大人獄ヒバ リーマンパラレル
リーマン獄ヒバ(仮)
ひとつ年上の雲雀恭弥とは、社内での接点はなかった。ただ、相当な切れ者だという噂と、歳の割に早い出世をしている、ということだけは知っていた。まぁ、うちの社の常識的な感じでよく話題に出るからでもあるし、本人がやけに目立つせいもある。
セットをしているのか問いただしたくなるような、けれど清潔感のある長さに保たれている黒髪。それと同じ色の目、いつも変わらない、漆黒のスーツ。能力主義で自由な社風の中では、逆に雲雀の格好は目につくわけだ。
そうして一方的に知っているだけの相手だと思っていたのだけれど。
飲み屋で顔を見たのは初めてじゃなかった。同僚と仕事帰りに寄った店のカウンターに一人で座っている雲雀を何度か目撃していたし、店を出る時に擦れ違ったこともある。まぁ、相手にとっては俺はどこにでもいるサラリーマンにしか見えてないだろう。そう、思っていた。
「これ、君の?」
行きつけの飲み屋で会計を待っているときのことだ。声を掛けられて振り返れば、目の前に雲雀恭弥が立っていた。差し出されているのは、見覚えのあるカードケースだ。
「……どうも」
財布を出したときに落としたのか、そう考えながら受け取ると、雲雀は用が済んだからだろう、そのまま立ち去ろうとする。
「ありがと、な」
背中に向けて言うと、立ち止まりもせずに見えなくなった。聞こえていないわけではないだろうに、無愛想なやつだと自分のことを棚に上げてそのときは思っていた。
その雲雀が、今再び目の前に立っている。
飲みの約束をしていた同僚がドタキャンで、早い時間にマンションに帰ってもどうせ気まぐれな飼い猫に餌をねだられるだけだしと、仕方なく一人で飲みに来たいつもの店。カウンターは満席かと思えば、端に座る雲雀の隣だけが不自然に空いていた。
「ここは誰かの予約席か?」
彼が誰かと飲んでいるところを見たこともないからこそ、否定されるのを予想した言葉が出た。独り者同士なら邪魔にもならないだろう、そういうつもりでだ。
「別に」
視線を向けられたわけでもないことに安心する。
そのまま隣の席を埋めて、グラスを傾けながら他愛もない話をしていたはず、だった。それが──
「間抜け面、早くしないと遅刻するよ」
シャツを羽織る首筋に、幾つも紅い痕が見えた。
「……ヒバリ?」
状況が徐々に頭に入ってくる。ここは、俺のマンションに間違いない。俺はそのベッドで寝ていて、雲雀が目の前でシャツのボタンを留めている。時計は、
「七時?!」
五分で出なければ電車に乗り遅れる。慌てて布団から飛び出せば、全裸だった。男同士だからどうってことはない、とは思うけれど咄嗟にシーツを巻き付けてもう一度時間を確かめる。
「……土曜じゃねぇか」
昨日は金曜だから、と飲みに出たんだということを思い出して、失態を晒した恥ずかしさに顔に熱が上がる。畜生、寝起き頭に遅刻なんてワードを叩き込むなんて、絶対わざとだろう。
「て、なんでてめぇが家にいるんだよ」
思い返してみても、記憶が途切れている。それほど飲んだのか、それすらもわからない。というか、いくら隣で飲んでいたからといって泊めるほどしたしくなった覚えはない。
「忘れたの」
ふぅん、と雲雀の態度はあっさりしたものだ。見れば、シャワーを浴びた後らしく髪が濡れている。
「僕のことは?」
「雲雀恭弥、だろ。昨日飲んだし…つか、俺のこと知ってんのか? 同じ会社の……」
名乗ったわけではない、はずだ。少なくとも最初の記憶にはない。
「知ってるよ。獄寺隼人、でしょ」
雲雀が、唇の端を上げた。シャツのポケットから一枚の名刺を引き抜いて、口にくわえて見せる。
床に落ちているネクタイを拾って、慣れた手付きで結んでいる。名刺を、唇に挟んだまま。
カリカリとドアを引っ掻く音に、我に返る。いま、何か思い出し掛けたものは霧散してしまった。
「瓜、引っ掻くなっつってんだろ!」
雲雀がドアを開けると、その足元に飼い猫が擦り寄る。いつも俺にはなつかないくせに、その態度の差はなんだ。
「この子、瓜って言うんだ」
「随分なついてるじゃねぇか」
抱き上げられても逃げるどころか居心地良さそうにしていやがる。
「さっき餌をあげたからね」
なるほど。俺だって毎日餌やってんだけどな。