PM6:30

「………」

 コップを洗おうとして割っちまったおかげで、俺は雲雀にボコられた上に部屋の隅で正座させられていた。
 すっかり不機嫌になった雲雀はここからは良く見えないが、寝ているんだろうかソファに横になって動きもしない。
 しばらくこのままなのかもしれないが、すでに足が痺れてやばい。だが動こうものならさらに厳しいお仕置きが待っているはずだと思うと動けなかった。

「ヒバリ…」

 声を掛けても反応はない。本当に寝てるのか、ふてているのか。

「……〜っもう駄目だ!」

 耐えきれず、足を崩して床に転がる。雲雀の様子を伺っても、先程までと変わりはない。

「寝てんのか…?」

 耳を澄ませば、ゆっくりな呼吸音が微かに聞こえる気がする。
 そういえば、このところ眠そうではあった。ただ、雲雀が寝ているとすれば俺が暇なだけだ。

「…腹減ったな」

 食べ物は何も持っていない。かといって家捜しするわけにもいかないし、結局雲雀が起きるまで何もできないらしい。
 痺れの取れたことを確認し、床に手をついて立ち上がる。物音を立てないように慎重に、空き缶を手にベランダに出た。

 口寂しいのを誤魔化すように、煙草を銜えて火を付ける。細く上がる白い煙は、夕焼けの赤が闇に消える手前の空に消えていった。
 高い景色。雲雀の好きな並盛の街が一望できる。だから、こんなところに住んでいるんだろうか。雲雀がこの地に、学校にこだわる理由は知らないが、誰しも壊されたくないもののひとつくらい持っているだろう。雲雀はそれをまっすぐに歪んだ愛情で貫いているように見えた。

「緑たなびく並盛の…ね」

 着うたにするほど校歌が好きなやつなんて聞いたこともない。思い出すとおかしくて、唇に笑みが浮かんだ。

「また煙草?」

 突如背後の窓が開いて声を掛けられ、驚いて体ごと振り返った。視線の先には雲雀がいて、けれど勝手に正座を中断したことを咎める風ではなかった。

「ちゃんとこれは持ってるぜ」

 雲雀特製の灰皿、という名の空き缶を掲げて見せる。

「煙草なんて公害指定でもされればいいのに」

 風で微かに舞った煙に本気で眉をしかめられた。一応俺だって雲雀に煙が行かないよう気を付けていたが、雲雀は特に敏感なせいか僅かな煙草の臭いにも反応した。

「消せば良いんだろ」

 残り少なかった煙草を揉み消し、缶の中に捨てる。それでも雲雀の表情は変わらなかった。

「…なんだよ」

 言いたいことがあるなら言えば良いと思うが、普段の雲雀はそんなに口数が多い方じゃない。

「ご飯、どうするの」

 それだけぽつりと言われて考えるが、どう答えるのが適当だろうか。しかし、考えあぐねている内にも雲雀が返事を待っているようで、適当な答えを出す。

「米食いてぇ」

「…時間掛かるよ」

 あっさりとした反応だけで雲雀は窓を閉じて部屋の中に戻っていった。

「あ、おい、待てよ」

 後について部屋に上がり、テーブルに缶を置いていく。
 すでに雲雀はキッチンの中にいて、エプロンを身に付けているところだった。俺は対面式のカウンターの手前に座って、追い払われないのを良いことに好奇の視線を投げ掛ける。
 白い指が手慣れた動作で米を洗う。軽快な音を聞くだけで、年期の入った動きだと分かる。
 ずっと独り暮らしなんだろうか。家族とかと一緒にいるのは想像つかないが、まだ子供と言って良い年ではあるのに。
 エプロンが似合うのもそのせいなのか。絶対に似合わないだろうと思っていたのに、家庭的な雰囲気のない機能的なそれは違和感なくそこに収まっていた。
 ほどなくして、野菜を切る音が響き始める。切味の良さそうな包丁は迷いなく扱われているように見えた。

「結構やってんじゃねーか…」

 雲雀がジャンクフードを食べてるのとは思えなかったが、これはこれで意外だった。常識と一緒に生活能力も欠如してそうなくせに、しっかりしてるところが何だか気に入らない。

