その歪みの裏側に

 

 

 風紀委員の執務室。やたら豪華な椅子に腰かけて、雲雀は俺の方を見もせずに書類に鉛筆を走らせている。それを飽きもせず眺めている俺も俺だが、気にもせずに無視してるこいつは相変わらず良い根性している。

 かれこれ一時間もこうしていると気付いたのはさっきのことだ。誰かに暇かと言われたらそうだと答えるが、案外退屈ではなかった。

 長い睫毛と、それに掛かる柔らかい前髪が俯きがちな顔に陰を落として妙に色っぽい。引き締められた紅い唇は、一度開けば顔に似合わぬ憎まれ口を叩くが、黙っていれば濡れたように艶めく姿でまるで誘うようだ。

 さりさりと、紙の上を鉛筆が擦る音だけが響く部屋の中で、自分の呼吸の音がいやに耳に付く。手には自分で煎れた美味くもないコーヒーが半分ほど残っているカップがあるが、存在を忘れて久しかった。
 ただ動けずに眺めていると、白い指の動きが止まり、風紀専用鉛筆が机に投げ出される。
 ふぅ、と一息を吐いて軽く伸びをした次の瞬間、その空いたはずの右手にはすらりとトンファーが握られていた。

「……ッ!」

 とっさの防衛本能で体が動く。何かした覚えはないが、雲雀の機嫌が悪ければ一瞬で血の海に沈められる。

「……?」

 身構えたが、幾多の血を吸ったトンファーは俺には振り下ろされず、とんとんと雲雀の肩を叩いている。

「……おい」

 そりゃねぇだろとツッコミを入れそうになり辛うじて踏み止まった。しかし、口をついて出た言葉は止められない。

「何?」

 初めて視線がこちらに向けられる。ただそれだけのことなのに、背筋は強張り、体は身構えた。

「いや……肩、凝ってんのかよ?」

 何事もない振りをして無難な問いを投げ掛けるが、ふいと視線が外される。

「別に。疲れただけ」

 図星だ、と何故か確証があった。普段肩を怒らせて学ランを掛けているくせに肩凝りに悩まされているとは、弱味を握ったみたいで面白い。

「揉んでやろうか?」

 すっかり冷たいカップをローテーブルに置き、座り心地のやたら良いソファから立ち上がる。

「いらない」

「遠慮すんなって、俺得意なんだぜ?」

 背後に回り、トンファーで打ち倒されないことにこっそり安堵しながらも、肩に手を掛ける。

「いらないって言ってるでしょ」

 そう言いながらも抵抗を見せないことを許可と取って、軽く力を入れて揉み始める。

 肩、細せぇー…

 手の内にすっかり収まってしまう薄い肩に驚きながらも揉んでみれば、なるほど案外凝っている。

「血行悪ィのな」

 自分とは違い冷たい体温は、揉んでいる手の温度が伝わってかゆっくり温まり始める。

「煩いよ」

 嫌そうな顔をしていたこいつも、目を閉じてすっかりおとなしくしている。

「風紀委員のくせに書類ばっかり書いてるからこうなるんだぜ?」

 力の抜けたうなじを見つめたままの沈黙には耐えられそうもなく、軽口はやめられない。

「校則違反をするやつがいなくなれば量は減るよ」

「そりゃ大変だな」

 爆弾を踏まないように適当に相槌を打ち、首筋に手を掛ける。

「ん」

 ぴくりと肩が動き、反則物の声を出す。

「おい、くすぐったいとか言うんじゃねぇぞ」

 一気に上がった心拍数を気取られない間に首の筋をほぐしていく。髪に指を差し込めば、その意外なほどの柔らかさに驚いた。

「ねぇ、どこまでする気?」

 不機嫌では無さそうな甘い声に、悪戯心が思わずうずく。

「どこまででもいいけどよ、マジにやるならソファに移らねぇか?この椅子背もたれが邪魔なんだよ」

「いいよ」

 あっさり返事を貰い、するりと手を抜け出してソファに向かう後ろ姿をぼんやりと目で追う。

「……しないの?」

 はっと気付けばソファにふんぞり返る風紀委員長様がこっちを睨んでいた。
 いまいちわかりにくいが、俺の肩揉みはお気に召したってことか?

