の中に突っ込んで撮影した。

若い女性が拝んでいるのは少し離れた小高い山の上にあるもう一つの仏足石である(Roy Phra Phutthabath Jamlong)。これは今さっき見たものとほぼ同時代のものであろう。かなり素朴な風格があった。125cmX50cmというサイズであった。女性の信者が次々現れて、何か願い事をしながらお参りしていくようである。

次に向かったのがタ・ムアン(Tha Muang)郡にあるWat Tham Suea(虎洞窟寺院)であり、これはクラビに同名の寺(1279段の石段のうえ)がある。タ(Tha)とは港や船着き場という意味がある。寺院の玄関には白い虎の像がいくつかおいてある。それよりも驚くのはやけに高い仏塔が2本もて建っていたことである。塔は頂上まで登れる。ブンヤリットさんはてっぺんまで行ったが、脚力に自身の無い私は下でウロウロしていた。私の関心事は仏足跡のみであり、カンチャナブリの眺めなどは2の次であった。

ところが仏足跡がどこを見ても見つからない。すると塔のてっぺんから降りてきたブンヤリットさんが連れて行ってくれたのは井戸だとばかり思っていたところである。それは岩盤を大きく深くくりぬいたもので、長さが3m近くあった。屋根がかかっていて近くにコップなどが並べてあったので私はてっきり井戸だと思って見過ごしていたのである。確かにヨク見ると仏足跡である。これは岩盤彫りこみ式仏足跡としてはタイでは最大のものではないだろうか。水は飲めるらしく、硬貨の投げ入れ禁止と書いてある。



次にブンヤリットさんが案内してくれたのはカンチャナブリ市南にある Wat Chai Chumpon Songkranである。これはやたらに繁盛している寺で人の出入りも多く、何となく商売気がありそうな雰囲気を醸し出している。きれいなお堂に20世紀初め(1912年)に作られたという4段仏足跡が置かれていた。あとから写真を見ると写りが良く、別物のような感じである。ひとことでいえば、近代的に経営されている寺院である。



昼飯をカンチャナブリの川沿いのレストランで食べて、そこでブンヤリットさんとお別れして、いよいよ一人旅の出発である。目指すは古都ウ・トン郊外にある有名な Wat Khao Di Salakである。順調にいけばカンチャナブリから1時間半もあれば悠々行けたはずであった。ところが最初から道を間違えてしまい、30分も無駄な道を走り、往復1時間もロスしてしまった。本来国道の番号をしっかり記憶に入れていれば間違いないようなところであった。

どこを通ってもいけるはずだと高をくくっていたのが間違いのもとであり、少し走ってからでも車を止めて地図を確認すべきだった。それでもようやく本来の道に戻りウ・トンを目指した。ウ・トンについてから道が2又に分かれており、逆の方向に行ってしまった。途中までカオ・ディ・サラック行きの道路標識がありながら、肝心の2叉路でそれがないというのもひどい話である。こういことはその後あちこちであった。道路標識を作った人の親切心の欠如である。

戻って道を聞きながらカオ・ディ・サラックを目指したが、これも左折すべき肝心なところで道路標識が突如タイ語の小さい文字に代わってしまう。また行き過ぎて、Uターンしてしばらく走りふと前方右手の山の方を見ると頂上に仏塔が見えてくる。そこにどう入るべきかがわからず、たまたま道端で立ち話をしていた中年のご婦人に聞くとすぐ後ろに道があり、そこをまっすぐ行くと山のてっぺんまで行けるとのことであった。

現場に着いたのは午後4時少し前で、3時もかかってしまった。参拝客は誰もいない。近くでこの寺の管理人と思しき若いご婦人が草むらで子どもと遊んでいた。いい生活である。お堂に入ると、幸い西日があたり、仏足跡が一番美しく見える時間であった。ウ・トンの田園風景は美しく、静かであった。




