南タイ騒乱の記事(2004〜2009年)までの記事 ←クリック

50.南タイ騒乱の続き
(2010−7以降)

550-54 南タイでゲリラ活動活発化、レンジャー部隊員5名、観光客ら5名死亡(2011-9-17)

50-53 南タイで4人のゲリラ戦死、その中に大幹部も(2011-5-24)

50-52, パタニで仏教徒6人が殺害される(2011-2-4)

50-51. ナラティワット県で教師夫妻射殺(2010-9-8)

50−50、ゲリラ組織が一方的な休戦宣言?(2010−7−11)


50−49.南タイで兵士4人を含む8人がゲリラに殺される(2010−7−3)

ここ1年ほど南タイの騒乱についてとりあげてきませんでしたが、最近ゲリラの動きが活発化してきており、もうすこし書き込みの頻度を増やします。

2010年に入り、1月22日にRKK(Runda Kumpulan Kecil=ルンダ小集団)というゲリラ組織の首領のマセー・ウセンの右腕といわれている45歳の男が逮捕されるなど、組織的な打撃を受けつつある。

7月に入り、1日(木)と2日(金)にゲリラが道路に仕掛け爆弾により、軍用車両が爆破され、その直後に銃撃を受け、2日間で兵士4人を含む8名が殺害された。

7月1日にはナラティワット県で軍用車両に乗ってパトロール中の兵士1名と、レンジャー部隊員2名と、村長などの民間人2名が道路脇に仕掛けられた爆弾とその後の銃撃戦により死亡した。

警察によると、犯人はマナ・サムエ(Mana Samue)という人物が指揮するRKKの犯行であり、実際に手を下した人物2名を特定し、逮捕拘留しているという。この2名は犯行を否定している。

治安当局は付近の村落の家宅捜索を行い、爆発物50発とライフル銃1丁などを押収した。

7月2日の事件はヤラ県は3名の兵士が乗った小型トラックが道路に仕掛けられた爆弾で殺害された。3名ともクラビに本拠を置く第15歩兵連隊の兵士(1名は大尉)である。彼らは水道パイプ・ラインの敷設工事の監督に行く途中であったという。

この爆発はかなり大規模のものであり、数キロ先でも爆発音が聞かれ、ゲリラはことをすますと山に逃げかえったという。

ゲリラ部隊の戦術は軍用車両の通行を待ち伏せして、遠隔操作で仕掛けた爆弾を破裂させるという方法を多用している。軍との銃撃戦は最近ゲリラ側の動員力が低下傾向にあり、あまり行われず,「爆弾」の遠隔操作による「ヒット・アンド・ラン」作戦が増える傾向にある。



50−50、ゲリラ組織が一方的な休戦宣言?(2010−7−11)


2004年1月から南タイの紛争による死者は4,100人に達し、ゲリラ側もトップ・クラスの逮捕者が続出し、テロ活動も銃撃戦よりも待ち伏せ爆弾攻撃といった「省エネ型」の活動に転換しつつある。

ナラティワット県のランゲー(Rangae),インゴール(Yingor),チョー・イ・ロン(Choh I-Rong),の3地区で6月10日からすでに1ヶ月間休戦が続いている。これはゲリラ側からの一方的休戦であると理解されている。散発的な攻撃がチョー・イ・ロンで6月18にあり、警察の車両が爆弾攻撃にあったが、当局は「組織的攻撃」とは見ていないという。

一方において同じナラティワット県の別な地域では上記のような爆弾事件が起こり、8名の死者を出している。

パタニではPULO(Patani United Liberation Organization)を中心に和平への動きがある。

当局としては和平ムードを盛り上げるために、現在拘留中のゲリラ500名を近く保釈することを検討中であるという。(バンコク・ポスト7月11日)これは処分が決まっていない容疑者であり、一家の働き手を中心として考慮するというものであり、1人当たり高い者で70〜80万バーツの保釈金を積ませるという。

保釈金の額は大きいが、一家の大黒柱が帰宅するという精神的効果は大きく、休戦ムードを高める効果は期待できるだろう。

イスラム教徒側も目的のはっきりしない闘争には疑問が起こっており、多くの人々が政府側につき始めており、最近の個人テロはかつては仏教徒が主な対象であったが、最近は政府側についている村長などの村落のリーダーが狙われている。

アピシット政権に代わり、より民主的な手法を模索する政治が徐々に浸透しつつあることも影響している。

問題をこじらせたのはタクシン政権であったことは間違いない。2004年のナラティワット軍事基地襲撃事件の後のタクシン首相とタクシンの従兄のチャイシット陸軍司令官とISOC(国内治安維持軍)副司令官パンロップ大将(現在プア・タイ党)がイスラム教徒の抗議行動に対し、過剰な攻撃を加えたことが彼らの強い反発を生んだ。(クルセ・モスク事件、タク・バイ事件など)

ところがタクシン好きの日本の学者(タックシン派)や新聞記者は南タイ事件についてほとんどロクな議論をしていない。日本の一流紙に「タク・バイ・モスク事件」などという表現すら登場した。

タクシンの強硬策がなければ、4100名というような大きな犠牲者が出ずに収まった可能性があった。


50-51. ナラティワット県で教師夫妻射殺(2010-9-8)

