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セデスと室利仏逝(最新修正は2014年10月)Renew

セデスが「室利仏逝をパレンバンである」とした主張は世間では名著とされる”Les États Hindouisés D’Indochine et D’Indonésie”に述べられている。この本は日本語の訳『東南アジア文化史』山本智教訳、大蔵出版(1989年)があり、英訳としてはSusan Brown Cowing “The Indianized States of Southeast Asia”がある。

フランス語のテキストに近いのが英訳版であり、邦訳版は大変な労作だが、難解であり、一読して理解できない箇所もある。また、セデスの著書は詳細な脚注があるが、山本訳ではそれがほとんど省略されている。
しかし、結論からいうと、セデスのこの本は実は読んでもあまり役に立たないというか誤った知識が多く書かれた駄本である。その所以をこれから説明する。

ここでは読者の便宜のために主に英訳本を基本に使いながら、セデス論文の問題点を考察していきたい。

問題にするのは第6章の “THE RISE OF ŚRIVIJAYA THE DIVISION OF CAMBODIA, AND THE APPEARANCE OF THE ŚAILENDRAS IN JAVA”From the End of the Seventh Century to the Beginning of the Ninth Century

(シュリヴィジャヤの興隆、カンボジヤの分裂、ジャワにおけるシャイレンドラの出現―7世紀末から9世紀のはじめまで)ーである。

最初の要約のところでセデスはスマトラ島の東南部を東西交易の要衝として位置づけている。その理由は、その場所がマラッカ海峡とスンダ海峡の中間地点にあるからだという。この辺の地理感覚からしてそもそもおかしい。スンダ海峡は当時の貿易船にとってはほとんど使われない海路だったのである。

また、それまで中国との朝貢貿易を取り仕切ってきた扶南王国の崩壊(真臘による政権奪取)により、いわば権力の真空地帯となり、インドと中国の間の貿易にスマトラ周辺国が自由に参入できたという。確かに6世紀の中ごろの数十年は「権力の空白」期間はあったが、スマトラ周辺国が朝貢に参入しただなどというのは大げさである。具体的な国名は挙げられない。最も近いのが「丹丹」国で之はケランタンだからスマトラに近いとは言えない。

これによってシュリヴィジャヤ王国がスマトラのパレンバンに誕生し、この一帯(末羅遊=ムラユを含め)を支配したという筋書きである。セデスはシュリヴィジャヤはパレンバンを基点にして北東部方向に勢力を拡大したというのである。
これは完全なフィクションである。

扶南の崩壊が室利仏逝の誕生につながったというのはそのとおりだが、いきなり室利仏逝がパレンバンに本拠を置いて次の展開を図ったという視点はまったくのセデスの勘違いだというのが私の見方である。これは拙著『シュリヴィジャヤの謎』と『シュリヴィジャヤの歴史』(2010年5月、めこん社)で詳論したとおりである。

そのセデスの議論の出発点は、義浄や新唐書が述べる「室利仏逝」とはどこにあったかという点にある。

1.     The beginning of the kingdom of ŚRIVIJAYA (end of the seventh century)

義浄が『大唐西域求法高僧伝』で記録しているとおり、671年に広州を出発して20日足らずの船旅で室利仏逝に到着し、そこで彼は6ヶ月滞在し、まずサンスクリット語の文法を勉強する。ここには1千人を超える仏僧がいてインドのナーランダに匹敵する規模であり、本場インド並みの修行や学習や善行がおこなわれているという。

義浄は「これからの仏教修行者はインドに行く前にここに1~2年滞在して、予習してから現地に行くべきだ」というもっともなアドバイスをしている。室利仏逝では当時、本部のインドのナーランダ寺院にかなり近いレベルの高度な仏教研究がおこなわれていたというのである。こういう仏教インフラが当時のパレンバンに存在したという痕跡は皆無であるといってよい。

義浄の『南海寄帰内法伝』を詳しく読んでみると、義浄は室利仏逝が北半球にあったことを明言しているのである。(室利仏逝はいつからパレンバンになったか?を参照)

実際のところ、セデスは室利仏逝がパレンバンにあったという唯一の根拠ともいうべきパレンバンとその周辺のジャンビとバンカ島で発見された5つの碑文の解読とその解釈を述べることになる。

A group of inscriptions in Old Malay, four of which were found in Sumatra (three near Palembang, another at Karang Brahi on upper course of the Batang Hari) and fifth at Kota Kapur on the island of Bangka, show the existence in 683~86 in Palembang of a Buddhist kingdom that just conquered the hinterland of Jambi and island of Bangka and preparing to launch a military expedition against Java. This kingdom bore the name of Srivijaya, which corresponds exactly to I-Ching’s Shih-li-fo-shih

セデスはパレンバンで発見された3個の石碑とパレンバンの隣国のジャンビの近郊で発見された1個の石碑と残りの1個はバンカ島で発見された1個の石碑について説明をしている。その中に「シュリヴィジャヤに栄光あれ」という言葉・単語を見出しそれが室利仏逝の本当の意味だというのである。

そこまでの話はまさにセデスの読解力のすばらしさを物語るもので大いなる功績である。しかし、セデスはその後に何の根拠もない物語を繰り広げていき、それが世界に「通説」としてまかりとおってしまう。まことに恐るべき事態が現れる。

 The oldest of the three inscriptions from Palembang, the one that is engraved on a large stone at Kedukan Bukit, at the foot of the hill of Setuntang, tells us that on April 23, 682, a king began an expedition (siddhayatra) by boat, that on May 19 he left an estuary with an army moving simultaneously by land and sea, and that, a month later, be brought victory, power, and wealth to Srivijaya.

The king who in 682 set up this votive offering in some sacred place near Seguntang did so on returning from a victorious expedition that earned Srivijaya new power and prestige.
This anonymous king is almost certainly the Jayanāśa who founded a public park two years later, on March 23, 684, at Talag Tuwo, west of Palembang and five kilometers northwest of Seguntang, and on this occasion had a text engraved expressing the desire that merit gained by this deed and all his other good works should redound on all creatures and bring them closer to enlightenment.