中央の写真に写っている影は2体の仏像の影である。これはFBにも乗せた。

ウ・トン王は1351年にアユタヤ王朝を開いた。この仏足石はおそらくその前後に作られたものであろう。凸面状の足底は塗料で見えないが、小さな円形の吉祥紋が108個付けられている。法輪系のものやコインのような文様などさまざまである。サイズは1.18mx0.79mであり。(VirginiaMcKeen. p60)

次はスパンブリまでいってホテルを探さなければならない。5時半ごろ市内に入ったが、ホテルらしきものが見当たらず、たまたま国道に近いところのKhum Supanとかいう大きなホテルがあり、そこに泊まることにした。部屋にはシャワーだけでWifiはロビーでしか使えない。朝飯付きで1000Bであった。部屋に入ったのが6時すぎであり、疲れ果てて翌日は休みにしようと思い、アユタヤで待っていてくれる友人にアユタヤには行けそうもないと電話を入れた。

アユタヤでも仏足跡を見に行くつもりだったが、すでに運壽純平氏が主な仏足跡は撮影して送ってくれていたので、後日アユタヤに行って残りを見に行くこととにして次のナコン・サワンを目指すことにした。アユタヤまでいったん戻ってしまうと、そこから先に行く気力が失せてしまう心配もあった。それだけ、最初からタイの道路にはてこずったともいえる。

翌朝の朝飯はひどいものであった。今回タイで泊まったホテルでは最低であった。それでも1000Bで雨露をしのげたのだから文句は言えない。シャワーを浴びて、冷房の効いた部屋で眠れるだけで大満足である。近くの通りに面した大食堂で晩飯を食べたが、オカマの中年男が注文を取りに来たのにはゾッとした。ここにも「男女雇用機会均等法」みたいなものがあるのだろうか?

5月1日はスパンブリで休養しようと思ったがホテルの居心地が芳しくないので先に進みナコン・サワンまで行くことにした。町中に入ると大通りこ面したこぎれいなホテルがあったのでそこに泊まることにした。Aramis Hotelに昼頃チェック・インして近くのレストランでバーミーナムを食べ、ホテルで昼寝をする。このホテルのレストランは朝飯しか出さない。午後3時ごろ起き上がって地図を頼りに市内に2か所あることになっている仏足石を見に行く。

一つは名刹Wat Khiri Wongである。さんざ道に迷った挙句、山の上の本堂に着いたら既に夕刻で扉が締まっており、翌朝再訪することにした。5月2日は朝食を早めに済ませ、再訪すると今度は開いていた。やや底が深い仏足跡である。私はすっかり気分をよくして仏像の前で正座したところを写真にとってもらった。

首にかけているのはカンチャナブリの奥地のSangkhlaburi Wat Wang Wiwakarm寺で買い求めたガラス玉の数珠である。安全を願ってその後もいつも首にかけていた。こういうものを首にかけてシカツメらしい顔をするのは生まれて初めてである。家にも数珠などおいてない。



この近くの寺にも仏足跡があるというので行って見たが山上のお堂には鍵がかあっており、人気もないので仕方なく、次のカンペンペットを目指した。

下の写真はFine Arts Department のコン・ケーン代表のジャルックさんが撮影して送ってくれた(2014-5-31)ナコンサワンのWat Woranat Banphut=Khao Kopの仏足跡である。2面ともそうらしい。升目模様がついており、スコタイのリータイ王が1375年に設置したものという。Wat Woranar Banphutは町から近い海抜186mの小高い山の上にある。私はそれを見過ごしてしまった。








本当はKhampheng Phetの博物館にでも寄ってから、そこでさらに1泊しようと思っていたが高速道路からカンペンペットへの降り口が見つからずTakの近くまで来てしまった。するとメー・ソット行の標識が目の前にあった。そこでメーソット(Mae Sot)まで100Km以上を一気に行くことにした。途中はカーブした山道の連続である。

