「名前」
憂鬱な午後。僕はいつものように応接室にいる。そこに君がいるのも最近は良くある光景で、だからといって何かするわけでもなく二人して黙り込んでいた。
「隼人」
沈黙を破ったのは僕。意味はないけれど、浮かんだ名前を呼んだだけ。
…そんな見てはいけないものを見てしまった、て顔しないでくれる?不愉快だよ。
「な…なんだよ、いきなり」
動揺で声が上擦ってるよ。自覚はないのかな。
「何でも」
僕が良からぬことを企んでるとでも思った?綺麗な翠の瞳に脅えの彩が見える。
「そうかよ」
すぐ横を向いてしまって、少しつまらない。喧嘩腰の時は意地でも目を逸らさないのに。
そうか、その気にさせればいいんだ。
「怖いの?」
「な…ッ誰がだ!」
ようやくこっち向いたね。その噛みつくような眼差しが堪らないよ。
「視線を外すのは負け犬でしょ」
「俺がいつてめーに負けたって?!」
負けん気の強い君だけど、吠え掛かる子犬さながらだよね。
「いつも」
「負けてねぇッ!!」
今日は喧嘩するつもりじゃないから、ダイナマイトは禁止。取り上げて投げ捨てたら窓の外で爆発したけど、君が来てからはそんなのは日常茶飯事だからもう誰も気にしないと思う。
「…くそッ!」
「隼人」
懲りずに第二波を用意する前に、名前を呼んでみる。
「――ッ」
あ、取り落とした中に一本だけ火の付いたのがある。
このまま君と爆死というわけにもね。靴で踏み消せばそれでおしまい。同じように火が消えてしまった君は、僕の前でどうしようか困ってる。そんなの、したいようにすればいいのに。
ゆらゆらと不安げに揺れる翠と、射し込む太陽の光できらきらと光る銀の髪が、たまらなく綺麗だと思う。
不意のノックの音に、びくりと反応したのは君の方。部屋の主は僕なのに。
「…すいません…」
小さく聞こえてきたのは、彼の心酔する草食動物の声。
「10代目?!」
ほら、急いで開けに行った。
「あ…獄寺君、やっぱりここにいたんだ。爆発音がしたからまたヒバリさんと喧嘩してるのかと思ってさ」
「平気っス、何でもないっスから!今終わったとこなんで、一緒に教室に戻りましょうか!」
終わってない。何を勝手に決めてるの。
「え、でも…」
肩越しに視線を送るだけで、君の主は理解したみたいだね。それなのに君は、ここから逃げたい一心で、僕の機嫌を悪化させてることに気付いてない。
「隼人」
君の名を呼ぶのは、今日三度目。力関係を理解させるために、できるだけ優しく呼んであげる。
本当は僕がここまでしてあげる理由はないけれど、きっと君が嫌がるだろうから。
「――ッ!!」
「悪いけど、まだ用があるから」
「あ、はい。お邪魔しました!」
硬直した君の肩に手を回してそう言うだけで、あの子はちゃんと理解したようだ。目の前で閉められたドアに君が何を感じたのか、想像するだけで笑みが浮かんだ。
「てめぇ…」
手を置いた肩が震えてる。感情は、僕への怒りに変えたようだね。
「10代目が変に思うだろうが!!」
振り向いた顔は真っ赤で、眉間に皺を寄せて睨んできても少しも迫力はない。
「僕には関係ないよ」
ドアに両手をついて閉じ込めてしまえば、君に逃げ場はない。
「大ありだ!てめぇが変なこと言うから、10代目が誤解すんだろうが!」
「大声出さなくても聞こえてるよ」
虚勢を張る君は嫌いじゃないけど、この距離ではさすがに耳が痛い。
「……っ」
途端に黙る、素直な君。たまには良い子だね。
「で、どう誤解されるの」
「…俺とお前が仲良いみたいで、変だろ」
