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50. 南タイ・イスラム地区の騒乱(04年1月5日〜09年6月9日))


50-49,ヤラとハジャイで爆弾テロ14名死亡、450名負傷(2012-4-1)

50-48.ナラティワットのモスクで銃乱射11名死亡(09年6月9日)


50-47.南タイ騒乱5周年、死者3,287人1,090億バーツの戦費(09年1月19日)


50-46.南タイ、ナラティワットで爆弾テロ、1人死亡70人負傷(08年11月4日)

50-45.⇒南タイの武力抗争は衰えず(08年7月22日)

50-45.南タイでゲリラの一部が武力闘争放棄宣言?(08年7月17日)


50-44.南タイで乗客を装ったゲリラが国鉄職員ら4人を射殺(08年6月22日)

50-43.南タイで国軍兵士8名が戦死、待ち伏せ攻撃にあう(08年1月15日)

50-42.南タイの軍人と警察官をイスラム叛徒のスパイ容疑で逮捕(08年1月9日)

50-41.南タイ、イスラム叛徒に麻薬組織が資金援助?3千万バーツ押収(07年10月22日)

50-40.南タイ、イスラム教徒の叛乱はやや沈静化に向かう?(07年8月6日)

50-39.南タイ、イスラム叛徒7名を殺人容疑で逮捕(07年6月18日)

 ⇒南タイ、イスラム叛徒容疑者160名を拘束(07年6月26日)

50-38.タイ国軍イスラム叛徒に休戦提案(07年4月23日)

50-37.マレーシア国境近くで列車銃撃3名負傷、無期限運休に(07年4月16日)

50-36. TRT党のWADAグループが南タイの叛徒に関与、ソンティ議長(07年3月29日)

50-35. 南タイ、ミニ.バス襲撃犯容易者14名を逮捕(07年3月17日)

50-34.銃撃戦で訓練キャンプのゲリラ5名を射殺、タクバイ事件の逮捕者を含む(07年3月11日)

50-33.旧正月に南タイで大規模な連続爆破事件、7名が死亡(07年2月20日)

 ⇒爆破テロ容疑者3名を逮捕、容疑認める(07年2月21日)

50-32.マレーシア首相、南タイ問題でタイ首相と会談(07年2月13日)

50-31. いまだ150人以上が反逆罪容疑で拘禁中(06年12月25日)

50-30. 南タイ5県を経済特区にする構想浮上(06年11月24日)

50-29. 南タイ3県でマレー語を公用語として認める(03年11月22日)

50-28. スラユット首相、過去の南タイ政策の過ちを謝罪(06年11月3日)

50-2-2.タクシンの側近がソムチャイ事件に関与?(06年11月1日)

50-27. 南タイ特別行政センターの復活(06年10月29日)

50-26.托鉢の仏僧の列に爆弾テロ、護衛兵1名が死亡、12名が負傷(06年10月23日)

50-25.ソンティ陸軍司令官、反政府イスラム・グループと対話の用意(06年10月7日)

50-24. ハジャイで爆弾テロ、4名死亡、ハジャイの経済に大打撃(06年9月19日)

50-23. 南タイのヤラ県で22ヵ所の銀行支店で爆弾テロ、死傷者多数(06年8月31日)

 ⇒ソンティ陸軍司令官は南タイのイスラム叛徒のリーダーに対話呼びかけ(06年9月2日)

50-22. 南タイで500人の身元不明の埋葬遺体発見(06年5月30日)

50-21.タクシンの辞任で南タイの騒乱は収束に向かう?(06年4月8日)

50-20. 携帯電話中継施設に一斉放火(06年1月20日)

50-2-0.⇒ソムチャイ事件で誘拐実行犯の警察官に3年の有罪判決(06年1月12日)

50-2-0.⇒ソムチャイ事件の裁判で、検察官がしばしば交代する(05年11月6日)

50-19. タクバイ事件でマレーシアに逃れていた40名が帰国(05年10月17日)

50-18. リビヤで訓練を受けた3,000人のゲリラ戦士が南タイで活動?(05年10月13日)

50-17. マレーシア政府は南タイの難民131人を強制送還せず(05年9月29日)

 ⇒タクシン首相はマレーシアとの話し合いを拒否(05年10月10日)

50-16. 海兵隊員2名が殺害される(05年9月24日)

50-15. 元国会議員の兄に逮捕状(05年8月19日)

(参考)50-1⇒軍基地を襲ったのはタイ・ラク・タイ党の国会議員と上院議員の陰謀?(04年3月22日)

50-2-0.⇒サント警察庁長官の解任はやはりソムチャイ事件と関係(05年7月26日)

50-14. ヤラで多発テロ、タクシンに「非常大権」(05年7月17日)

50-2-1.ソムチャイ事件がOIC(イスラム評議会機構)の議題に(05年6月8日)

50-13. ジェマー・イスラミア容疑者に無罪判決(05月6月1日)

50-12. 爆弾テロがソンクラまで北上(05年4月7日)

50-11.南タイでまたも爆発事件、2名死亡8名負傷(04年12月25日)

50-10. タクシン、南タイのイスラム過激派を訓練しているのはマレーシアとインドネシアと非難(04年12月21日)

50-9. タク・バイ事件のビデオを見せた罪で民主党国会議員取調べ(04年12月20日)

 50-8. 南タイ紛争を外国勢力のせいにするータクシン総司令官(04年11月22日)

⇒南タイの事件が話題になるならASEANサッミットは欠席(04年11月26日)

50-7. 折鶴作戦(04年11月19日)

 

50-1. 南タイで武装集団の攻撃、兵士4名死亡、戒厳令布告(04年1月5日)

1月4日(日)早朝、60名ほどの武装集団がナラティワット県の軍の基地の武器庫を襲撃し、4名の兵士が殺害され、約300丁の攻撃用ライフル と20丁のピストルと2丁の機関銃が強奪された。また、20ヶ所の学校と3ヵ所の交番が放火により焼失した。

タイ政府は、これら一連の事件を分離独立運動を行っているイスラム教徒の犯行と見て、マレー系種族の多い南タイのナラティワット、ヤラおよびパタニの3県に戒厳令を布告した。ソンクラ県にも近々戒厳令が出されると見られている。

戒厳令が布告されると、夜間外出時間が制限されたり、逮捕状なしで誰でも逮捕、拘留できるなど東南アジアでは広く人権抑圧の手段として使われてきた。インドネシアのアチェも現在、戒厳令下におかれ、多くの一般国民が軍の抑圧を受けている。

特に、タクシン首相はこの攻撃を、パタニ県のイスラム分離主義者集団である「ムジャヒデン」の仕業と決め付けている。彼らは過去3年間で約50人もの警察官を殺害している。

ただし、政府の公式見解は目下のところ事件の犯人は「暴力集団」ということになっている。

また、南タイ駐在の第4軍司令官ポンサク中将が解任され、軍のトップ数人が事件の責任を取らされ、異動ささられた。

ポンサク司令官は住民の間に不穏な動きがあることは察知していたが、いきなり軍の基地が襲われるとは考えていなかったと率直に述べている。

「暴力集団」の頭目はジャオクメ・クタエ(Jaokume Kutae)なる人物で、マレーシアの政治家(野党のイスラム統一党)とのつながりがあるという。タイ政府はジャオクメの逮捕に懸賞金をかけており、その額が30万バーツから100万バーツ(約275万円)に引き上げられた。

タクシン首相はこの事件怒り狂って、軍責任者とワン・ノール内務大臣を怒鳴りつけたという。

民主党のチュアン・リークパイ前首相は南タイのイスラム教徒問題をタクシンは軽く考えていたことが今回の結果を招いたとコメントしている。(バンコク・ポスト 04年1月5日号)

確かに、タクシンはブッシュ大統領に迎合するような発言(タイにもジェマー・イスラミアの過激派グループがいて大変だなどといった)を繰り返し、イスラム教徒の感情を逆なでし続けてきた。

⇒パタニ県では爆発事件、警官2名が死亡(04年1月6日)

戒厳令が布告された矢先のパタニ県で1月5日に爆弾事件があった。最初の爆発はソムデット・プラ・シナカリン公園内でモーター・バイクに乗った男が交番から5メートルほどの所に置いてあったゴミ箱にプラスチックの袋を投げ込んだ。

10分後にその袋が爆発し警察官1名が左耳に負傷し、病院に運ばれたが命に別状はなかった。

その後、午後になって別の場所のショッピング・モールにとめてあったモーター・サイクルの後部座席の下から爆弾が発見され、処理に駆けつけた警察官2名が信管を抜き取っていた際に突如爆発し、2名とも即死した。

また、同じショッピング・モールの公衆電話ボックス内からも爆弾が発見されたという。

タクシン首相はすかさず「7日以内に犯人を捕らえよ」と警察に命令した。前日の武器庫襲撃事件の翌日にこのような事件が起こったことにタクシンは激怒し、「情報部門はたるんでいる」と怒鳴りつけた。

また、この2日間の事件は別々のグループの仕業であるとタクシンは語った。タクシンの活躍とは逆に、治安担当副首相であるチャワリット元首相はだんまりを決め込み、あまり目立った動きはしていない。

これら2件の背景にはイスラム教徒のタクシンへの反発があるからと見られている。

南タイは野党の民主党の勢力が強く、タクシンも必要以上に身構えて住民に接してきた感は免れない。3県に渡って戒厳令を同時に布告するなどというのも、そのひとつの例といえよう。

また、タクシンは現地の兵士に対しても手厳しい。「武器がいやというほどあるのに、警戒もしないで、兵舎は兵隊であふれかえっている。彼らが死んでも当たり前だ」と言い放っている。(04年1月6日バンコク・ポスト)

なんとも恐れ入った首相である。こういう発言が事実としたら大問題だと思うがタイではそうでもないらしい。こういう感覚だから麻薬容疑者など何千人殺されても彼は意に介しないのであろう。(さすがにこの発言にはタイ国内で猛反発がおこっているらしい。)

しかし、これらの事件はすべて」イスラム教徒」の仕業なのであろうか?イスラム原理主義者は基本的にインテリ階級が多い。とすれば彼らが小学校の校舎になど放火するというのは考えられない。

パタニ事件も動機が不明である。もしかするとこれはタクシンの謀略機関の仕業であるということも考えられる。タクシンにとっては「ジェマー・イスラミヤに属する悪いやつ」がいたほうが何かと便利なのである。 いずれにせよ犯人が捕まれば事態ははっきりする。

⇒タイのイスラム教徒分離主義者組織(04年1月7日)

タイ南部のイスラム教徒居住地域のタイからの分離独立主義者団体が上記の爆弾・放火事件の「犯人」と見てタイ政府は取り締まりに乗り出す模様である。

タクシンが目をつけて、犯人と断定した組織はGMIP(Gerakan Mujahideen Islam Pattani=パタニ・イスラム・ムジャヒデン運動)である。ムジャヒデンというのは「信仰の擁護者」といった意味である。

それ以外にBRN(Barisan Revolusi Nasional=国民革命戦線)という組織もある。それに最近ではPULO(Pattani United Liberation Organization=パタニ統一解放組織)も運動に参加しているという。

GMIPの指導者はジェブメ・ブティ(Jehbumae Buteh)という人物である。

⇒一連の攻撃をアル・カイダと結びつける(04年1月9日)

タクシン政権は今回の一連の爆発・放火事件をアル・カイダ=ジェマー・イスラミア・グループの犯行という見方を出し始めている。それによって、国内の引き締めを図る意図であろう。

アル・カイダ(東南アジアではジェマー・イスラミア)というのは世界の「反動政治家」にとってはなんと好都合な存在であることか。

⇒マレーシア政府、お尋ね者を10名捕らえタイに引き渡す(04年1月11日)

マレーシア政府はマレーシア国内に逃げ込んでいたGMIPの幹部であるアスミン・ソサエ(Asmin Sosae)を含む10名のイスラム過激派を捕らえ、昨日(1月10日)タイ政府に引き渡した。

彼らはタイとマレーシアの国境付近に居住し、タイ政府の追及の手が伸びると、マレーシア領に逃げ込んで逮捕を免れていた。ただし、アスミンは今回の事件には関与していない。というのは彼は最近3ヶ月間マレーシア当局に逮捕され、拘禁されていたからである。

また、タイ政府から100万バーツ(270万円)の懸賞金がかけられているマシエ・ウセン(Masie Useng)もマレーシア政府は近々逮捕できると見ている。

⇒バダウイ首相、南タイの襲撃事件はジェマー・イスラミアとの関係は不明と(04年1月16日)

マレーシアのバダウイ首相は今回の一連の南タイの襲撃事件はタイ政府が主張するようなアル・カイダージェマー・イスラミアとの関係については「今のところ確たる証拠が無い」と言明した。

これはタクシン首相が今回の事件をアル・カイダ一味の犯行説を打ち出したことに対するけん制の意味があるものと考えられる。

現在、タイ政府はマレーシアとの国境の出入りを厳しくチェックし始め、今まで日常的に行われていた「国境貿易」が著しく減少しているという。

⇒南部タイの学校閉鎖(04年1月28日)

タクシン政権ははイスラム教徒が多数はを占める南部タイの約1,000校の学校に付き1週間の閉鎖を行った。

ことの起こりは最近、南部タイにおいて、仏僧が何者かによって殺害されたため、これ以上の宗教対立を未然に防ぐための「冷却期間」を置くことが狙いである。

ところが肝心のイスラム教徒は、これは仏教徒による弾圧であるという受け止め方をしているようである。

イスラム教徒の反発を買う事件をしでかしたのは、タクシン側にあることは間違いない。タクシンはブッシュ大統領のご機嫌をとるために(?)ジェマー・イスラミアに属していたとして、さほどでもないイスラム教リーダーを逮捕し、現在裁判にかけている。

⇒チュアン前首相−南タイの騒乱はタクシンの強権政治の産物(04年2月8日)

その後も南タイでは兵士や警察官の殺害事件が相次ぎ、タクシンは1週間で犯人逮捕を命令し、たが1ヶ月たっても問題は一向に解決しそうもない。また、最近では仏僧が3名殺害されるというタイではまれな事件も起こっている。

タクシンの従兄弟の陸軍司令官が戒厳令の下必死に捜査しているがやり方が乱暴だとして住民の反感を買っている。

南タイに政治的基盤を持つ,民主党のチュアン・リークパイ前首相は、イスラム教徒の離反はタクシン首相の強権的政治手法に原因があるとして厳しく批判している。

タクシンは全て「コントロール下にある」と口癖のようにいうが、そういう発想自体が民衆を強権的に押さえ込むという姿勢を示しており、とりわけ仏教徒とは違うイスラム教徒に神経を逆なでする結果につながっているという。

確かに、タクシンには自分と思想・信条の異なる相手と寛大な態度で付き合っていくという心の広さが感じられない。そういう意味では東南アジアに良く見られる独裁政治家との共通点が見られる。

(http://www.nationmultimedia.com/ 04年2月8日)

⇒タクシンのアイデアーマレーシア国境に金網を張って「テロリスト」阻止(04年2月18日)

アイデアマンのタクシン首相がマレーシアとタイを行ったりきたりしているイスラム教徒のテロリストを締め出すために、国境にフェンスを張り巡らすという方法を思いついた。

第4軍の報道官チャロール・キントン少将によればタクシン首相は南タイの国境を視察した後に、「テロリストや密輸業者の国境の出入りを阻止するために、95kmの道路を新設し、軍隊の展開を容易にすると同時に、国境にフェンスを設置し、出入りを厳重にチェックすべし」との指令を下したという。

ただし、金網を張るのは国境全体ではなく重要なポイントだけだというのがタイ側の言い分である。それではテロリストはすり抜けることが可能なはずだが、形式的な威嚇効果を狙ったものとしか思えない。

現在、両国の国籍を持つ人々は約5,000名ほどおり、彼らは日常自由に国境を出入りしているという。最も被害を受けるのは彼らであろう。

この話は昨日マレーシア側にも伝わっている。マレーシア政府 の国防次官のシャフィー・アプダルは「いいんじゃないですか。彼らにはそうする権利があります。これで密輸も減るでしょう。」というコメント を出している。密輸はタイ側からの方が多いのだ。

タイからの最大の密輸アイテムは米であるが、最近は自動車部品もかなり増えているはずである。

⇒軍基地を襲ったのはタイ・ラク・タイ党の国会議員と上院議員の陰謀?(04年3月22日)

1月4日の軍事基地襲撃事件は思いもよらない展開になってきた。警察が容疑者として捕まえたナラティワット県のスンゲイ・パディ村の顔役のアヌポンという人物を取り調べたところ、彼はとんでもない事件の真相をバラしてしまった。

というのは、イスラム教徒のタイ・ラク・タイ党(タクシンの政党)国会議員2名と上院議員がこの襲撃計画に関与していたというのである。国会議員の名はナジュムディン・ウマルとアレペン・ウタラシンであり、上院議員はデン・トーメナである。

アヌポンは軍事基地襲撃事件と学校放火、交番襲撃事件の首謀者であると見られ、6人の仲間とともに逮捕され、警察の記者会見に臨んだ。

タクシンは今回の一連の事件をはじめからジェマー・イスラミアや分離独立主義者の犯行説を匂わせていたが、何と自分の政党の国会議員が関与していた可能性が出てきたのである。

それも南部タイに不必要な騒動を引き起こし政治的に利用しようとした、ヒットラーばりの事件(1933年国会焼き討ち事件)を起こしたことになる。これが事実としたらタクシン政権をも揺るがしかねない大事件となろう。

今のところ3人の国会議員の関与については警察はナジュムディン議員の逮捕状を請求しており、アレベン議員とデン上院議員についても調べを進めているという。

アヌポンによると一味は村長のマユショ・ハイママの自宅で奪ってきた銃を開梱、点検し、後にアヌポンの家の裏の納屋にそれを隠し、翌日他の場所に移した。

このことについてタクシンは容疑者の証言だけではダメで、警察の調べがないとなんともいえない。警察の調べも法に則って行われなければならないなどといっている。麻薬撲滅運動の時もそのように行われるべきであった。

今回のような極めて政治的に重要性のある記者会見をあえて警察が行って理由はなぜであろうか。警察は副長官のコウィット・ワタナ(Kowit Wattana)が同席した。

こういう会見をタクシンが事前に同意したとは到底思えない。ということはコウィット副長官が独断で会ってしまったのだろうか?あるいはチャワリット副首相が同意していたのであろうか?この辺は謎である。

私の単純な解釈は、タクシンのネポティズム(序列・実力を無視した義兄の昇進強行)に対する警察幹部の反抗と見たいがもっと複雑な事情があるかもしてない。

 

⇒南タイで武力衝突112名が死亡、死者の大半は10代の若者(04年4月28日)

4月28日未明から山刀や斧と少数の銃で武装した若いイスラム教徒が警察署を襲撃した事件をきっかけに、事前に情報を得ていたタイ軍と警察が待ち伏せ攻撃に出 て前例のない死者を出した。

軍が国民に対して発砲するというのは、普通は考えられないことであるが、タイでは警官が平気で国民を殺している。 タクシンは犠牲者の家族に対して「お悔やみ」の言葉ひとつ発していない。

警察官と軍人はそれぞれ3名と2名のし死者を出している。イスラム教徒側の死者は少なくとも107名に上っているが、銃を持たない「暴徒」が大半で、 しかもそのほとんどが10代の若者であるという。

これは一種の軍による虐殺事件に等しいという非難の声が上がっている。

特に、パタニ州の歴史的建造物としても有名なクルー・セ・モスクに立てこもった若者32名を虐殺した行動はイスラム教徒の激しい怒りを買っている。あたかも米軍のイラクにおけるモスク攻撃の蛮行を思わせるものがあったという。

この殺戮を指揮したのは国内治安維持軍副司令官のパンロップ・ピンマネ将軍であり、チャワリット副首相の時間をかけて説得するようにという命令を無視してロケット砲弾などを打ち込み1名を除いて皆殺しにしてしまった。

怒ったチャワリットはパンロップを即座に解任したが、時既に遅くとんでもない事件になってしまった。

タクシン首相は犯人は再び武器を奪い密輸しようとしたならず者の集団であると簡単に決め付けているが、それが原因であるにしては死者の数が多すぎる。 また、タクシンは犯人たちは麻薬を吸引して攻撃しかけてきたと語っている。真偽のほどは定かでない。

タクシンの感覚からは、先の麻薬撲滅キャンペーンで2,500名以上虐殺した経緯もあり、麻薬をやっていたというだけで殺してもやむをえないということだったのかもしれない。

4月のはじめにチャトルン副首相が南タイ問題は、政府の高圧的な弾圧政策では問題が解決しないとして戒厳令撤廃を含む「融和的な政策」を作成したが、 強硬派のタクシンはこれに反対し、お蔵入りとなった。

