「コーヒー、飲まねぇのか」
ローテーブルに置かれたカップを持ち上げて問われ、そんなものがあったことを僕は思い出した。何かむかつく対象を見ると他のことを忘れてしまう癖は、自分でもどうかと思う。
「いらない」
「…なら俺が貰うからな」
彼が床を拭いている間に冷めたであろう珈琲を、躊躇いなく飲んでいる様に呆れた。紅茶はぬるめ、珈琲は熱い方が美味いんだ、などとこの僕相手に講釈を垂れたことがあるくせに、いい加減な味覚なのは相変わらずだね。
換気のためか窓をさらに大きく開けて、カップを片手に外でも眺めているのだろうか、僕の背後から動く気配がない。
書類に集中できないまま、僕は惰性で鉛筆を走らせていた。
「字、綺麗だよな」
何の話かと思って振り向けば、窓枠に腰を預けた彼は外ではなくこちらを見ていたようで。
「なに」
独り言にしては大きい声に、一応問い返す。
「ヒバリが」
会話として成り立つかどうかといったくらいに簡略化された答えに溜め息が出る。どうやら深い意味はない言葉だったらしい。それ以上の意味を汲み取ることはできず、仕方なく話の火種を作った。
「君はどうなの」
帰国子女、とは聞いていたけれど、彼の日本語は乱暴ながらも淀みはない。ただ、無駄に成績の良い彼が語学にも精通している可能性はないわけではないから、知識として日本語を得たのか、日本語に馴染みのある生活をしていたのかは計れなかった。
「俺は…普通だぜ」
表情でわかる。得意なものを語る生き生きとした目ではない。ふと、悪戯のように興味が湧いた。
「見せてよ」
一枚のメモ用紙と、鉛筆を傍らに置いてみせる。嫌そうな、躊躇うような様子がおかしい。
「…わかったよ」
書きかけの書類の上に無造作に空のカップが置かれ、それを避けている間に横から手を伸ばして紙に何かを書いたようだった。
投げ出された鉛筆の隣を見れば、思った以上に乱暴でいびつな文字。それよりも。
「何で僕の名前なの」
「綺麗なお手本があったからな」
彼の指差す書類には、『風紀委員長 雲雀恭弥』の署名。手本がなければ書けないわけでもないだろうに、何を言うのか。
「見て、これなわけ」
呆れるくらい差があるそれに、苦笑が浮かぶ。
「うっせぇよ!読めりゃいいんだって」
「ふぅん、だったらもっと書いて見せてよ。お手本書いてあげるから」
彼の書いた名前の隣に、『獄寺隼人』と書いてみせる。自分の名前くらい満足に書けると思うけれど。
「……っ」
鉛筆を手渡しても、固まったまま書こうとはしない。
「君、ちゃんと授業受けて、ノートを取った方が良いよ。特に国語」
皮肉を言えば、赤い顔で僕を睨んでくる。反論はできないだろう。字は書かないと上手くならないんだから。
「イタリア語なら得意なんだよ」
誤魔化すように言って、紙の空いていた上部に鉛筆を走らせる。確かに、漢字を書くときのぎこちなさとは違って、滑るように指が動いている。まるで、ピアノに触れているときのように。
君の手は不思議だね。器用かと思えば不器用で、ひとつとして同じ表情はない。それはまるで君を表しているよう。
「文句ねぇだろ」
綺麗な筆記体で書かれた短文を見せられ、僕は眉を顰めた。
「…君、僕がイタリア語読めないとでも思った?」
「げ、読めんのかよ」
慌てて隠そうとする手から紙を取り上げ、改めて目を通す。
君の字の、僕の名前。隣には僕の書いた君の名前。
そしてその上には、『貴方を愛しています』と言う意味のイタリア語。
「馬鹿にしないで」
紙を置き、右手にトンファーを握る。
「待て、深い意味はねぇって!」
不穏な気配を察した君が後ずさっても、もう遅い。僕は不愉快な悪戯を企んだ君を咬み殺すと決めたから。
「ふぅん。それで?」
「落ち着け!」
言い訳を聞くまでもない。今日一撃を食らわせた同じ場所を狙って、もう一度トンファーを振り下ろした。
「う…」
