君の名前と手の大きさ
ふと、遠くからピアノの音が聞こえた。学校では到底習わないようなその曲は、誰かが粋狂で弾いているのだろう。窓を開けるとよりはっきり聞こえてきた。
迷いのない音の流れ、指の運び。心当たりは一人しかいない。
青空に響く澄んだ音は、邪魔するものもなく心地良さそうだった。
まだ白い書類に目を戻して、僕はひとつだけ息を吐いた。
「ヒバリー」
程なくして、応接室のドアを躊躇いなく開けたのは彼だった。
「なに」
冷たい視線を向けても悪びれず、ソファに腰を下ろす。
「コーヒー飲みてぇ」
「授業サボってピアノ弾いて、今度は応接室に珈琲を飲みに来たの、君」
ぎくり、と引き攣った顔を見て、何となくあった感情が緩和されていく気がした。
「何でわかった?」
「本当に君だったんだ」
書類の横にペンを置き、腰を上げる。どうせ自分のついでだし、たまには構わない。
「な…ッ!鎌かけたのかよ」
ころころと表情が変わる。そんなだから遊ばれるって自覚はないらしいね。
「他に誰がいるの」
流れるように、泳ぐように。あんな弾き方をするのは君しかいない。
「知らねぇよ」
反らした視線が開いた窓を捉えて何か納得したようだけど、それは僕の仕掛けた嘘。開いていたから聞こえたわけじゃない。君に本当のことを教える気はないけれど。
濃いめに淹れた珈琲に、クリームふたつと砂糖をひとつ。大人ぶってブラックにしたがる君への嫌がらせのつもりだったけれど、意外に気に入ってることに僕は気付いていた。
「ほら」
「悪ぃな」
差し出した手にカップを渡すと、代わりに笑顔を寄越してくる。そんな顔、いつもしないくせに。
向かいのソファで僕も休憩を取る。ゆっくり珈琲を飲む時間くらいはある。机の上に積まれた書類に視線を投げ、湯気に紛れてため息を吐いた。
「ヒバリが淹れた方がうまいよな」
「君が下手なだけだよ」
一度見たとき余りの大雑把さに呆れるのを通り越して絶望した覚えがある。同じ手であの繊細な旋律を生み出しているとは思えない。
「飲めりゃいいんだよ」
なにそれ。人に淹れさせておきながら、無神経なやつ。
「自分で上手くできなくても、美味いの飲みたきゃヒバリにいれてもらえばいいからな」
「…甘えないで」
気紛れにしか飲ませてないのに当てにされても困る。それに、こいつはすぐ調子に乗るから甘やかさない方が良い。
「いいじゃねぇか。年下には優しくしろよ」
「年上は皆敵なんじゃないの」
「何で知ってんだよ!」
たまに校内で見掛ける草食動物が話してるのを聞いただけなのに、秘密を知られたみたいに慌てるのもどうなの。
「さぁね」
何を疑ってるのかは知らないけど、じっと睨まれても僕に後ろめたいことはないし、気にしない。僕がわざわざ君のことを聞き出してるわけじゃないんだ。
「…ちっ」
それ以上の追求を諦めたようで君が舌打ちをするのが聞こえた。僕の視線はただ、カップの中の水面に落とされている。
手の中の珈琲が冷めるまで、ほんの少しの休憩。誰がそこにいても、何も変わりはない。けれど、この無神経な侵入者は僕の時間を邪魔することを厭わず、図々しくも二人掛けのソファの一角を占拠していた。
「書類、まだ終わんねーのか?」
「まだだよ」
いま手を掛けてるのが終わっても、次がある。切りが良いところで今日は終わるつもりだけど、また明日には新しい書類が増えているはずだ。
「めんどくせーな、委員会って」
「僕が好きでやってることだよ。君には関係ない」
何のことはない一言が、妙に勘に触った。カップの中の珈琲が、僕の心のように揺らめいて波立つ。
「そーだけどよ…」
授業には出たくない、でも独りでいたくない君が都合良く選んだのがここで、僕に構って貰えるとでも思ったのか、珈琲まで要求して。本当なら、僕がそこまでする理由はない。
「出ていって」
「あ?」
発した声は思いのほか低く、聞き取れなかったのか君が顔を寄せる。間抜け面。むかつく。
「出てけって言ったんだよ。聞こえなかったの」
カップを乱暴に置き、ソファから立ってトンファーを構えると顔色が変わる。咄嗟に立ち上がって体勢を整えるあたり、僕に殴られ慣れてるだけのことはあるね。でも、容赦はしない。
「聞こえなかったの」
ローテーブル越しに一閃すれば、カップを右手に持ったまま逃げられる。
「待て、ヒバリ!何だよいきなり」
「休憩は終わりだよ」
「てめぇコーヒーに口つけてもいねぇじゃねぇか!」
零さないように気を付けてるのは感心だけど、それより自分の心配をした方が良いのに。
「だから何」
右手のトンファーを確かめるように振りながら、一歩近付く。
「忙しいのはわかるけどよ、たまにはゆっくりしろって言ってんだよ!」
馬鹿みたいに的外れなことを言って、訳がわからないね、君は。
「それで?」
問答が馬鹿らしくなって、右手を下ろせば君は安心したのか息を吐く。僕がその気になればこんな間合いは一瞬で縮められるのに油断しすぎだよ。
「俺がいるのが嫌ならこっから出てく。けどな、おめーはちゃんとコーヒー飲んで休憩しろってことだよ」
何それ。ふざけてるの?僕の苛立ちの原因なんてわかってもいないくせに。
「僕がいつ休もうと僕の勝手だよ」
下らない。咬み殺してしまえばこんな会話は終わる。
「…ヒバリ」
なんて目で見るの。君らしくもない。
「うるさい。咬み殺すよ」
「やってみろよ」
弱いくせに、生意気に僕の間合いに踏み込んでくる。
むかつく。
トンファーを握る右手に力を込めた。動いたら、一瞬で終わる。
「調子に乗らないで」
至近距離まで伸びてきた左手を右のトンファーで弾き、返す手で側頭部を殴りつけた。あっけなく吹き飛ぶ体と、飛び散る液体。部屋の中が珈琲の匂いに支配される。
「ってー…」
手加減はしたせいか、すぐに起き上がってくる君に構わず、僕はデスクに戻った。今日中に片付けないとならない書類がまだある。
「ホントに殴る馬鹿がいるかよ…くそ、コーヒー勿体ねぇだろ」
床に転がったカップは割れずに済んだらしい。けれどその中身は全て床に広がっている。
「そこ、片付けておいて」
「てめーなぁ、殴んにしたって後先考えろよ」
悪態を吐く君を一瞥だけして、視線は書類に戻る。僕だって考えていないわけじゃない。だから、君が起きないような殴り方はしなかったんだ。
「ったく…」
雑巾何処だ、などと呟いて頭を押さえながらうろつく君を視界から外して、僕は書類に集中することにした。