それにしても、まことにのんきな一人旅である。メエー・ソットではホテルの場所もわからないので町役場のようなところに駐車し、ホテルの場所を教えてもらった。男の職員がよく来たといいながら、丁寧に地図を描いてくれた。メー・ソット第一のホテルがCentra Mae Sot Hill Resortであり、1泊1200Bであった。朝飯付きでバス・タブはないが、Wifi無料で申し分なかった。人口も多く、意外に開けた町であった。郊外に出ると水田も広がり、古代から人が多く住んでいたとおもわれる。



ところがメー・ソットでは仏足跡が1つも見つからなかった。誰も正確な知識を持っている人にめぐり会わなかった。地図もイイカゲンであった。ホテルのマネージャーに聞いてもこの辺だといって印をつけてくれたが、そんなことで行きつけるほど生易しい相手ではなかった。Googleにはメー・ソットの仏足石の写真が出ている。それは多分岩盤に彫ったものでガラスの箱が被せてあった。ともかく私はメー・ソットでは完敗に終わった。写真がホテルのものだけとは、あまりにも惨めである。

5月3日は早起きして、なおも近くの寺を探したが、見つからないので仕方なく下山することとし、ターク市に向かった。しかし、メー・ソットから10Kmほどのところに1140号という道がありそこにはBan Phra That(寺院村)というところにWat Phrathat Chai Mongkonという寺があると資料に出ていたので行ってみることにした。しかし、左に折れる道はあったものの道路標識は全くなく、狭い入口しかない。一旦行き過ぎたがUターンして念のためと思って警察官に聞いてみると確かに1140号道路だという。

そこで舗装もガタガタの道に乗り入れると奥は意外に広く、人家も多い。曲がりくねった道を5〜6Km進むとやや大きな寺(Wat Chetawan Khiri)があり、そこで聞くと仏足石のある寺ならそこから数キロ先だという。せっかくここまで来たのだからと今更引き返す気にもならず、前に進むとやがて小さな寺が現れた。年配の坊さんに聞くと「日本からよくぞここまで来てくれた」とすっかり喜んでくれた。だが、仏足石はさらに奥の別院にあるので子供のお坊さん(ピー君13歳)を案内につけるという。

別院は曲がりくねった道をさらに1キロほど進んだところにあった。その別院は仏足石を納めただけの小さい建物があり、中年の僧が一人で番人を務めていた。私はその長さ60pほど(足の部分)のハスの花をかたどった可憐な仏足跡も模様を見ておどろいた。それはまさしくビルマ風であった。爪の文様が「巻貝」になっているのである。こういう爪の図案はタイでは初めて見た。おそらくビルマから輸入されたものではあるまいか?足の素材は白い石で「大理石」のようであった。



私はすっかり気分を良くしてタークの町に乗り込んだ。メソットのさんざんな失敗を一気に取り戻した気分であった。このピー君という小僧さんもまことに気が利いていて頭の良さそうな子供であった。

5月3日はターク市のViangtak River Side Hotelに1泊した。朝飯付きだがバスタブなしで1泊1000Bであった。このホテルは川沿いを車で走りながら見つけた。ゆったりした良いホテルであった。2日はついたら夕方になってしまったので町でゴム製草履(50B)など買い、ドリアン146Bなども買いピン川べりに腰を下ろして夕食代わりにいただいた。



5月4日は朝食もそこそこにホテルの対岸にあるWat Doi Koi Khao Keaoという古い寺院に出かけた。小高い丘の上にあり、かなり荒れた感じの寺であった。仏足石は一応足指もきちんと彫ってあるはあるが、素朴なものであり全長は60p程であった。よくいままで保存されてきたものである。近くに置かれていた4体の仏像も相当古いものであった。



ターク市の近くには Khao Lon Bhuddha's Footprintがあり、試みたが、近くのWat Boromahathatにまではたどりついたが、そこから先5Kmと教わったが、あやふやで、かなり長距離山道を走ったがついに到達でき無かった。近くまで行きながら現場をとらえられなかったのは残念である。

