「っと、悪ィ」
 すぐに、手は離された。彼自身距離の取り方に惑っているような、そんな態度だ。無理もない。覚えていないとはいえ状況で何があったかは察しているだろう。その相手が、特に親しかったわけでもない僕ともあれば、どう接するかなどは測りかねるはずだ。
 僕はそれにどうするわけでもない。態度も変えない、昨日のことについては何も話さない。一夜のこととして彼が忘れるのならそれで良かった。
「じゃあ、僕は帰るよ」
 立ち上がろうとしたその時、不意に手を、いや袖を引かれた。
「なに…」
「悪ィ」
 何の話かわからずに、多分僕は間抜けな顔をしていただろう。けれど彼の方はいたって真剣で、ようやく納得がいった。
「気にしてるの」
 肩が揺れる。まったく、馬鹿正直だ。そのまま帰してなかったことにすればいいのに。
「俺の、せいだろ。昨日のことはあんまり覚えてねぇけど、俺の部屋だし、それに……」
 彼の言葉に、ああやはり覚えてはなかったのか、と安堵した自分に気付く。彼が忘れていた方が都合が良い、そういうことか。
「犬に咬まれたと思えば良いよ」
 やんわりと手を解いて、立ち上がる。もうここにいる理由などないし、問答など必要ない。酒の上で寝ることくらい、今まで誰かとあったでしょ。
「馬鹿野郎、犬に噛まれたら大怪我すんじゃねぇか」
「だから、君は気にしなくて良いって言ってるんだよ。まさか自分が酔って襲ったって思ってるの」
「──っ!」
 ほんとうに馬鹿正直だ。男と一晩過ごしたなんて、彼には不都合でしかないだろうに。ましてや男相手に責任を取る必要だってないんだから。
「僕が、君に一服盛って襲った、とは考えないの」
「な…!」
 考えてもいない、という顔だ。それはそうだろうけど。
「……そうする、理由がねぇだろ」
「僕が同姓愛者で、独り身の君が都合が良かった。それで十分でしょ」
 信じるも信じないも君次第だと振れば、ほら考え込んでしまう。なかったことにすればいいのに、どうしてもと気にするからそんな無駄なことをする羽目になるのに。
「マジ、か?」
「さぁね。面倒だから忘れなよ」
 目の前を立ち去っても彼はそれ以上追っては来なかった。代わりに、彼の猫が足元に擦り寄ってきた。随分なつかれたようだけど、もう僕はここにこないのにね。
「じゃあね」
 次に会うときは同僚として。
 興味もなかった煙草を一箱、買って帰ってみるなんて気まぐれだ。