そのうちの一番古い石碑がクドカン・ブキット(クドカン丘)で発見されたものであり、682年4月23日に王は船で軍隊を移動し始め、5月19日に河口を出て水陸から同時に敵地に攻め入った。その1ヵ月後に勝利と権力と富をシュリヴィジャヤにもたらしたと記されている。

ところがどこからどこに攻め入ったというような具体的な記述はない。いえることは国王が戦勝記念にクドカン丘にこの石碑を建てたということである。

このときにこの地が既にシュリヴィジャヤの本拠地であったのかあるいは、新たな占領地であったのか、あるいは他の地域に軍隊を進めるための前進基地だったのかはこの碑文からは判明しない。


室利仏逝はすでに670~673年の咸亨年中に既に唐に入貢している。ということは遅くとも660年代には室利仏逝はどこかに国家として成立していたはずである。セデスはそこのところを咸亨年中の朝貢は「あいまい」で不確かで、正式には695年だと主張する。ところが695年には室利仏逝は朝貢などしていない。695年には唐王朝が朝貢国に帰路の食糧を支給することを定めたのみである。これはセデスの誤解もしくは嘘である。

そうなると室利仏逝は682年にはどこか他所からパレンバン攻略にやってきて、それが成功したと解釈せざるを得ない。実際室利仏逝は支配下に14の城市を有していると『新唐書』に明記してあり、領土的な拡張(侵略)がかなり広範に行われていたはずである。新しい占領地として「末羅瑜」があったことは義浄も書いてある。パレンバンもジャンビも680年代の初めに室利仏逝の版図に組み入れられたと考ええられる。要するにパレンバンは室利仏逝の第十何番目かの属領になったことがこのクドゥカン・ブキット碑文から読み取れるのであり、それ以上のものではない。

ダプンタ・ヒヤン(Dapunta Hiyang)なる人物が室利仏逝軍の総司令官であったらしく、クドゥカン・ブキット碑文のいわば主人公であり、勝利の軍隊を閲兵する様子が描かれている。

たぶんこの司令官(シュリヴィジャヤ一族の王・)と同一人物と思われるジャヤナシャ王(King Jayanāśa )は684年3月23日付けの石碑を「植物公園」の開園を記念してパレンバン西方の郊外のタラン・トゥオ(Talang Tuwo)に建てている。この碑文には大乗仏教に関連する語句が刻まれているという。もっと驚くべきことはセデスをこの王を誰の断りもなく「シュリヴィジャヤのマハラジャ(大王)」だと決めつけてしまう。飛躍した解釈である。ダプンタ・ヒヤンがジャヤナシャ王とも限らない。すべてがセデスの「想像の産物」である。

また、セデスのこの著書には軍勢の数については触れられていないが、セデスがおこなったケドゥカン・ブキット碑文のフランス語訳は次のようになっている;

 “Il conduitsit une armée de vingt mille; des suivants……..au nombre de deux cents se déplaçant en bateau, des suivants à pied an nombre de mille trios cent douze arriveèrent en présence (du rois?), ensemble, le cour joyeux.

彼(王)は2万に軍勢を率いていた。200人は船に乗り,1,312人は王の面前で士気高く徒歩で従った。2万人の軍勢と200人は船に乗り・・・との関係は不明である。いくらなんでも2万人の軍勢を船で移動させられるはずがない。しかも陸戦隊で戦ったのは1,312人に過ぎない。残りの1万8千人はその間何をやっていたのだろうか。おそらく総勢が2,000人ていどであったろうと推測される。シュリヴィジャヤ軍は大型帆船などでパレンバン侵攻を行ったのではなく、手漕ぎの大型ボートで攻撃に出かけたに相違ない。当然兵士は漕ぎ手も兼務していた。

These three texts (inscriptions), in part identical, deliver threats and maledictions against any inhabitants of the upper Batang Hari (the river of Jambi whose basin must have constituted the territory of Malayu) and of the island of Bangka who might commit acts of insubordination toward the king and toward the officials he had placed at the head of the provincial administration.

The inscription of Bangka closes by mentioning the departure of an expedition against the unsubdued land of Java in 686.

残りの3つの石碑の一つは686年2月28日付けのものである。3つの石碑は共通して「不服従者、王に抵抗する者への脅迫と呪い」が記されている。

一つはジャンビの川のバタン・ハリ(Batang Hari)川の上流の
カラン・ブラヒ(Karang Brahi)で1904年に発見された石碑がある。これは1892年にバンカ(Bangka)島のコタ・カブール(Kota Kapur)碑文とかなり似通った内容が記されているという。

もう一つはバンカ島の住民いたいし国王とその島の首長となった家臣への謀反の禁止、服従を命じたものであり、逆らうものには処罰と災いが降りかかると脅迫し、686年に抵抗するジャワへの遠征軍出発について述べている。

“elle a été gravée au moment où l’armée de Çrīvijaya venait de partir en expedition contre la terre de Jāva qui n’était pas soumise à Çrīvijaya.

この後、セデスはジャワ島とは西ジャワのタルマ国を意味するであろうと述べ、タルマは666~69年に唐に入貢した後消息を聞かないという。シュリヴィジャヤ遠征軍によって滅ぼされたことを示唆している。

しかし、タルマ(多羅磨)国と思われる国からの入貢記録は漢籍には見いだせない。シュリヴィジャヤ軍が目指したのは中部ジャワの訶陵の支配地だったのである。訶陵こそは室利仏逝の貿易上のライバルであった。訶陵攻略の目的は「朝貢貿易」の独占体制の構築であったと考えるのが最も合理的な解釈であろう。

西ジャワは火山灰が酸性のため当時は稲作には適さず、人口も少なかったと考えられる。一方、中部ジャワから東部ジャワにかけては火山灰が塩基性であり、火山の斜面を利用しての水田稲作が盛んで、人口も多かったと考えられる。

セデスは西ジャワ(タルマ王国)やスンダ海峡を重視しているが、ジャワ島の南海岸は波が荒く、港湾適地がほとんどなかった。その自然的事情は今日でもあまりかわりはない。それとセデスは室利仏逝軍が中部ジャワに攻めていっては「不都合な事情」があったのである。