ターク市の近くにはまだいくつか行けそうな仏足石はあったがなかなかたどり着けないので、あきらめて国道1号線を北上しランパン(Lampang)県を目指してハイウエイを走っていると、メー・プリック(Mae Prik)郡のWat Phra Phuthabat Wang Tuangを示す標識が見えた。そこで左折し、近くの小学校に駐車し、アンパンと牛乳で遅い昼食を済ませ、地図を見ていると用務員の中年女性が近づいてきたので道を尋ねると、ここから2Km先の右手だという。

たしかに、Wat Wangtuangはあった。車で境内に入っていくと、家族連れの車が来ていた。少し奥まで入ると丘の頂上に向かっておなじみの石段が見えてきた。これを歩いて登らなければならいのかと思案していると、左側のテントの中に仏足跡があるではないか。喜んで写真をとった。

しかし、後から考えると、あの山の上には当初の原始的な仏足跡があったのではないかと思ったが後の祭りであった。何があるか実見するのがリサーチャーのあるべき姿である。体力の消耗など気にするのはもってのほかであった。猛反省することしきり。

この寺の脇には名前は知らないが川が流れている。昔は川が交通の手段であったから、信徒は川を小舟で参拝にやってに相違ない。寺全体古風だが簡素でよい雰囲気が漂っていた。ちなみに仏足跡を拝みに来たのは奥さんだけでご主人と子供はほかのところで写真などとっていて仏足跡には近づこうともしなかった。



もともと山の上に古い仏足跡があったが、展示されていたものは近年、新しく作り替えられたものであろう。吉祥紋もやけにくっきり見える。
その後、1号線の反対側のMae Wa村の仏足跡を探したがどうしても行きつかなかった。たちまち午後3時近くになってしまったので近くのトーエン(Thoen郡の中心地)でホテルを探したが、あまりにひどく、汚いうえにエアコンも利いていないのでやめにして、ランパン市でホテルを探すことにした。

トーエンからランパンまではハイウエイで83Kmである。幸いLampang Wienthong Hotelがすぐに見つかり投宿。良いホテルであり、ここに2泊した。ホテルの隣に日本語の上手なマダムの経営する喫茶店兼レストランががったのでそこで夕食を済ませた。ここのカオパッド(チャーハン)やスープも大変おいしかった。久しぶりに日本語を話したのも食欲を増進させた原因かもしれない。

5月5日Wat Phrathat Lampang Luangという由緒ある歴史的な大寺院を目指す。ここにはバンコクのエメラルド寺院に安置されている「緑石の仏像」がその昔置いてあったという。門前に大きな広場があり、まさに「門前市をなす」にぎわいぶりである。ここは女人禁制という今では珍しい仏足跡があることで知られる。その前にいくつかの寺の仏像などを見て歩く。珍しく日本人の老人のグループがいてタイ人の案内であちこち見ていた。




仏足跡に賽銭箱が覆いかぶさるようにおいてあり、まことに殺風景である。老人の番人がいてカーテンを開けたり閉めたりしている。何か説明してくれるのだがタイ語のためチンプン・カンプンである。仏足跡はやたらに深く彫られたものだが、これも何代目かのものであろう。最初はコンクリートを固めただけの仏足跡に見えたが、砂岩のプレートに彫りこんだものであろう。

そうそうに切り上げてこの寺からやや南にあるWat Khu Doi Nang Taenを目指すがこれまた見つからなかった。さらに足を延ばしてリー郡に行ってみようと試みたが、途中道路工事があり、行き止まりであった。リー郡は仏足跡の数が多いことでしられるが、午後全部が無駄になってしまった。リー郡に入るのはチェンマイから出ている106号線道路が良いことが分かった。

5月6日はランパン市内にあるその名も仏足跡寺(Wat Prabat)に行った。これまた地図を頼りに行ったが、地図を見せても誰もわからない。空港の近くだということだけはわかるが道路の図がまるでイイカゲンであった。しかし、古い寺なので町の老人に聞いてみると、ハイウエイの向こう側で、渡ったところから近いという話であった。



