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室利仏逝は何時からパレンバンになったのか


室利仏逝はパレンバンを首都とするというのは過去100年以上も当然のごとく信じられてきた「通説」である。いな「定説」というべきかもしれない。しかし、それが事実であったという確証はほとんどない。セデスはじめ多くの学者がそうだといっているに過ぎない。日本の学者も高楠順次郎博士以下「パレンバン説」を容認している。

私の知る限りは藤田豊八博士のみがパレンバン説を否定している。しかし、藤田豊八博士にしたところが三仏斉・シュリヴィジャヤの首都はジャンビではなかろうかという主張にとどまっており、室利仏逝の本拠はマレー半島にあったとは露ほども考えておられなかった。

私は半藤一利氏が主張されるように「歴史を正しく知るためには資料の欠陥を推理で補い、通悦を否定する史眼が必要になってくる。史眼とはすなわち正確で合理的で緻密な知的推理のことである」。そのためには現地を知り、経済地理を知る必要もある。

シュリヴィジャヤの歴史は資料の正しい読み込みににほとんどの歴史家が失敗したことに起因すると考える。欧米人は特に「漢籍」をほとんど正しく読んでいない。それは日本の学者も同然であった。特に『新唐書』と『通典』の読み方が間違っていた。『通典』の「盤盤の条」などに真摯な検討を加えた学者はほとんどいない。

『新唐書』にいたってはできの悪い史書として嘲笑のうちに葬り去ってしまった。これは悲劇としか言いようもない。その根底には戦前の日本の歴史家の「中国人蔑視」思想もあったのではないかとすら邪推したくなる。要するの古来中国人はまともな歴史哲学を持っておらず、伝聞や推理や中華思想でいいかげんなことを「史書」として書いてきたのではないかという誤った見方である。

仏教学者も多くはパレンバン経由で仏教が中国に伝わったなどとまともに信じている人がほとんどである。

私は経済学と経済地理学を東京大学経済学部で学んだ一学徒として、また東南アジアに6年の駐在経験を持つ人間として、長年の研究成果を世に問うた。それが『シュリヴィジャヤの歴史』めこん社2010年刊である。この小論文はそれを補完するものである。

(本論)

室利仏逝は義浄が仏典を求めてインドに巡礼の旅に出かけた記録である『大唐西域求法高僧伝』(こちらが詳しい)や『南海寄帰内法伝』に出てくるので有名であるが、義浄は室利仏逝はパレンバンであったなどと一言も語っていない。

では何時から室利仏逝がパレンバンだといわれるようになったのか?

セデスによれば最初にパレンバン説を言い出したのは1886年にSamuel Bealという仏教学者で、"Some Remarks respecting a place Called Shi-li-fo-tsai"という論文でそれを主張したのだという。

しかし、それを権威付けて、世界に広めたのは実は日本の仏教学者の高楠順次郎博士なのである。

1898年に『南海寄帰内法伝』の英訳がオックスフォード大学から出版されたのである。その訳者こそは日本の仏教学者の高楠順次郎博士(東京大学名誉教授)なのである。

その本の名前は”A Record of The Buddhist Religion as practised in India and Malay archipelago I-Tsing"という長いものであるが、『南海寄帰内法伝』の英訳と解説である。

なぜこの本がオックスフォードから出版されたかというと、当時オックスフォードには哲学者としても有名なマックス・ミューラー(Max Müller)という教授がいて、仏教哲学の研究もしていた。そこに日本の若手仏教学者が招かれて研究に参加したものと考えられる。

高楠博士の前にはKenjiu Kasawara(笠原研壽=仏僧))という学徒も義浄の翻訳を試みたが未完に終わっていた。

この高楠本は大変大きな影響を及ぼし、セデスやQ.ウェールズも基本テキストとして引用している。欧米の東南アジア史の研究者にとっては必読文献の1つであるといっても過言でない。

しかし、意外にもその内容についてその後深く検討された様子も見えない。そこには大きな問題があったのである。(漢字を読めないほとんどの欧米の学者にとっては誠に便利なテキストだったのである。)

それは義浄のインド行きのルートを記入した1枚の地図が添付されていたからである。それは、下の図の実線(黒)で示されている。

それによると、義浄は広州を671年波斯(にペルシャ)船に便乗して室利仏逝に向かった。そこがどこかがそもそも問題であるが高楠博士はあっさりとそこをパレンバンだと決めてかかっている。

これは高楠博士の独断によるものなのか、当時の仏教学界の常識だったのかは定かではない。

次の寄港地である末羅瑜(Malayu)は今ではジャンビ河口周辺のどこかの港湾だと考えられているが、高楠博士の地図ではそれより大分北になっている。私見では末羅瑜は東西貿易の中継点であり、当時はシンガポールの先のリアウ諸島の辺りである。いまはジャンビと考えられているが当時は独立した王国であった。682-683年頃にシュリヴィジャヤに併合された。

