PM8:45

 部屋に戻ると、雲雀はソファに座ってなにやら本を読んでいた。近付いても反応はなく、視線を向けてくるわけでもなかった。

「ヒバリ」

 前に立ち、影を作るように屈む。

「なに」

 邪魔をされて不機嫌なのだろう、眉を寄せた雲雀が視線を上げる。

「結局、俺を呼んだ理由はなんなんだよ」

「番犬」

 無表情での返事が憎らしくて、手元の本を取り上げる。抵抗なく指から離れたそれをローテーブルに置き、背もたれに寄りかかった肩の両側に手をついた。

「なんだよ、それ」

 俺の何を必要としているかもわからない言葉が、今は妙に痛かった。

「僕に噛みつくなら、鎖で外に繋ぐよ」

「……やってみろよ。どうせこんなとこ誰もこねぇだろ」

 番犬なんて必要ないだろ、と続く言葉を雲雀は無感動に受け止めたようだった。
 瞳の色にも変わりはなく、漆黒の影を宿すそれが、ふと細められる。

「君に他に価値があるの」

 馬鹿にしたような笑みにかっときて、無理矢理唇を塞いだ。
 結局、耐えられはしなかった。雲雀の我儘にも、苦しいほどの沈黙にも。

「……ッ」

 唇に歯を立てられても構わず口付けを続ける。柔らかい髪に指を差し込んで掻き乱しながら、深く重なるように角度を変える。酸素を奪うような激しさは、自分の意識も白濁させていく。

「ん…っ…」

 唇の隙間から洩れる声を飲み込むように舌を絡め取り、強く吸う。それでも抵抗を見せない雲雀の手を掴み、ソファに押し付けた。

「なんだよ…っ」

 苛立ちが表に出るのも構わず、雲雀を睨み付けた。雲雀は少し紅くなった頬と濡れた唇で、けれど変わらず冷めた瞳をしていた。
 動けなくなる前に、肩に額を押し付けて雲雀を強く抱き締めた。自分でもどうしようもない感情が渦巻いて、言葉にすら出来ない。
 溜め息がこぼれるのを肩口に感じて、背筋が強張る。何も言われないよりは打ち倒される方がましで、その覚悟もしていた。けれどいつまで待ってもトンファーは振り下ろされず、変わりに細い指が髪に触れるのを感じた。軽く後頭部を撫でた手はそのまま後ろ髪を掴んで強く引く。

「い…ってぇ!」

 思わず体を起こし、雲雀から離れる。

「くすぐったい」

 何するんだ、と言い掛けたが、むすっとした雲雀の表情に思わず笑みが浮かんだ。

「悪ぃ」

 誤魔化すように言っても不謹慎な感情はばればれで雲雀の神経を逆撫でするんだろう。それがまたおかしいと言ったら殺されるのは確かだった。

「なんなの、その顔」

「なんでもねぇよ」

 考え込んでいた自分が馬鹿みたいだった。雲雀の態度に変わりはない、それを勝手に解釈して不安になっていたのは俺なんだ。番犬と言ったのも言葉以上の意味なんかなくて、俺はそれ以外の何かである必要はなかった。

「その顔むかつくんだけど」

「へーへー」

 八つ当たりされる前に雲雀の側から退散する。

「コーヒーでもいれるか?」

 俺の提案に雲雀は少し考えて応えた。

「何も壊さないならいれていいよ」

 了承を得て、こっそりと安堵する。コーヒーの湯気が、煙草の煙よりも丁度良い距離を作ってくれることに期待して、雲雀好みの味を模索してみることにした。

 

 

 

 

PM10:00

 ソファで本を読む雲雀の姿を見ていたら、突然本を閉じて立ち上がって何処かに向かう。本は途中だったから次のやつを探しに行った風でもなさそうだった。
 そのまま視線で追っていくと寝室らしき部屋に消え、綺麗に畳まれた服を持って戻ってきた。