「待ってろよ」

 余裕ぶってソファの横に回り、背凭れから背中を引き寄せてこちらを向かせる。あらためて見ると、白いシャツ一枚に覆われた体は筋肉すらついてないような細さで、この体のどこからあんな力が出ているのか不思議でたまらない。

「背中も凝ってんな……」

 あくまでもマッサージだと自分に言い聞かせて、背中をそっと撫でる。

「……っ」

 触れ方がまずかったのか、油断しきっていた体が一気に強張る。この敏感さがあの反射神経の元なのかと感心するが、体をほぐすのにこんなに力が入っていてはやり辛い。

「力抜けよ」

 背骨に沿って親指で押していくと、次第に力が抜けていくのがわかる、が。

「……ん、…っ」

 そっちは油断しなくていい!と心の中で叫ぶものの、迂濶なことは言えはしない。欲情しました、なんて白状したら俺に明日は来ないだろう。

「はぁ……」

 ほぐれてきて気持ち良いのはわかるが、吐息を出すな!

「そこ、痛い」

「凝ってるから痛いんだよ」

 わざとぐりぐり押してやれば、我慢するような表情の横顔が見える。つくづく、自覚がないというのは恐ろしい。こっちに変な下心はなかったというのに、これ幸いとあらぬことまで致してしまいそうになる。

「……っ」

 それでも、痛みに耐えながらぎゅっと手を握る仕草や、目を閉じて眉を寄せる姿はいつもの雲雀とは違いすぎて、たかが肩揉みでこんなことになるのなら、実際行為に及んだら案外簡単に堕ちるんじゃないかと妄想は膨らむ。

 今この手の下にある細い体は、余分な肉もなく柔軟な筋肉が最低限しか付いていないように見える。こいつの強さの秘密は、肉体じゃなく精神的なものが根底にあるのだろうか。負けん気の強さ、なんてものであれほど強くなれるものだろうかと思うが、事実として並盛最強の男なのだからその点に関しては疑いようはない。しかし、それを素直に認められるほどには俺は大人ではなかった。

「生意気……」

 ぽつりと言葉が出る。それを聞いてか聞かずか、目の前の背中に反応はなかった。

「くそっ」

 苛立ちをぶつけるように力を入れれば、トンファーを手にした腕に振り払われた。

「真面目にやらないと咬み殺すよ」

「……マジ?」

 思いもよらぬことを言われ、間抜けな声が出た。
 真面目にって、確かに今のはちょっとやつ当たり入ってたが、まさかそんなことを言われてしまうとは。

「おうよ」

 神妙な顔を作ってみせるが、納得したのか雲雀がまた背中を向けると、口元の緩みが押さえられない。
 肩揉みひとつでこれほどまでにこいつのいろんな面が見れるとは、肩揉みも侮り難い。

「……」

 互いに沈黙が積もる。俺自身引き際を見極められず、雲雀が何を考えてるかなんて想像もつかなかった。ただ、事実として今俺はこいつに身を委ねられている。気まぐれだとか、高飛車だとか、気質をわかっていても、わかっているからこそ気持ちが揺らいだ。

 別に、こんな奴のことは何とも思ってないはずだった。逆に嫌な奴だと思っていたし、こいつもきっとそうだろうと思っていた。だが、こいつにとっては校則違反が嫌いなだけで、本当は俺なんか気にも止めてやいないんじゃないか。

 それに気付いたとき、胸の奥がすっと冷たくなるのを感じた。
 思い上がりとか自惚れとかそんなんじゃねぇ、だけど、俺だけが特別な何かじゃないと納得できなかった。

 一線を、踏み越えるのは俺だけだと、思いたかった。

「……何」

 襟首を引いて仰向けに倒し、その意外な軽さに戸惑いながらも、膝に乗せた雲雀の頭を指で撫でる。
 不機嫌そうな目の細め方とは違う、無防備な表情。堪らず、制服の襟に手を掛けた。
 合わされる瞳は咎めるようなそぶりも見せず、じっとこちらを見ている。

「……何だよ」

 気恥ずかしさもあり、誤魔化すように問い返す。それに合点がいったのか、雲雀が表情を変える。

「いいよ」