自分の匂いしかない部屋に帰る気にもならなくて、駅前のカフェに立ち寄った。彼の部屋のあるマンションはそれなりに駅に近くて、ここから毎日会社に通っているだろうことは想像に難くない。
普段使いもしないライターを持ってはいなかったから、店の名前が入ったマッチで煙草に火を点けてみた。上質のコーヒーと煙の匂いは不思議と消し合わず、僕はそれを肺に取り込んだ。
下らない感傷のようで自嘲が浮かぶ。一度だけだと迷いもなくそうしたのに、今更後悔だろうか。あのバーで、少なくとも彼の部屋を訪れる前に別れていたら、そう思いはするけれど何度繰り返してもベッドに雪崩れ込むまで止められそうになかった。
灰を落として、口に銜える。彼のそれだけの動作を思い浮かべれば、その指に、唇に欲情していたことが思い出された。必然だったのだろう。彼に付き合っている女性がいなかったのも、僕の隣の席が空いていたのも、そこに彼が座ったのも。
そうでなければ酷い罠だ。終電を逃してタクシーに相乗りしたことさえも、狙い澄まされたようだったのに。
気付けば煙草はただの灰になって灰皿に横たわっている。手をつけなかったコーヒーを残して、席を立った。
電車に揺られて窓の外を見ながら、思考は全て向こうに持っていかれていた。手の平の大きさ、睫毛の色、その向こうの眼球が情欲に濡れる様、身の内を犯す彼の、熱と。
「…………」
ガラスに額をぶつける。きっと今のは顔に出てしまっていただろう。昨日溜まったものは吐き出したはずなのに、まだ足りなかったのだろうか。目を閉じないままにも思い出してしまうのは、それだけ感覚が体に残っているからだ。
いっそ、体の関係を続けてしまえばいいのかもしれない。だって、あんな抱かれ方をすればもう彼でなければ満足できなくなる。
苛烈なまでに僕を乱して、熱に浮かれた声で名前を呼んで。
効きすぎなくらいの冷房が、今はありがたかった。