軍部もこれに反発し、かえって現地住民を挑発するような行動に出たとも言われている。

もともと1月の武器庫襲撃事件の黒幕はタクシンの与党タイ・ラク・タイ党の国会議員であるとされ、真相解明が進む前にさらに現地を混乱に陥れる陰謀すら感じられる。

このことによって、タクシンのポピュリスト政策がいかなるものであるかが、少なくとも南タインおイスラム教徒は身にしみて理解できたことであろう。南タイのイスラム教徒とタクシン政権は和解不可能な点にまで突き進んでしまった感は否めない。

従来、タイには仏教徒とイスラム教徒の対立は皆無に等しかったが、タクシン政権になってから、やたらにギクシャクし始めた。今回の事件をきっかけに南タイでは仏教徒は枕を高くして眠れなくなったといえよう。

一方、タクシンは自分の末娘を名門チュラロンコーン大学の通信技術学科にもぐりこませようとして失敗し、「涙の記者会見」をやったというのだから、あきれるほかない。この件は入試問題の流出の疑惑も持たれ、教育相アディサイが非難の矢面に立っている。

 

50-2(旧60).ソムチャイ事件(04年3月19日)

50-2-0.イスラム過激派容疑者の主任弁護人が行方不明(04年3月19日)

ジェマー・イスラミア一味として既に逮捕されている4名のイスラム教徒と今回の南タイの「暴力事件」の容疑者たちの主任弁護人であるイスラム教徒弁護士ソムチャイ・ネラパイジット(Somchai Neelahphaijit)氏が04年3月12日の夕刻から行方不明になっている。

タクシン首相は「多分家族間のいざこざ(夫婦喧嘩)によるものであろう」などというとんでもない発言をして物議をかもしている。

3月19日現在依然として行方はわからないが拉致されたことはまず間違いないであろう。何者によって拉致されたかが問題である。こういう場合は国家警察か軍の治安部隊の仕業であるというケースが過去には多かった。

タクシンもチャワリット副首相も政府関係者の仕業ではないと断言している。もちろんそうえないことを祈りたいが、政府関係者には通常の場合犯人は誰だか判っている。

なぜなら、警察はマフィアのネット・ワークをしっかり把握しており、事件が起こっても迷宮入りはまずありえない。警察も判らないケースがあるとすれば、それは素人の犯罪者の場合である。

ソムチャイ弁護士はモスレム弁護士協会の会長である。彼のみに何かが起こればタイのイスラム教徒の反政府感情はいっそう激しさを増すことは明らかである。

政府は遅ればせながら捜査本部を発足させた。しかし、初動捜査の遅れはいかんともしがたい。タクシンの不用意発言も人々の不信感を買っている。ソムチャイという人物は誰からも軽くあしらわれるような人物ではない。

ソムチャイの生死そのものが不明であるが、ソムチャイが「愛人宅」からひょっこり現れるという夢のような話で本件が落着することを祈りたい。

⇒警察長官と第4軍司令官更迭(04年3月21日)

サント警察長官と第4軍(南タイ方面)司令官ポンサク中将が3月19日付で解任された。両者とも南タイの騒動を鎮静化できなかったことが解任の理由ということである。

サントの後任にはスントン・サイクワン(Sunthorn Saikwan)が昇格した。ポンサクの後任にはピサーン・ワッタナウォンキリ(Pisarn Wattanawongkiri)陸軍参謀長が主任する。ピサーンはチャイシット・ツナワット国軍司令官とは親密な間柄であるという。

問題はサント警察長官の解任である。彼が解任されたということはもしかするとソムチャイ弁護士を消したのは警察だということなのかもしれない。

タクシンはこの人事を決めたのはチャワリット副首相だといっている。警察長官が替われば次の次(?)には自分の妻の兄リューパン・ダマポンが警察長官になれるという段取りである。さすがのタクシンもネポティズム批判は少しは気になると見える。

⇒ソムチャイが失踪5日前に警察のイスラム教徒被疑者拷問を非難(04年3月28日)

ソムチャイ弁護士は1月のナラティワットの軍事基地襲撃事件で容疑者として逮捕された5人のイスラム教徒に対し、警察が拷問を行っていると非難していたことが判明した。

これはサク・コルセンルン上院議員が5人の被疑者と面会したとき彼らから得た情報である。

上院ではソムチャイ弁護士失踪事件の真相究明を行うために委員会を設置して調査を進めており、サク議員はそのメンバーの1人である。

チャワリット副首相がソムチャイが既に死亡したという発言を議会の委員会でおこな い、その後その発言を撤回したが、ソムチャイを「警察が消した」のではないかという疑念が急速に広がっている。

南部イスラム教徒はソムチャイの無事を祈る「祈祷集会」を急遽行ったが、ソムチャイの死は遺憾ながら既定の事実であろう。

タクシンも事実関係の究明を急ぐように指示しているが、一向にラチがあかない。それもそのはず「犯人は自分自身か身内の可能性が大」といったところであろうか?タクシンにとっても大変な事件になってしまったようである。

司法医師の診断結果では5人にはいずれも拷問の痕が見られたという。

⇒ソムチャイ拉致で4名の警察官容疑者が浮上(04年4月7日)

ソムチャイ弁護士の拉致を行った容疑者として4名の警察官が浮上しており、そのうち2名は警察中佐という上級幹部であることがタイの現地紙で報じられている。

4月6日に隠れ家に隠れている警察官が仲間の名前を明らかにしても良いということを捜査本部に申し出ていることが明らかになったという。

また、この事件には警察のトッププ・クラスが関与しており、彼らの名前がタイの民主運動グループ(CFD =Confederation of Democracy)によって公表された。

4月7日の英字紙ネーションのインターネット版によれば、Kowit Watana警察将軍、 Kosin Hinthao警察少将、Kamronwit Thookprachang警察少将の3名である。CFDは他の幹部の名前も示唆している。

肝心のソムチャイ弁護士はベンコク市内のラムカムヘン通りのレストラン(Mae La Pla Pao)の前で拉致され、しばらくバンコク市内に置かれた後にラチャブリに連れて行かれ、そこで殺害されたものとみられている。

警察大佐ソンサク(Songsak Korsaengreung)はかって5名の「ジェマー・イスラミヤ容疑者」の逮捕を強行し、ソムチャイ弁護士が彼らの弁護を行っていたが、そのソンサクが「ソムチャイ 捜査本部」に加わっている。

CFDはこういうやり方をしていては到底犯人逮捕はできないのではないかと危惧を表明している。

「警察の犯行」説は最初からあり、邪魔者は消すというタイ警察の歴史的手法がタクシン政権になってからいっそう強化されてきたと見ることができる。その最大の事件は麻薬撲滅運動で起こった2,500名を超える殺人事件である。

国民を殺すことなど屁とも思っていないのがタクシン流「ポピュリズム(大衆迎合主義)」の盾の裏側である。そういうことより「お上から何かもらえれば良い」と思っている大衆が多いから、ポピュリズムが成立するのである。

これは民主主義が未成熟の国に見られる現象であり、極東の某経済大国でも例外とはいえない。 その国もかつて第2次大戦前には特高警察が「共産主義者」の疑いのある人物を片っ端から引っ括って、拷問の末殺してしまったことはしばしばあった。

その国の警察も今は平和な世の中で、裏金を作って一杯やっているらしい。このほうがまだマシかもしれない。

⇒警察官4名に対して逮捕状が出る、タクシンも容認(04年4月9日)

名前は公表されていないが、ソムサク弁護士の誘拐と殺人(遺体は未確認)の容疑で4名の警察官に対する逮捕状が裁判所から出された。

タクシンも警察官の犯行であるという事実を認めているという。(WSJ 4月8日)

容疑者はシンチャイ警察中佐、ゲーン警察中佐とチャイウェン軍曹とランドーン巡査の4名である。

この4名の警官は8日夜、自首したが容疑については否定している。しかし、彼らがソムチャイ弁護士を誘拐した現場を目撃した証人がいる。 特にゲーン中佐は大柄で頭が禿げているという特徴から目撃者の印象に残ったという。

しかし、一番階級の低い2名の被疑者は、特別捜査官に対し2名の上官の命令でソムチャイ弁護士をラチャブリまで連行したことを認めているという。

また、第5番目の容疑者であるチャチャイ警察大佐に対しても近く逮捕状が出される。

しかし、本当の首謀者は大佐クラスの警察官ではなく、もっと上からの指示であることは間違いない。私はサント警察庁長官が解任された記事(上述の3月21日付け参照)でも書いたが、サント前長官まで、あるいはもっと上にまでさかのぼるかもしれない。

最近、ポキン内務相が自ら語ったところによると、南タイで警察官による誘拐・拉致事件が判明しているだけで14件発生しており、25名の「犠牲者」のうちち6名は生存が確認されているが、残りは殺されたか行方不明であるという。

こういうことが、日常的に起こるようななったのはタクシンが政権についてからのことであるというのがチュアン・リークパイ前首相のコメントである。 確かに民主党政権下ではタイの警察はかなり大人しかった。

「太陽の照るところ警察ができないことはない」というのは戦後のピブン政権下の最大実力者パオ警察長官のセリフだが、タクシンも麻薬撲滅キャンペーンを昨年開始したときこういう言葉を使っていた。

タクシンはポピュリズムと同時に高圧的政治手法を得意としており、「悪いやつは殺されて当たり前」的な感覚である。それに近い政治家はわれわれの周辺にもいるような気がするが。

⇒ソムチャイ事件は迷宮入りの様相(04年4月28日)

ソムチャイ事件の「真相解明」をタイ警察が中心になって行っているが、一向にラチがあかない。あかないはずである、警察の犯行を警察が調査しているのだから容易ではない。

目撃情報によれば、何者かがラチャブリで焼却していたという。ソムチャイの遺体が出てこなければ先に逮捕された4名も無罪放免になりかねない。ひどい話である。これでは60年代の軍事政権時代と変わらないではないか?

⇒ソムチャイ事件は一向に解明されず(04年10月1日)

ソムチャイの失踪事件でタイの上院に調査委員会が設置されて200日が過ぎたが、一向に調査は進まない。

容疑者として5人の警察官が逮捕されたが、彼らは証言を拒否しており、その後の捜査は一向に進んでいない。ソムチャイの遺体(殺害されたことはほぼ間違いないが)すら発見されていない。

5人は窃盗と監禁(ソムチャイの身柄を拘束した)の容疑では立件可能であってもそれで終わりになる公算が大きく、比較的軽い罪で放免されることとなろう。 彼らは現在保釈中である。

ソムチャイ事件は今回の南タイの騒乱のきっかけになった重要な事件であるが、このままうやむやに終わらせれば南タイのイスラム教徒の怒りは収まらないであろう。

ソポン・スパポン上院議員は本件の早期解決をしきりにアピールしているがタクシン首相は全く意に介していないという。(バンコク・ポスト10月1日インターネット版)

タイ法律家協会(会員数5万人)は警察の権限が強すぎるとして、刑事訴訟法の改正を求める運動を行うことにしたという。現在警察は逮捕者を84日間拘留でき、しかもその間拷問が行われることは日常茶飯事であるといわれている。

しかも、裁判で警察側に不利な証言をしたものは後日仕返しを受けるケースも多く、証言を拒否するケースも多いという。タイの警察は確かに先進国の警察とはだいぶズレがあるが、これはマレーシアやインドネシアでも同じようなものである。

 

⇒サント警察庁長官の解任はやはりソムチャイ事件と関係(05年7月26日)

サント警察庁長官は04年3月19日付で解任され、その後首相府で定年まですごしたが、国連人権委員会とのヒヤリングでタイ政府ははサント警察庁長官の解任はソムチャイ事件(3月12日失踪)の責任を取らされた(注意義務を怠った?)ものという説明をしていたことが明らかになった。

この文書はジュネーブから帰国したソムチャイ夫人のアンカナ(Angkhana)さんが持ち帰ったものである。

同時に、ソムチャイの誘拐と殺害にかかわったとみられる被疑者の4人の警察官については確たる物証がないので、裁判が進んでいないという言い訳をしている。(バンコク・ポスト、Internet版、05年7月25日参照)

タイ政府の説明はサントがソムチャイ暗殺を指示したとは言ってないが、ソムチャイほどの大物弁護士を消すことにつてはトップから何らかの指示に近いものが出されていたと考える方が自然であろう。ソムチャイは現場の警察官だけの判断で殺せるような人物ではない。

もしかするとタイにも「ジェマー・イスラミア」というアル・カイダ集団が存在して、その首謀者を逮捕、処罰したということを国際的(この場合は米国のブッシュ大統領に対して)にアピールすることにこだわった人物の差し金である可能性も否定できないのではないか。

真相がウヤムヤにされていると、「下司(ゲス)の勘ぐり(guess)」は際限もなく広がっていく。

なお本ページにて04年3月21日付け、4月9日付にて私はソムチャイ殺害について、警察トップ(長官)が関与しているのではないかという「推測記事」を書きました。警察の犯行を知りながら、タクシンは「ソムチャイ失踪は家庭問題のいざこざが原因だろう」などという煙幕発言をしていました。

 

⇒ソムチャイ事件の裁判で、検察官がしばしば交代する(05年11月6日)

ソムチャイ事件は警察官による犯行であるとして,既に公判が始まっており、被告の警察官はアリバイを主張して、無罪を訴えているが、なぜか検察官がしばしば交代するという世にも不思議な事件が起こっている。

11月3にも交代したばかりで過去に事情に疎い検察官が被告の証言を聞くという、タイの司法は一体どうなっているのかわからない「事件」が起こっている。

これには香港に本部を置く、アジア人権評議会(the Asian Human Rights Commission=AHRC)が問題視して、タクシン首相と検事総長に抗議文を送るよう呼びかけている。

こういう検察庁の行動は今回のソムチャイ事件の本質がどこにあるかをうかがわせるものといえよう。ソムチャイは明らかに国家権力によって抹殺されたと見るほかない。

そうでなければ、検察庁がこのような「小細工」をする必要はないはずである。検察庁にこういう行動をさせているのは誰かというのはタイ人でなくてもピンとくる。

こういうことが起こると南タイのイスラム教徒はタクシン政権への不信感をいっそうつのらせることは自明である。国民の前に「白黒」をはっきりさせてこそ、司法への国民の信頼を定着させることができる。

インドネシアでも司法の「姿勢が」問題視されているが、タイでも同じである。

 

⇒ソムチャイ事件で誘拐実行犯の警察官に3年の有罪判決(06年1月12日)

ソムチャイ弁護士を2004年3月12日に誘拐し、暴行を加えたとして起訴されていた警察少佐ゲーン・トンスク(Ngern Tongsuk)に対し、1月12日、刑法裁判所は禁錮3年の実刑判決がいいわした。

トンスク被告に有罪判決が下ったのは、現場の目撃者の証言が決め手になった。

他の4名の警察官に対しては彼らがソムチャイ弁護士の拉致の連絡に使っていた携帯電話は証拠として採用されないという判断を示し、無罪となっている。また、ソムチャイ弁護士の遺体が発見されていないため、殺人罪等の立件は見送られているという。

権力者に都合の悪いやつは消せというのがタイ流のやり方であろうか?死体をどこかに隠してしまえば、あとは目撃情報があってもたった3年の刑ですむ。これは70年代初めまでの軍事政権時代のやり方と同じである。

タクシン政権になってから、タイの民主主義、人権はそこまで逆戻りしてしまったのであろうか?

しかし、こういうことが法治国家タイの警察官であり、裁判所である。

タクシン首相は既にソムチャイ弁護士は殺害されていることは認めており、政府も調査をおこなっておりいずれ殺人罪で被疑者は裁かれることになると語っているが、それが何時のことになるかは明言していない。

 

50-2-1.ソムチャイ事件がOIC(イスラム評議会機構)の議題に(05年6月8日)

イスラム諸国(57カ国)の閣僚クラスが参加するOIC(Organization of  Islam Conference)が05年6月末にイエメンで開催されるが、南タイのイスラム教徒4名のジェマー・イシラミア容疑者裁判で主任弁護人を勤めていたソムチャイ弁護士の拉致・殺害事件が取り上げられることとなった。

ソムチャイ弁護士の遺体が発見されていない現在、ソムチャイの生死は不明だが、04年3月以来、警察官に拉致されたまま行方がわからず、殺害・抹消されたことは確実である。

それ以外にも、クルセ・モスク事件やタク・バイ事件など多数のイスラム教徒が虐殺された事件が関心を集めている。タイ外務省としては、これらの事件はいずれも国内問題であり、OICが議論することは「内政干渉」だというスタンスであるが、被害者が多数のイスラム教徒であるという事実は覆せない。

OICの雰囲気がタクシン政権のやり方に批判的になれば、今後のタイの外交政策にも大いに影響してくる可能性がある。特に石油資源問題やスラキアート(Surakiart)副首相をアナン国連事務局長の後任にという工作にも直接影響してくるおそれがある。

タイ政府としてはソムチャイ事件の内容については判っているはずであり、早めに公開して関係者の処分などを明らかにしたほうが、対外的にも、対国内的にもよいはずである。特に、南タイ問題は他に解決の糸口が見つけにくいと思われる。

 

50-2-2.タクシンの側近がソムチャイ事件に関与?(06年11月1日)

ソンティCNS(国民安全評議会)議長は2004年3月12日から行方不明になっているソムチャイ弁護士事件について、タクシン前首相の側近が関与していることを明らかにした。

ソンティ議長は個人名などは一切明らかにしていないが、タクシンの差し金によってソムチャイは「消された」という噂は事件当初からあったと、ソムチャイ夫人のアンカナ(Angkhana Neelaphaijit)さんは話している。

既に直接の実行犯として警察少佐のゲーン(Ngern Thongsuk)rら5名の警察官が逮捕されたが、結局有罪となったのはゲーンのみで、それも3年の禁固刑という義核的軽い刑で一件落着という形になっていた。ンゲーンが有罪となったのは彼がソムチャイ弁護士を車に押し込むのを目撃されたからである。

ある情報によるとタクシンの側近の一人が5名の警察官の誰かに事件当日頻繁に電話をかけていたという。押収された携帯電話は裁判ではなぜか証拠として採用されなかった。

本件は特別捜査部(DSI=Department Special Investigation)が捜査に当たっているが、一向にはかばかしい成果を挙げていない。タイ警察はクーデター後もスッキリとした動きをせず、依然としてタクシン体制の影響力が強く残っているという指摘もある。

ソムチャイ事件いついては、新政権下で警察長官に任命されたKowit Watana警察大将が拉致・殺害事件に関与していたという驚くべき情報が以前からあったのである。(上記50-2-0参照)

 

50-3 ワン・ノール副首相が南タイ事件の黒幕?(04年5月22日)

5月11日にタイ議会で行われた不信任審問討議(censure  debate)で野党の民主党のタニン議員が今回の南タイ事件の首謀者は副首相のワン・ノール(Wan Muhamad Noor Matha)ではないかという質問をおこない内外を驚愕させた。

ワン・ノール はかつて「分離独立派」のリーダーであり、ナンバー・ワンといわれていた人物であるとのことである。南タイではもともと民主党の勢力が強く、ワン・ノールらは南タイにおけるタイ・ラク・タイ党の勢力拡大に躍起になっていた。

ワン・ノールが首謀者とすれば、その狙いは南タイで暴動事件を多発させ、政府から多額の補助金を引き出したり、 プランテーション経営者などからミカジメ料(安全料)をせしめたり、敵対分子を弾圧することにあったのではないかということである。

事実、ワン・ノールの手下といわれている与党のタイ・ラク・タイ党の国会議員や上院議員などが軍事基地襲撃事件の首謀者であるという証言が出されている(50-1参照)。

また、ワン・ノールは弁護士のソムチャイ謀殺事件(警察官による謀殺と見られているが、事件は迷宮入りの様相を呈している)にも関与しているのではないかという疑いをもたれている。

ワン・ノールは副首相就任前は内務相であり、治安維持の一方の責任者であった。一方、ワン・ノールの手下の3名の国会議員はヤラ県を3分割して自分たちの縄張りにしている。

それぞれの縄張りで彼らはゴム農園経営者や会社経営者からミカジメ料(安全保障費)を巻き上げていた。また、彼らは農民から土地を格安で買い上げ(取り上げ)農園主に売っていたという。

さらに、タクシン得意の「開発計画」(これからもいっそう盛大におこなわれようとしている)で道路建設をおこなった際には、建設予定地周辺の土地を事前に買占め、莫大な不当利益を上げていた。

さらに、国有林の不法伐採や秘密トバク場経営などもやっていた。これらに対し、ワン・ノールは内務相その後は副首相として目をつぶっていたということをタニン議員は指摘した。

被害にあった農民が警察に訴えても、警察はヤクザの味方をし、何の行動もとらなかったという。今回、現地の住民がやたらに警察署を襲撃した背景にはこのような事情もあったのではないかと思われる。