「なぁ、ヒバリ」

 暫く頬杖をついて眺めてはいたが、見ているだけなのも退屈なので声を掛けてみる。
 返事はない。意味のない呼び掛けだから当然か。

「何作ってんだ?」

 材料を見ただけでは判断できなかった。

「別に」

「………」

 会話は2秒で終了した。いや、会話になっていたかすら怪しい。俺が口を閉じれば、雲雀はそのまま口を開くわけもなく、そんな状況ではたった三音の返事すら逆にありがたく感じてしまう。
 結局、雲雀がいちばん良く喋るのは獲物を前にした時で、そんな状況になった時点で絶体絶命なんだとは思う。ただ声を聞きたい、そんな望みが叶うこともないと悟ってしまうほどには俺は聞きわけは良くなかった。

「おい」

 目を見つめ、強く呼んでもなお返事はなかった。気付いているのか、それすらも掴めない。

「…ちっ」

 本日二度目の舌打ちも虚しく消えた。手持ち無沙汰で思わず懐を探るが、斬るような殺気に手を止める。

「吸わねぇよ」

 煙草とライターをカウンターの隅に置く。手が届く距離になければ間違えて火を付けることもないだろう。

「………」

 殺気を放っていた瞳は下ろされ、辛うじて俺は餌食にならずに済んだようだった。しかし、それ以上何かする気も起きず、雲雀を観察するのに集中することにした。

 

 

 

 

PM8:00

「…いただきます」

 目の前に並べられた料理に、思わず言葉を失いかけて、辛うじて手を合わせて定番の言葉で誤魔化した。これも10代目のお家で食べさせていただいてる習慣のおかげだと思うと感謝してもしきれない。
 炊きたての白いご飯と味噌汁と、肉じゃが。まさか、こんなまともな飯をここで食べられるとは夢にも思っていなかった。
 雲雀はというと、俺のことなど気にせずに黙々と食べている。思わず観察していたくなったが、とりあえず空腹を静めることを最優先に、俺も食べることにした。
 口に運べば、それは正直うまいとしか言えないわけで。かといって素直に誉めることもできず、黙っている雲雀の真似をするがごとく無言で食べ進めていく。
 最後のじゃがいもを箸で摘んだ瞬間、雲雀の視線がこちらを向いた気がするが、気付かない振りをしてしまった。

「…君、食べすぎ」

 ぽつりと言って、雲雀が溜め息を零す。

「そうか?」

 しまった、もう少し遠慮しておけば良かったか。
 内心の焦りを表に出さないように返せば雲雀はそれ以上何も言わず、食器を片付けている。

「手伝うか?」

「いらない」

 先刻の失態を思い返せば冷たく言われるのも仕方ない。

「じゃ、煙草吸ってくるぜ」

 カウンターの隅に置いた煙草とライターを取り、缶を持ってベランダに向かう。
 まだ、雲雀との距離の取り方がわからなかった。応接室や屋上でいるときは、大体決まった距離を保って、その範囲にいた。けれどこの部屋は近付くには広すぎて、離れるほどには狭くはなかった。
 だから、そうだからだ。いつも間を持たせるために煙草を手にしてるのも、沈黙が痛いせいじゃない。

「くそ…」

 思考が空回りするほどに煙は夜空に消えて、それが余計に焦燥を煽った。
 意識すればそれだけ何を言えばいいのかわからなくなる。無理に口を開けばどうせ冷たい反応しか返ってこないことは知ってるから、言葉を選ぶほどに泥沼に嵌まる。そうしているうちに、そんなに話したいこともないんじゃないかと思い至って、何も言えなくなった。
 結局、自滅の道を選んでるのは俺なんだな。
 だったら、何故ここにいる?
 疑問は答えを見付けられず、煙のようには消えないまま重く喉を塞いだ。
 短くなった煙草の代わりを探して本数を数える。

「やべ…」

 思っていたより吸いすぎている。煙草の紙箱はやけに手の中に軽かった。