外の光がが夕方に差し掛かった頃。ソファの方から呻き声がする。容赦なく打ち倒して転がしておいた彼が目を覚ましたらしい。
「…あれ…?」
状況が理解できないのか、間の抜けた声を出している。そのまま記憶も飛ばしてしまえば良いのに。
「…げ」
僕のいる方を見てようやく現状を把握したらしく、引き攣った顔をして心底嫌そうな声をあげた。さっきのは自業自得だというのに、失礼な。
そんな彼を見ようとはせずに、時間ばかり掛かった書類を見直し、一息ついた。
「やべ…こんな時間かよ」
午後の授業が終わってもう大分経つ。部活のない生徒は帰っている時間だ。
「……10代目!すいません、明日は朝迎えに行きますんで!…俺?何もないっスよ。じゃあ、また明日!」
慌ただしい電話の相手はあの草食動物。声を聞いてなかったとしても、顔を見れば分かる。犬みたいに無邪気に尻尾を振る君は、携帯を閉じた後の顔とは全然違う。僕に対してはいつも、眉間に皺を寄せて、もの言いたげな顔で睨むように見てくる。
「…ヒバリ」
僕の相手は電話の後?良い度胸だね。
「……悪かったな」
聞こえない振りをしているわけじゃない。ただ、終わった書類を片付けて帰るだけ。
「ッ…待てよ!」
ドアを開ける前に肩を掴まれた。強引にそのまま引き寄せられ、視界が揺れる。
「何の用?」
「…さっきのことだよ」
言いにくそうにするなら言わなければ良いのに。そうすれば僕もなかったことにして忘れられる。
「悪かった」
灰緑の瞳が不安そうに色を曇らせている。落ち着かないのは僕の方だというのに。
「なにが」
両肩を掴む手は熱く、身の丈に反して広い。ピアノを弾くには適しているんだろうけど、手が大きいと将来背が伸びると聞いたことがある。杞憂にしろ、むかつくことに変わりはない。
「へんなこと、書いただろ、俺…」
自覚はあるんだ。だったら、最初から馬鹿なことはしなければいいのに。
イライラする。こいつが気が付く前に帰れば良かった。そうすればこんなことに煩わされずに済んだ。
「ヒバリ…」
「うるさい。触らないで」
両手から逃れるように体を引くと、逆にその腕の中に抱き寄せられる。
「悪ぃ」
声が、耳元に小さく触れる。
僕を苛立たせるのはいつもこいつだというのに、何故僕はこの腕を払わないんだろう。
幾分か僕より低い頭が肩に預けられて、髪を、長い指が撫でるのを感じた。猫か何かのように、何度も。
「また、馬鹿なことをしたら咬み殺すよ」
「…肝に命じておきます」
何に怒っていたのかわからないなら、それが治まる理由もわからなかった。ただ、夕暮れに沈む部屋が闇に落ちる前に帰ることは難しいかもしれないと頭の片隅で感じていた。
「…お前、俺の名前書けるんだな」
ぽつりと零す声に苦笑が浮かぶ。
「君の名前は、毎日違反者報告書に上がってるからね」
「それでかよ!…ったく、風紀委員長様は仕事熱心だよな」
毒づく声は子供のようにわかりやすく拗ねていて、僕は笑みを深くする。
たまに名前で呼んでやるから反応が面白いのに。
「君は、知ってたの」
「お前は何かってぇと、並盛の最凶最悪風紀委員長雲雀恭弥様って呼ばれてたからな。長いフルネームだぜ」
「それ、つまらないよ」
呆れた振りをすると、黙り込む。単純な君を見ていて楽しいと思う自分が不思議だった。
「呼んでみて」
「…今、言っただろ」
改めて呼ぶのは恥ずかしいだろう、顔がすでに赤くなってる。
「僕の名前はそんなに長くないでしょ」
「う…」
「ちゃんと言えたらまた珈琲を淹れてあげるよ」
覗き込み、顔を引き寄せる。さぁ、僕の鬱屈した気分は君を弄ぶことで消させて貰おう。
うっかり砂糖入れすぎました!!
名前のくだりは思いついた瞬間からどうよと思ってたけど
文章に起こすとさらにやっちゃった感ありありですな!
雲雀さんがツンデレすぎるよ
ツンばっかりでデレがないくらいでいいと思うよ
むしろ
ツンエロ とか ツンコロ
で いい