まるで、極東某経済大国のヤクザと同じかそれ以上のことをやっていたということになる。しかし、これは南タイだけでなく、タイ各地での地方ボスが同様のことをやってきた歴史がある。そのうちの少なからざる人物が国会議員になっていた(る)。

これらの指摘に対し、ワン・ノールは道徳的にそれほどひどい人間ではないとして容疑を全面的に否認した。

(http://www.nationmultimedia.com 、www.bangkokpost.com,  WSJの5月22日付けインターネット版参照)

ワン・ノールに対する批判記事は多くのタイ語新聞で従来から、かなり書かれており、そのうちのいくつか輪を「名誉毀損」で訴えている。ところが、訴訟を起こした裁判所はバンコクから1000Kmもはなれた地方裁判所であり、そこに出頭しなけらばならない新聞記者は難儀しているという。

 

50-4  ついに宗教戦争に発展、タイ人農夫殺害事件(04年5月31日)

タクシン政権の無神経とも思えるイスラム教徒迫害はついにイスラム教徒側が非常手段に出た。事件は前々から警察官や仏教僧侶の殺害事件として起こっていたが、今回は一般のゴム農園の農夫の首切り事件という形でエスカレートし始めた。

5月29日にそれまでイスラム教徒と平和に共存していた仏教徒の農夫(63歳)が何者かに襲われクビを切断され、首を道路わきにさらされ、「タイ政府が無実もイスラム教徒を逮捕するなら、われわれは無実の仏教徒を殺害する」というメモが残されていた。

今回の南タイ騒動は、タクシン政権がイスラム・テロリストがタイにもいると称してジェマー・イスラミアのメンバーだとしてイスラム教学校の経営者など数名を逮捕して、勾留したことから始まった。

それはタイでAPEC の総会が開かれブッシュ大統領も出席する数日前に、タクシンが行った「ブッシュへの儀礼」の1つと考えられていた。その後、彼らの弁護を引き受けたソムチャイ弁護士が消されたという事件が起こったのは上述の通りである。

その後、軍事基地襲撃事件やイスラム暴徒大量殺害事件など次々に事件はエスカレートして言った経緯は本欄をお読みいただ通りである。

村のサッカー・チームの青年を皆殺しにしておいて、サッカーの普及と強化のためと称して、タクシンがイギリスのリバープール・レッズの株30%を国家資金で買う(宝くじの収益で買うという構想らしいが)などということはイスラム教徒の神経を逆なでする行為でもある。

タイ中央政府は現在も「過激派狩り」を継続しており、疑わしいとにらんだ人物を片っ端から逮捕し、拷問にかけられ「自白」を強引に引き出して有罪にするという、お得意のプロセスを継続しているようである。

ソムチャイは逮捕されたイスラム教徒が拷問にかけられている事実を突き止め、公表しようとしている矢先に拉致され、殺害されたものと見られている。

南タイではイスラム教徒(マレー系)と仏教徒(タイ人、華人系)住民が平和裏に暮らしてきたが、その伝統がここに来て一挙にぶち壊されてしまった。この地域は思いがけず危険地帯になってしまった。

 

50-5 爆弾が3発爆発ー14人負傷(04年8月23日)

騒乱の続く南タイのヤラ地区で8月21(土)の夜に3ヵ所で爆発事件があり、14人が負傷し、21台の車両が破壊された。チェッタ国防相は最近の一連のイスラム導師の逮捕に対する報復であろうと述べている。

そのうちの1発は日本カラオケ店の駐車場に仕掛けられ、9人が負傷し、7台のオートバイが破壊された。

今年に入ってから騒乱にからみ軍・警察関係者や一般人が既に330人も殺害されている。タクシンの強硬策が生んだ犠牲者とも言える。

タクシンの従兄弟で国軍司令官に抜擢され、対イスラム教徒強硬策を指揮してきたチャイシット・チナワットは近々解任され、総司令官に「昇格」するという。タイに「宗教戦争」をもたらしたタクシン首相の責任は重い。

⇒ナラティワットの市場で爆発ータクシンを歓迎?(04年8月26日)

8月26日(木)午前7時50分ころナラティワット県の市場でオートバイに仕掛けられた爆弾が爆発し、1名が死亡し、27名が負傷した。負傷者の中には警察官11名と、 学童9名含まれていた。爆発現場は警察官の溜まり場であった。

爆発物は10Kgと推定され被害は半径50mに及ぶ強力なものであった。

南タイを住民慰撫のために旅行中のタクシン首相は手土産(いくつかのプロジェクト計画)を持って、27日ナラティワット県に入る予定であった。

この種の爆弾事件は今後も頻発する可能性が高い。おそらく、タクシン政権が続く限り収まりそうもない。それほどタクシンはイスラム教徒の憎悪の対象になってしまった。0-6. 南タイでデモ隊80名以上が殺害される(04年10月26日)

タイ政府の発表では10月25日(月)に南タイで逮捕された6名のイスラム教徒の釈放を要求して1,500名ほどのデモ隊・群集が警察署に押しかけた。これに対し、軍・警察が発砲し、少なくとも6名が死亡し、20名程度が負傷したという発表があった。

しかし、その後今日になってパタニ県の陸軍基地で78名の死体の検死を行ったと、検死官のポーンティップ博士が記者団に語った。彼女によれば死因は死者の80%は窒息死 であり、その他は圧死などと見られるとのことであった。(BBC,インターネット版、WSJ、インターネット版、アジア欄)

78名の死亡の原因は1,300名近い逮捕者を大型トラック(何台かは不明)に乗せて、現場から5時間も離れた軍事基地まで輸送した途中に窒息、その他で死亡したものと考えられている(BBC)。

現地の副司令官であるシンチャイ少将は、「彼らはイスラム教徒の断食月で体力が弱っていたため死んだのであろう」と説明している。要するに逮捕者を人間扱いしていないタイの軍人の態度が如実に現れている。

この事件をきっかけに、タイのタクシン政権、仏教徒とイスラム教徒の抗争はいっそう激化するであろう。

10月26日(火)のThe Natipn の報道のあらまし;

ナラティワットで約3,000人のデモ隊と軍隊が衝突し、少なくとも6名が死亡し、20名以上が負傷した。軍隊は催涙ガスダ弾を発射し、デモ隊はタク・バイ(Tak Bai)警察署に対し投石を行った。

目撃者のはなしによれば、軍隊はデモ隊に向け発砲した。指揮官は威嚇射撃は命じたが、人に向けて発砲しなかったと語っている。また、ある目撃者によれば、兵士は人に向けて発砲し、デモ隊を銃の台尻で殴打したり、蹴ったりていたという。

その際、約1,000名のデモ参加者が逮捕され、陸軍基地に連行されたという。

⇒その後死者は81名に増加。合計87名死亡。(04年10月27日)

その後、タク・バイ警察署付近の川から、3人の遺体が発見され死者は銃殺されたもの6名、窒息を含むその他の死因のもの81名合計87名の死亡が確認されている。

タクシン首相は軍・警察に落ち度はなく、彼らの行動は賞賛に値すると語った。また、死亡したイスラム教徒は断食で体力が弱っていたためであると、現地の軍関係者と同じ発言をしている。

ポーンティップ博士によればさらに付近の病院には16名の重傷患者が運び込まれており、危篤状態の者かなりいるとのことである。

イスラム教徒を家畜以下の扱いで搬送し、80名もの死者を出した軍隊を賞賛するという、およそ一国の首相としては考えられないような発言をしたタクシンに国際的な批判が集中したのは当然である。

周辺のイスラム諸国の怒りはもちろん、米国政府でさえも、詳細な調査を要求している。

こうなると、さすがのタクシンも「死者に哀悼し、真相の調査を約束する」と言明した。もちろん4月28日の虐殺事件の「真相究明」もおざなりにしたタクシンのことであるから、どこまで本気で対処するかは言わずもがなである。

そもそもタクシンがイスラム教徒とトラブルを必要以上に起こし始めたのは昨年APEC前に訪米し、ブッシュ大統領に会い、タイの「テロリスト」・イスラム過激派征伐をすることを要請され、二つ返事で帰国してからである。

シンガポールからの「情報」に基づいて、ジェマー・イスラミアのシンパを割り出し、逮捕したことに端を発する。タクシンとしてはさらにイスラム教徒の「分離独立運動」などを暴き出し、これを徹底的に弾圧することで国民の支持を得ようとした。

04年1月の軍事基地襲撃事件がタクシンの与党TRTの国会議員たちによって企画されたという容疑は、かなりの真実性がある。その後はイスラム教徒とタクシン政府の「激突」はエスカレートするばかりであった。

事態はタクシンの思惑をはるかに超え、宗教戦争にまで発展し、「泥沼」化してしまった。タクシンの最大のミスはタイ人は「恐怖政治に屈服する」と勘違いしていたことである。

彼の在任中は南タイのイスラム教徒の紛争は収まらない。悲劇は繰り返される可能性がある。タクシンは弾圧政策でイスラム教徒を制圧できるといまだに信じているはずである。それはついこの間の軍部の人事異動にも現れている。

  

⇒南タイのイスラム教徒の報復始まる(04年10月30日)

10月29日南タイで2件の爆弾事件があり、警察官1名が死亡し、19名が負傷するという事件が起こった。 タイ政府は反政府行動が北上しバンコクで爆弾騒動が起こるのではないかと強い懸念を示している。

バンコク市内にもイスラム教徒は多数居住しているが、今までのところは不穏な動きはない。

また、マレーシアではクアラルンプールのタイ大使館に500名のデモ隊が押しかけ、タクシン首相の辞任を求めたり、「タクシンとブッシュは同じだ」などというシュプレッヒ・コールを繰り返したという。

タイ国境に近いコタバルでは5,000名の、ペナンでは3,000名のデモがあったと伝えられている。

インドネシアでも反タクシンの抗議行動があったとテンポ紙で報じている(人数は不明)。

 

⇒国王がタクシンに穏健な手段で早く平和を取り戻せと諭す(04年11月2日)

プミポン国王は悪化する一方の南タイの紛争を憂慮し、タクシン首相を呼び「穏当な手段で早く紛争を収めるように」と諭したという。タクシンは過去にも麻薬取締りの際の大量虐殺についての国王の注意を無視しており、今回もどの程度効き目があるかは疑問である。

国王との話の内容はタクシンしかわからないが、タクシン流のやり方では軍警察の弾圧がイスラム教徒の報復をよび、それでまたタクシンは手段をエスカレートさせているようにしか見えない。

11月1日にはマーケットの野菜売りが殺された。11月2日にはニラチワット県のスキン地区で仏教徒の副村長が射殺され首を切られた姿で発見された。首切り事件は2度目である。 教師も殺されている。 新学期の開始が延期されている。

10月29日以降11月4日まですでに7名が殺害されている。 こんな殺し合いはまったく無意味である。「テロリストの脅しには屈しない」などとタクシンも青筋を立てているに違いない。

イスラム教徒をテロリスト呼ばわりするなら、タクシンは国家権力によるテロを即刻やめなければ事態は収まるはずがない。

これはパレスチナにもイラクにも共通する話である。

 

⇒ピサーン第4軍司令官更迭(04年11月3日)

今回の大量虐殺事件の直接の責任者であるピサーン司令官は、自ら退任を希望したかたちで解任された。後任者は正式には決まっていないが、副司令官のクワンチャート少将が職務を代行する。

ピサーンはタクシンが自ら選んだ「強硬派」の将軍であって、4月28日のクル・セ・モスク事件(当日全体で106人死亡)も指揮した。彼のような無慈悲な弾圧一本槍の司令官をわざわざ就任させたタクシンの責任はきわめて重いものがある。

 

⇒行方不明者がさらに約40名(04年11月10日)

11月9日付のバンコク・ポスト(インターネット版)によると87名の確認されている死者以外に当日デモに出掛けたまま、家族に何の連絡もない行方不明者が約40名いることが判明した。

軍関係者は別に死者を隠し立てしておらず、不明者がそんなにいるとは考えられないと述べている。しかし、事件の後死体を隠すのはタイの軍・警察では過去にも実績があり、軍当局者の言い分をそのまま信用する人は少ないであろう。

この間も、「イスラム過激派」の主任弁護人のソムチャイ氏が警察に拉致され、遺体は発見されなかった。1992年の「黒い5月(バンコクの反スチンダ抗議行動)」の際も多数の行方不明者が出たが、結局迷宮入りとなった。

今回もポーンティップ検視官が遺体は78体あったと真っ先に証言したのも、はっきりさせないでおくと遺体を勝手に始末されてしまうことを恐れてのことだった。

目撃者の証言によれば事件当日タク・バイ川に18の死体が流れていたということである。生きていたものだけをトラックに乗せ(その中から78名が死亡したが)、すでに死んでしまったものを川に流してしまった可能性もある。

それとは別に、イスラム教徒の復讐は依然続いており、9日も60歳のゴム園の労働者(仏教徒)が殺害された。10月25日の事件以降すでに20名以上の犠牲者が出ている。

タクシン首相は100名以上の大学教授が連盟で「まず遺族に謝罪してから、関係の修復に勤めるべきだ」という提言をおこなったが、断固拒否している。

もちろん謝罪したからといって、イスラム教徒の悲しみは癒えるものではないが、タクシンの人間性に対する冷淡さが事態をいっそうこじらせていることは確かである。

そのタクシンも人前で涙を見せたことがある。それは自分の娘がチュラロンコーン大学に不正入学したと新聞でたたかれたときである。なぜ自分の娘だけがいじめられるのかといって涙ぐんだというのである。

しかし、息子を殺害されたイスラム教徒の親には、1人当たり保証金10万バーツ(26万円)を国家の税金から支払って、これでよかろうといった態度だという。もしそうだとすれば、タクシンは絶対にイスラム教徒に許してはもらえない。

タク・バイ事件はインドネシアにも伝わり、与党のPKS(正義福祉党=イスラム政党)はタイ製品のボイコットを呼びかけている。

この事件をきっかけにタクシン政権はマレーシアとインドネシアからは根深い反発を受けることは必至であり、今後のASEANの結束にも影響が出る可能性が高い。

 

50-7. 折鶴作戦(04年11月19日)

国王夫妻から南タイの平和回復をアピールされて、さすがのタクシンも殺戮強行路線を一時中止せざるを得なくなった。

タクシンとしてはイスラム教徒は「分離独立主義者」であるという決めつけ以外に手がなくなり、そういうキャンペーンが今後いっそう強化されるであろう。

何をやっても、一向に事態は改善されず、万策尽きた感のある、タクシンは学者代表(144名の学者が連名でタクシンは犠牲者に謝罪せよとアピール)とも面会し、タマサート大学経済学部のスイナイ先生(日本の法政大学で博士号取得)からは「ガンジーの非暴力主義」デイスラム教徒の心をつかめなどといわれ、「それも悪くないな」などと、やや弱気な対応をした。

スイナイ先生も一時期、経済学に嫌気がさして、「神霊術」まがいなものにはまっていたようだが、最近やる気を出してきたみたいで、マハチョン党結成の発起人に名を連ねたりしているのは大変結構なことである。少なくとも神霊術よりは彼には向いている。

本題に戻ると、タクシン政権は思いがけない作戦を考え付いた。それは日本文化がタイにいかに大きな影響力(?)を持っているかという証拠でもある。

何かというと「折鶴」を何百万羽と作成して、南タイの紛争地帯に飛行機からバラ撒くという作戦である。折鶴は平和祈願の象徴として。わが国でも広島の平和公園に飾られ、世界中に知れ渡っている。

また、タイ駐在の日本人の奥さんや生徒が作り方をタイ人に教えて、かなり幅広く作られている。

その折鶴はいったい誰が作るかという問題である。これはタイ国中の学童や刑務所の服役者などがせっせと作っているという話はきいていたが、なんと南タイに派遣されている兵士までもが折鶴製作に動員されているというのである。

鉄砲をもって、無実のイスラム教徒を殺戮するより、この方がよっぽど平和に寄与すること間違いない。同時に日本びいきのタイ人も急増するであろう。

⇒イスラム教徒にとっては無意味であった(04年11月23日)

620万羽の折鶴が南タイの紛争地区3県に上空からばら撒かれた。その反応としては、大多数のイスラム教徒にとっては折鶴が何を意味するかわからなかったということである。

もちろん判っている人は大勢いるが、これは軍や警察の新しい弾圧の前触れ程度にしか受け止められなかったようである。

ゴミが空から降ってきたので、政府は後片付けをしてほしいなどという声もあったそうである。

何人かの仏僧はこれはタクシン政府の平和への熱意の表れであるというようなコメントを出しているようであるが、タクシンのやり方をみているイスラム教徒にとっては、いったい何のまねだということであろう。

問題はタクシン首相自身の姿勢、政策である。タクシンはタク・バイ事件についていまだに「謝罪」はしていない。

 

 50-8. 南タイ紛争を外国勢力のせいにするータクシン総司令官(04年11月22日)

タクシン首相のおかげでいつの間にかタイ国軍総司令官におさまったチャイシット・チナワット(タクシンの従兄弟)は南タイの紛争のかげには外国勢力がいると「警告」を発した。

外国とはいうまでもなく隣国マレーシアに他ならない。マレーシア政府はさぞ苦々しい思いでこういう発言を聞いていることであろう。

マレーシア政府は同種族(マレー族)のイスラム教徒が隣国で虐殺されているのをみても政府としてはほとんど目立った発言をしていない。

それはASEAN同盟国のタイ政府への遠慮からであるが、タイのタクシン政権には「遠慮」などというカルチャーは存在しないかの如しである。これはチュアン・リークパイの民主党政権時代には考えられなかったことである。

いったいいかなる根拠に基づいてマレーシアからの干渉があったのか明らかにすべきであろう。そもそものことの起こりを考えれば、明らかにタクシンの「南タイ制圧作戦が失敗」して 、ことがこじれたのである。

タクシン政権は「折鶴作戦」につづいて、今度はかの有名な「ビレッジ・スカウト(村の青少年団)」を動員して南タイ騒動をおさめようとしている。

ビレッジ・スカウトは共産主義化を防止するために軍事政権時代に組織された「思想善導」団体であり、ナショアンリズムを鼓吹する右翼団体である。

彼らは1976年のタマサート大学事件のときに動員され、民主主義運動をっやていた学生を弾圧・殺害したときの先兵の役割を果たした。そんなものがそれから30年近くなって再動員されるというのは驚きである。

彼らが数万人バンコクに集められて、南タイ騒動の平和的解決を求める決起集会を開くというのである。タマサート事件以来始めての大集会である。このビレッジ・スカウトなるものは全国3万の村に存在し、メンバーは600万人いるといわれている。

彼らに「けしからぬのはマレーシアだ」というような扇動が行われれば、「由々しき事態」以上の問題が起こることは必定である。しかし、今のタクシンはなりふりなどかまっていられない。

最近30年のビレッジ・スカウトは例えば「国王生誕記念」の祭典などには国旗を掲揚し敬礼する程度の行動に限定されてきた。それが、今度は「平和活動」をおこなうらしい。彼らが「愛国的」目的で動員されるときに、かって「平和的」であったためしがない。

(04年11月29日追記)

ビレッジ・スカウトのメンバー2万人がバンコクのサナン・ルアンに集合して、決起集会を開いた。彼らのスローガンは「分離主義者を1,000日以内にタイから追い出せ」という好戦的なものであった。

いつの間にか「南タイの騒動」を分離主義者の責任にすりかえている。いかにもタクシン流の狡猾さである。

彼らの「指導」にあたったのは警察少将のチャルンレーク(Charoenrerk Charas-romrun)であった。彼は別に暴力で追い出すと言うことではないと釈明しているが、この時期に「愛国的」右翼的団体を活用することによってタクシンの失政をカバーしようという意図は明白である。

ここまでくると、タクシン政権は限りなく初期の「ナチス・ドイツ]に類似してきた。

 

⇒南タイの事件が話題になるならASEANサッミットは欠席(04年11月26日)

タクシンはラオスのビエンチャンで11月29-30日に開かれるASEANサミット(日本、中国なども参加)で南タイのイスラム教徒虐殺事件が取り上げられるなら、席を立って直ちに帰国すると語った。

この話はたちどころにASEAN諸国に伝わり、各国とも唖然としているという。

タクシンはマハティールが引退した後は、「オレがASEANのリーダーだ」などと気取ってはいたが、いまや馬脚が現れたという感じである。

 

50-9. タク・バイ事件のビデオを見せた罪で民主党国会議員取調べ(04年12月20日)

南タイのタク・バイでタイ軍がおこなったデモ隊約90名(そのうち79名がトラック輸送途中に窒息死)という痛ましい事件のビデオ・テープが今タイ国内に出回っている。

タイ国軍に言わせるとビデオが出回っていること自体が「国民の安全保障上由々しき行為であるという解釈になるらしい。国民を家畜以下の扱いをして殺す行為は「国民の安全保障上」どういう取り扱いになるかは明らかではないが。

これを来年2月6日に予定される国会議員選挙運動に民主党のタニン・ジャイサムット(Thanin Jaisamut)議員が利用し、選挙民に見せたとして、警察はタニン議員を取り調べている。有罪と決まれば最高7年間のブタ箱入りであるという。

こんなことで国会議員を引っ括れるとうのがタイのすごさだが、タクシン首相はこのビデオについて大いに気に病んでいるらしい。このビデオ・テープの流通を禁止する挙にでた。

ということはmタク。バイ事件のテレビ放送などはろくに遣ってなかったらしい。あきれたテレビ局であり、政府の言論規制である。それで、日本の新聞も南タイ事件の報道をほとんどやらなかったのか?しかし、他の国の新聞には大々的に書いてありましたぜ!!