顔、病気じゃないかってくらい赤いけど。毎日ってくらいに応接室に来てサボっているくせに、何を言ってるんだろうか。
「そうだね、君はここに喧嘩しにきてることにしようか。帰る前に痛めつけてあげるから、それでいいね」
「なんでわざわざ痛めつけられなきゃなんねぇんだよ!」
「だって君、弱いから」
言い訳が必要なら誤魔化しも必要だと思うけど、そんなのは適当な理由で、本当は僕が君で遊びたいだけだ。
「弱くねぇ!」
帰る、と言い出せないのはこの空間から逃げ出せないせいかな。話がずれていってることにも気付かないようだけど。
「仲良いって思われたくないんでしょ」
指摘にはっとして、また眉を寄せる。唸り声さえ聞こえてきそうだ。
「てめぇが、余計なことしなきゃいいんだ」
「名前呼んだのは失敗だったよ。切札にするべきだった」
もっと、絶望的な状況で、言い逃れ出来ないように仕組んで使うべき言葉。
「わけわかんねぇこと言ってんな、塞ぐぞ!」
言うが早いか、君の唇に僕の口は塞がれて、甘い感触に酔わされる。君はしっかりと目を閉じてしまっていて、逃げの体勢だね。気分は悪くないからいいけど。
「……ん…」
絡められる舌を受け入れて、自分の舌と触れ合わせる。何度かかわしていると、焦れたように後頭部に回された手が引き寄せてきた。
がちゃんと、鈍い音。君が後ろ手に鍵を締めたらしい。
それを合図にしたように、口付けはより深くなり、主導権を奪い合うように口内を探り合った。
「…なぁ、ソファ行かねぇ?」
常になく積極的な君の言葉に僕がどう返事したかは覚えていない。気付いたときには二人ソファの上で濡れた唇を重ね合っていた。 確かに君と僕は仲は良くないけど、体の相性は悪くないと思う。これだけひとつのものに触れていて飽きないなんて、今までの僕にはなかったことだ。
「欲情、したの」
「…うるせぇ」
焦るようにシャツをたくし上げられ、骨張った指と指輪の感触が肌を這う。くすぐったさは次第にむず痒いような感覚に変わり、熱い手の平が撫でるほどに火を点すのだ。
「あの子も、こんなことしてるとは気付いてないと思うけど」
「10代目は初な方なんだから、変なこと吹き込むんじゃねぇぞ」
白い首筋が側にあったから、つい痕を残した。少し吸っただけで紅くなったそれは、数日は消えないだろう。
「君と僕がしてることを知ったら、卒倒するかもね」
他人がどう思うかなんて僕にはどうでもいいことだけど、君はたった一人に知られることを酷く恐れ、そのために誰にも知られないように隠れられる場所を探した。
その点、この応接室は余程のことがなければ人の来ない安全な場所で、君にとってはいろいろと都合が良いらしい。
「おめーが変なことしなきゃバレねぇはずだ」
「どうかな。君は馬鹿だからね」
「馬鹿にすんな」
鎖骨にがりと音を立てて歯が食い込む。これくらいの痛みはなんともないけれど、体が反応するのは仕方ない。
「隠し事をしてる後ろめたさはあるくせに」
わざと煽れば、すぐに燃え広がる。君はわかりやすく、そしてあたたかい。
「……ッ」
見ない振りをしていることは知ってる。だから、振り向かせて、気付かせて。その、絶望を噛み締めた顔が綺麗だと思う。
それでも君は、抜け出せない。孤独の味を知っているから、日の当たらない路を歩いていたから、眩しさに目を背け、闇に沈んでしまいたい衝動を持っている。弱いから、同じ匂いがする僕を利用してでも、繊細な精神の均衡を保たなければならない。
僕は、自分を餌にして君をこちら側へ繋ぐ。
逃げられないように。逃がさないように。
君は、気付いてはいない。