9月7日午前6時半ごろナラティワット県ランゲ郡内でオートバイで学校に向かう途中の教師夫妻(仏教徒54歳と53歳)がバイクに乗った2人組に銃撃され死亡するという事件が起こった。2004年以降学校の教師が累計で135名殺害されている。

ナラティワット県では教師や生徒の間に動揺が起こっており、ナラティワット、パタニおよびヤラの3県のRed Zone(危険地帯)に指定されている465か所の学校が3日間の休校となった。

また、6日には学校の用務員(イスラム教徒)55歳が学校の門を開けている最中に何者かによって射殺された。

アピシット首相は教員が射殺された事件を重くみて、南部に直接出向き対策会議をおこないたいとしている。とりあえず、教育相と内務次官が現地に行き、情報収集をおこなうという。

一時期、南タイのテロ事件は下火になったかに見えたが、ここ1〜2か月爆破事件や銃撃事件が増えてきている。2004年から今まで、1万件の事件が起こっており、4100人が死亡し、負傷者は6500人に」達している。

50-52, パタニで仏教徒6人が殺害される(2011-2-4)

2月3日(木)朝6時ごろ、南タイのパタニで市場に集まっていた群衆に対し、1トン・ピックアップ車に乗ってやってきた6人の男が、無差別に銃を乱射し、5人が射殺され、4人が負傷した。当日は旧正月(チャイニーズ・ニュー・イヤー)に当たり、市場への人出が多く、しかも警備員が交代する時間を狙ったものとみられる。

また、付近の農村では、期された銃げゴム園に樹液を採取にいった農民がオートバイで帰宅の途中に頭をうえに首を切られて殺害された。

下手人はいずれもイスラム過激派と見られている。これで2004年1月以来の死者は4,400人となった。

最近は南タイでのイスラム叛徒の行動が下火になってきたといわれているが、旧正月を狙っての仏教徒に対する大量殺りくで、彼らの「存在感」をアピールしようとしたものと思われる。

犠牲者は高齢の教育関係者や退職した役人などであった。


50-53 南タイで4人のゲリラ戦死、その中に大幹部も(2011-5-24)

5月20日ヤラ県タント(Thanto)地区でイスラム・ゲリラと軍が銃撃戦をおこない、4人のゲリラが戦死した。4人とも以前からテロ活動をおこない、逮捕状が出ていたという。

そのなかでも、マアエ・アピバルバ(Ma-ae Aphibalbae)という人物はトップ・クラスの幹部として知られ、ヤラ特殊部隊司令官スッティサク(Sutthisak Prasertsi)大佐を暗殺し、バンナン・サタ(Bannang Sata)警察のソムピエン・エクソムヤ(Sompien Eksomya)署長を殺害した下手人と見られていた。

この4人は付近の民家に潜伏しているところを、住民の密告により駆けつけた軍との銃撃戦となり戦死した。彼らはAK47自動小銃とピストルで武装していた。

マアエの死亡により、イスラム・ゲリラは重要な指導者を失い大きな打撃を与えられたといわれている。


50-54 南タイでゲリラ活動活発化、レンジャー部隊員5名、観光客ら3名死亡(2011-9-17)

9月13日午前11時半ごろパタニ県カボ郡でレンジャー部隊員が乗った小型トラックが道路に仕掛けられた爆弾で爆破され、乗っていたレンジャー部隊員5名が死亡し1名が重傷を負った。道路には直径2m、深さ1mの穴が開き、トラックは大破し仰向けにひっくり返った。

翌6日にはナラティワット県スンガイコロク郡の盛り場で3件の連続爆破事件がありマレーシアからの観光客4名(全員華人系)を含む5名が死亡し、116名が負傷した。そのうち40名が入院し、うち5名が重態で集中治療室に入れられたという。また、中国系寺院に爆弾が仕掛けられていたが事前に発見され事なきを得たという。

ここ数日、ゲリラの動きが活発化しているが、これはゲリラの資金源といわれる麻薬の大量摘発に対するゲリラ側の反発というのが政府の見方であるが、タクシン派のプア・タイ政権が成立したことへのゲリラ側の反発という見方もある。これは今後の動向を見ればわかるであろう。

南タイの騒乱は2004年1月のイスラム・ゲリラのナラティワット軍事基地襲撃事件に端を発しており、その後のクルセ・モスク事件、タクバイ事件を経て泥沼化し、今年9月までに4,800人を超える死者が出ている。



パタニ県にあるクルセ(Krue Se)モスク:ここで2004年4月28日に山刀で武装してオートバイで応援に駆け付けた村のサッカー・チームの18名の青年たちが完全武装のタイ陸軍に皆殺しにされ、ここだけで当日30名以上のイスラム教徒が「戦死」した。当日は南タイ全体で108人のイスラム教徒が殺害された。この事件をきっかけに南タイのイスラム教徒の反乱が激化したことは間違いない。

その時のタイ陸軍の現地司令官(国内治安維持本部=ISOC=Internal Security Operations Command副司令官)がパンロップ大将であり、現在インラク首相の顧問を務め、近く国内治安維持本部(ISOC)の司令官に任命されるという動きがある。これは多分タクシンのアイデアであろう。

こんな人事がおこなわれれば南タイの騒乱はますます火に油を注ぐ結果となるであろう。

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