まあ、いいや、及ばずながら、このホーム・ページの読者の皆様には「都合の悪い」出来事もお知らせしましょう。

とにかく、タクシンは国民の知る権利などについてはあまり熱心ではなく、都合の悪いことは隠蔽するということで一貫してきた。その最大の問題は「鳥インフルエンザ」事件であったことは記憶に新しい。

他にも国民に隠している事は山ほどあるに違いないが。

 

50-10. タクシン、南タイのイスラム過激派を訓練しているのはマレーシアとインドネシアと非難(04年12月21日)

6千万羽の折鶴を南タイの紛争地区に空からばら撒く作戦は、どうもあまりうまくいった様子もなく、相変わらずイスラム教徒との紛争は続いている。

タクシンはイスラム教導師4人を逮捕した。イスラム教徒は、彼らがバンコクに爆弾テロを計画していたということを「白状」させようとしているとして反発をさらに強めている。

タクシンはこれら4人以外にも100人ほど容疑者がいるとして、国内の危機感をあおっている。

これは、当然05年2月6日の国会議員選挙を有利に運ぼうとするタクシンの思惑であるとタイの識者はみているが、「純朴な」タイの農民はタクシンの策略に引っかかってしまう 可能性がある。

もしイスラム導師から「自供」が得られれば、タイ国内の大多数の仏教徒の支持を得て、国会議員選挙で与党が勝利することは間違いない。南タイの紛争がタクシンの政治生命の延長に利用できれば、タクシンにとっては願ったりかなったりというところである。

さらに、南タイの紛争は「イスラム教徒」の陰謀であるということを、国内で印象付けるために、タクシンはASEANメンバー国にまで「戦火」を拡大しようとしている。

タクシンは最近、南タイのイスラム教徒に軍事訓練を施し混乱拡大を狙っているのはマレーシアであり、インドネシアの過激派も強い影響力を及ぼしているという趣旨のことを公言した。当然、両国政府は強い反発を示し ている。

「証拠があるなら明らかにせよ」とインドネシアのウィドド政治・治安調整相も怒 りをあらわにし、ユオノ・スダルソノ国防相も「具体的根拠をしめしていただけなければ、インドネシア政府としては反論せざるをえない」と語っている。

また、インドネシア外務省のユリ・タムリン報道官は「タイ南部の騒乱は純粋にタイ国内の問題であり、インドネシアが巻き込まれるのは心外であると」述べている。(ジャカルタ・ポスト12月20日)

マレーシアは「イスラム過激派(分離独立派)の武闘等訓練を行っているのはケランタン州のマレー人である」とのタクシン発言に対して、マレーシア政府や野党政治指導者は激し く反発している。

1国の首相たるものが、同じASEANグループ内の国名を挙げてまで非難することは、およそ常識では考えられないことだが、タクシンにとってはそんなことはどうでも良いことなのであろう。彼の目的は次の選挙に勝ってしまえば、後は何とかなるという発想である。

もし、相手国が反発をすれば、「喧嘩を大きくさせる」ことができて、国内的にはますますアピールするということであろう。ASEANの統合などは各国の政治指導者には最初から眼中にないのである。

「ASEAN統合」という舞台だけを作って、それぞれが自分の思惑とシナリオで「お芝居を演じている」という解釈をしておけば間違いはないであろう。これを日本の偉い学者先生までもが「地域統合」で理想の姿だなどと騒ぎたてるのはコッケイきわまりない。

⇒マレーシアのゲリラ訓練場面の写真は高校生の学校行事(04年12月25日)

タクシンがマレーシアにスパイを送り込んでとらせたと称するゲリラの訓練場面の写真は、実はタイのパタニ県のトゥン・ヤン・デン地区の高校の体育祭(スポーツ・デイ)のあと、高校生に軍服を着せて、「軍隊経験」をさせた時のものであることが判った。

タクシンにとってはとんでもない「恥の上塗り」となってしまった。おまけに、スパイをマレーシアに送り込んでいることまで認めるという大失態を演じてしまった。

 

50-11.南タイでまたも爆発事件、2名死亡8名負傷(04年12月25日)

私が不思議に思うことは南タイの年初来から580名に達する死者を出している騒乱事件が日本に新聞ではほとんど、あるいはまったくといって良いほど報道されていないことである。これは、日本の新聞がタイ政府から何らかの報道規制をされているためであろうか?

あるいは、96年7月のジャカルタでの民主党事務所襲撃事件の時のように、時の政権(当時はスハルト政権)に遠慮して、意識的に報道を抑制した(大々的に取り上げなかった)ためであろうか?

あるいは、他に大きな事件が世界にいくつも転がっているのでタイの事件など新聞の紙面には載せないということなのであろうか?

いずれにせよ、南タイの騒乱はタイの近代史上最大に事件のひとつであり、日本の新聞が大きく報道しないということ自体日本の言論史上いずれ大きな問題になるであろう。

アメリカのウオール・ストリート・ジャーナルなどはインターネット版だけかもしれないが毎回きちんと報道している。今回の事件も然りである。

12月24日朝にまたも、南タイのナラティワット県スンンゲイ・コロク(Sungai Kolok)という町のサイアム・コマーシャル銀行(本店はバンコク)のATM(現金自動取り扱い機)の近くに止めてあったオートバイに仕掛けられていた爆弾が破裂した。

2名の死者と8名の負傷者が出たと報じられている。死者の一人のスエレー(Suelee25歳)という人物はイスラム過激派のメンバーと考えられており、予定より早く爆発してしまった可能性があると警察では見ている。(自爆テロというのは南タイでは目下のところない)

警察は近くに止めてあった、別のオートバイがスエレーのもので、そこには爆弾が隠されていたという。

それより1日前の12月23日(木)には南タイの3県(ナラティワット、ヤラ、パタニ)で学校の教師が政府に安全対策を求めてストライキを行い、2,500校が休校となった。

政府は2,000人以上の警察官・軍隊などを現地に増派し、警備の強化に努めるといっている。

タクシン政権は最近「折鶴を6,000万羽」飛行機からばら撒いたりしているが、一向に効果はない。南部イスラム教徒のタクシン政権へ不信感はタクシン政権が続く限り消えそうもない。

私は日本人の読者に言いたいことは、日本の新聞は「アジア報道に関する限り(他も同じかも知れないが)、ほとんどなきに等しい」ということである。要するに読者がお金を払っていてもほとんど何も判らないということである。

しかし、英語さえある程度読めれば、米国のメディアやタイの英字新聞(http://www.komchadluek.net/←ネーションやバンコク・ポスト)などにいくらでも書いてある。

南タイの争乱についても、毎日新聞の「記者の目」によると南タイの争乱はたいした問題ではなく「タクシン政権を揺るがすにはいたらない」などとご託宣をたれている。

タクシン政権が安泰かどうかは判らないが、気の利いたタイ人は憂慮していることは間違いない。そんなタイ政府御用達みたいなコメントはどうでも良いからきちんと事実を伝えろとまずいいたい。

普段ロクな報道もしていないのだから、事件そのものを知っている読者すらいないのに先回りして言い訳しているとしか思えない。

これは毎日だけでなく朝日も、日経もアジアの新聞なのだから、せめてニューヨーク・タイムズやWSJ程度には報じてほしい。特派員ははいて捨てるほど(失礼)派遣しているではないか?

 

50-12. 爆弾テロがソンクラまで北上(05年4月7日)

南タイの武力抗争は従来南タイの3県(ナラティワット、ヤラ、パタニ)に集中していた傾向にあったが、今週日曜日(4月3日)にソンクラで起きた「爆弾テロ」事件は、武力抗争が北に移動してきたことを示す重大な兆候であるとしてタイ政府は警戒を強めているという。

爆弾事件はソンクラのカレフール・スーパーストア(フランス系)とグリーン・ワールド・パレス・ホテルおよびハジャイ空港の3ヶ所でほぼ同時に起こった。このうちハジャイ空港では2名の死者と54名の負傷者が出ており、その中にはフランス人やアメリカ人も含まれているという。

また、非公式情報としてはカレフールでは3名の死者が出ているという噂もある。いずれにしても一般市民を対象にした無差別爆弾事件であり、インドネシアやフィリピンと同様な「テロ事件」であることは間違いない。

従来の南タイ3県の「テロ事件」は相手が警察官であるとか、仏僧であるとか華人であるとか、「対象」がある意味でははっきりしていた。

爆破の方法は携帯電話を使って爆破装置を起動させるという「今までには見られない進んだ方法」であることも特徴である。ただし、爆破犯人がイスラク過激派と決め付けることは今の段階では危険である。タイの軍警の謀略作戦である可能性も否定しきれない(フィリピンと同様)。

タイ警察は容疑者1名を特定し、追及しているという。また、南タイ3県のテロ事件に関与したとして12名を氏名手配しており、懸賞金をかけて追及しているとしている。

タクシン政権は南タイの騒乱事件がタクシン流の「強硬策」では収拾不可能と見て、アナン元首相を委員長とする特別委員会を組織して対策に当たろうとしていう。

しかし、南タイのイスラム教徒にとってみれば、ソムチャイ弁護士を拉致・殺害したのはタイ警察であり、その事件が死体も発見できないまま迷宮入りするほか一連のタイ軍警の残虐事件に対するタクシン首相への不信感が強く、簡単には収まる気配は見えない。

むしろ抵抗運動が徐々に北上する気配を示していることに注目する必要がある。最終目的地はバンコクになる恐れ無としない。

 

50-13. ジェマー・イスラミア容疑者に無罪判決(05月6月1日)

今回のタイの南部の騒乱のきっかけともなったジェマー・イスラミア容疑者4名(03年6月に逮捕)に対し、タイの裁判所は検察側の証拠が不十分だとして、無罪の判決を言い渡した。検察が控訴するかどうかは未定である。

被告は医師のワエマハディ(Waemahadi Wae-dao)とイスラム学校の所有者のマイスルとムヤヒデ親子と日雇い労働者のサマーンの計4名であった。彼らが逮捕されたきっかけはシンガポール 国籍での2003年5月にタイで逮捕されたアリフィン・ビン・アリという人物の自供によるものであった。

彼らの逮捕容疑はバンコクにある外国の大使館やプーケットやパタヤなどで爆発事件を起こす計画を持っていたということにあった。

米国は2001年の9月11日のテロ事件以降、アルカイダが東南アジアに進出しつつあるというシナリオをしきりに喧伝し、シンガポール政府がこれに飛びついて大量の逮捕者を出している。

彼らは裁判にかけられたものはおらず、ほとんどが裁判抜きで何時までも拘置されている。マレーシアも逮捕者を出しており、国内治安維持法違反ということでこれまた、裁判抜きで数十名が拘置されている。ただし、マレーシアの方は時々何人かは釈放している。

米国が東南アジアのイスラム過激派として名指しているのは「ジャマー・イスラミア」という「組織」で、その大親分はインドネシアのアブ・バカール・バアシールであるがインドネシア政府はジェマー・イスラミアの存在自体認知していない。

そうこうするうちに2002年10月にバリ島における爆破事件が起こって202名の死者がでて、実行犯は相当数捕まり、死刑や無期懲役の判決が出ている(ほとんどが控訴中)。バリ事件の直前に米国はタイム(週刊誌)などを使って執拗にジェマー・イスラミア報道をしていた。

タイでも南部諸州はマレー族が多く居住しており、彼らはイスラム教徒であり、当然ジェマー・イスラミアがいるはずだというのが米国の見方であった。そこで捕まえたのが上記の4名であった。彼らは取り調べのなかで、警察に拷問にかけられ、主人弁護人がのソムチャイがそれを糾弾した。

ところが、ソムチャイ弁護士は警察官によって拉致され、どこかへ連れて行かれ、消されてしまった。いまだに行方不明であり、容疑者の警察官もたいしたお咎めを受ける様子もないし、捜査が進んでいるという話も聞かない。(上記50-2、2004年3月の事件)

この事件からタクシンのイスラム教徒政策が変調をきたし始めたのである。その政治的背景をさらにいうならば、タイ南部は野党民主党の牙城であり、これをひっくり返す作戦の一環として打った手が、次々に失策 を呼び、大量の犠牲者を生んでいる。

今回の無罪判決は南タイ事件の出発点を裁判所は整理したということができよう。しかし、タクシンや警察や軍の責任はまだ追及されていない。それがある程度進まなければ南タイの平和はなかなか回復されない。

(参考記事)

26. タイでイスラム過激派ジェマー・イスラミア・メンバー(?)3名逮捕(03年6月14日)

タクシン首相が米国を訪問しブッシュ大統領と03年6月10日に会見する直前に、ブッシュが目の敵にしている、アルカダの一派であるジェマー・イスラミア(JI)・グループに属する とみられるイスラム過激派がタイでも逮捕された。

タクシンもイスラム・テロリスト逮捕という結構な材料をブッシュに提供(手土産が)できてめでたい限りである。おめでたいタイの新聞はここぞとばかり喜びいさんで報道した。

タクシンはタイにはテロリストはいないと公言していたが、いることがわかったら抜く手も見せず捕まえたというストーリーである。

バリ島爆弾事件に関与したJIグループがいて、シンガポールの情報によって捕まえることができて、メデタイというのが6月13日付のバンコク・ポストの社説である。どこの国のメディアもおそまつ論説委員を抱えているらしい。

この点、ライバル紙のネーションのほうがはるかにましな論説をしている。

チュラロンコーン大学世界イスラム研究所理事のアロン・スタサナ氏の「ジェマー・イスラミアというのは平和的であり、自分達をより大きなイスラム共同体の一部とみなしている。JIをテロ集団と単純に決め付けずに、証拠を十分に調べる必要がある」というコメントを紹介している。

ところが、肝心のインドネシアでの裁判で、バリ事件の「爆弾屋グループ」とJIを結び付けようとする検察側の意図が、次々と関係者の証言によって覆されているのである。(本ホーム・ページ:「バリ爆破事件」参照)

アルカイダとの関係など、立証どころの騒ぎではない。全く無関係ともいえるような証言内容である。

もともと、アルカイダとJIを結びつけたのは米国のCIAとシンガポール政府である。実際どれだけの根拠があるのか、確かな証拠は見当たらない。

イラクへのアメリカの侵略も、フセイン政権とアリカイダが密接な関係にあるということも、重要な理由であったはずである。ところが、そんな証拠はどこにも見当たらないという、アメリカにとって不幸な(?)結果に終わってしまったようである。

アメリカの世界的「反テロリズム」キャンペーンに乗り、ブッシュ政権にゴマをすろうという態度がどこの国も見え見えである。こういう物語の背景には各国とも、たいてい米国大使館が関与して、シナリオ作成に協力している。

先の湾岸戦争のときも、当時の駐タイ米国大使は「タイでは1,000名のテロリストが訓練を受けている」という報道を流し、日本政府はこれを頭から信じ込み、タイへの「渡航自粛」要請をだし、 いい笑いものになったことがある。

アメリカの言うことなら無条件に信じるというのが日本の国是なのであろうか?その辺タクシンのほうがはるかに「悪知恵」が働いているようだ。

JIメンバーを引っ括ってみせて、イラク戦争に積極協力しなかったことや、麻薬撲滅事件の人権侵害など、あれやこれやをブッシュに「ゴメンナサイ」で済ませてしまい、米国の軍隊にテロ対策用の基地を「有料で」貸すから、どうぞお越しくださいというところまで持っていってしまった。

なお。今回捕まったのはMaisuri Haji Abudullah 50歳とその息子のMuyahi 21歳と医者のDr. Waedahadi Wae-dao 41歳の3名である。Maisuriはイスラム学校の経営者である。3人とも地元の名士であり、テロとは関係がなさそうだという隣人達の見方だという。

この逮捕劇はシンガポール政府筋の情報をもとに仕組まれたものであり、さしたる根拠があるものではないという見方がされており、タイ領にすむ約600万人といわれるマレー系イスラム教徒の反発が強まることが予想される。

タクシンは03年6月22日、本件は「国民の安全にかかわる微妙な問題であり、国会議員やメディアはコメントをしないで欲しい」と早くも言論規制に入っている。

インドネシアではバリ事件の裁判のなかでジェマー・イスラミアの実在自体怪しくなってきている。

 

50-14. ヤラで多発テロ、タクシンに「非常大権」(05年7月17日)

7月14日(木)の夕方6時ごろ、紛争地域のヤラ(Yala)でホテル、病院、映画館、商店、倉庫など数箇所で爆破・放火事件があり、交番が襲撃され、銃撃戦の結果、警察官2名が殺害された。2004年の1月から既に800名の死者が出ている。

タイ政府は事態は切迫しているとして、従来の「戒厳令」を撤廃し、タクシン首相に「非常大権」(事実上の独裁権)を与える「非常 事態宣言」を公布することを7月15日に閣議決定し、国王に認可を申請した。いかなる法的根拠があるのかはわからぬが、議会にはかけていない。

タイ政府関係者によると「戒厳令」よりも広範囲な「非常事態」立法を半年前から検討していて、今回のヤラ事件を機に公布に踏み切ったということである。ただし、タクシンは「議会」に説明する責任はあるとしている。

その前に、タイ政府は先に国民和解委員会(NRC=National Reconciliation Commission)を設置し、アナン元首相を委員長として、問題解決の糸口を見つけようとしていた。

このNRCはそれまでのタクシンの一方的な強圧政策ではイスラム教徒の反発がいっそう強まり、事態解決への道はますます遠ざかりつつあるということから、穏健・良識派による委員会が組織された。

しかし、今回はNRCの存在を無視して「短気」なタクシンが再び、「強硬策」を採用することを内外に示したものであろう。

政府にとって都合が悪い報道は禁止することや、令状無しでの逮捕、電話の盗聴、メディアへの検閲などあらゆる市民権の侵害を政府に認める内容であるという。これに対する反発はイスラム教徒だけでなく、全国のメディア関係者や学者やなどから噴出している。

タクシンがこんなことを始めたのは、「南タイの騒乱」が収まる気配がないことに業を煮やしたからだということであろうが、新国際空港関連汚職事件など一連のスキャンダルの表面化で、タクシンの支持率は急速に低下しつつあり、国民の関心をそらす目的があることも無視できない。(続く)

 

50-15. TRT元国会議員の兄に逮捕状(05年8月19日)

今回の南タイの騒乱のキッカケともなった04年1月のナラティワット軍事基地が何者かによって襲撃され、兵士4名が殺害された上に、約300丁の攻撃用ライフル と20丁のピストルと2丁の機関銃が強奪された事件(#50-1参照)に関連して、新たな動きがあった。

この事件は当初、タイの「ジェマー・イスラミア」(インドネシアでバリ事件を起こしたと称されるイスラム過激派組織)のしわざであるといわれ、イスラム教徒へのタイ政府による弾圧のきっかけとなった。

しかし、その後事態は思いがけない展開となり、タクシン政権の与党、TRT(タイ愛国党)の国会議員らが仕組んだ陰謀であるという証言が飛び出した。タクシン首相としてはきわめてまずい事態になってきたので、国会議員はクビにしたものの当人たちは関与を否定したまま逮捕され裁判が進行中である。

ところが、8月16日(火)に刑事裁判所が,元TRTの国会議員アレペン(Areepen Uttarasin)の実兄ロミール(Romir Uttarasin)とその仲間6名に対し、逮捕状を出した。

容疑の内容はロミール一味が南タイの分離独立を目指すベルサト(Bersatu=統一という意味のマレー語)グループのメンバーであるハリフ(Hariff Soko)なる者と共謀して、武器を奪い、南タイに騒乱を起こすことを目論んだというものである。

ハリフと元TRT国会議員ナジュムディン(Nadjmuddin Umar=Narathiwat選出)の2名が逮捕され、裁判がおこなわれている。証人によれば主犯はナジュムディンであるということである。

この事件はタクシンの政党である、TRT党の南タイの国会議員が首謀者であることに重大な意味がある。

 

50-16. 海兵隊員2名が殺害される(05年9月24日)

南タイのナラティワット県、バン・タニョンリモ(Ban Tanyong Limo)村で村民に捕まり、吊るし上げを食っていた海兵隊員2名が9月21日(水)午後2時頃に殴打されたのち刺し殺されるという事件が起こった。