さらに問題なのは義浄が3番目に立ち寄った羯茶であるが、博士はそれはスマトラ北端のアチェだとしておられる。地図の上ではKachaとなっている。

この羯茶は今ではマレーシアのケダ州のスンゲイ・ペタニ市近くのメルボク河口周辺の港だと考えられている。ここはブジャン渓谷として19世紀以降発掘がおこなわれ、多くの寺院跡などが発見され、現地に歴史博物館が建てられ見事な発掘品が数多く展示されている。

このケダは羯茶以外にも箇羅、訶羅、干陀利とかの名前で漢籍には記載されている。Kataha, Kadaram, Khalahなど東インドのKalinga地方との関連を示す地名であり、南インド、セイロン(スリランカ)方面からの商船のターミナル港であった。

ケダから義浄はさらに北上し裸人国(ニコバル諸島)経由で目的地のベンガル地方のタマラク(耽摩立底=Tamuluk)港に到着する。裸人国はニコバル諸島のどこかであるという以外には分からない。これは高楠博士の描いたルートで特に問題はない。

高楠博士は室利仏逝をSribhogaと当時は読んでいたことがその本から分かる。これは後にかの有名なセデスがパレンバンで発見された石碑(ケドゥカンブキット碑文)を解読して「シュリヴィジャヤ」と読むということで定説となった。しかし、碑文にはそこがシュリヴィジャヤであるとは書いてない。「シュリヴィジャヤ万歳」という趣旨のことが書いてあるだけである。パレンバンを征服した軍隊(海軍)はシュリヴィジャヤ王国からの遠征軍であったと見るべきなのだる。

しかし、問題なのは高楠本の地図がヨーロッパの先駆的学者の頭脳にインプットされていて、室利仏逝=パレンバンということでほとんど誰も疑わないまま今日に至ってしまったことである。

日本の東洋史の大家でそれを問題にしたのが藤田豊八博士である。藤田博士は『室利仏逝・旧港・三仏斉はどこか?』という有名な論文を大正の初めに発表しておられる。当時は室利仏逝と三仏斉とを区別して論じていなかったので、博士の結論としては結局「三仏斉はジャンビあたりのスマトラ東南部」ということに落ち着いた。

三仏斉論としてみれば、それはジャンビが中心であったという議論であり、現在でも通用している立派な結論である。博士は「シュリヴィジャヤ=パレンバン」という説に最後まで抵抗感を持っておられたのである。三仏斉とは904年に唐に朝貢したシュリヴィジャヤ・グループでありシュリヴィジャヤの主要3か国(チャイヤー・ケダー・ジャンビ)の「連合政体」であった。もともとのシュリヴィジャヤはマレー半島バンドン湾にあったチヤイヤーに首都を置く国家であった。

室利仏逝は当時の東西貿易の最重要中継地であったことから、その位置がパレンバンということになってしまうと「貿易ルート」がとんでもないところに描かれてしまうことである。

漢籍に出てくる地名の特定も間違いだらけで収拾のつかないことになってしまう。引き合いに出して恐縮だが桑田六郎博士の「赤土国」もパレンバンに行ってしまった。これはマレー半島でないとどうにもおかしい。「室利仏逝」は「赤土」国を併呑して成立した国であり、670年の少し前にマレー半島中部を統一した国家である。出発点は「盤盤」という旧扶南の属領である。

そこで室利仏逝は本当にパレンバンだったのかという再検討をおこなわないことには、東南アジアの古代史や東西交易史の正しい理解にはつながらないということになる。これは別段難しい作業ではなく、『新唐書』に明瞭に記載されている。歴史家がこの短い文章を正しく解読でき案方だけの話である。”室利佛逝,一曰尸利佛誓。過軍徒弄山二千里,地東西千里,南北四千里而遠。有城十四,以二國分總。西曰室利佛逝,”要するに室利仏逝の西は「郞婆露斯」であるという。この「郎婆露斯」は「ニコバル諸島」の古名である。ニコバルの東は「マレー半島」しかありえない

たったこれだけの文章を読めなかったばかりに世界の歴史家は1世紀以上にわたり不毛な議論を積み重ねてきたのである。「赤土国」についても『隋書』に「赤土國,扶南之別種也。在南海中,水行百餘日而達所都。土色多赤,因以為號。東波羅剌國,西婆羅娑國,南訶羅旦國,北拒大海,地方數千里。」とある。この「婆羅娑国」も同じである。「室利仏逝」も「赤土国」もマレー半島にあったということである。ちなみに「南訶羅旦國」とあるが、訶羅旦國とはマレーシアのケランタンである。これもジャワ島にあったというのが「通説」らしい。訶羅旦國治闍婆州と『宋書』にあり、闍婆とはジャワ島だという浅はかな理解である。闍婆というのは宋時代まではほとんどの場合「マレー半島」を意味していた。

それはさておき、先学の研究を検討してみよう。

下の地図上の赤線の部分は私が書き入れた義浄の旅行ルートである。これで間違いないであろう。最初の寄港地である室利仏逝は現在はタイ領になっているバンドン湾のスラタニ市の近くのチャイヤーである。波斯船はここに立ち寄って私の描いた赤線のルートをたどってベンガルの港タムルクに向かったのである。義浄もまさに、それと同一のルートでインドに行ったと考えられる。