というのは扶南が真臘に6世紀の中ごろメコン・デルタから追われたのとに「ジャワ島」に逃げ込んだと解釈していたのである。ジャワ島がシュリヴィジャヤの本拠地あればそこに攻撃を仕掛けるはずありえない。当時扶南は「ジャワ島」とはほとんど関係がなかったはずであり、そんなに遠くまで行かなくともタイ湾の対岸に長年の属国の「盤盤」という国が存在したので「海軍を伴って」対岸のバンドン湾に逃げ込んだに相違ないのである。陸軍主体の内陸国家の真臘は海上を逃げていく扶南の王族を追尾できなかったのである。

セデスの貿易航路についての誤解はまだ続く。セデスはジャワ島とスマトラの間の
「スンダ海峡」を東西貿易の中継点と位置付ける。南インド・セイロン方面から来る商船はすべてがスマトラ島北端のアチェ沖を通り、ケダなどのマレー半島西岸の港に到着し、そこで交易を済ませ引き返すか、あるいは数か月風待ち(11月以降の東北風)をしてからマラッカ海峡を南下して、シンガポールの先端(を回ってチャンパや中国に向かったのである。法顕も「耶婆提」で5か月待ったと書いている。

この場合の「耶婆提」と「ジャバ・ドイパ」であり、もともとはマレー半島以南の広域を意味する言葉だが、この場合はマレー半島のどこか(多分ケダ)である。Java Dvipaだからジャワ島だと考えるのは間違いである。10世紀ぐらいまでは「Java]とはマレー半島以南を意味していた。また、Dvipaとは「両側が水」という意味であり、「島または半島」を意味する。ところが東洋史家の殆どはDvipaは島だと決めつけてしまう。

従って彼らの描く「東南アジアの古代史」は
「スマトラ島とジャワ島」中心史観になってしまい、「マレー半島」がすっぽり抜け落ちるという悲しむべき結果になる。史実を無視した「歴史」がそこに誕生する。間違った方向の研究を生涯かけてやっているとしたら、その歴史家の人生は空しい。たった1語の解釈のミスにその原因があるとしたら、それは悲劇である。

セデスの航路に話を戻すと、スマトラ西岸沖を通り、スンダ海峡を通過するというのは遠洋航海の大型商船では16世紀末以降にやってきたオランダ船などがはじめてであったと思われる。唐時代にはスンダ海峡は問題外だったのである。ある意味では現在でもどちらかというと使いにくい海峡なのである。

また、碑文について重要な意味を持つと思われるのは7つのナーガ(コブラの大蛇)の頭をいただくトゥラガバトゥ(Telaga Batu)碑文「=サボキンキン碑文」であろう。

それは「誓忠飲水儀式」に使われた。セデスはこのトランガ・バトゥ碑文についてなぜか明確な説明をしていない。シュリヴィジャヤ王国がこの地に古くから存在するのであれば、住民に改めて忠誠を誓わせる儀式用の碑文は必要としなかったに相違ない。

また、これまでのセデスの議論で気になるのは上述のごとくシュリヴィジャヤ軍が2万人の大軍だということである。こねだけの軍隊がパレンバンに常備されていたとすれば、家族や一般市民(商工業者)や農民も含め、さらには1千人を超える仏僧を含めると優に5~6万人を超える人口がいたことを想定せざるをえないであろう。

しかし、それはパレンバンという稲作不適地では到底ありえないことである。膨大な食料をジャワやケダから常時輸入しなければやっていけない。そんなことをシュリヴィジャヤ王国が何百年にわたってやれたはずがない。

次にセデスは室利仏逝=シュリヴィジャヤの唐王朝への朝貢について語っている。

Although King Jayanāśa is named in only one of the five inscriptions, they probably all emanate from him: the military expedition in 682, the foundation of a public park in 684, the affirmation of authority in the northwest and southeast of the kingdom, and sending of an expedition against Java-all these mark the various stages in the career of a king whom we are tempered to recognize as the conqueror of Malayu.

Perhaps it was also he who sent the embassy of 695 to China, the first one from Srivijaya for which we have a definite date. Before this embassy we have only a vague mention of embassies beginning with the period 670~73; after it, we know of embassies of 702,716 and 724 in the name of the king Shih-li-t’o-lo-pa-mo (Sri Indravarman) and of 728 and 724 in the name of the king Liu-t’eng-wei-kung.

彼は室利仏逝の朝貢は695年が最初だという。それ以前は670~673年に入貢したというあやふやな記録があるだけだという。これはとんでもないセデスの間違いというかデタラメである。

695年には室利仏逝が入貢したという記録は残っていない。ただあるのは695年に唐王朝は朝貢に来た国々に、「帰途の食料をどれくらい持たせるかを決めた規定」を発表しているだけである。

『唐会要』巻100に證聖元年695年9月5日に「南天竺、北天竺、波斯、大食等国使宣給6箇月糧、尸利佛誓、真臘、訶陵等国使宣給5箇月糧、林邑国使宣給3箇月糧」とあり、訶陵(中部ジャワ)や室利仏逝は5か月分ということになっている。

これから自明なことは695年以前において室利仏逝はいわば公認された主要な朝貢国としての十分な実績があったということである。

新唐書によると、室利仏逝は「咸亨至開元間、数遣使者朝」としか書いてない。咸亨年間とは670~673年であり、開元年間とは713~741年の間である。

具体的に何年に入貢があったかは『冊府元亀』などに書かれている。これは桑田六郎博士の『南海東西交通史論考』(汲古書院、平成5年2月刊)に詳しい。

事実、671年には義浄は室利仏逝を訶陵にならぶ2大貿易国として認識しており、それ以前(670年頃)に唐王朝は室利仏逝を朝貢国として認識していたことは間違いない。セデスはそういう事実を知らなかったのであろうか?知っていて無視した可能性も否定できない。

とにあれ、何らかの必要があってシュリヴィジャヤはパレンバンを基地にして(一旦軍隊を集結させ)683年ごろジャンビ侵攻の軍を起こしたということであろう。ジャンビ攻略の直接的な戦勝記念碑は残されていないのでジャンビ王は戦わずして降伏した可能性もある。