警察は11名(うち1名は女性)の容疑者を特定し、逮捕状をとって追及しているが、そのうちの2名が23日(金)に逮捕された。

事件には前段があって、9月20日(火)に付近の村の喫茶店でくつろいでいた村民が小型ットラックに乗った何者かにAK47自動小銃で乱射され、6人が負傷し、そのうち2名が病院で死亡するという事件が起こった。

これは、この種の全ての事件は麻薬の利権がらみかアルカイダ関係のテロリスト(日本の一部のメディアはそう見ている)の仕業であるということではなく、軍・警察関係者の謀略もありうることを示唆している。現場には軍帽が残されており、軍関係者が起こした事件であると村人は考えていた。

そのときに、後に殺害された2人の海兵隊員は現場近くを乗用車で走っていたのを村民が目撃していたというのである。この2人は「喫茶店襲撃事件」の調査をするために、9月20日(火)夜、平服(Tシャツ)で入っていったところを村人に見つけられ、あわてて逃げようとしたがエンジンがかからず、村人に8時半ごろ捕まってしまった。

村人は、この2人が前日の「喫茶店襲撃事件」にかかわっていたとして、「真相追究」のために村の建物に押し込め、自白を迫っていたと思われる。

村人はタイ人の新聞記者は信用できないから、マレーシアの新聞記者を呼ぶことを要求し、彼らが来たら「捕虜」を釈放すると村人はいっていた。しかし、マレーシアから数人の記者が駆けつけてきたときは既に2人とも殺害されていたという。

直接手を下したのは、村人の多くが礼拝のためモスクにいっていたあと、覆面をした数人の男が入ってきて、拷問を加え、刺し殺したという。村人が復讐のために直接刺し殺したという確たる証拠はないようだ。

検死に当たったポーンティップ検死官(検死科学中央研究所次長)は検死の後、2人は両手を後ろで縛られ、足もしばられ、目隠しと猿轡をされたまま刺し殺されたという状況を説明した。

ついで彼女は「2人は危険にさらされているという認識が浅く、軍・警察の関係者は2人を見殺しにしたのではないか」との感想を述べたという。 近くにいた現地の軍関係者は村への突入の準備はできていたが、「突入命令」はこなかったと語った。

「喫茶店襲撃事件」については何の捜査もおこなわれていないが、海兵隊員殺害には軍・警察はすばやく対応していることも村人の不満を高めているという。

なお、タイ王室からシリントン王女が現地入りし、2人の「英雄」の葬儀(仏式)を主催した。一方、喫茶店事件で殺されたイスラム教徒の貧しい村人の葬儀については何の報道もない。

The Nation, Bangkok Post, BBCなどのインターネット版(9月23日、24日参照)

 

50-17. マレーシア政府は南タイの難民131人を強制送還せず(05年9月29日)

日本の一部メディアでは南タイの騒乱について「タイ南部にテロの嵐」という見出しをつけ、「イスラム教徒が多数を占めるタイ南部で04年1月以降、警官らを狙ったテロ事件が1600件以上発生し、 死者は800人を超えた。イスラム武装組織の犯行と見られ・・・」と一方的にイスラム教徒を断罪している。(05年9月23日付け、毎日新聞)

そうでないことは、このページをご覧いただけば明らかであろう。さらに毎日新聞はイスラム武装組織を「アルカイダ」との関係を匂わせている。また、一方で、西側外交筋の談話として(?)「一連の事件は、宗教対立を装った利権確保が狙いで、きわめてタチが悪い」などとも欠いている。

一連の事件は宗教紛争、人種紛争という要素が強く、住民のタクシン政権に対する「抵抗運動」的なものに変化してしまい、タクシン政権が続く限り(あるいは大幅な政策転換がない限り)この紛争は収まらないが、「利権獲得(どういう利権があるのか知らないが)」が目的だとしたら、これは確かにタチが悪い。

日本では良識ある新聞という評価をえている毎日新聞(私も数十年来の読者だが)が、南タイの騒乱問題で、こんなにあっさり「テロリスト」呼ばわりしたり、「利権追及」に住民が加担させられたりしているというなどという報道をするとは夢にも思っておらず、少なからぬショックを覚えた。

大体、アジア報道というのはこういうトーンで書かれた記事が少なくない。こういうことでは日本人のアジア認識のゆがみはなかなか直りそうもないという暗澹たる気分にさせられる。

ところで「テロリスト」側に立つ南タイの住民はどうかというと、彼らは「タイの軍・警察のテロ」を極度に恐れている。「テロリスト」の容疑をかけられれば、軍・警察が乗り込んできて、有無うを言わせずしょっ引いていき、ブタ箱へぶち込まれ、その後どうなったかわからない住民が少なくない。

彼らがマトモな裁判を受けているという報道には接したことがない。9月の初めに南タイの住民131人がマレーシアに逃げ込むという事件がおきて、国連の難民(Refegee)高等弁務官(UNHCR)も調査に乗り出すという事件が起こった。

これに対してたい政府はマレーシア政府がUNHCRに難民への接触を許可したこと自体に怒っている。タイ政府としては「問題が国際化」されることを何としてでも避けたいのである。

タイからマレーシアに逃げている人々は可なりの数に上っていると思われるが、これだけ大量に逃げたのは今回がはじめてのケースである。彼ら亜h[利権集団のテロリスト」が怖いから逃げたのではなく、軍・警察のテロ(捜査や弾圧)怖いから逃げたのである。

これについてタクシン首相は「彼らはトラブル・メーカー」であるといってあっさり片付けた。彼らにとってはタクシン自身が「トラブル」を持ち込んだ張本人なのである。

マレーシア政府は急遽国境地帯に軍隊を派遣し、密入国者の侵入防止や不測の事態に備えているが、肝心の避難民に対しては「彼らの基本的権利と安全が保障されるまでは強制送還しない」という措置を発表した。 これについてもタイ政府は安全を保障するから送還しするよう要求している。と

また、マレーシアはASEANの場で南タイのイスラム教徒問題を討議しようと提案したが、タイ政府はこれは「タイの内政問題である」として拒否した。それはそれでよいが、タイ 側は「イスラム教徒をけしかけているのはマレーシア」の陰謀であるという言い方をしたことがある。(#50-8参照)

 

⇒タクシン首相はマレーシアとの話し合いを拒否(05年10月10日)

10月10日付けのバンコク・ポストによれば、131人の避難民問題について、マレーシア政府のシュド(Syed Hamid Albar)外相は両国間でこの問題を話し合おうと提案していたが、両国の話し合いについて、タクシン首相は「必要ないと」拒否した。

機が熟していないというのが表向きの理由のようである。しかし、タクシンの例によってニベもない挨拶はマレーシア政府関係者を憤激させることは間違いない。

タクシン政権はマレーシア政府が国連難民高等弁務官(UNHCR)は131人がタイ軍の「反乱分子」掃討作戦に恐怖を感じて、国境を越えてマレーシアに逃げ込んだ131人に対し「難民」としての認定をするかもしれないことに大変立腹していることは上に述べたとおりである。

マレーシア政府はタイとの国境に隣接するケランタン州から、さらに安全な南隣のトレンガヌ州に難民を移動した。

マレーシア政府としては131人の身柄の安全確保が「送還」の条件であるとしていた。これにたいし、タイの国民和解委員会(National Reconciliation Commission)のアナン(Anand Panyarachun=元首相)委員長は先週、クアラルンプールにバダウィ首相を訪ね「安全確保」は問題ない旨伝達した。

マレーシア政府としても「分離主義運動」や「反乱」を支援するつもりは毛頭ない旨、タアナン委員長に改めて伝えた。

しかし、131人のなかにはタイとマレーシアと両方の国籍(2重国籍)を持つものが多くいて、調査に手間があっかるとマレーシア政府は言い出した。

一方、タイ政府は131人のうちの1人は既に04年1月4日の軍事基地襲撃の容疑者の1人として逮捕状が出ており、20人についても暴動の容疑者であるという言い方をしている。

これでは彼らが帰国すれば直ちに逮捕される可能性が高いことになり、マレーシア政府としても早期に送還させるということはできなくなってしまった。もしそういうことをやれば、マレーシア国内からの強い反発が予想される。

最近もイスラム教徒の強硬派150人ほどがクアラルンプールのタイ大使館にデモをかけ、「タイ製品のボイコット」を呼びかけるなど、徐々に不穏な空気が高まり始めている。

タクシンはマレーシア政府の協力がなければ「国境近くでの反乱はおさまらない」と発言し、暗に南タイの紛争にマレーシア政府が関与しているといわんばかりの発言を繰りかえしている。

マレーシア政府関係者がタクシンの「人権問題に対する態度」に不信感を持っていることについて、タクシンは「タイの人権に対する基準は 高いのもであり、国際水準である。われわれは(人権に関する)基準と憲法に忠実である」と強調した。

しかし、「麻薬撲滅運動」で2,500人もの人間が殺害(始末)されたり、南タイ紛争で軍・警によって、クルセ・モスクやタク・バイ事件で多数のイスラム教徒が虐殺されたり、ソムチャイ弁護士が「消された」りしている状況が、「良好な人権保障」とは誰の目にも映らないであろう。

しかし、日本の新聞ではこれらの事件はあまり報道されていないらしく、ほとんどの人が知らない。これは特派員が書かなかったのか、本社のデスクが政治的理由か何かで握りつぶしたのかはわからない。これらについてはニュヨーク・タイムズでもWSJでもFTでもかなり詳しく報道してきた。

日本人の特派員の数はこれら欧米のメディアには負けていない。彼らが欧米の記者より能力が劣るとも思えないが不可思議なる現象である。優秀すぎて「現地政府や軍警のスポークスマン」を買って出ているとしか思えない記者もいる。

日本人として「日本の新聞、テレビの報道姿勢」に抵抗(ご自分の知的防御)するためには、外国のインターネットから情報を仕入れるほかななさそうである。もちろん外国のメディアも欠点は多いが総合的に情報を集めるにはそれしかない。

このホーム・ページも皆様のお役に少しは立てばと思っているが、あまり読者も多くはなく、やはりご自分で外国の情報に接するのが一番良い。

これとは別に、10月10日付けのWSJ(Wall Street Jounal インターネット版、有料)の報道によれば、上記のアナン委員長がマレーシアから帰国後、「南タイの叛乱(Insurgency)は外国のテロリスト(アル・カイダ)やマレーシアの支援を受けたものではない」と語った。

また、「CIA関係者によれば南タイの爆弾はお手製のもので、インターネットで製造法を学んだ程度の代物であり、また、南タイの若者がシリヤやリビヤにいってテロ技術を学んだ形跡はないとのことだ」とマティチョン紙(先日、買収騒ぎのあったタイ語の日刊紙)に語った。

 

50-18. リビヤで訓練を受けた3,000人のゲリラ戦士が南タイで活動?(05年10月13日)

南タイで紛争が04年の1月に勃発してから既に約1,000人(日本の某一流紙は800人以上としている)の死者が出ていて事態の改善はほとんど見られず、実質的にはむしろますますドロ沼化しつつあると見てよい。

政府の治安維持作戦司令部(Internal Security Operations Command)の副司令官のパロップ(Pallop Pinmanee)将軍は100人の国軍将校が参加するセミナーで「過去2年間で3,000人の南タイのイスラム教徒がリビヤで軍事訓練を受けて帰国し、先頭に参加している。彼らはタイ国軍の特殊部隊と同程度の先頭技術お身につけている」と警告を発したという。(ネーション、インターネット版、10月13日)

パロップ将軍はタマラク(Tamarak Isarangura)国防相の顧問もつとめている。記者から、この情報はどこから得たのかという質問には答えなかったという。今までの例だと、タイでは大げさな情報は米国大使が大体発信源になっている。

この話しを聞いて驚いた(?)米国のラルフ・ボイス(Ralph Boyce)大使は「南タイの紛争には外国の影響は見られない。外国から財政援助や武器の援助を受けている様子もなく、純粋にタイの国内問題だ」とわざわざコメントを出した。

日本の某一流新聞などはあたかも南タイの紛争は「アルカイダ」や「ジェマーイスラミア」が絡んでいるといわんばかりの報道をしている。ジェマー・イスラミアに何でも結びつければ、一応記事になって一般読者が感心して読むと思っているのであろうか?

しかし、WSJの最新版を読むと、パロップ将軍も「3,000人はオーバーだったかな」と反省した様子で、急に人数が「20人」に減ってしまった。「20人のグループがリビヤで4年間トレーニングを受け、帰国後数百人の精鋭ゲリラ戦士を育て上げ、彼らが中核になって反乱を指導している」という言い方に替えたようである。

日本でも某一流紙が60年以上前に中国戦線で日本軍の某将校が「中国兵を100人、軍刀で切り殺した」などという武勇談を面白おかしく報道したことががる。

戦後その「英雄」は「戦犯」として処刑されてしまった。日本刀の性能がいくら良くても100人は切れないと思うが、それは事実として報道され、日本人の大部分が信じて拍手喝さいを送っていたのである。

パロップ将軍はタイのメディア(この場合はネーションか?)の報道を否定しているという。しかし、軍のセミナーでしゃべってしまったというのだからどうしようもない。ネーションが「ウソの報道をした」という話しは今のところ出ていない。

パロップ将軍は、最近の状況としてそれまでレッド・ゾーン(叛徒ゲリラが支配している)といわれた村が187だったのに、「クルセ・モスク(タクバイ・モスクではない)事件」以降、247に増えてしまったと事態の悪化を認めている。

WSJの記事もタクシン首相の政府が「問題を強硬手段で処理しようとしたことなどが」批判されているという書き方をしている。これが日本の某一流紙によると、悪いのは一方的に南タイのイスラム教徒の「テロ活動」だということになってしまう。日本の新聞は今も昔も恐ろしい。

 

50-19. タクバイ事件でマレーシアに逃れていた40名が帰国(05年10月17日)

04年10月25日、タクバイ警察で不当逮捕者を釈放せよと押しかけた数千人のデモ隊のうち、約1,300名が逮捕され、ぎゅうぎゅうづめにトラックの荷台に手足を縛られたまま放り込まれパタニの軍の収容所に移動させられる途中で78名が窒息死するという痛ましい事件が起こった。(50-6参照)

その後、一旦釈放されたものの、再度軍が逮捕に来るという噂に恐れをなしたイスラム教徒の青年75名がお隣のマレーシア領に逃げ込み保護されていた。

そのうち40名がタイ軍から身の安全を保障されたため、タイの郷里に帰った。彼らは帰国後、職業訓練を受け、公共事業などで働く仕事を与えられるという。

1980年から8年間タイの首相を務めたプレム枢密院議長は「タイの心(やさしい心)を南部へ」という融和プロジェクトの発会式で演説し、「2004年の1月から乱暴な行為により多くの命が失われ、金銭的にも時間的にも多大の浪費がおこなわれた。われわれはお互いに不信感に陥ってしまたが、もうこれ以上何も失ってはならない」とのべた。

プレム将軍の言うとおりである。ナラチワットの軍事基地襲撃事件から端を発して、ついに宗教戦争にまで発展してしまった。日本の新聞はイスラム教徒の「テロ行為」のみをやけに強調していうるが、なぜこういう悲劇が起こったのか?

タ ナラチワット軍事基地の襲撃を陰謀したのは何とTRT党の国会議員だったというから驚くほかない。

その後、クルセ・モスクにおける虐殺、タクバイ事件などタクシンの強硬弾圧政策がイスラム教徒住民の強い反発を呼んだのは上に見るとおりである。それ以外にもソムチャイ弁護士殺害事件という、明らかにタイ警察の犯行と思われる事件も起こった。

イスラム教徒も警察官殺害や、仏教徒住民への「テロ事件」を起こしている。クビを切られた遺体のそばに「お前らは無実の者(イスラム教徒)を殺した、だからわれわれも無実のものを殺す」というメモが残されていたという。

彼らはタクシンに対する憎悪感が非常に強い。それまでの民主党政権下では、散発的な事件は起こったが、これほど大規模な殺戮事件は起こらなかった。タクシンは明らかに「イラクにおけるブッシュの手法」を採用したかの感がある。

タクシンが首相の地位にいる限り、この報復合戦は収まらないとイスラム教徒は主張している。この状態が続けばタイ南部の経済的打撃はいっそう深刻になる。

だからといって、議会制民主主義国家では「国王が首相の首をすげ替える」わけにはいかない。

これは首相が靖国参拝に固執して周辺諸国の憤激を新たにしても「蛙のツラにxx」を決め込む日本でも同じことだ。国民の皆さんも我慢してください。選挙で自民党を圧勝させた自分達の責任だと思って。

タイにはアナンさんとかプレムさんとか名首相として今でも国民から慕われる首相経験者が、このピンチに乗り出してきて頑張っている。彼らは一言で言えば「穏健な常識人」である。世界どこに行っても一流のステーツ・マンとして尊敬されている人物である。

ところが、わが国の場合はどうだろうか?目に付くのは「ハッタリや権謀術数」ばかりのような気がしてならない。日本にはそのうちもっとヒドイコトが次々起こりそうな悪い予感がするのは私だけであろうか?「郵政民営化」ができれば何もかも良くなるというご託宣だったが。

国民はそのレベルに応じた政治リーダーを持つという。程度の悪い教育、テレビ番組、新聞などで汚染された日本人は、まさに「茹で蛙」の有様である。自分の身に危機が迫っていることに気が付かない。新自由主義の「弱肉強食」の世界は人間を幸福にはしないし、「経済を活性化」もlしない。

アメリカの昨今のサマを観察すればそれで十分だ。もっと穏健で常識的な「経済政策」があっても良いはずだ。

 

50-20. 携帯電話中継施設101箇所に一斉放火(06年1月20日)

1月18日(水)夜、南タイの騒乱地域101箇所の携帯電話の中継施設で火炎瓶による放火があった。携帯電話通信への直接の影響はほとんどなかったといわれる。

これは、先にタイ政府が「携帯電話を使った爆弾事件」をなくすように規制を強化したことへの叛徒側の報復行動ではないかと見られている。しかし、100箇所でほぼ同時に放火をおこなえる「実力」を見せ付けられたタイ政府としては内心穏やかではない。

まお、南タイの紛争は一向におさまる気配はなく、日常的にテロ的殺人行為がおこなわれている。

 

50-21.タクシンの辞任で南タイの騒乱は収束に向かう?(06年4月8日)

タイ南部のヤラ(Yala)地方裁判所はタクシン政権が発動した「非常事態」宣言により2週間ほど前から警察に令状無しで拘束されていたイスラム学校の導師18名のうち4名の即時釈放を命じる判決を本日(4月8日)下した。

それに引き続きタイ警察は拘束していた残りの14名のうち13名を釈放した。残りの1名はどういう罪状で拘束が続けられているかは不明であるが、大量の逮捕者が比較的短い拘束期間で釈放されたことは地元の人々からはさぞ歓迎されたことであろう。

もちろん彼ら以外の多くのイスラム教徒が逮捕・拘留されているが、その実態は必ずしも明らかではない。また、多くのイスラム教徒が拘留中にひそかに殺害されたという噂は絶えない。300名の身元不明者の遺体のDNA鑑定が行われつつあるというような話もある。

しかし、最近、南タイでは治安情勢に微妙な変化が現れている。それは、4月2日(日)の国会議員選挙の当日、3ヵ所の投票所に仕掛けられた爆弾が破裂して警察官5名が負傷するという事件が起こって以来、ここ1週間、爆弾事件の類が起こってないということである。

特に、タクシンが辞任を表明した4月4日(火)以降は南タイはやけに静かである。このまま、「紛争」が自然に収束に向かうことを期待したいが、その可能性は大有りである。

もともと、南タイにはイスラム教徒の「分離独立運動」は存在し、散発的なテロ事件は存在したが、概してイスラム教徒も仏教徒(華人系が多い)も長い間、比較的仲良く暮らしてきたのである。

情勢が一変してたのは2004年1月4日のナラティワットの陸軍基地が60名ほどの武装集団がによって襲撃され、4名の兵士が殺害され、約300丁の攻撃用ライフル と20丁のピストルと2丁の機関銃が強奪される事件が起こってからであった。

タクシンはこれはイスラム教徒の反乱分子の仕業であるとして、大軍を派遣し、容疑者を片っ端からひっとらえ、多くの若者が虐殺された。その事情は本ページの上の方にやや詳しく述べたとおりである。

南部のイスラム教徒にとっては、これら一連のイスラム教徒虐殺事件はタクシンが仕掛けてき「攻撃」であるという意識は強い。そのタクシンが首相の座を降りれば、イスラク教徒たちの「憎悪の念」も多少は和らぐことは間違いない。

今回のイスラム導師の大量逮捕は新たな反発を引き起こす可能性を秘めていたが、ヤラ地裁の迅速な釈放命令と現地の警察の「被疑者(何の容疑か知らないが)」釈放は現地のイスラム教徒の心情にアピールするものがあるに違いない。