チャイヤー(おそらくJaya=ジャヤから来ている地名)は漢籍に出てくる「盤盤国」であり、7世紀当時は東南アジア最大の国際貿易港であった。ここから西海岸のタクアパ)Takua-Pa)まで陸路で物資が運ばれ、東西貿易の中継がおこなわれた。マレー半島の先端を迂回してマラッカ海峡を北上するというルートよりも物資の輸送時間が半年くらいは短縮された。このルートを盛んに使ったのは主にインド商人であった。

扶南の主要港として名高いオケオ(Oc Eo)はチャイヤーの真東にあり、扶南ー盤盤ータクアパは経済的には一体をなしていたと考えられる。6世紀以前は盤盤とタクアパは扶南の属領であったと解釈すべきであろう。

ペルシャ船もチャイヤーに寄港して中国から手に入れた商品の売却などをおこなったが、本船はマレー半島の先端を回り、マラッカ海峡を北上し、ケダやラムリ(現在のアチェ周辺)やニコバル諸島を経てベンガル湾のタムラク港を目指した。そこで商品の交換や仕入れをおこなって、インド東岸の港に立ち寄りながらセイロンに向かい、そこからインド洋に出て本国に帰還した。

なぜわざわざ遠回りのコースをたどったかといえば、季節風の「風待ち」待機時間をミニマイズしようとしたからである。

インド船はベンガル湾を季節風に乗って1年に1往復するだけで済んだが、アラブやペルシャの商船は3~4年がかりで中国との往復をおこなったと考えられる。その間、途中の港をアチコチ立ち寄って商売をしていかないと商業上の効率が悪かったものと考えられる。

例えば、ベンガルで仕入れた綿織物を東南アジアや中国にもって行くというようなやり方が当時は一般的だったのではないだろうか?




また、義浄は次のように室利仏逝について述べている。

『南海寄帰内法伝』巻第三、三十、旋右観時のなかに次のような説明がある。
又、如室利仏逝国、至八月中以圭測影、不縮不盈、日中人立、並皆無影。春中亦爾。一年再度、日過頭上。


これを、
宮林昭彦、加藤栄司両教授の現代語訳「南海寄帰内法伝」、2004年、法蔵館。P309によると次のような明快な解釈にたどりつける。

義浄は南海寄帰内法伝の中で薜攞斫羯攞(velacakra=へいらしゃから=日時計)について解説し、日時計の操作は地域によって違いが出てくる点を指摘している。

また、南海の室利仏逝国では、陰暦8月中にいたると、圭(中国の日時計)で影を測ろうとしても影は縮まらず、また盈(み)ちることもない。日中に人が立つとみな(並)影が無い。春中にも同じことが起こる。1年に2度頭のうえを太陽が通過する(原訳を多少修文しています)。

ここで注目すべきは室利仏逝は当然、北半球にあり、「北回帰線」の内側にあるということを義浄は語っているのである。

一方、高楠博士もこの部分について次のように英訳している。

”Again, for instance , in the Sribhoga (室利仏逝) country, we see the shadow of the daial-plate neither become lomg nor short, in the middle of the 8th month (i.e. about the time of the autumnal equinox). At middy no shadow falls from a man who stands on that day. The case is the same in the middle of spring (i.e.about the time of the vernal equinox). The sun passes just above the head twice in a year."

義浄の原文と高楠博士の訳を比較してみると、太字の青字の部分が付け加わっていることが一目瞭然である。つまり高楠博士は義浄の文章を誤解しておられたのである。義浄は秋分の日や春分の日のことなど一言も述べていないのである。また、たった一日だけの現象だとも言っていないのである。

春分の日と秋分の日であれば太陽は赤道の真上に来るという理屈だが、9月の夏の終わりにはまだ北半球では太陽が頭上にあるという認識でよいのではあるまいか?

ただ、室利仏逝では春と夏(旧暦8月)に太陽が日中頭の真上にくる日があるといっているのである。また、春(3~4月ごろ)も頭上に来るといっているのである。それは北半球で北回帰線の内側に住む人間は誰しも体験する簡単な事実なのである。すなわち、南半球に位置するパレンバンでは4月と9月頃に頭上に太陽が来るということは起こりえない.。これはどう見てもマレー半島の自然現象である。

東西古今の碩学がこういうことに気が付かなかったのであろうか?いや十分に承知していたはずである。桑田六郎博士は『南海東西交通史論考』(汲古書院、平成5年刊)の210頁で義浄のこの文章に触れておられる。ただし結論的に、それは「赤道付近であることがわかる」というだけで片付けておられる。赤道の北か南かが重要である。桑田博士は新唐書の賈耽の説を引用して、強引に室利仏逝をパレンバンに結び付けておられるのである。しかし、賈耽の文章が問題が多いことは既に拙著、『シュリヴィジャヤの謎』で論じたとおりである。

その後、2010年5月に「めこん社」から出版した『シュリヴィジャヤの歴史』においてこのあたりをさらに詳しく論述しております。

次に、セデスのパレンバン説を改めて検討したい
 ⇒セデスと室利仏逝

(この文章は拙著『シュリヴィジャヤの謎』の補論です)