不思議なのは義浄が672年に末羅遊(ムラユ)に行ったときも、室利仏逝王はその友好国である末羅遊まで自分の持ち舟でお供につけて義浄を送り届けているのである。

末羅遊はジャンビであるというのがほぼ学界の定説であるが、それは多分間違いで末羅瑜というのはもっとシンガポールに近い、リアウ諸島辺りであった可能性が高い。貿易船のためにさまざまなサービス(食糧供給や海賊退治)を行っていたものと考えられる。

義浄が10年余のインドでの生活の後、帰途再び末羅遊(ムラユ)に来てみたら、そこは室利仏逝に併合されていたと記録しているのはよほどの驚きであったのだろう。

(羯茶については往路=671年ですでに室利仏逝の一部であったことを認識していた。義浄は『根本説一切有部百一羯磨巻五』の注で「羯茶は室利仏逝にもともと属していた」といっている。足立喜六氏の発見といわれる。)

この辺の前後関係を推理してみると、あるいは仮説を立ててみると、室利仏逝はまず赤土国(羯茶が本拠地)を手中に収め、「室利仏逝」国を成立させたと考えられる。羯茶はもともと干陀利であり、「赤土国」の本拠地であったと私は考える。もちろん「赤土国」は東海岸までの領土を有しており、ナコン・シ・タマラートからソンクラやパタニまでを支配していたと考えらっる。670年以降マレー半島からの朝貢国は室利仏逝だけとなる。

次いで、室利仏逝はマラッカ海峡の制圧を目指し、主にマレー半島で集めた大軍を率いてパレンバンを占領し、さらにジャンビ制圧し、抵抗する住民を支配下に置き、忠誠を誓わせた。そのための儀式の道具としてテラガ・バトゥの碑文を作らせた。

次に、ジャワの訶陵を攻略するために前進基地をバンカ島に兵力を結集し、そこの住民にも忠誠を誓わせたというのが686年までの推移であろう。

このころ義浄はインドから末羅瑜経由で室利仏逝に帰ってきており、もしそのような「物情騒然たる」状態がパレンバン(セデスのいう室利仏逝)あたりにあったのであれば、そのことを記録していたはずである。

ともかく。もともとパレンバンに本拠を置き、2万人もの軍隊を養って侵略の準備をしたなどということはおよそ考えられない。(パレンバンでは大勢の常備軍を維持できなかった)。

そのように考えると、次のセデスの仮説すなわち、首都パレンバンを基点として北東の方向(ジャンビの方向)や東南 (西ジャワ) の方向に勢力を伸ばしたというのは間違いであるということになる。

ましてやシュリヴィジャヤがその後「パレンバンを中心に何世紀にもわたってインド洋と(南)シナ海を保有し商業的な覇権を維持した」などというのは誇大(古代)妄想としか言いようがない。
それは拙著『シュリヴィジャヤの謎』の三仏斉のくだりに詳論しておいた。

Srivijaya’s extension northwest toward the Strait of Malacca and southeast toward the Sunda Strait is a very clear indication of the designs on the two great passages between the Indian Ocean and the China Sea, the possession of which was assure Srivijaya of commercial hegemony in Indonesia for several centuries.

このように、セデスがマラッカ海峡とスンダ海峡を同列に重視しているには意外としか言いようがない。貿易船がマラッカ海峡を通らずに、海の荒れるスマトラ島の西を通って「スンダ海峡」に直接入るルートは古代においてはほとんど使われていなかった。

バンカ島を出発したシュリヴィジャヤのジャワ遠征軍はその後どうしたのであろうか?

記録は何も残されていないが、その後の歴史的推移を見ると、シュリヴィジャヤの遠征軍は中部ジャワに向かい(西ジャワは主目的ではなかった)古マタラム王朝(後にサンジャヤ王朝となる)を屈服させて、臣下の誓いを結ばせた。いわばサンジャヤがシュリヴィジャヤの家臣になるということで、「平和条約が結ばれた」というのが実態であったと考えられる。

シュリヴィジャヤ軍が中部ジャワのペカロンガンを目指し、そこを占領した記念碑と思われる
「ソジョメルト碑文」なるものが1963年に発見された。それには「Dapunta Selendra」(シャイレンドラ王)の名前が記されているではないか。かれこそが、シュリヴィジャヤ軍の総司令官であり、「シャイレンドラ王朝の始祖」であったと考えられる。彼は言うまでもなくシュリヴィジャヤ王家の一員という高い位置にいた人物であろう。占領地の領主(王)に指名されたのである。


サンジャヤ王朝は中部ジャワでシュリヴィジャヤ系のシャイレンドラ王朝と共存しつつ、中心勢力は東ジャワに移ったった。というよりは所領として東ジャワが与えられた可能性もある。しかし、これがサンジャヤ家が勢力を後に盛り返す原因となった。東ジャワの経済力が中部ジャワを凌駕する事態が起こったのである。

According to an inscription of Kalasan, the second King in this line, Panangkaran, reigned in 778, under the suzerainty of the Sailendra dynasty.

これはŚailendraの下にSanjayaがあったことを物語っている。

The name Sailendra, “King of the mountain”, is an equivalent of (Siva) Girisa, and perhaps expresses an Indian adaptation of Indonesian beliefs which place the residences of gods on mountains.

シャイレンドラとは「ヒマラヤ=山の王」という意味であり、扶南も「山の王」の支配する国であり、両者は共通するタイトルを保持していたことがわかる。

This hypothesis has gained some ground since J.G. de Casparis identified Naravarnagara, the last capital of Funan in the southern Indochinese Peninsula, with the variant Varnara in an inscription of the ninth century. This inscription mentions that the country Varnara was ruled by a king Bhujayottungsdeva, who appears to have been the Sailendra  dynasty in Java.

Naravara also appears in the inscription of Kelurak.