もちろん、タクシン首相の辞任や今回の釈放で今までのワダカマリが一気に氷解するものではないであろうが、南タイの空気はかなり変わりつつあるように見受けられる。

⇒タクシンの居直りが明らかになるにつれ騒乱事件は再発(06年5月30日)

タクシンが辞任表明してしばらくは南タイの殺人テロ事件などは位置時期沈静化の兆しが見えたが、5月にはいってタクシンが再び首相の座に返り咲くような動きが見え始めてから、南タイでは殺人テロ事件が急増し始めた。

 

50-22. 南タイで500人の身元不明の埋葬遺体発見(06年5月30日)

検視科学研究所のポーンティップ所長代行(#50-6.参照)のチームは南タイのマレーシア国境付近で、身元不明の約500体の遺体が埋葬されているのを発見し、調査を開始する。

そのほとんどは2004年以降、「南タイ騒乱」が始まって以降のものと見られ、南タイで警察や軍隊に拘束されてその後行方が分からなくなった数百人のイスラム教徒のものと推測されている。家族の帰りを待ちわびていたイスラム教徒の家族にとっては大変な悲報である。

民主党は政府に実態調査を要求したという。(ネーション・インターネット版、06年5月30日参照)

仏教徒の女性教師が殴られて瀕死の重傷を負ったなどという事件にすばやく反応して、タクシン派首相の座に舞い戻ったが、このような大事件については与党のTRT党が何らかの反応を示したという記事は見当たらない。

また、タイのメディアの取扱いもさほど大きなものではない。 タイ国内でイスラム教徒がどのような扱いを受けてきたかを知る手がかりになるであろう。ホーンティップ女史のような人道主義者がタイにもいて活発な活動を続けていることが何よりの救いである。

 

50-23. 南タイのヤラ県で22ヵ所の銀行支店で爆弾テロ、死傷者多数(06年8月31日)

タクシン首相の退任声明意向、一旦は沈静化しかかった南タイのイスラム叛徒によるとみられる爆弾や狙撃事件が、その後のタクシン首相の居直り声明によって、瞬く間に復活してしま い、最近では毎日のように何らかの事件が起こっている。

そのハイライトともいうべき大きな事件が今回勃発した。8月31日(木)午前11時半頃(日本時間午後1時半)ヤラ県各地のの22ヵ所の銀行の支店・営業所でほぼ同時に爆弾が破裂し、多数の死傷者が出たのである。

死者1名(退役軍人)と27名の負傷者が出た。死傷者の数が少なかったのは爆発物そのものが小型であったということがいえよう。しかし、一般住民が多数出入りする銀行内で起こった無差別殺傷事件であり、住民の間に大きな衝撃が走っている。

名前が明らかになっている銀行はアユタヤ銀行、サイアム・コマーシャル・バンク、サイアム・シティ・バンク、イスラム・バンクである。サイアム・シティ・バンクのマネージャーの話として、爆発を予告する電話が入り、行員と顧客に緊急避難させたが間に合わず爆発が起こったという。

爆弾そのものは手製の小型爆弾であり厚い本をくりぬいたり、女物の手提げバックに入れられ、銀行のゴミ箱や電話ボックスに仕掛けられ、携帯電話を使用して爆発させたものと見られると現地軍の司令官パイトーン(Paithoon Choochaiya)少将は語った。

6月にも南タイ3県の40箇所で同時爆発事件が起こり、そのときは2名の死者と多数の負傷者を出している。 また、最近は小学校の教師が学校内で殺害されるという事件も起こり、今回の事件が現地の学校では直ちに事業を取りやめ、生徒を帰宅させた。

今回は現地の治安部隊にも「近く爆発事件が起こる」という密告が入っており、イスラム教徒の礼拝日の「金曜日」が最も危険だということで警戒していた矢先の事件であった。

ところが、8月31日はお隣のマレーシアが1957年8月31日に独立をとげた、「独立記念日」にあたり、その日にあわせてイスラム叛徒が爆発事件を起こしたのではないかという説が流れている。

マレーシア政府はこの失礼な言い分には一切コメントをしていない。

最近の爆発事件や狙撃事件は同じイスラム教徒の間でも起こっており、政府や治安部隊に協力的な村長やボランティアが狙われるケースが多くなってきている。また、ソンクラはハジャイといった比較的平穏であった地域でも爆弾事件が起こり始めた。

2004年はじめからイスラム教徒との強硬対決姿勢をとり、挑発的な言動を繰り返してきたタクシン首相への憎悪感が広くイスラム教徒住民の間にいきわたっている。タクシン政権が変わり、本格的な「話し合いと和平」ムードができる上がるまでは事態の沈静化は難しいものと思われる。

クルセ事件やタクバイ事件(上の記事を参照)の処理や軍・警察に拘留されたまま行方不明になっている多数のイスラム教徒住民の運命など政府側の「説明不足」が住民の不信を招いている。

また、「ソムチャイ弁護士失踪事件」(警察による殺害は確実だが)についてもタクシン政権は真相の解明をウヤムヤにしている。これらの問題がスッキリしない限り、南タイの3県(ヤラ、ナラティワット、パタニ)に平和が訪れる日は遠いであろう。

民主党政権時代にも分離独立派の仕業と見られる爆弾事件などはあったが、きわめて散発的なものであった。ところが、2004年1月のナラティワット基地襲撃事件(与党TRT国会議員が関与していたといわれる)から、事態は極度に悪化し、既に1,400名以上の死者が出ている。

 

⇒ソンティ陸軍司令官は南タイのイスラム叛徒のリーダーに対話呼びかけ(06年9月2日)

タクシン首相は今回の事件でソンティ陸軍司令官の「無能」を批判したといわれる。一方で、タクシンはイスラム叛徒を「力で殲滅」すべしという基本方針を貫き、叛徒側との対話を拒否してきた。

イスラム教徒のソンティ司令官はタクシンの批判に対し、「今までも叛徒と見られる被疑者を片っ端から捕まえてきた。しかし、彼等は蛇の尻尾であり、いくら捕まえても蛇は死なない」として、叛徒側との話し合いをおこなうと9月1日(金)に宣言した。

タクシンは依然として「対話路線」には反対であるが、ことここにいたっては、「タイ国民であるイスラム叛徒」の指導者との対話が不可避となってきたことは間違いない。

ところが、問題は誰がイスラム叛徒のリーダーなのか定かでなという点がある。また、彼らの「要求」が何なのかもハッキリしていない。「分離独立」ではないかという漠然たる思い込みはタイ政府側にあるが、全体のイスラム叛徒の要求稼動かもハッキリしない。

2ヶ月前に「問題解決の全権を委任された」ソンティ司令官としては「タイ国民であるイスラム教徒」を皆殺しにするという選択肢はありえない以上、叛徒側のリーダーとの対話をおこなわざるを得ない。

タクシンは「対話路線」を拒否する最大の理由は、叛徒側のリーダーの口から「タクシンに対する恨みつらみ」が噴出することを警戒している点に求められよう。「分離独立」への要求はタイ政府・国軍とも到底受け入れられないことは叛徒側も承知しているははずである。

ソンティ司令官の提案に対しては目下、パタニ解放戦線から対話の用意ありという反応があったという。

しかし、ヤラ地区やナラティワット地区の叛徒は別の組織の可能性があり、インドネシアのアチェ(GAMという統一抵抗組織が存在した)とは異なり、住民の自然発生的な抵抗運動のようなものだと誰も名乗りを上げてこないかもしれない。

しかし、現地軍が「平和的対話による問題解決」に向かって動き出した以上、住民側からはあるていど「好意的反応」が得られることは間違いなく、問題が一歩前進する可能性がある。ただし、住民の要求が「タクシン首相からの謝罪」ということになるとことはこじれるであろう。

 

50-24. ハジャイで爆弾テロ、4名死亡、ハジャイの経済に大打撃(06年9月19日)

9月17日(土)午後9時15分頃、南タイのハジャイで仕掛けられた爆弾が破裂し、1名のカナダ人と中国人を含む4名が死亡し、約70名がが負傷するという大事件が起こった。

爆弾が仕掛けられたのはオデアン・ショッピング・モール(Odean Shopping Mall)の地下のディープ・ワンダーというパブの前、その近くのマッサージ・パーラー(トルコ風呂)であった。また、リー・ガーデン・ホテルの駐車場とダイアナ・デパートのスーパー・マーケットと休憩所にも仕掛けられ、それらが携帯電話による遠隔操作でほぼ同時に爆発した。

ハジャイは普段騒乱が起こっているパタニ、ヤラ、ナラティワットからかなり北方に位置し、ソンクラに近く、イスラム教徒居住地区とはいえず、商業・歓楽都市であり、マレーシアやシンガポールからの旅行客の多い場所である。白人の姿も目立つが日本人はさほど多くはない。

私自身も今年の4月にソンクラに行った際にマレーシア行きのバスに乗り継ぐために立ち寄った町である。一見何の変哲もない東南アジアの都市で、華人系の店が軒を連ね、ホテルやデパートの立ち並ぶ比較的安全な町であった。

ただし、2005年4月にハジャイ空港と市内のスーパー・マーケット(フランス資本のカレフール)で爆弾事件があり2名の死者を出した。その後ハジャイ空港は厳戒態勢に入っていた。

現地の第4軍司令官のオンコーン将軍(Ongkorn Thongprason)ほこの地域に「戒厳令」を布く考えはないことを明らかにした。「戒厳令」を布くと、外国人の観光客や旅行客が激減し、地域経済に大打撃を与えることは確実だからである。

今回の事件後も8,000件のホテル予約のキャンセルがあり、1億バーツ以上の損害をホテル業界はこうむっているという。観光客が戻ってくるのには早くとも年末まではかかると見ている。

しかし、バンコクの株式市場には何の影響も見られず、9月18日(月)は705.89ポイントと0.75%高で引けた。

警察では今回の事件の首謀者を特定したとしており、ファイサッル・イスマアエ(Faisal Isma-ae)とアブドゥール・カマエ・サレ(Abdul Kamae Saleh)という2名のリーダーの名前を挙げている。彼等は昨年4月の事件も起こしており、未だに逮捕を免れている。

今回は南タイ3県の反乱がソンクラ地区に拡大してきたという見方は軍も警察もとってはいない。現在ソンティ陸軍司令官の主導でイスラム反乱グループとの対話路線が推し進められつつあるところで、南タイ3県のグループが紛争を拡大する理由はないからである。

上記の2名はソンクラ県の出身者であり、自分達の存在をアピールするデモンストレーション効果を狙ったものであるという見方が有力である。しかし、当然、軍と警察は警戒態勢を強化し、マラッカ海峡側の主要項サトゥン(Satun)にも軍隊の増派を決めたという。

この港湾都市が現在イスラム過激派リーダーの拠点になっているという情報があるという。

 

50-25.ソンティ陸軍司令官、反政府イスラム・グループと対話の用意(06年10月7日)

ソンティ陸軍司令官は05年10月に就任以来一貫してきた方針は、既に1,700名もの死者を出しているという南タイの騒乱を沈めるには、力による「イスラム叛徒」抑圧政策では限界があり、「対話による和解と融和」しかないという考えてきた。

しかし、タクシンは融和策ではダメで、「あくまで力による平定」を主張し、対話路線を否定し続けてきた。そもそも南タイの騒乱のキッカケはタクシンが作ったというのが私の見方であり、その論拠は今まで述べてきたとおりである。

そのタクシンがいなくなって、いわば南タイ政策の「最大の障害」が除去された。これは南タイの住民にとっては願ってもない「吉報」であった。

ところが、爆弾事件や警察官襲撃事件などいわゆる「テロ事件」を起こしている「叛徒」は多数のグループがあり、誰と「対話」してよいかが現地軍もよく分かっていないというのが実態である。

そのなかでも分離独立運動を旗印にかかげ、武力闘争をおこなってきた代表的な組織にベルサト(Bersatu=マレー語で統一という意味)というのがある。その代表者にワン・カミール(Wan Kadir Che Man)という人物がいる。

そのワン・カミールから対話に前向きの反応があったという。

それ以外の組織としてはPULO(Patani United Liberation Organization=パタニ統一開放組織)という歴史のある分離独立運動組織がある。組織の勢力は低しているといわれ、そのリーダーはルクマン(Lukman B. Lima)で現在はスウェーデンに亡命している。

ルクマンは真っ先に「タクシンの血に汚れた手」によって殺害、拘束されたまま行方不明になった多くの人々がどうなっているかを明らかにするためにもタクシンを国際法廷(オランダのヘーグにある)にかけるべしというメッセージを送ってきている。

誰と話し合いを持つべきかという問題は残るが、「対話路線」を進めるという暫定政権の方針はタイ国民の大多数の支持があることは間違いない。また、南タイの「テロリスト・グループ」も自分達の領域を超えて、バンコクなどで爆弾を爆発させたり、警察官を襲ったという事実もない。

ということは「反乱行為」はあくまで南タイの「地域問題」で、地域住民の自然発生的な要素がかなり強いことを意味している。そうであれば、軍隊や警察の「態度の変更」などを通じて、新政権の方針が理解されれば、時間とともに「テロ行為」も自然に減ってくる可能性がある。

「反乱組織」が実際に名乗りを上げてくれば、対話(ソンティは交渉でなく対話であると主張している)もできるが、目下のところベルサトとPULOくらいしか出てきていないようだ。

その2つの組織だけとの話し合いも必要ではあるが、一般住民をどこまで代表しているかは不明で、この点がインドネシアのアチェとは違うところである。アチェにはGAM(アチェ解放運動)という代表組織があった。しかし、南タイの平和は一歩一歩近づいていることは間違いない。

 

50-26.托鉢の仏僧の列に爆弾テロ、護衛兵1名が死亡、12名が負傷(06年10月23日)

ナラティワット市で10月22日(日)朝、托鉢に出た仏僧5名の列に対し、街のゴミ収集カンに仕掛けられた爆弾が携帯電話の遠隔操作で爆発し、護衛の兵士1名が死亡し僧侶5名と一般市民合計12名が重軽傷を負うという事件が起こった。

タクシン政権の崩壊後もテロ事件が毎日のように起こっており、ほとんど連日のように死傷者が出ており、しかも事件が従来安全地帯とされていたソンクラ市にも波及してきている。

狙われているのは政府側についたイスラム教徒(村長や導師)が比較的多いようである。

この事件にはスラユット首相も衝撃を受け、仏僧を狙ったテロは宗教対立を引き起こそうという意図が明らかであり、国家を分裂させようという目的を持った者の仕業であると強く非難した。

しかし、タイ政府としては武力に頼る方法で南タイの騒乱を収めるつもりはないと明言している。21日インドネシアを訪問した際もユドヨノ大統領と会談し、アチェの紛争処理の方法を参考にしたいとしてユドヨノ大統領からアドバイスを受けたという。

タイ政府側にも問題があり、新政権発足後もパタニ、ヤラ、ナラティワットのイスラム教徒の多い県に対し、タクシンの発した非常事態宣言をそのまま放置し、連日テロ容疑者と称して多くのイスラム教徒の逮捕・拘置を続けているとのことである。

2004年10月に起こったタクバイ事件(78名の逮捕者がトラック輸送中に窒息死)の時のでも参加者57名が依然として処分未定のまま留置所の劣悪な環境下に拘束されたままだという。

彼等は、逮捕者の釈放を求めて警察署に押しかけた、単なるデモ参加者であり、2年もブタ箱に放り込んだままにしておくこと事態、見せしめ効果を狙ったものとしか言いようがない。その存在に気づいた新政権は早速釈放を進めようとしたが、現地の検察や警察が事務をなかなか進めないという。

こういうやり方が、タクシン政権下で定着しており、政府に対する「不信感」の払拭そのものに時間がかかるという。しかし、新政権の和平への強い意図は着実に浸透していくことは間違いない。

 

50-27. 南タイ特別行政センターの復活(06年10月29日)

タクシンが首相に就任してすぐに解散させられた南タイ行政センター(SBPAC=Southern Border Provinces Administration Center)を新政権は復活させ、県レベルの上部機関として南タイの特有の行政上の問題を迅速かつ的確に処理する方針を決めた。

センター長にはノンタブリ県知事のプラナイ(Pranai Suwannarat)氏が船員された。

SBPACは新政権にとって南タイ問題解決のもっとも重要な切り札である。

 

50-28. スラユット首相、過去の南タイ政策の過ちを謝罪(06年11月3日)

スラユット首相は11月2日(木)パタニにおいて1000名の聴衆の前に、タイ政府の代表者として、過去の政策(強硬・弾圧政策)の過ちを認め謝罪するという、およそタクシン政権下では考えられない演説をおこなった。

また、2年前に起こったタク・バイ事件で85名の死者(そのうち78名は輸送途中の窒息死)を出したことに対する謝罪もおこなった。現在拘束中の58名のデモ参加者については無罪放免することを既に法務省も決めている。

また、イスラム法に準拠したイスラム法廷制度についても強化する方向で進めていくと語った。

イスラム教徒もその他の住民も「1つのタイ国民として」和解し、将来に向かって前進していこうというのがスラユット首相の演説の締めくくりであったという。

スラユット首相のこの異例とも言える演説は聴衆からは感動的に受け入れられたと報じられている。

この演説は現地の住民が最も待ち望んでいた政府からの和平へのメッセージであり、テロ事件は急にはなくならないにせよ、確実に沈静化していくことは間違いない。

 

50-29. 南タイ3県でマレー語を公用語として認める(03年11月22日)

タイ政府は騒乱の南タイ3県(パタニ、ヤラ、ナラティワット)で公用語としてヤウィ(Yawi)と呼ばれるこの地方のマレー語方言を公用語として認めることとした。

南タイ3県はマレー族が人口の80%前後を占めており、ヤウィを公用語として認めてほしいという現地住民の声が強かった。このことによって逆に地方の役人が全員マレー語を習得する必要が出てくる。

しかし、今回の措置はタクシン時代に作られたアナン元首相を委員長とするNRC(National Reconciliation Commission=国民和解委員会)の提言(タクシンはこれを拒否)を生かすものであり、現地住民の大多数から歓迎される措置である。

また、スラユット首相は、お隣のマレーシア領のタイ・レストランが南タイの「叛徒」に対し資金提供をしていると非難した。慎重なスラユットの発言だけに、マレーシア政府も直ちに反論することはなく、実態を調査して対応を協議するものと考えられる。

 

50-30. 南タイ5県を経済特区にする構想浮上(06年11月24日)

スラユット首相は紛争地域のパタニ、ヤラ、ナラティワットの3県に加えてソンクラ(Songkhla)県とサトン(Satun)県の2県を加えた南タイ5県で「特別経済開発区」とし、今後の経済開発を進めていく考えを明らかにした。

この地域では、税制も変え企業誘致を積極的に行うなどの施策が考えられるとしている。全体の方向付けを閣議決定したのちに、特別委員会を設置し、治安問題もふくめ具体策を検討していく方針である。

 

50-31. いまだ150人以上が反逆罪容疑で拘禁中(06年12月25日)

タイ国民人権委員会(NHRC=National Human Rights Commission)によれば、南タイ3県で未だに150人以上のイスラム教徒が「反逆罪」の容疑で、警察に拘置されたままだという。

彼等はタクシン時代に逮捕され、何の証拠ないまま起訴もされず、ただ牢獄につながれているだけだという。

彼らの拘禁継続が地元住民に政府に対する不信を継続させているとして批判が起こっているが警察ははかばかしい反応を示さないまま時間を空費している。

NHRCは容疑が確定しないものは直ちに釈放金を積ませるなどして釈放すべきであることをアピールしている。また、タイ警察はブラック・リストを作成しているが、無実の人間が少なからず逮捕されているという。

南タイではいまだにイスラム叛徒によるとみられる殺人事件が連日のように起こっており、学校への放火も頻発している。タイ国軍は空挺部隊を増派するなどして治安の維持と犯人逮捕に乗り出している。実行犯の逮捕が少ないことも大いに問題である。

(バンコク・ポスト、インターネット版、06年12月26日)

 

50-32.マレーシア首相、南タイ問題でタイ首相と会談(07年2月13日)

マレーシアのアブドゥラ・アーマド・バダウィ(Abdullah Ahmad Badawi)首相はプーケット島で2月12日にスラユット首相と南タイ問題で会談をおこなった。

共同声明の中で「これ以上無実の人々が殺害されないようにしなければならない」と述べた。

バダウィ首相は南タイの騒乱を治めるためにタイ政府に対しあらゆる協力を惜しまないとも語った。

このように両国の首脳が南タイのイスラム教徒の問題で話し合うなどということはタクシン時代には考えられないことである。タクシンはマレーシアが南タイの騒乱を陰で画策している言わんばかりの言い方をして過去にも物議をかもした。