私が行くと獰猛そうな犬の集団が吠えかかってきた。私が名だねても犬は吠え続ける。するとそこのお坊さんが出てきて、犬を静めてくれた。日本から仏足跡を見に来たというと彼は大いに喜んで、仏足跡を納めているお堂のカギを開けてくれた。帰りには冷水の入ったペット・ボトルも持たせてくれた。大いなる感激である。もちろん、些少のタンブンはお供えした。

写真が暗くてよくわからないが、大型の3段仏足跡である。長さは2m弱くらいの大きいものである。ここの英語の達者なお坊さん(ニューヨーク帰りの説明によると、この仏足跡の下には古代から伝わる小型の仏足石が安置されているとのことであった。見てみたいが、それは不可能である。彼に言わせるとこの辺の仏足石はほとんどそういう2重構造になっているのだという。

その日はお隣のランプン(Lam Phun)に泊まろうと町に入り手ごろなホテルを探したがどうしても見つからない。仕方なしに、そこから30Kmほど北のチェンマイにまで足を延ばし、ロイヤル・プリンセス・ホテルに泊まることにした。そこは既にアゴダ経由で9〜12日の4泊の予約をしていたホテルであり、かつレンタカーAvisの事務所があり、そこで10日の朝車を返すことになっていた。

追加の3泊はほぼアゴダ価格に近い値段で泊めてくれることとなった。都合このホテルで7日間の連泊である。朝飯はビュッフェ・スタイルで税・サ込で450B、バンコクよりも高いが内容的にはまあまあである。4日ほど日本の東北弁のオジサマが4人ほどで来ていた。ゴルフをしに来たらしい。すべてを日本語で押し通していた。

5月7日
、この日は今回の旅で最も収穫があった。朝からランプン(Lamphun)までチェンマイから車で30Kmほど走りり、そこからハリプンチャイ寺院(Haripunchai)に行く。ランプン市内であり、標識に従っていくと現地に着くという珍しいケースであった。

ハリプンチャイというのは昔モン族の王国があった場所である。モン族はここを拠点として、中国雲南省との交易を行っていたと考えられる。モン族のもともとの本拠地はビルマから南タイにかけての西海岸であり、それが次第にシャム湾(タイ湾)にもタイ大陸部にも勢力を広げていった。「xxブリ」という地名はモン族の居住地であったところと考えてよい。かれらはクメールに内陸部の拠点を奪われていったのである。



朝から有名なハリプンチャイの4段仏足石を参拝できてすっかり気分を良くして、その足で「前後二連仏足跡」のあるWat Phra Phutthabat Tak Paに向かう。ここはランプン市のやや南にあり、車で小一時間程度のところである。ここも道路標識がしっかりしていてほとんど迷わずに行けた。寺院としてもかなり大きく、地上の本殿以外に、山の上に旧本殿が聳え立っている。

Virginia Mckeen(p27)によればこの2連仏足石の上に657年にハリプンチャイ王国のチャマデヴィ(Chamadevi)女王がお堂を建てたという。それにしては前2.48mX0.97m、後1.77mX0.85mの大型仏足石であり、手入れも優れている。山の上の小型仏足石はさらに古いということになる。6世紀にはモン族の文化レベルは非常に高かったことは確かであろうが、「仏足石の作成年代」についてはやや疑念が残る。今のお堂は1929年に建設されたものである。



山の上の旧本殿もなかなか立派な建物である。あまり手入れは行き届いていない感は免れないが、堂々たる仏塔が聳えている。その近くまで舗装された道路がついている。そこで私は驚くべきものをみた。それは小型の仏足跡である。昔はこれが崇拝の対象になっていたのだ。これよりも前のものはやはり岩盤に刻まれたものであったであろう。



有名仏足跡が1日に2件も見られたので、さらに余勢をかって106号線を南に進み、リー郡に入る。そこでWat Phra Phutthabat Phanamが道路南に見えてきた。地上には顔の長い仏僧の大きな像が立っている。かなりシケタ顔であるが地元民に慕われた名僧なのかもしれない。