セデスはジャワにSailendra王朝が成立したのは8世紀後半だと考えていた。それからすぐにボロブドゥールの建設に取り掛かったのだろうか? シャイレンドラ王朝はの滅亡は9世紀の中頃と考えられる。

その間、「訶陵(カリン)」として768年から中国への朝貢を何度も行い。国内的には大乗仏教の布教とそのシンボルとしてのボロブドゥール寺院建設に取り掛かった。しかし、それは完成を間近にして未完成に終わってしまう。

おそらくバンカ島を686年に出発したシュリヴィジャヤの遠征隊は比較的短期間で中部ジャワを制圧し、それから間もなくシャイレンドラ王朝を発足させたものと考えられる。ただし、唐王朝への朝貢はあくまで「訶陵」という看板を使い続けたというのが実態であろう。

なぜシュリヴィジャヤ王朝がそうしたかと言うと、サンジャヤ系の訶陵を武力制圧したということを唐王朝に対して公言できなかったからであろうと思われる。「朝貢国」を武力制圧することは唐王朝に対する「反逆行為」という意味合いがあるからである。平和的な併合や合併であれば唐王朝としてもあえてとがめだてする理由はないからである。

考えてみれば、真臘に追われた扶南王家は
「盤盤」⇒「室利仏逝」⇒「訶陵」⇒「三仏斉」と次々に名前を変えながら朝貢を続けた理由はその辺にあったと考えられる。

一方、シャイレンドラに乗り込まれ主権を奪われた旧マタラム王朝は東ジャワに勢力の中心を移し、そこでヒンドゥー信仰を維持していた。

The advent of the Buddhist Sailendras seems to have provoked the exodus to the east of Java of the conservative elements faithful to the Hindu cults.

シャイレンドラ仏教の出現によって保守派のヒンドゥー教徒は東ジャヴァに追い出されたというのがセデスの見方である。しかし、宗教的な対立がそれほど深刻かつ決定的な理由であったのだろうか?むしろ大乗仏教とヒンドゥー教は平和共存できていたと考えるべきではないだろうか?シュリヴィジャヤの王族は大乗仏教の信者であったがヒンドゥー教も受け入れていたと考えられる。また、当時大乗仏教に入り込んでいた「密教的要素」は多分にヒンドゥー教的要素を含んでいたといわれる。

(シャイレンドラはどこから来たか)

セデスは次のように主張している。「ジャワはシャイレンドラ王朝の母国には見えない。しかも正しいか間違っているかは別にして、扶南の「山の王」との関連が主張されうる」と元を正せば扶南系ではないかと見ているのである。

セデスがもしそう主張するならば、シュリヴィジャヤはあたかもパレンバン土着のマレー民族王朝であるかのごとき見方をするのは変である。支配下の民衆はマレー系であろうとも支配者集団はインド系(バラモンとクシャトリア)と見なければならない。

しかし、セデスには「室利仏逝とシャイレンドラとの関係」を明確には見抜けなかったようである。

On the basis of the documents available at present, Java does not appear to be the native country of Śailendras of Indonesia, who, as has been seen, claimed rightly or wrongly to be related to the “kings of mountain” of Funan. P92

ナーランダ文書(Charter of Nalanda)によると

Svarnadvipa was governed at this time governed by a Balaputra, that is, a “younger son”-in this case the “younger son” of a King Samaragravita, who was himself a king of Yavabhumi (Java), who was called “ the ornament of the Sailendra dynasty” and bore a name followed by the title of “ the killer of enemy heroes.”

スヴァルナドゥイパ(Suvarnadvipa)というのはスマトラ島とマレー半島を意味している。そこはジャワのサマラグラヴィラ王の若い方の息子が統治していたと記している。ということはこの時期にシュリヴィジャヤの本拠はジャワに移っていたと見られる。

そのサマラグラヴィラ王は「敵の英雄を殺した勇者」であり「シャイレンドラ王朝の象徴」であると記されている。しかし、その息子のBalaputraはサンジャヤのピカタン王子との権力闘争にやぶれジャワ島から追放され、パレンバンに逃げたというのが「通説」のようだが、実力のないパレンバン王国に逃げても連れてきた海軍を養えな勝ったのである。ジャンビは入国を拒否した可能性がある。そこで結局マレー半島に逃げ込んだものと推測される。そこで彼はシュリヴィジャヤの大王(マハラジャ)と自称していたであろうが、権力基盤であったジャワ島から追放されてしまい、どれほどの実権があったかは推して知るべしである。Balaputraはリゴール碑文の裏側(B面)に数行の書き込みを行ったと推定される。しかし、その内容がどこまで現実を反映したかどうかは大いに疑問である。Coedèsの言うようにSvarnadvipa
の全域の支配者ではなかった。ジャワ島は特に抜け落ち、スマトラ島もジャンビといった強国は敗者のBalaputraを支配者として受け入れなかた可能性がある。というのはジャンビは独自に852年と871年に朝貢に行っている。しかし、ジャンビの「単独行動」はジャンビ自身にとっても必ずしも有利ではなかったようである。その後シュリヴィジャヤ・グループはアjンビとケダとチャイヤーで「三仏斉」という新たな連合国家体制を組織し、朝貢貿易の独占と強化を図る。904年には末期状態の唐王朝に朝貢に出かける。

セデスはさらに続ける。

 This Sailendra Java seems to be the same as that of the inscription of Kelurak and Ligor (B), and his son Samaragravira can be identified with the King Samaratunga who reigned in Java in 824.

Samaragravira’s son, Balaputra, undoubtedly governed Sumatra for and under the authority of his father.


繰り返すが、シャイレンドラ王国はシュリヴィジャヤの王家にとってはいわば分家的存在だったのである。シュリヴィジャヤ帝国にとっては最も新しい属領であった。(ただし、セデスがシュリヴィジャヤという時はあくまでスマトラのパレンバンやジャンビのことを意味している)また、セデスのこの記述は上に見る通り正確ではない。

(パレンバンが貿易センターだった?)

セデスが言うように「東西貿易を数世紀にわたってパレンバンが取り仕切った」という事実は無い。また、そのような立地にもなかった。南インド方面からのアクセスがケダに比べ圧倒的に不利なパレンバンが東西貿易のセンターなどにはおよそなりえない。また、中継点としてもジャンビに比べマラッカ海峡から遠いだけパレンバンは不利であった。

宋時代に入って海外渡航を認められるようになった中国商人が直行船で東南アジア方面に乗り入れてくるようになったが、陶磁器などの商品は南インドやアラブ・ペルシャ方面に運ばれるとしたら距離的に有利なジャンビの方が圧倒的に多かったと考えられる。しかし、マレー半島横断ルートは依然として使用されていた。それはチャイヤーなどに残される「宋白磁」の発掘品などを見ても明らかである。
また、チャイヤーの港レン・ポー海岸に今日でも多く存在する宋磁器の破片を見てもこちらの方がパレンバンとは比較にならないほど多い。

 We can conclude from all this that in the second half of the ninth century Java and Sumatra were united under the rule of a Sailendra reigning in Java, but nothing authorized us to think this was already the case in the second half of the eight century.