それ以外にもタイとマレーシア両方の国籍を持つ「二重国籍」者問題などについても当事者がどちらか一方の国籍を決めるように話し合われたという。

今回の話し合いがもたれたからといって南タイ騒乱が直ちに収束するものではないが、マレーシア側から「イスラム教徒が多いからといって南タイ3県のマレーシアへの統合とか、独立とかについてはマレーシアは支持しない」という立場を鮮明にしたことの心理的意義は小さくない。

「国境や国籍はどうでも良い。皆仲良く暮らせればそれでいいのだ。」という古来からのこの地域の伝統が復活される日が早く来ることが望ましいのだ。この地域の「国境」だなどというものは実際は100年ほど前(1909年)に大英帝国とタイ政府で地元住民の意志とは無関係に決めたものなのである。

 

50-33.旧正月に南タイで大規模な連続爆破事件、7名が死亡(07年2月20日)

今年の旧正月(チャイニーズ・ニュー・イヤー)は2月18日(日)であるが、東南アジアの華人社会では先週金曜日ころから休みに入り、今週一杯は大体休みである。そのメデタイお正月の2月18日から19日にかけて南タイで連続爆弾事件が27ヵ所で発生し、7名が死亡し、53名が負傷した。

それ以外にも16ヵ所で放火があり、3ヵ所で銃撃戦があり、送電塔も破壊され、周辺で長時間停電するなどの大きな被害を蒙った。

特に、政府にとってショックだったのは軍に協力する民兵組織(レンジャー部隊と呼ばれている)のリーダーの少佐が自宅前に仕掛けられた爆弾で殺害され、12歳の息子も重傷を負わされたことである。

今回に限らず街に仕掛けられる爆弾は小型のもので、携帯電話を使って爆発させるものがほとんどである。これらのモノはかなり大量に組織的に製造されている。

軍や警察も警戒していて、しかも今回は旧正月に大規模な爆破事件が起こりという事前情報を軍は入手していたという。爆破された場所は「ソフト・ターゲット」と呼ばれる場所がほとんどで、軽微の厳重な人ごみの多い繁華街の市場などではなく、さほど人通りが多くはない場所で起こった。

今回も、カラオケ・バーや自動車のショー・ルームなどに仕掛けられた。そのうち、2軒のカラオケバーでは客を装った犯人が2人ずつ計4名が防犯カメラに姿をとらえられたという。

最近の南たいの事件で特に問題なのは、スラユット政権が発足して、南タイに対してはタクシン流の「強硬策」ではなく、和解ムードで平和を取り戻そうというバンコク政府の努力をアザ笑うかのようにテロ事件が続発していることである。

マレーシア政府もタクシン時代とは異なり、タイのイスラム教徒の叛乱を沈静化させるためにタイ政府と協力するという姿勢を打ち出している。また、その政策については南タイのイスラム教徒の間にも支持者が増えているといわれている。

しかし、事件は多発し、犯人が捕まらないというのはいかにも不思議である。これはもちろん叛徒が普段は住民の中に交じり合って生活しているので、軍や警察は把握しにくいという事情もあるであろう。

しかし、この南タイの事件はもっと複雑な背景があるように思えてならない。そもそも2004年1月のナラティワットの軍の基地襲撃事件はタクシン派の国会議員が影で糸を引いていたというこが明らかにされた。その事件はなんとなくウヤムヤのうちに処理された。

タクシン追放以降、事件がかえって増えたような様相を呈している 理由のひとつに、最近のスラユット首相の「宥和政策」が住民の支持を集めていることに対する叛徒側のアセリがあるという見方もされている。

犯行それ自体はきわめて組織的におこなわれており、手口も首切り事件が増えるなど残忍かしていく傾向にある。襲撃場所もカラオケ・バーなど普段周辺住民が快く思っていない場所を狙っている。また、彼等は資金も潤沢に持っていると考えられる。

タイ政府はタクシンがなぜか廃止してしまったSBPAC(Southern Boarder Provinces Administration Center=南部国境県特別行政センター)を急遽復活することにしたという。これは南タイの貧困問題などを現地で迅速に処理する行政機関である。

タクシンはなぜこれを廃止してしまったのであろうか?それはタクシンの思惑(TRT党が南タイを制圧する)にとって邪魔になるからに他ならない。民主党の地盤のタイを制圧するためにタクシンは着々と手を打っていたのである。そこから全てが出発していると考えるべきであろう。

おそらく犯人グループ像は近いうちに「あぶりだされて」来る段階にきていると思う。また、今回政府は犯人グループの割り出しに成功するような情報提供者には300万バーツの懸賞金を出すことにしたという。

 

⇒爆破テロ容疑者3名を逮捕、容疑認める(07年2月21日)

南タイ駐屯の第4軍司令官ウイロート(Viroj Buacharoon)中将によれば旧正月連続爆破事件の実行犯容疑で20〜30歳のイスラム教徒3名を逮捕したとし、3名を新聞記者の前に引き出した。

彼等は容疑を認め、爆破事件のまえにRKK(Runda Kumpulan Kucil=ルンダ小集団)と呼ばれる グループのキャンプで戦闘訓練を受け、彼等は居住区の外部に配備されたという。

RKKはここ2年間ほど活発な動きをしている集団で、バリサン・レボリューション・ナショナル(Barisan Revolution Nasional=国民革命戦線)という古くからある分離独立運動の組織の流を汲むものといわれている。中核メンバーはインドネシアで訓練を受けたとも言われている。

彼等は爆破事件の直前にマリファナと咳止めのシロップを飲まされたという。

その後も各地で爆破事件や軍との銃撃があり、この旧正月の数日間で合計38個の爆弾が破裂し、26箇所で放火があり、銃撃戦は7回起こっているという。

今回、おそらくビデオ・カメラで写し出された容疑者が逮捕されたものと見られ、ゲリラ活動の実態がかなり究明される可能性が出てきた。

(ネーション、インターネット版、07年2月21日参照)

 

50-34.銃撃戦で訓練キャンプのゲリラ5名を射殺、タクバイ事件の逮捕者を含む(07年3月11日)

22名の政府のレンジャー部隊(正規軍ではない地元の民兵)が南タイのジャオ・タ・ウェ(Jao Ta We)山で分離主義者ゲリラのキャンプを襲い、銃撃戦の末、5名を殺害した(3月2日)。3名の重傷者は仲間が連れて逃げたという。

この22名のレンジャー部隊は正規軍ではないので、山を降りたところで、「殺人の容疑」で逮捕され、事情聴取を受け3月6日(火)の保釈金(額は不明だが、名目的な金額のはず)を支払い保釈された。

逮捕はされたが、これはタイ政府にとっては「大殊勲」ものであった。

これまでに、ゲリラによって多数の人間が殺害され、首切り殺人だけでも25名に及ぶが、ほとんど逮捕者が出ず、ましてやどういう人物がゲリラに参加しているかもよくわからなかった。一説によるとジェマー・イスラミアだなどという「好都合な」犯人像も出てきたりした。

しかし、5名の身元はわずか数日で判明し、遺体は家族が引き取った。この「早業」には何かウラがありそうだという憶測が流れたが、このうちの数人はタクバイ事件(#50-6参照)のときの逮捕経験者であり、他の死者もその仲間だということですぐに 名前が判明したのだという。

やはり、地元民でタクシン時代に厳しい弾圧を受けた人間がゲリラの中核になっていることが明きらかになった。

レンジャー部隊がゲリラのキャンプの所在を知ったのは、先に旧正月の爆破事件で逮捕した3名のイスラム教徒が口を割った可能性が高い。

スラユット首相が「謝罪」の言葉でイスラム教徒に和解を訴えても、目の前できわめて非人道的な扱いを受けた仲間が惨殺された経験を持つ彼らは素直には「和解提案」などを受け付けないであろう。

スラユット首相も「和解政策」は粘り強く継続していくと強調しているが、ゲリラの本拠地の一部が発見されたことにより、重要な突破口が開けたとして軍隊を増派して拠点潰しに動き始めた。

 

50-35. 南タイ、ミニ.バス襲撃犯容疑者14名を逮捕(07年3月17日)

南タイ、ヤラ県のヤハ地区において3月14日(水)にミニ・バスのの乗客8名(全員仏教徒、少年2名を含む)がイスラム叛徒に襲撃され銃殺された。その際、運転手であったイスラム教徒は殺害をまぬがれた。

タイ軍はこの襲撃犯人として周辺の村の若者14名(少年を含む)を容疑者として逮捕したと公表した。これはAP電としてWSJに報道されている(3月16日、インターネット版) が地元の,バンコク・ポストは17日に報道。

この事件の後に、ヤハ・パテ(Yaha-Patae)道路に面したモスクに手榴弾が投げ込まれ11名が負傷した。

イスラム教徒の女性と子供が100名ほど道路を閉鎖し、「負傷者を適正に治療し、住民の保護」を求めるデモを行った。ただし、モスクに手榴弾を投げ込んだのが「仏教徒による復讐」だとはかぎらない。

このような騒乱状態をおさめるべく、第4軍はヤハ(Yaha)地区とバンナン・サタ(Bannang Sata)地区に「夜間外出禁止令」を3月15日に布告した。午後8時から午前4時までを外出禁止にするほか、軍服類似の服装の禁止、ウオーキー・トキーはどの通信機器の使用禁止なども告示された。

これらの禁止措置は、他の「危険地域(レッド・ゾーンと呼ばれている)」にも拡大していく以降であるという。

ミニ・バスが襲撃され乗客が全員射殺されるという事件は前例がなく、南タイの住民に衝撃を与え、イスラム教徒・仏教徒合同の「抗議デモ」が各地でおこなわれたという。

スラユット首相は「政府としてはいかなる事件が起ころうとも辛抱強く和解路線を続けていく」と言明している。

 

50-36. TRT党のWADAグループが南タイの叛徒に関与、ソンティ議長(07年3月29日)

CNS(国民治安評議会)のソンティ議長は南タイのイスラム教徒の反政府組織にはタクシンの与党TRTの南タイでの派閥であったWADAグループの一部の元メンバーが関与しおり、彼等は現在もWADAグループを支配しているとソンティ議長は語った。

WADAグループは今回の南タイ紛争のキッカケななったナラティワット軍事基地襲撃事件(2004年1月)を画策した容疑を持たれ、何人かの国会議員が取調べを受け、元国会議員の兄が逮捕された(#50-15参照)

特に昨年9月の軍事クーデター後、スラユット首相の「謝罪と和解提案」以降もかえって一般民間人への殺害事件・襲撃事件が増えている背景にはWADAグループの存在がある可能性は否定できない。

WADAグループにタクシンが資金提供しているかどうかは分からないが、「クーデター後にかえって社会不安が増した」という状況はタクシン一派がもっとも望むところであろう。

したがって、南タイの騒乱と一口に言っても、純粋に(?)宗教的な動機から独立運動を標榜して戦っているグループもいる かもしれないが、WADAグループの流を組むテロリスト・グループも存在するものと見られる。

マレーシア政府の分析では「南タイの紛争は宗教が動機ではなく、政治・社会構造の問題である」と結論付けているという。むしろ政治的要因が大きいというのだ。

一方、ナラティワットのBan Damabuwoh村でおこなわれた捜索で自動小銃2丁や爆弾の材料や通信機やマレーシア・リンギ(通貨)も発見された。女4名を含む11名が逮捕された。 この自動小銃はナラティワット基地から04年1月に奪われたものであることが判明した。

ということははじめから南タイに騒乱を起こすことを目的とした「作戦」が実行されて今日に至っていることを意味している。マレーシア政府の分析(宗教戦争ではない)が正しいことがこれで分かる。首謀者と目的は何かということが問題になる。

その中でタクシンの息のかかったWADAグループがいかなる役割を果たしたのかが、あるいは無関係であったのかが解明されなければならない。

一方、アレー内相はWADAグループの関与を全面的に否定しているという。タイ内務省としては南タイのTRT党員やWADAグループとも接触をして情報収集をおこなっているが、今のところ彼らが紛争に関与しているという証拠はないと述べている。ちなみに内務省は「警察」を所管している。

(参考)

⇒軍基地を襲ったのはタイ・ラク・タイ党の国会議員と上院議員の陰謀?(04年3月22日)

04年 1月4日の軍事基地襲撃事件は思いもよらない展開になってきた。警察が容疑者として捕まえたナラティワット県のスンゲイ・パディ村の顔役のアヌポンという人物を取り調べたところ、彼はとんでもない事件の真相をバラしてしまった。

というのは、イスラム教徒のタイ・ラク・タイ党(タクシンの政党)国会議員2名と上院議員がこの襲撃計画に関与していたというのである。国会議員の名はナジュムディン・ウマルとアレペン・ウタラシンであり、上院議員はデン・トーメナである。

アヌポンは軍事基地襲撃事件と学校放火、交番襲撃事件の首謀者であると見られ、6人の仲間とともに逮捕され、警察の記者会見に臨んだ。

タクシンは今回の一連の事件をはじめからジェマー・イスラミアや分離独立主義者の犯行説を匂わせていたが、何と自分の政党の国会議員が関与していた可能性が出てきたのである。

それも南部タイに不必要な騒動を引き起こし政治的に利用しようとした、ヒットラーばりの事件(1933年国会焼き討ち事件)を起こしたことになる。これが事実としたらタクシン政権をも揺るがしかねない大事件となろう。

今のところ3人の国会議員の関与については警察はナジュムディン議員の逮捕状を請求しており、アレベン議員とデン上院議員についても調べを進めているという。

アヌポンによると一味は村長のマユショ・ハイママの自宅で奪ってきた銃を開梱、点検し、後にアヌポンの家の裏の納屋にそれを隠し、翌日他の場所に移した。

このことについてタクシンは容疑者の証言だけではダメで、警察の調べがないとなんともいえない。警察の調べも法に則って行われなければならないなどといっている。麻薬撲滅運動の時もそのように行われるべきであった。

今回のような極めて政治的に重要性のある記者会見をあえて警察が行って理由はなぜであろうか。警察は副長官のコウィット・ワタナ(Kowit Wattana)が同席した。

こういう会見をタクシンが事前に同意したとは到底思えない。ということはコウィット副長官が独断で会ってしまったのだろうか?あるいはチャワリット副首相が同意していたのであろうか?この辺は謎である。

私の単純な解釈は、タクシンのネポティズム(序列・実力を無視した義兄の昇進強行)に対する警察幹部の反抗と見たいがもっと複雑な事情があるかもしてない。

 

50-37.マレーシア国境近くで列車銃撃3名負傷、無期限運休に(07年4月16日)

4月14日(土)イスラム叛徒がマレーシア国境近くのヤラ地区でナコン・シ・タマラート行きの列車に発砲し、子供2人を含む3名が負傷した。

タイ鉄道局は事態の様子をみるためスンゲイ・クロクとナラティワットを結ぶローカル線の列車の運行を無期限に停止すると発表した。予約の切符を持っている人は「バンコクの中央駅で払い戻す」というサービス精神を発揮した。こんな調子だからタイの鉄道は国民からなかなか信用されない。

南タイではイスラム教徒と見られるグループの無差別的殺人事件が続いているが、正規軍も結構とんでもない事件を引き起こしている。4月13日(金)の夜にパタニで携帯電話中継施設に放火があり、軍が出動して火災現場の検証をおこなっていた。

近くにいた若者の集団が現場に「押しかけてきた」ので兵士は発砲して若者の「襲撃」を阻止しようとしたという。そのとき3人の死者と2人の負傷者が出たが、彼等は武器を持たない13歳〜15歳の少年であったことが判明した。

怒った住民300名は近くの道路を封鎖し、軍に対し抗議行動を行い、関係者の処分を要求した。

兵士は若者達の間から発砲するものがいたという弁明をおこなっているが、警察は民衆側からの発砲はなかったといっている。このような事件はスラユット首相の「和解政策」を台無しにするものであることはいうまでもない。

一方、4月11日(水)には仏教徒の26歳の女性がヤラで銃殺され、遺体を焼かれるという事件が起こった。当日はソンティCNS議長が現地を訪問しており、それに対する当てつけであると見られている。

怒った200名の住民は彼女の遺体を棺にいれヤラの目抜き通り練り歩き、ソンティ議長に騒乱の早期終結を要求した。

また、4月15日(日)には70歳の仏教徒がナラティワットで銃撃され死亡し、遺体が焼かれた。

このような事件は連日のように起こっている。4月13日〜17日はタイではソンクランという「正月休み」であり、各地で水カケ祭りがおこなわれる。

 

50-38.タイ国軍イスラム叛徒に休戦提案(07年4月23日)

南タイでは連日のように無意味な殺人がイスラム叛徒と軍関係者によっておこなわれている。イスラム叛徒は捕まれば命がないという切羽詰った心理で、自暴自棄的に暴力行為を繰り返しているものと見られる。

南タイ3州の分離独立が最終目的なのか、タイ人仏教徒に対する報復が目的なのか本人達も分からなくなってきている様子が窺われる。

最初(2004年)はクルセ・モスク事件やタク・バイ事件に対する報復という名目があったが、既に殺害されている仏教徒や軍人、警察官、政府に強調的なイスラム教徒、紛争に無関係な一般国民などその数は2,000人を超えている。

軍事クーデター後のスラユット首相の謝罪と和平呼びかけに一向に耳を傾けなず、殺害事件はエスカレートしており、これには隣のマレーシアのみならずエジプトなどのイスラム諸国からも批判の声が上がっている。

殺害事件のエスカレートを「それ見たことか」と内心拍手喝さいしているジャーナリストや評論家が日本にもいるのには驚かされる。タイではそんなことを正面切っていえばタクシン派だというレッテルを貼られてしまう。私に言わせれば全て「タクシンのまいた種」である。

タイ軍がさらに軍隊を増強し、全力で戦闘を強化すれば死傷者は急増し、最後は和平に行き着くにせよ罪もない人々の死傷者が倍増するのにさほどの時間はかからないであろう。その結果は2004年1月1日の状態に戻るだけの話しである。

現地の第4軍オンコーン(Ongkorn Thongprasom)司令官は無意味な流血を止めるためにイスラム叛徒に対し「赦免をあたえ」休戦することを中央政府に提案している。これには国防相のブーンラード(Boonrawd Somtas)将軍も賛成し、スラユット首相も条件付ながら賛成している。

スラユット首相としては無関係な国民を殺した殺人者には刑事犯として処罰する道を残したいという考えのようである。仏教徒の若い女性が襲われて死体を焼かれるというような事件は国民感情として容赦できないという考えである。

タイ国軍はかつてプレム首相在任中(1980年代)に共産ゲリラ化した学生などを「帰順すれば罪な問わない」として休戦を呼びかけ、その後和平が急速に実現した歴史がある。

今回はそのような過去の歴史を踏まえ、全面的な赦免を行いたいという声が現地軍から起こっていることが注目される。

ところがこれに対する反発がバンコクから上がっている。それは主にタクシン支持者からの声である。隠れタクシン派とみられる新聞も強硬路線を主張しているのには驚かされる。

南タイの紛争などいくらやったところで何の成果も生まないことは当事者が一番良く知っているはずである。そもそも戦争などというものは勝ったところで、良くて現状維持、負ければ悲惨なことになることは歴史を見れば明らかである。その間双方に膨大な死傷者が出るのが現代の戦争である。

 

50-39.南タイ、イスラム叛徒7名を殺人容疑で逮捕(07年6月18日)

南タイの「タスク・ホース15」と呼ばれる軍と警察からなる特別捜査チームは6月17日(日)にヤラー市中心部の民家を強制捜査し、7人のイスラム教徒の青年(25〜32歳)を逮捕した。

彼らのなかには06年12月29日の学校長と1人の女教師の殺害や07年4月11日の25歳の女性殺害に関与したと見られるアブドラ・バヘ(Abdullah Baheh)容疑者25才が含まれているという。

彼らがいた部屋からはAK47ライフルと実弾30発や総額10万バーツの残高のある預金通帳9通やヤラ市内の重要な建物の写真や携帯電話8個や宣伝ビラが発見され、また5台のモーター・バイクや乗用車も押収された。

7人全員がメタムフェタミンという興奮剤とマリファナを吸引していたことが尿検査で発見された。

彼等は殺人容疑を全て否認しているというが警察は彼らが新興の分離主義者フループRKK(Rundi Kumpulan Kecil=小集団グループ)に属していると見ている。 彼等は凶暴な殺し屋集団であり、資金もある程度持っているようだ。ただし、その実態は良く分かっていない。

この7人は殺人テロの実行犯である公算はきわめて高く、最近のイスラム叛徒で残虐な行動に走っているRKKグループの実態解明があるていど進むものと思われる。

最近ではイスラム教徒の住民の間からも学校放火とか無防備の教員殺害とかに対する反発が強まっており、警察や国軍への情報提供が増えてきているという。

(なおこの記事は「タイの地元新聞を読む;http://thaina.seesaa.net/」の記事が最も早く、ついで英字紙ネーションのインターネット版が伝えたもので、この文章はその両者を参考にしております。)

 

