長谷川光二氏は明治31年、東京日本橋の資産家家具商の次男として生まれました。一橋大学(旧 東京商科大学)を卒業後、しばらくしてから関東大震災に遭い、その悲惨な状況の世間から離れ、昭和3年に北の果て北海道舌辛村(現 鶴居村下久著呂チルワツナイ)に弟さんと入植されました。
長谷川氏は己の信念を貫き、土地の開墾の傍ら俳人・詩人としても多くの作品を残されたようです。道路も交通も整備されていない時代、殆ど周りの村人と交流はなかったそうですが、東海林太郎他、多くの著名な方々や俳人、大学の関係者がこの地に長谷川氏を慕い訪れていたようです。 |
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長谷川光二氏についての詳しくは残念ながら一部の方にしか語り継がれておらず、私もまだほんの少しのことを知っただけです。
ただ、偶然にも私は日頃お世話になっているご夫妻が長谷川氏ご本人とそのご遺族とお付き合いがあり、今は廃屋となった住まいの管理を任せれているとのことで、今回同行させていただく機会を得ました。
長谷川氏の住んでいた場所は現在の「鶴居どさんこ牧場」の近くです。 |
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長谷川氏の住まいの場所はキラコタン岬方面に入っていくわけですが、ご家族の希望もあり一般公開されていません。それと共にヒグマが出没中ということですので、猟友会の入山、ワナの仕掛けなどがあり大変危険です。
その為、詳しい場所等の案内は今回はしないこととさせていただきます。どうかご了承下さい。 |
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道道243号線から2kmほど入っていきます。 |
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この時期はまだましでしたが、途中から悪路と言うことで徒歩で500mほど歩いていきました。
熊除けの鈴、ラジオを鳴らしながらで、正直写真を撮る余裕はあまりありませんでした。 |
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やっと辿り着いた長谷川氏の元邸宅です。
体調を崩され昭和50年に長谷川氏はお亡くなりになったそうですが、それまでこちらに住んでいたとのことです。 |
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アーチ型玄関。ベンチも両サイドにあります。
2階にも直接出入りの出来る階段がありました。 |
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管理人のご夫妻の立ち会いの下、内部に入れさせてもらいました。
(許可なく内部には入れませんのでご注意願います)
まずは玄関内部の様子。真正面にはムロがありました。 |
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玄関から右手には居間がありました。
かつてはこの部屋の壁には多くの蔵書があり、奥にはピアノが置いてあったそうです。残された蔵書については現在鶴居村の教育委員会で管理されてます。
長谷川氏の奥様、道子さんは東京音楽大学(現 東京藝術大学)の出で、後に北海道教育大学釧路分校の講師も務めておられます。子供達の教育は高校に入学するまでご夫婦で行っていたとも聞いています。
昭和初期にこの地からバッハやショパンなどの音楽が流れていたとは一瞬信じられませんでしたが、想像をしていくうちにそれがとてつもないことだと実感出来るようになりました。 |
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釧路市開基百年のポスターもありました。いつの頃かわからなかったので調べてみたら、昭和44年だったそうです。なんだかタイムスリップした感じです。 |
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こちらは台所と食器棚の様子。つい最近まで生活していたかのような風景でした。 |
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さらに隣には五右衛門風呂、トイレもありました。 |
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居間・台所から続く廊下。こうして見ると広い家だということがわかります。 |
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冬に使ったと思われるスキー板、農具、自転車などもそのまま置いてありました。 |
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1階の和室の様子です。南向きで明るい部屋でした。
近年は自家発電装置も備え、電気も利用していたとのことです。 |
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2階へ通じる階段は2箇所ありました。手すりが一本木を使っているのが印象的です。
2階も割りと広い部屋です。ここの家の特徴は窓が横に広いということです。昔はこういう窓が多かったのか、または長谷川氏の家がモダンな造りだったのか判りません。
人形だけがポツリと置いたままでした。 |
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居間で私が偶然見つけた英字新聞。昭和47年のものでした。長谷川ご夫妻が読んでいたのでしょうか。 |
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写真は邸宅そばの広大な畑跡です。キラコタン岬へ続く山々を眺めながら長谷川一家の生活を想像してしまいました。昭和初頭当時は珍しい近代的な農機を使っていたということです。食卓にも自家製チーズやバターもあったとか。 |
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今回は貴重な体験が出来ました。私も色々なことを想像させられましたが、もしかしたら倉本聡氏脚本の「北の国から」の黒板家は長谷川光二氏がモデルになっているのではないかと思うほどでした。また、今年キャンプに行った音別の「YMANONAKAカムイミンタラ」を思い出しました。
文明の象徴である都心に見切りをつけて、あえて自給自足の不便な生活に向き合った哲学は、生きることの原点とは何か、自己実現とは何かを語っているようにも思えました。個人的にはこの場所を大切に残したい想いにかられました。 |
長谷川光二 邸宅跡
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