このセデスの見方は全くのデタラメである。シャイレンドラ家は9世紀の後半にはジャワ島を追報されてしまった。8世紀の中ごろはシャイレンドラ家はジャワで善政を誇っていた。こでセデスが何を言わんとしているか全く理解できない。歴史的事実からかい離した説明である。

それは「9世紀後半には確かな事実であるが、8世紀後半にまでさかのぼれるかどうかは不確かである」というのがセデスの主張自体はまさに逆でシャイレンドラがシュリヴィジャヤ帝国の中でのチャンピオン国であったのは760年代~830年頃までの話である。その後、シャイレンドラのバラプトラ王子はジャワにおける権力闘争に敗れ、ジャワを追い出され手島多のである。これは歴史の歪曲というよりはフィクションである。

後期訶陵(シャイレンドラ)が768年に登場するまでは本家の室利仏逝が742年までこの地域のチャンピオンとして唐王朝に入貢していたのである。

その室利仏逝が本拠にしていた盤盤の地(チャイヤー)を真臘によって750年前後に占領され、追い出されてしまってから様子が変わったのである。それを奪還したのはジャワの海軍を率いて戦ったシャイレンドラ王国だったのである。その勝利によってシャイレンドラ王は「マハラジャ」の称号を許されたのである。同時にジャワにおいてもサンジャヤ系を押えて覇権を確立したのである(サンジャヤとの共存関係でシャイレンドラが表面的にも優位に立った)。

なぜ、シュリヴィジャヤ王家が680年代初めに占領したパレンバンをなおざりにして、中部ジャワに本拠を移したかといえば、シャイレンドラが真臘軍をチャイヤーで破り、奪還したという戦功意外に、米もさほど取れず、人口も少なく(兵力が養えない)、交通の便も悪く、東西貿易の要衝とはなりえないパレンバンに本拠(総合商社でいえば本店)を置くわけにはいかないからである。

要するにパレンバンの経済的な価値は歴史的に、一貫して相対的に低かったのである。そこをセデスは誤解しているのである。

私の仮説はマレー半島で集めた大軍(実際は2000人程度だった考えられる)を引き連れてシュリヴィジャヤ王はパレンバンをまず占領し(人口も少なく容易に制圧できたと思われる)、ついでスマトラの中では比較的強国であったジャンビを攻めた。

これも楽勝に終わり、次に最後の目的地とも言うべき中部ジャワに本拠を置く「訶陵」の攻略に移った。そのときはバンカ島に軍勢を集結し、686年遠征隊は出発した。

結果を見る限りは、これもシュリヴィジャヤ勢の勝利に終わり、現地を支配していた政権(古マタラム王朝?)はシュリヴィジャヤの支配を受け入れる形で「和平」が実現したと思われる。

シュリヴィジャヤとしては当時は人口が少ないスマトラよりも水田稲作が盛んで人口も多く強大な軍隊を持ちうるジャワを重視し、ここでの支配権の確立に注力したであろういうとは容易に想像がつく。そのようにみないと合理性がないのである。

セデスはパレンバンを重要な中継貿易拠点だと主張するがその根拠はきわめて薄弱である。

唐時代には南インド方面からのインド商人の貿易船はタクアパやケダで積荷をおろし、陸送でマレー半島東岸(AルートとBルート=『シュリヴィジャヤの謎』で定義)に運び、あえてマラッカ海峡を下らなかった。

ペルシャやアラブ方面からの船はマラッカ海峡を南下し、末羅遊(ムラユ)と呼ばれたどこかの港で風待ちをして春以降の南西季節風に乗って中国方面に向かった。南インド、セイロン方面からやってくる船はスンダ海峡は使わなかった。あbんがる湾を渡り、ニコバル諸島(当時はBalus(郎婆露斯)と呼ばれていた)を横切り、マレー半島の港に停泊し、冬の東北風待ってマラッカ海峡を南下し、末羅瑜で南西風の風を待ってから中国に向かったのである。法顕は「耶馬提」で5か月間風待ちをしたと記録している。


その時もパレンバンにまでは南下したとは思われない。せいぜい南下してもジャンビ河口(その辺がムラユだと考えられている)あたりの港だったと思われる。海賊の襲撃に備えて、比較的防備の固い常備軍のいる港が選ばれたに相違ない。

ジャワに本拠を移したシュリヴィジャヤは宗教として「大乗仏教」を持ち込み、ボロブドゥール寺院を建設し、中国への貿易は「訶陵」の名前を使って唐王朝に朝貢を続けたことは既にみたとおりである。

7世紀の訶陵は古マタラム王朝であったかもしれないが(これを私は前期訶陵と呼ぶ)、8世紀以降の訶陵はシュリヴィジャヤ系のシャイレンドラ王朝であった。

そのとき、古マタラム系のサンジャヤ王朝はシャイレンドラに服従しつつ、中部ジャワから東部ジャワに勢力を維持していたが、サンジャヤ系はバラモン(後のヒンドゥー)教にこだわっていた。しかし、大乗仏教を必ずしも敵視しなかった。

バラモン教と仏教の共存がみられたのである。シャイレンドラがボロブドゥール寺院を建設する傍らで、サンジャヤ系はプラムバナン寺院などを建設していた。どちらも輸入された宗教であった。また、サンジャヤ系は闍婆の名前で後期訶陵と同時期(820年、831年、839年)に朝貢をおこなった。これは820年ごろには東ジャワを根拠地にしたサンジャヤ・グループがシャイレンドラを無視して朝貢に出かけたと考えられる。