⇒南タイ、イスラム叛徒容疑者160名を拘束(07年6月26日)

タイ第4軍はパタニ県を中心に一斉捜索を行い、イスラム反政府ゲリラの容疑者と見られる約160名を逮捕し、取調べをおこなっていると発表した。

現在、上に述べたRKKグループが最も活発なテロ活動をおこなっていると見られ、今回の160名の拘束が日常化しているテロ活動にどの程度の影響を及ぼしたかが注目される。戒厳令により逮捕者に対しては28日間の拘留とDNAサンプルの採取が認められる。

以前は、「怪しい人物」をひそかに殺してしまい「ヤミからヤミに葬る」というケースもあったといわれるが、タクシン政権崩壊以降はスラユト首相の謝罪発言とその後の宥和政策のおかげで、闇雲に逮捕、拷問するというやり方はおこなわれなくなったといわれている。

それを「甘く見た」ゲリラが、無差別テロに等しい殺害を行い、クビを切ったり、生きている犠牲者に火をつけて殺すというような残虐行為が目立っており、一般のイスラム教徒からも反発を買い始めている。

今回の160名の逮捕も、多くはイスラム教徒住民の「密告」によるものと考えられる。

また、タイ政府は既存の分離独立組織であるパタニ解放戦線などとも密かに和平への話し合いを始めているといわれ、マレーシア政府もこれに協力姿勢を示しており、スラユット首相としても和平実現に向けて着実に進んでいると述べている。

(バンコク・ポスト、6月26日付けインターネット版参照)

また、ヤラ県でも容疑者112名が逮捕・拘留され、スラタニ県チャイヤー(室利仏逝の所在地と私は考える)でもパタニ・ナンバーの1トン・ピックアップ車を持ち込んだ8人のイスラク教徒が逮捕された。この小型トラックには無数の弾痕があったという。

今回、300人近い比較的密度の濃い容疑者が逮捕されたことは、今後の南タイの情勢にかなりの影響を及ぼす可能性が高い。

 

50-40.南タイ、イスラム教徒の叛乱はやや沈静化に向かう?(07年8月6日)

セリピスト(Seripisuth)警察長官代行によれば南タイのイスラム教徒の叛乱はここ数ヶ月でかなり沈静化に向かうであろうという見解を語った。彼の言によれば警察、軍、行政が協力して「合法的な」捜査や取調べを行い、住民に対する暴力は極力控えているという。

沈静化に向かうという根拠の1つとして、最近は住民からの「情報」提供によって叛徒の逮捕が急増していて、最近のテロ活動がひところからみてかなり減ってきているという。

最近のテロ活動は新興の分離主義者フループRKK(Rundi Kumpulan Kecil=小集団グループ)によるものが圧倒的に多いことが判明したが、彼らの幹部が最近相次いで逮捕されている。

彼等は、一般住民の中で家族や村人とともに暮らしており、住民からの強い支持がなければやっていけないが、住民の間に、RKKはやりすぎだという声が次第に強まっている。その最大の理由はRKKが学校を襲い、 若い女性教師を惨殺するというような行為に対する住民の反発であろう。

最近の傾向としてはイスラム叛徒がイスラム教徒を殺害するというケースが目立ってきている。これは村人が治安当局に「密告」したことへの報復と見せしめというケースが多いと思われるが、確度の高い「密告」は急増しているという。

治安部隊もRKKの容疑者を大量に逮捕しているが、幹部以外は早期に釈放しており、これが住民の共感を呼んでおり、最近は逮捕者釈放要求デモも減っているという。以前は一旦逮捕されると罪状のいかんにかかわらず、拷問されたり、消されたりするケースが少なくなかった。

RKKの容疑者逮捕のたびに、かなりの武器弾薬と多額の現金が押収されるケースもあり、外部に資金提供者がいることは間違いない。

07年1〜5ヶ月のテロ事件による死者は193名にのぼり、1,056名が負傷したという数字がモンコン・ナ・ソンクラ(Mongkol Na Songkhla)保健相から発表された。月平均40名弱の死者であるが、最近やや死者の数が減少傾向にあることは確かである。

なお、2004年1月以来の死者は2,300人に達しているといわれている。

 

50-41.南タイ、イスラム叛徒に麻薬組織が資金援助?3千万バーツ押収(07年10月22日)

タイの麻薬防止防止取締り局は10月9日、密告に基づきナラティワート県の民家で塩ビ管に隠されていた3千万バーツを発見し押収した。そのカネの持ち主で南タイの麻薬密売組織のボスのマヤキー・ヤ コ(Mayakee Yakoh)という31歳の男はマレーシアに逃亡していたが、マレーシア警察に逮捕され、10月21日夜、スンガイ・コーロックの国境検問所でタイ警察に引き渡された。

押収された現金の周辺からは4000錠のメタマフェタインと25本の咳止め薬のビン、棒状のマリファナ1本、5丁の実弾入り小銃、6台のオートバイ、2台の乗用車が発見された。

この現金は別途、チェンマイで発見された4千万バーツ相当の12袋のヘロインと3人の容疑者と関連があると警察当局は見ている。

ところが、当局がナラティワートの現場で発見された金額は7千万バーツあったはずだという目撃者の証言があり、差額を捜査に当たった当局者がネコババしたのではないかという新たな疑惑が持ち上がり大騒ぎとなった。

しかし、逮捕されたマヤキーは5千万バーツ(≒1億8千万円)隠していたと証言し、それは麻薬にかかわったカネではなく個人ビジネスのカネであったと供述しているという。

それにしても多額の差があるわけで、警察は情報提供者に15%の報奨金を支払うなどしたために3千万バーツしか残らなかったとしている。

いかにもタイ的な話しであるが、問題はチェンマイから麻薬の現物が大量に南タイにはこばれ、それがイスラム叛徒の資金源になっていたことと、テロリストの多くが麻薬を吸引した上で、銃撃などをおこなっていたという事実である。

チェンマイというのはタクシン前首相の地盤であり、なんだかウサン臭い話しである。

なお、10月23日のネーションの記事ではヘロイン17.9Kg,とスピード(メタマフェタイン)1万5千錠が押収されたという記事がのっていた。

また、法務省は押収したカネと残った金額との差額については調査委員会を設けて真相を明らかにしていくという。

いずれにせよ、麻薬取引で儲けたカネがイスラム叛徒の活動資金になったというよりも、チェンマイの闇組織(イテポン・ムー)から送られてくる麻薬そのもが「活動資金」になっていた可能性がある。とすれば、誰がその資金源かという大きな問題に発展しかねない。

 

50-42.南タイの軍人と警察官をイスラム叛徒のスパイ容疑で逮捕(08年1月9日)

南タイのイスラム叛徒の鎮圧に当たっている第4軍区国内治安維持部隊に属する2人の軍人(うち1人は中佐)と民間人1人と7人の警察官をイスラム叛徒のスパイ容疑で逮捕したと当局は発表した。(1月8日付けネーション他)

また、さらに上級の士官にも協力者がいる可能性があるという。

逮捕の発端はイスラム叛徒から押収したパソコンから軍の動静が詳しく説明されている内容が発見され、軍と警察内部から漏れた情報であることが判明し、内定を続けた結果スパイ容疑者が特定できたという。

逮捕されたものは全員がイスラム教徒である。

軍や警察がしばしばイスラム叛徒の待ち伏せ攻撃に会い、効果的に殺害されたケースの多くは彼らの情報漏洩が関係していた可能性があり、第4軍は深刻なショックを受けている。

2004年1月の事件発生以来既に2,700人以上が犠牲になっている。

 

50-43.南タイで国軍兵士8名が戦死、待ち伏せ攻撃にあう(08年1月15日)

1月14日(月)南タイのナラティワット県で学校教師の送迎護衛に当たっている部隊の国軍兵士がイスラム叛徒の待ち伏せ攻撃にあい、銃撃戦とな8名が戦死し、指揮官の首が 切られるという事件が発生した。

これだけの兵士が一時に戦死するというのは南タイの紛争が始まった2004年1月から4年間ではじめてである。 また、クビを切られたのは37人目である。イスラム叛徒は兵士の自動小銃10丁を奪って引き上げた。

この地区のゲリラは普段は武器を地中に埋めたりして隠しておき、いざというときにはそれらを取り出して襲撃するというやり方をしているという。彼らには軍の行動(通過時間と人数など)の詳細なデータを持っており、待ち伏せ攻撃や道路わきの爆弾破裂などを計画的にやっている。

彼らへの情報提供者の一部が最近逮捕された(#50―42参照)が軍よりも警察官が圧倒的に多いと見られている。また、携帯電話の中継設備もしばしば破壊され、軍同士の通信が妨害されてる。今回の事件も銃撃戦が30分間も続いたが、軍の応援は間に合わなかった。

この事件に先立ち、同じナラティワット県で逮捕拘留されていた6人のイスラム叛徒(BRN=Barisan Revolusi Nasional=国民革命統一戦線)が警察の留置所から集団脱走したという。このなかには組織の重要リーダーが含まれ、警戒態勢は厳重だったといわれている。

この脱走事件は警察のタルミによるというのは一般的な説明だが、実際は警察の中にいるスパイが、というより警察が組織ぐるみ逃がした可能性も否定できない。警察は彼等はボートを使ってマレーシア側に逃亡したなどと言い訳ともつかぬ説明をいている。要するに捕まえられないというのだ。

フィリピンなどでは「脱獄」をさせておいて、後から追いかけていった警察や軍が逃亡犯を「銃撃戦の後に射殺した」といういわば「裁判抜きの死刑」の筋書きがよくあるが、今回の場合はおそらく本物の逃亡であろう。

その理由は彼らを捕まえておくと、イスラム叛徒と警察の関係や背後の「資金提供者」などがバラされる危険があったからではないかという見方も成り立ちうる。もちろん軍の中にも「買収の手」は伸びている。

最近、チェンマイやチェンライといった麻薬取引の中心地から麻薬や麻薬資金が南部に運ばれるという事件が明るみに出ている。また、2003年のタクシン政権がおこなった麻薬撲滅作戦によってタイの警察ルートの麻薬組織の天下になったといわれる。

一体どうなっているのか?われわれ日本人の門外漢はもとよりタイの一般国民も実態を知ることはできないが、最近の選挙に付随して起こった事件や南タイのイスラム騒乱などから次第にタイの政治や社会の暗部が浮き上がってきつつあるような気がする。

日本には、タクシン支持者の学者やジャーナリストが意外に多く、「タクシンは貧者の見方だ」とか「ネズミ(汚職政治家)を追い出すのに家まで焼き払う必要がない」などとしたり顔で的外れな主張をしている輩が けっこういる。何も知らない国民はだまされるし、彼ら自身もだまされている。


50-44.南タイで乗客を装ったゲリラが国鉄職員ら4人を射殺(08年6月22日)


6月21日(土)午後5時(現地時間)南タイのナラティワット県ランゲ郡内のマルゥーボートック駅から乗り込んだ6人前後のゲリラが駅を出発してまもなくAK47の自動小銃を乱射し、国鉄職員3人と警備の警察官1名を射殺し、1名に重症を負わせ、ついで運転席に乗り込み、列車を急停車させて逃亡した。ゲリラは軍服を着用していたという。

タイ国鉄は急遽スンゲイ・コロク⇔ヤラ間の運行(1日16往復)の運行を停止した。再開の日時は特定されてない。

この事件で、南タイの騒乱開始(04年1月)以来、すでに3,300人の犠牲者が出ている。

さらに、鉄道を標的にしたゲリラ活動が最近活発化しており、6月22日午後にはランゲ郡内の鉄道に15Kgの消火器を使った爆弾が発見され、また近くでは線路上に丸太が置かれていたのが見つかっている。


50-45.南タイでゲリラの一部が武力闘争放棄宣言?(08年7月17日)


2人の男が軍系のチャンネル5に登場し、南タイでの「武力闘争を中止する」という宣言をおこなった。

この人物は南タイ統一地下組織(Thailand United Southern Underground)の首領と称する人物である。

彼等は11のグループを傘下におさめていると自称している。しかし、今まで知られているBRNコーディネートやRKKといった組織との関連は不明であり、彼らが影響力があるかどうかすら不明であるという。

彼らを「表舞台」につれてきたのはルアムチャイタイ・チャートパタナ(Euamjaithai Chartpatana)党の党首で元国防相のチェッタ(Chetta Thanajaro)大将である。

チェッタ氏は今まで数回にわたり、非公式に彼ら南タイの叛徒と個人的に折衝してきたが、彼らもようやく無条件で休戦に応じることになったという。

しかしながらチェッタ氏自身もこれで全ての武装闘争が終わるかどうかは定かでないとしている。

いずれにせよ南タイの叛徒の中にも「展望の開けない」武力闘争に限界を感じるグループが出てきても不思議でない。

⇒南タイの武力抗争は衰えず(08年7月22日)

一部のグループの「武力闘争放棄」宣言にもかかわらず、南タイのイスラム叛徒の武力行使は続いている。

7月21日はヤラ県である果樹園で戦闘の跡の調査をおこなっていた軍・警察の一隊に爆弾が仕掛けられ、10名が負傷する事件が起こった。

また、7月22日早朝に、ナラティワット県で教師を警護のため迎えにいった兵士のトラックが道路際に仕掛けられた爆弾により1名が死亡し、5名が重傷を負うという事件があった。

当局の情報によると、「武装闘争放棄」宣言後かえってイスラム強硬派グループは反発を強めており、新PULO, BRN, BIPP, GMIPといったグループは大規模な破壊活動を8月にかけておこなう計画であり、若者を新たに動員しているという。

また、従来比較的平穏であったソンクラ県のいくつかの集落で若者のグループがいっせいに姿を消したという。彼らは武力闘争のメンバーとして動員されたとみられ、しかもソンクラ県にも戦闘範囲が拡大されるおそれがあると当局は警戒を強めている。

もとを正せば2004年のクルセ・モスク事件である村のサッカー・チーム全員が軍の過剰防衛によって殺害されたといった事件がイスラムの若者の心に深く焼きついていることは否めない。


50-46.南タイ、ナラティワットで爆弾テロ、1人死亡70人負傷(08年11月4日


南タイのナラティワット県スクリン地区で村長らが月例の集会に集まる場所の近くで、ゴミ箱に仕掛けられた爆弾が遠隔操作で爆発し、女性1人が死亡したほか数十人が負傷した。

また、その数分後、果物市場の駐車場で、自動車とオートバイに仕掛けられた爆弾が爆発した。

これら3件の爆弾テロにより負傷者は焼く70名におよび、そのうち30名が重傷であるという。

ゲリラ側は最近の銃撃戦で次第にリーダー格の人物が死亡したり、逮捕されたりして「戦闘力」が低下しつつあるため、爆弾テロに重点を置き換えつつあるようにも思える。

パタニのプリンス・オブ・ソンクラ大学のスリ・ソンポブ(Srisompob Jitpiromya)准教授によると、2004年初めの騒乱開始以来今日まで約3,200人が死亡し、5,226人が負傷したという。

同氏によると、「最近、戦闘事件などがやや下火になって、政府には安心感が出てきているようだが、事態の深刻さは変わらない。また、現地の対策を軍隊に任せきりで、法律違反としての対策が中心になっており、もっと政治的な視点から、地域紛争対策として取り組む必要がある。」と述べている。

実際に、和平交渉を進めようにも「相手組織」がハッキリせず、泥沼状態にあることには変わりない。


50-47.南タイ騒乱5周年、死者3,287人1,090億バーツの戦費(09年1月19日)


南タイの騒乱は2004年1月4日、イスラム・ゲリラ約60名がナラチワット軍事基地を襲撃し、4名の兵士が殺害され、約300丁の攻撃用ライフル と20丁のピストルと2丁の機関銃が強奪された事件が発端になった。

それから、丸5年が経過したが、その間に死者3,287名、負傷者5,405人(実際はもっと多い)、使われた軍事費は1090億バーツ(≒2,700億円)に達した。

現在も連日のように爆弾事件や狙撃事件が後を絶たない。

アピシット首相が南タイを訪問したときも、道路わきに強力な爆弾が仕掛けられていたが、事前に発見され事なきを得た。

しかし、ゲリラの活動も峠を越したと見られ、2008年は1日2件となり、その前の4年間の1日当たり5件と比べ、件数は半減した。しかし、最近は人が集まる市場などに爆弾を仕掛け、一時に多数の犠牲者が出るという事件が多くなってきている。

危険を避けて南タイ3県に在住する仏教徒30万人のうち、7万人が引っ越したと言われている。人口180万人のうち、仏教徒は23万人に減ってしまった。

南タイのマレー系住民は独立志向の人たちも少なくはないが、最大の問題はタイの全体的な経済成長から取り残されていて、貧困から逃れられないのではないかという焦慮があることは間違いない。

南タイを旅行していて気が付くことは道路の両側はゴム園やヤシ畑が延々と続き、工場らしい工場はほとんど見かけないことである。工業と農業の生産性の格差は歴然たるものがあり、このままではどうにもならないという感じをマレー系住民がもってもおかしくはない。

隣国のマレーシアも東海岸は工業化が立ち遅れているが、政府としても東海岸の工業化に力を入れていることは目に見える。トレンガヌ州などでも政府与党が勢力を伸ばしてきた(1月17日の選挙では惜敗したが)ことはこのような政府の施策を反映してものであった。

パタニから国境を越えればそこはケランンタンで最近やけに景気が良くなってきているというのは、タイのイスラム教徒の目には明らかである。

エコノミスト政権ともいうべきアピシット政権は南タイは武力だけではコトが収まらないことを十分理解しており、政治的経済的な解決策を打ち出していくものと思われる。外資に進出してもらいたいところであろうが、現在はスラタニあたりまでしか行く元気のある会社はなさそうである。

一貫製鉄所の建設がスラタイ近郊ででもおこなわれれば、南タイの経済状態も一変することは明らかだが、日系企業の進出には地元資本のサハヴィリヤあたりが抵抗しそうである。しかし、民主党政権は一歩前に踏み出すことは十分予想できる。


50-48.ナラティワットのモスクで銃乱射11名死亡(09年6月9日)


南タイのイスラム叛徒による爆破・銃撃事件は相変らず続いているが、6月8日(月)にナラティワットのアル・プコン・モスク(Al Pukon Mosque)で約50名の信徒が礼拝中のところ複数のM-16自動小銃をもった賊が無差別に銃撃し、10名が即死、1名だ病院で死亡し,12名が重傷を負うという事件が起こった。

死者の中には礼拝を指導していたイスラム導師も含まれているという。


目撃者の話では祭壇中央に1名と横の出入り口から1名と計2名が銃撃したという。イスラム叛徒がモスクで礼拝中の信者を無差別に殺戮するというような事件はほとんど前例がなく、軍関係者が犯人ではないかという疑いももたれたが、現在タイ国軍は南タイの騒乱を沈静化すべく全力を尽くしており、軍や警察関係者がこういう挑発行為をするはずはないという。

アヌポン陸軍司令官も早速現場に駆けつけ、状況を確認したが、軍関係者はこういうことはやらないと明言したという。

この殺戮は2004年に起こったタク・バイ事件(87名のイスラム教徒が軍事基地に移送される途中に窒息死させられた)の判決があり、軍関係者は全員無罪の判決が先週出されたことに対する反発ではないかとも言われている。(上記#50-5参照) (タクシンの輝かしい事跡、タクバイ事件

おりしもアピシット首相はマレーシアのナジブ首相を訪問中であり、南タイの騒乱を沈静化すべく両国が協力することを話し合ったばかりの出来事である。

最近はイスラム叛徒がタイ政府に協力的なイスラム教徒を殺害する事件が頻発しており、住民間の対立が複雑化してきている。もちろん仏教徒も相変らずテロの対象になってる。

2004年1月以来すでに約3,700名の死者が出ている。


さすがのアピシット首相も南タイ問題の解決の手段は簡単には見出せないようである。


50-49,ヤラとハジャイで爆弾テロ14名死亡、450名負傷(2012-4-1)

3月31日に南タイのヤラの繁華街で爆弾テロがあり9名が死亡し、約100名が負傷した。昼ごろごろ、サイ・ルアム・・ミット(Sai Ruam Mit)通りの2か所で爆発があり、これはイスラム・ゲリラによるものとみられている。

また、ソンクラ県ハジャイ市ではリー・ガーデンズ・プラザ・ホテル(Lee Gardens Plaza Hotel)で爆発に伴う火災が発生し5名が死亡し、負傷者約350名という大事件が起こった。ホテルの地下駐車場で爆発があり、ホテル全体が火事となり、宿泊客や従業員に大勢の負傷者をだした。こちらについてはまだ、イスラム・ゲリラによるものとは断定されていないが、その容疑は濃厚である。

しかし、ハジャイは南タイ3県とははなれており、最近はイスラム・ゲリラの襲撃はあまり見られなかった。前回は2008年8月に空港ビルその他で爆破事件が起こっている。