1.自然モノ安全信仰
『買ってはいけない』現象
最近は本屋で見かけなくなりましたが、極めつけの似非科学ホラー本である「買ってはいけない」[注1]が昨年ベストセラーになりました。化学農薬や合成添加物についての、偏ってアヤシゲな「コワイゾ」情報のシャワーを浴びせることにより、読者に無用な恐怖感を与えて洗脳しようという意図が見え見えの本でした。
このようなウソ情報満載の本が飛ぶように売れるほど、我々の多くは化学物質恐怖症に陥っています。そしてこの恐怖を扇動する特定イデオロギーをバックにした一部のグループは一種の「カルト」を形成し、多岐にわたる方面から我々をマインドコントロールしようとしていると言っても過言ではありません。
確かに、我々が日常摂取する化学物質というと、食品添加物・医薬品・残留農薬・環境汚染物質など、良くも悪くも健康に関係するものが多いので、気にならないと言う方が不自然でしょう。しかし、本当にそれらがみんな例外なしに怖いものなのでしょうか? また、その反動として「自然モノ」なら安全という考えが根強く我々のアタマに刷り込まれています。これもどこまで本当なのでしょうか?
「安全」ってなに?
これらの疑問に正確な答えを出せる人は誰もいないでしょう。そもそも我々にとって「安全」とはどういうことかを明確にしないで、このような議論をすることすら無意味なのですが、問題はこの「安全」という言葉そのものすら、我々が直感的にすっと納得できるほどには、科学的な形できちんと定義できないことです。
ちなみにJISでは、「安全性」を〈人間の死傷又は資材に損失若しくは損傷を与えるような状態のないこと〉(JIS Z8115(1981))と定義していますが、これでは何の足しにもなりません。
この問題が非常に難しい原因の一つは、仮に〈人体にあらゆる意味で悪影響を与えるのが「非安全」〉と定義したとしても、それなら「悪影響」ってなんだ?と議論はエンドレスになることです。 「悪影響」というのは、「影響の質と程度」を含んだ概念でありますが、影響を与える原因となる物質の量と、生じる影響の量と質の程度が単純な関係にはならないこともあり、また人体の感受性にも非常に大きな個体差があるからです。これが、「安全」「非安全」について、「0」または「1」の二進法的表現で議論ができない理由です。
一方、安全性を科学的に議論できる唯一の方法である現代の毒性学は数理統計がベースとなっているため、安全か否かの判定に確率を用いざるを得ません。このために、個々人の事情は平均化の中に埋もれて無視されざるを得ず、結局いくら安全だという結果が出ても、「では自分の場合に限った場合もホントに安全なのか?」という究極の0 or 1判定には答えようがないのです。
ところが欲張りな我々には、なんとしても「0」か「1」かを決定して安心したいという根深い欲求がありますが、これが先の「職業的脅し屋」にマンマとノセられて、「自然モノ安全信仰」に入信する原因となっています。
「脅し屋」の手口
例えば上記のトンデモ本(『買ってはいけない』)では、科学的なファクト(特に定量的な)をほとんど完全に無視しているくせに、用語だけは科学のフィールドで使われているものを用いて、0or1の極論的詭弁を組み立てているところがシロウトだましのポイントであり、知っている人にとっては大笑い以外の何物でもありません。
定量的な議論がないのですから、砂糖だろうが重曹だろうが、話のもって行き方によって、なんでも「アブナイ」モノにすることができるのです。実際、この手法を使えば、アブナイモノから距離をおいているとウソブく同書の著者らの「健全?」な生活習慣を解剖して、コイツラが我々に劣らず日常的にいかに「危険な」モノを摂取しているかすら簡単に「証明」することが可能です。次章にその一端をお見せしましょう。
もっとも、このような論法は安直で楽なので、彼等に限らず程度の差こそあれ、よく見かけるものですが...
(実は当HPのなかにもあったりして...(^^ゞ hehehe)。
これらをふまえて、ここでは「安全か否か」を、ある程度、感覚的な蓋然性としてとらえることにします。ですから当然例外が出てくるわけですが、きりがないので脇に置いておくことにします。
なお、農薬の安全性というと、普通は野菜の残留農薬として我々の口に入るものが対象になります。このHPでは、それよりも、庭に薬剤散布が我々の体にどこまで影響するかが最大の関心事であることはもちろんですが、話の進行上、食べ物についても言及していきます。
[注1] 同書に対する批判本が多数発行されたため、GAMIがここでコメントすべき事はあまりありませんが、同書の著者らの一部によって、理科系・医学系大学出身者であっても、必ずしもきちんとした科学的見識を持ち、かつ科学者としての良心を備えているとは限らないという困った実例が示されました。(それ以外の残りの著者らに関しては、何も言う必要はないでしょう) もっとも、同書の内容から判断するに、この著者らはそれぞれの専門の第一線では通用せぬ、単にイデオロギーに染まった三流の「評論家」に見えます。したがって彼らのレベルを持って日本の大学教育のレベルを論じることは出来ません。逆に、同書をどこまで盲信するかによって、読者側の(学歴などの見かけではあらわせない)教育レベルや知性を測るリトマス試験紙になるでしょう。それほど同書はお粗末な本です。この本をテキストにしてマジで勉強会やってるグループもあるようですが、これじゃ某殺人宗教団体のサティアンで洗脳されちゃった信者どもを嗤えません。んでもGAMIもついツラれて買っちまったぞ、本返すから金返せ〜っ!!(`´#)/