しかし、シャイレンドラはジャワ島で次第にサンジャヤ系に押され、ついにはジャワから追い出される。それはサンジャヤ系が中部ジャワではシャイレンドラに臣下の礼をとりつつも、主に東ジャワで勢力を蓄えていたからである。

東ジャワは中部ジャワに匹敵する米どころであると同時に、モルッカ諸島へのコメの輸出を行い、モルッカから香辛料(丁子、ナッツメグなど)を輸入するなどして経済力が増してきたからである。

おそらく、9世紀の中ごろにはシャイレンドラはジャワでの勢力を失い、本拠をスマトラ島のジャンビへと後退していったものと思われる。しかし、バラプトラ王子の落ち着き先は結局ジャンビに受け入れられずケダであった可能性が高い。

ボロブドゥール寺院が未完成で終わる傍らで、プラムバナン寺院は見事に完成し、付近に863年のシヴァ教の銘文がある。これはサンジャヤ系がジャワの主権を回復した象徴と見ることができよう。

室利仏逝は742年を最後に唐王朝への入貢をやめるが、訶陵(後期)は768年から入貢を再開する。それは839年まで続く(咸通年間860~73年にも入貢記録はあるが、どこの港から船を出して入貢したかは不確かである。後期訶陵時代を通じて中国への朝貢船はサティン・プラ(ソンクラのやや北方)であったと考えられる。そこにシュリヴィジャヤ諸国が持っている財貨を集めて中国に出荷したものと考えられる。ジャワに全てを集めてから中国に向かったのでは効率が悪る過ぎ宝である。実施の集荷地地はパッタルンであり、収益の再配分もそこで行われていた可能性がきわめて高い。2014年にはいり、パッタルンから南宋王朝が支払ったと思われる金製品が多数発掘された。

一方において同じジャワ島から闍婆が820年に新たに入貢する。それは831年、839年にもおこなわれる。

この闍婆はおそらくサンジャヤ系であろう。このころからサンジャヤ系は勢力を盛り返したきてやがてはシャイレンドラ系と主客転倒したのではないだろうか?

サンジャヤはピカタン王が王位に就いた838年からジャワにおける「主導権」を回復したと考えられるが830年ごろには既に権力奪還に成功していたものと思われる。

ジャワから追放されたシャイレンドラ(シュリヴィジャヤ)はもと来た道を引き返しす形で本拠をスマトラついではマレー半島に移したと考えられる。

また、注目すべきはジャンビ(占卑)が852年に単独で入貢を開始する。シャイレンドラ王朝の支配下にある港湾都市国家が自分の名前で中国に入貢するなどということはシャイレンドラ王朝の全盛時代にはおよそありえなかったことである。ジャンビ(占卑)は871年に2回目の朝貢を行い、904年からは三仏斉が登場する。

三仏斉はジャンビ、ケダ、チャイヤなどのシュリヴィジャヤ系港湾都市国家の連合体であり、ジャンビがしばらくは三仏斉で中心的な役割を果たしたと思われる。後には三仏斉の外交的センターはケダに移ったものと考えられる。チョーラが三仏斉を攻めた1020年代には主要目標はカダラムすなわちケダであった。

パレンバンは14世紀には「旧港」という名称で中国人に認識されていたようであるが、詳しい経緯は解明されていない。

しかし、852年にはジャンビが表舞台に登場しており、三仏斉においてパレンバンの果たした役割はさほどたいしたものではなかったことがうかがわれる。諸蕃志(1225年、趙汝适)においてもパレンバンは三仏斉の「属領」として記載されている。

しかしながら、皮肉にもパレンバンは20世紀後半に独裁者スハルト大統領によって「国威発揚」のシンボルとして再利用されることとなった。

この三仏斉はまさにシュリヴィジャヤの後裔というべきであろう。三仏斉はいわば朝貢貿易のための国家連合であり、当然ビジネスに専念した。支配者の宗としては「大乗仏教」が貫かれていたと考えてよい。ただし、ヒンドゥー教との親和性はあったとみられる。

シュリヴィジャヤ王統は大乗仏教に後の三仏斉時代にもこだわっていたようである。ジャンビでは河口の港湾(ムアロ・ジャンビ)に多くの大乗仏教遺跡が残っているが、時代的には11世紀ごろのものが多いという。

セデス理論の欠点(08年3月11日追加)

セデスは東南アジア古代史の世界では圧倒的な権威を持つ、いわば「神棚の上」の存在である。今日に至るまで、セデスを神棚から引き摺り下ろして、チリを払ったり、いじくり回したりすること自体が「冒涜行為」と考える学者は少なくないらしい。

幸か不幸か私は「異教徒」なのでその辺は神のタタリがあるぞなどといわれてもあまりピンとこない。

セデスの考えは、
扶南の王族は真臘に追い出されて、いきなりパレンバン(あるいはジャワ島)にやってきて「室利仏逝」を「建国」したという筋書きであり、それが主流派の「定説的」発想であるといえよう。

上に見たようにセデスは「扶南の王族とシャイレンドラ家がつながりがあった」という想像はしていた。その点は正しいが、後の筋書きが支離滅裂である。

扶南の血筋を引くシャイレンドラ王家は真臘に一時期占領されたチャイヤーを奪還し、真臘本土やチャンパへの侵攻を行い、775年にはリゴール碑文(実際はチャイヤーに建てたらしい)を建設している。この事件をセデスは扶南の王族の末裔であるシャイレンドラの「報復」と考えたようである。

これについて桑田六郎博士は「扶南の滅亡を唐初(7世紀はじめ)とみても、それから100年以上も経ってから報復したということは確かな証拠が無い以上セデス氏の想像にしか過ぎない」と述べておられる(『南海東西交通史論考』、汲古書院、p229)

しかし、実際は100年も経ってなかったのである。ほんの20~30年のことだったのである。

両先生とも室利仏逝が742年を最後に朝貢を止めてしまったということはつとにご存知のはずである。その室利仏逝が一体どこにあったのかという問題である。
両先生はそれはパレンバンにあったと考えておられるから、「100年のギャップ」が埋められないのである。