その近くには屋台もあり、そこでMiloというココアのようなもの(日本でも売っている)に氷を入れてもらう(15B)。店のおば様たちが興味津々で何しに来たと聞かれるから仏足石を見に来たといったら、あの山のてっぺんにあるという。一息入れてから車で登山である。道は車1台がやっと通れるひどいデコボコ道だたが何とか頂上までたどり着いた。



確かに小さいお堂の中には長さ1m位の仏足石はあった。さらに見ると仏足跡のお堂の礎石に張り付いたような穴がある。よくよく見るとこれは岩盤に刻みこまれた原始的仏足石である。周囲が丁寧に飾られているではないか。危なく見落とすところであった。これは私にとっては大発見であった。この坂道には驚いた。これで普通の道路に出られるのだろうかと一瞬躊躇した。

まだ日が高いので次なる仏足跡の探索に出かけようとした。それはWat Phra Phuthhabat Huai Tomである。たしかに現地には到達できた。しかし、そこは立派な金色の大きな仏塔はあったものの鍵がかかっていて中に入れなかった。しかし、この日は大成果であった。



この時すでに午後4時であった。チェンマイまで引き返したが、ホテルについたら8時になっていた。1時間半ほどチェンマイ市で道に迷っていた。大した目印もなく、一方通行も多いので土地勘のない外国人にはまことに難儀な町である。

5月8日、前日の疲れが取れないので午前中はホテルでゴロ寝して午後から難関のチェンマイ・シー・ロイプタバット(4段仏足跡)に挑むことにした。距離は片道70Kmほどだから大したことあるまいと思って出かけた。途中で入り口がわからなくなり、ようやく住民に教えてもらって本道に入った。16Kmはすごい山道だから気を付けて運転するようにとその人に言われた。

まさに箱根の山の歌に出てくるような「羊腸の小径」の連続である。一応は舗装されており、片側1車線は確保されているがガード・レールもなく、運転を誤ったらただでは済まない。今から「もうひと花」という身分ではないが、転落事故でも起こしたらそれこそ世間の笑いものである。イイカゲン走ったと思ったら、まだ10Kmも残っている。ようやく頂上にたどり着いたらすでに午後4時、山道の日暮れは早い。

それでもまだ2組ほど参拝客が残っていた。上品な感じの年配のご婦人に話しかけられ、一人で運転してきたといったら随分驚いた様子であった。歳を聞かれたので74歳だといったらこれまたびっくりしておられた。頂上の本堂は絢爛豪華そのものであり、仏足跡はそこから少し離れたお堂の中に安置されていた。「鷹ノ巣」の異名通りのグロテスクなすごい形である。



この後帰り道でイノシシの親子連れが道いっぱいに歩いていた。車を止めると右車線により道を開けてくれた。お見送りだったかもしれない。こちらも写真を撮るのを忘れてしまった。帰りは2時間ほどでホテルに着いた。

5月9日、レンタカー最後の日である。疲れたからやめようかとおもったが比較的近場で易しそうな場所があったので出掛けた。チェンマイ北方のサムエン郡(Samoeng)のWat Phra Phutthabat Pakluayである。

Samoeng郡の中心部には地図を頼りに比較的簡単に行けた。交差点に市場があった。そこで聞けばなんということはなかった。店を出している年配の人なら正確に教えてくれる。私は地図に書いてある通りもっと数キロ先だと思って、さっさと市場を通り過ぎた。ところが途中から舗装が切れ、穴ぼこだらけの坂道に入ってしまった。徐行しながら進んだが、これは変だと思って引返し、途中で山岳民族と思しき老人に道を聞いたら、市場の近くだからそこに行ってみろという。

まさにその通りで、携帯電話などを売っている店の親父さんに聞いたら、市場の裏道を右に行けば2Km先にあるという。確かにあった。それはガラスのケースに入った原始素朴型の典型的仏足石であった。これがまさにこの地方の仏足石の原点ともいうべきものであろう。足には金色のペイントが塗られていた。





(これで今回の旅行記はおしまいです。ご愛読ありがとうございました。仏足跡探究の旅はこれからも続けます。ご感想をお聞かせください。 tks@suzukitk.com )