「君はどうするの」

 質問の意味が分からずに考えるが、時計を見たらなんとなくわかった。自分は風呂に入るが、俺はどうするのかと聞きたかったらしい。

「俺、着替えないんだけどな」

 ふうん、と返事にもならない応えを返して雲雀はそのままバスルームへと行ってしまう。

「…今日は泊まりか?」

 番犬の役目はまだ続くらしい。まぁ、夜眠れないみたいだから、寝るときもいてやらないとならないんだろう。

「先に言っとけよな…」

 独り言を言っても仕方ないと思うが、こちらの連絡先はわかってるんだから朝の内にでもメールを寄越せばそれなりの支度はしてきた。
 まぁ、雲雀の気まぐれに付き合わされるのは今だけじゃない。そんなところもあいつらしいと思うし、構わない。むしろ聞き分け良くおとなしくなったらそれは雲雀じゃないからな。
 微かにシャワーの音を聞きながら、雲雀が置いていった本を手に取った。興味はないが、そのままざっと目を通していく。あらかたの内容を頭に入れて、手触りの違和感に気付いた。

「あー…」

 裏表紙に学校の名前の入ったシールと、バーコード。表紙は痛まないようにビニールで覆われていた。

「あいつ、いつの間に借りてんだ?」

 確かに図書室なら静かで、あまり群れてる生徒を目にすることもないだろう。応接室にも屋上でもいないとき、授業でも受けてるのかと思ったが、こういうところにいたのかもしれない。

「今度行ってみるか」

 学校の図書室の蔵書などには興味ないが、俺を見掛けたときにきっと見せるであろう雲雀の嫌そうな顔を見たかった。
 ドアの音がする。そろそろ雲雀が風呂からあがったらしい。さて、俺はどうするか。

「君、入れば」

 黒いパジャマ、肩にタオル、濡れた髪に裾から覗く白い素足。湯上がりの雲雀は犯罪的だと思う。
 固まってる俺を気にせず、当の雲雀は冷蔵庫から出した水を飲んでいるようで。

「服は貸すよ」

 俺が動かないのをどう解釈したのか、近くまで歩いてきた雲雀が声を掛けてきた。

「…おう」

 自分の服を貸したときとは違い、ゆったりとした服が余計線の細さを強調していた。

「後で置いておくから」

 雲雀は隣に腰を下ろし、白い喉を仰のかせながら水を飲む。自分ばかり馬鹿みたいに意識してると思うが、それもこれも雲雀が無防備なのが悪い。

「…何」

「なんでもねぇよ」

 視線を咎められるように振り返られ、慌てて立ち上がる。とにかく、風呂に入って余計な思考は洗い流してしまおう。
 と思ったが、バスルームのドアを開けた瞬間にすでに思考は偏っていて、湯を張られたバスタブを見ただけで余計な妄想が頭をよぎる。

「なんなんだ、くそっ」

 頭から湯を浴びて、髪をぐしゃぐしゃに掻き回す。欲求不満ではないと思うのに、変な考えばかりが頭を支配している。髪が吸った水を振り払い、溜め息を吐いた。

「あ」

 手を伸ばしたシャンプーは、雲雀の愛用しているもの。

「しゃーねぇな…」

 泡立てると、あの匂い。気にしないように一気に洗い、湯を被った。

 

 

 

 

PM10:45

「…早すぎ」

 10分もしないうちにあがってきた俺を見て、雲雀が呆れたように言った。

「うるせぇ」

 乾かしてない髪をがしがしと拭いて、雲雀の飲んでいた水を取り上げてあおる。空にして返すと軽く睨まれるが、気にしない。代わりに雲雀の肩に掛かっているタオルを取り上げ、頭に被せる。

「ちったあ乾かせよ」

 優しく拭けば抵抗はない。それをいいことに頭を抱えるようにして、髪に顔を寄せた。

「同じ匂いだな」

 今の自分と、いつもの雲雀。

「…犬みたい」

「誰が犬だ!」

 雲雀の呟きに即座に反応して髪をぐしゃぐしゃすると、自分の首に掛けていたタオルを引かれる。

「君以外誰がいるの」

 覗いた瞳に誘われるように口付けた唇はしっとりと濡れて冷たかった。