「だから、歩こうかって言ったのに」

 辛うじて辿り着いた部屋で、床に転がったまま苦しい呼吸を整える。呆れたように雲雀が俺を見下ろしているが、取り繕う余裕はなかった。

「…うるせぇ、男に二言はねぇんだよ」

「ふぅん、まぁいいけど」

 興味なさげに呟くと、ソファに腰を下ろして欠伸をひとつ。

「おい、寝るならベッド行けよ」

 そのまま眠ってしまいそうな雲雀に慌てて声を掛ける。

「いいの」

「ソファで寝るならわざわざ連れてきた意味ねぇだろうが。いいからさっさとベッド行って寝とけよ」

 シャワー使うなら勝手にしろ、と指差して、力尽きたまま目を閉じた。床の冷たさがいっそ心地良い。

「そう」

 小さな足音で、雲雀がベッドに向かうのがわかった。安心すると、妙に眠気が襲ってくる。このまま眠ってしまうわけにもいかないとは思ったが、疲労のせいか体が動かなかった。

「まぁいいか」

 風邪を引くことはないだろう。動けるようになったら、ソファででも寝ればいい。

 

 

 

 

side:H

 何もない部屋。消さずに残した小さな明かりが照らす部屋には必要最低限の家具しかなくて、積んである本は日本語ですらない片寄った専門書ばかり。サイドボードには見慣れた装身具と煙草の箱だけで、時計すら見当たらない。

 生活感のなさは、人の気配を感じさせなくて逆に居心地が良かった。
 明日、シャワーを借りて帰れば良い。

 ベッドに潜り、柔らかい布団に顔を沈める。

 あいつの匂い。既に慣れてしまった、あいつの髪や体から感じるもの。嫌いなはずの煙草にも、少し慣れた気がする。
 何度倒しても懲りない、馬鹿な奴。
 思い浮かんだ顔を眠気から追い出すように、深く息を吐いた。

 居心地の良さは、気のせいだ。

 

 

 

 

side:G

 夜中に気が付いて床からソファに移ったときには、まだ雲雀はいるようだった。朝にはいなくなるのをわかっていても、部屋から洩れる小さな光や、玄関の靴に無性に安堵を得た。

「この部屋に一人で居るのは慣れているはずなのに、誰かの気配で安心するなんてな…」

 まるで、仔猫でも拾ってきたかのように。
 翌朝、シャワーを使った形跡を残し、雲雀はいなくなっていた。悪い夢かとも思いかけたが、確かに雲雀はこの部屋にいたらしい。
 ベッドは、自分が起きたときよりも綺麗に整えられていて。

「ちゃんと寝たのか?あいつ」

 呟いても、返事はあるはずもない。

「やべ、10代目をお迎えにいかねぇと!」

 携帯の時計は正確に仕事をしている。つまり、急いで支度をしないと間に合わない時間だ。
 栄養機能食品をスポーツドリンクで流し込み、鏡の前で髪型を整え、鞄を担いで部屋を出た。走ればまだ間に合うだろう。家の前で会うことはできなくとも、いつもの通学路で見掛けるはず。

「待っていて下さい、10代目!」

 

 

 

 

side:T

 いつものように朝から山本と獄寺君と三人で、どうでもいいようなことを話しながら学校に向かう。
 今日は朝から特に騒ぎは起きないし、平和だな。
 と、思ったら。

「…げ、雲雀さん?!」

 校門前に、すごく機嫌が悪そうな雰囲気をかもしだしてる雲雀さんが立っている。

「朝から大変だな」

 いや、この場合大変なのはこっちだから、山本!っていうか何かこっち睨んでるし!

「…獄寺君、何かしたの?」

「いや、何もしてないっスよ」

 どうも、雲雀さんは獄寺君を睨んでるみたいで、じっとこっちを見たまま近付いてくる。

「10代目、ここは俺が食い止めますんで、先に教室に行っててください!」

「え、駄目だよ、危ないから!」

 獄寺君が僕の前に立ちはだかるけど、どうも狙われてるのは君の方じゃないかな。

「ちょ…獄寺君!」

 朝からダイナマイトをばら蒔かれるわけにもいかないし、とか思っているうちに、雲雀さんは目の前に近付いてきていた。

「な…ッ!」

 一瞬、瞬きをしている間くらいの速さで、どうやらトンファーで殴られたらしい獄寺君が地面に転がっていた。

「あぁ、獄寺君…」

 止める間もなかったとはいえ、まるで飛んで火に入る夏の虫のように咬み殺されてしまった獄寺君には、本当に悪いと思う。でも、やっぱり雲雀さんは怖くて、俺はその場から動けなくなってしまう。

「これ、借りてくよ」

「え?」

 呆然と見ている間に、倒れている獄寺君を雲雀さんが引きずって持っていってしまった。
 用があるなら素直に連れていけばいいのに、雲雀さんはたまにわからないや。とりあえず、俺には獄寺君の無事な帰還を祈ることしかできなかった。…もう無事じゃないけど。

 

 

 

 

side:G

 目が覚めると応接室の床に転がされていて、ソファに座った雲雀が俺を見下ろしていた。さっき殴られた頭がずきずきと痛むが、それよりも状況が飲み込めなかった。

「てめぇ…いきなりどういうつもりだ!」

 体を起こして睨みつけるが、雲雀は不機嫌そうな表情を変えない。

「君の家のあれ、何なの?」

「へ?」

「シャンプー、ひどい匂いなんだけど」

「あぁ、あれか?いつものが売りきれてたから代わりに買ったやつだよ。俺も今朝初めて使ったんだけどな」

 そんなにするか?と自分でかいでみても、ひどいと思うほどの匂いはしなかった。

「使ったの?」

 肩に手を掛けて顔を寄せてくる仕草に、心臓が大きく跳ねた。

「…最悪。買い換えて」

 密着し掛けた体勢からぐいと押し離され、後ろに一歩下がってバランスを取る。雲雀はこの上もなく不機嫌な表情で、今すぐ咬み殺されないのが不思議なくらいだった。

「おい、買ったばかりだぜ?」

「嫌なら、シャンプー無くなるまで僕に近付かないで」

 理不尽な言いっぷりに、怒りよりも不可解さが浮かび上がる。

「使いきるまでどれくらいかかると思ってんだよ」

「知らない」

 朝から不機嫌なのはそのせいか。俺の部屋でシャンプーを使って、その匂いにご立腹とは、なんて我儘な奴だ。まぁ、それもこいつらしいと言えばそうなんだが。

「わかった、今日帰りにでも買えばいいんだろ」

 お手上げだ。シャンプーを使いきるまで何もできないのは実際辛いし、雲雀は前言を撤回するわけもないから、ここは俺が折れるのが一番早い。

「そうして」

 つんと横を向いた顔を見て、好奇心が沸き起こる。雲雀が自分と同じ匂いがするのは、どんな感じだろうか。

「ちょっといいか」

 嫌がる雲雀を抱き寄せる。髪に触れて、顔を近付けてみれば――

「ん?」

「近付かないでって言ったでしょ」

 即座にトンファーで頭を殴られた。それよりも、今のは。

「いつもと同じじゃねーか…」

 期待していた自分と同じ香りなどではなく、普段と変わりない雲雀の匂い。

「家に帰ってシャワー浴び直したからね」

「そこまで嫌かよ!」

「嫌だよ」

 床に手をついて起き上がるのを、腕を組んで立つ雲雀に見下ろされている。
 こいつの我儘さは、ホントに半端じゃねぇ。立ち上がる気力もなく、俺は深く深くため息を吐いた。