室利仏逝は742年までどこにあったかというとバンドン湾のチャイヤーにあったのである。これは中国側には元は「盤盤」という国名で認識されていたものである。

おそらく6世紀の後半に真臘によってカンボジアを追われた扶南の王族は、長年に亘り支配地(属領)であった盤盤に逃れて、そこで「赤土」を併合したのちに「室利仏逝」と看板を替えて中国に入貢を続けたというのである。

なぜ看板のかけかえが必要だったかといえば、「盤盤」が隋時代に入貢していた「Bルート」の支配者「赤土国」を制圧し、統合してしまったからであると私は考える。「赤土国」武力で制圧したとなると「盤盤」も唐王朝からお咎めを受けまねないから、やむな両国は大乗仏教の連合国「室利仏逝」を形成したという説明をしたに相違ない。

後世に「三仏斉」を制圧し、三仏斉の朝貢貿易権を奪ったチョーラ王朝は「服属三仏斉」として、三仏斉の支配下にある「注輦」という説明を宋王朝に態々しているのである。

こういう発想はセデスにも桑田先生にも全くない。

室利仏逝は中国との朝貢貿易の東南アジア独占を目指してリゴール、ケダのマレー半島を支配下に置き、ついでジャンビとパレンバンを武力で制圧し、最後は貿易上のライバル(義浄の説)である訶陵すなわち中部ジャワを制圧したのである。ジャワの制圧は7世紀末には完了していたと思われる(そのためにバンカ島を前進基地として大軍を686年に出発させている)。

しかし、室利仏逝にはその後「想定外」の事件が起こってしまった。それは室利仏逝が南に勢力を伸ばして、本国が手薄になったスキをついて真臘が南下してきて、チャイヤーとリゴールを占領してしまったのである。その時期は740年代の中頃であったと推定される(室利仏逝の最後の朝貢が742年)。

室利仏逝の王族は真臘に追われて第2の首都であったとみられるケダまで逃げたが、陸続きで不安が残るため、パレンバンやジャンビを素通りしてジャワにまで逃げ延びて、そ地で支配権を有していたシュリヴィジャヤの王家同士が合体して「シャイレンドラ」と名乗ったものと思われる。いわば本家の旦那が分家に居候するような形になったものと想像される。

そこでの話し合いは「シュリヴィジャヤ王家」を名乗るのを止めて扶南ゆかりともいえる「シャイレンドラ王家」を名乗り、唐への朝貢の名義人は現地の看板ホコリを払って、昔ながらの
「訶陵」で行くことに決めたものと思われる。

シャイレンドラはジャワで大軍を編成し、海軍を率いてリゴールやチャイヤーを774年に奪還した。そのとき陸戦隊もケダから進軍したものと想像される。海陸から攻められた真臘の現地軍はあっさりと降伏して王族は捕虜となってしまった。

そのときの王子の一人が後のジャヤヴァルマン2世であったと言われているが、彼はシュリヴィジャヤ支配者グループの若い将軍であり、海軍を率いてアkンボジア制覇に乗り出したとみられる。802年に「独立を宣言」し後のクメール帝国の始祖的な存在になったと思われるが「独立宣言」事態は地元住民に対する政治的ゼスチャーにすぎなかったかも考えられる。

彼はジャワ島からシャイレンドラ王朝の勢力の衰えに乗じて8世紀末にカンボジアに舞い戻ったというのがセデスの説だが、その頃sj杯レンドラは「衰え」どころか全盛期であった。当時のカンボジア語では「ジャワ」というのはマレー半島を包含していたものと思われる(中国も同じ)。すなわち、チャイヤーやナコン・シ・タマラートあたりから海軍を率いてカンボジア入りしたと考える方が自然であろう。。

ジャヤヴァルマン2世もおそらくシュリヴィジャヤ王家の血統を受け継ぐシュリヴィジャヤ王統の「雇われ国王」という地位に、当初はあったものと推測されるその証拠に「新唐書」は9世紀の初めから300年間も中国への朝貢を「自粛」している。通常の独立国なら考えられない事態である。

(リゴール=ナコン・シ・タマラートの役割)

実際の南インド方面からの中国への「貢物(輸出貨物)」はリサティン・プラやゴールあたりから船積みしていったものと思われる。8世紀ごろのアラブの商人はシュリヴィジャヤ(Serboza)というのはリゴールが本拠だと思っていたらしいのはこのためである。

考えてみれば西方の物産をわざわざジャワ島まで時間をかけてけ、リスク(海賊や海難事故)を犯してまで運ぶ必要は毛頭無いはずである。最終の目的地は中国であった。

最寄のケダで降ろして、陸上輸送でサティンプラやリゴールまで運び、そこで東南アジアの物産と一緒にして中国まで運んだに相違ない。なぜなら、それがもっともコストが安くリスクも少なく合理的な方法だからである。

インド人の碩学マジュムダールリゴール「シュリヴィジャヤの原点」だといってボロカスにセデス派の攻撃を受けたが、マジュムダールはアラブ商人の言っていることをマトモに受け止め、それを理論的に表現しただけであろう。むしろセデスの理論の方が、「穴ぼこだらけ」であったと見ることができよう。

イギリスの歴史学者クオリッチ・ウェールズ博士は室利仏逝(シュリヴィジャヤ)はリゴールよりもその北のバンドン湾に位置するチャイヤーであるとしている。わたしもウェールズの説に賛成である。扶南と盤盤の時代はチャイヤーのほうが西海岸のタクアパに直結していただけに国際貿易港としては繁盛していたし、大乗仏教遺跡はナコン・シ・タマラートよりも圧倒的に多い。

ただし、チャイヤーにとっての主要港であった西海岸の
タクアパは水田がほとんどない地帯であり、港湾としては守備の常備軍を多くは置けないという欠陥があった。タミール商人は現地からタミール人の傭兵を連れてきて港湾警備に当たらせていたことがウェールズの考古学的な調査によって明らかにされている。

余談だが、意外なことに、『シュリヴィジャヤの謎』でも触れたが、ウェールズ自身は義浄が立ち寄った室利仏逝とはパレンバンだと信じていた。その原因を作ったのは日本の仏教学者にして東京帝国大学教授で文化勲章の受賞者でもある高楠順次郎博士であることは別項に見たとおりである。

(2014年10月10日一部修正)