幕末〜第一次世界大戦まで
日本は幕末のペリー来航により開国し明治新政府樹立までの険しい道程を経る。
しかし ペリー来航以前にも1778年頃からロシアとの限定的な衝突 干渉があり
例としては1806年の択捉事件や「軍艦ディアナ艦長ゴローニンの身柄拘束事件」「観世丸拿捕事件」等がある。
北海道の松前藩はロシアに対しての北の防人の役目を担っていた事や
田沼意次の探検隊もロシアに対しての領土権の主張も意味も有った。
明治維新の時の函館戦争で有名な五稜郭もロシアから函館防衛の為に構築された物です。
そうです 日本は少なくても江戸後期からロシアに脅威を感じていたのです。
そして開国後
日清戦争を経て下関条約により台湾、澎湖諸島、遼東半島を手に入れ 朝鮮半島を清より独
立させ「大韓帝国」を樹立させる。
遼東半島は「ロシア・ドイツ・フランス」の三国干渉により放棄させられる。
その事により日本人はこの三国に対し「臥薪嘗胆」と強い復讐心を抱くようになる。
朝鮮半島を独立させたのは何も親切心から行った訳ではありませんでした。
現在のようにレーダーや偵察衛星が無い時代には国土を防衛する為には敵国が海を渡って
攻めて来る前に阻止しなくてはなりません。
そのためには、日本にもっとも近くそこを押さえられると死活問題になる朝鮮半島を友好国な
いし中立の緩衝地帯にする必要がありました。
しかし当の朝鮮半島は・・・
当時の朝鮮半島の国家である李氏朝鮮は500年間の長期政権や中国の属国だった為に
国の中枢は腐敗しきっており残念ながら国としての体裁を持っては居ませんでした。
そして独立させてもらった恩を忘れ日本とは潜在的に対立関係であるロシアや中国に擦り寄
り、日本の国防政策に支障がでる恐れが出てきました。
日本国内では韓国など併合してしまえ!等との意見も出て着したが、伊藤博文を初め反対派
がそれを抑えていました。
が、
1909年10月26日 伊藤博文は無謀にも韓国のテロリストである安重根に第三国の地で
あるハルピン駅前で射殺される。
それにより 日韓の併合が推進されていく。
余談ですが安重根は現在でも韓国の英雄です。歴史の前後が見えない人達ですね(呆)
そして1910年8月22日 大韓帝国の皇帝代理で首相の「李 完用」により日韓併合が行われ
る。
これは当時の国際法上 違法な事はなく 反対する国も有りませんでした。
それよりも当時を知る韓国人の記述によれば日本に併合された事により 一般市民も日に日
に生活が良くなる事を実感できたそうです。
詳細は割愛させていただきますが、 証拠のデーターや併合前後の写真がインターネットで簡単に入手できます
イロイロ検索してみるのも面白いかも知れません。中には驚くような事実もあったりしますので(笑)
時期は前後して1904年日露戦争開戦 1905年9月 多大な犠牲を払い、戦争継続不能な状態
ながらも辛うじて勝利する。
日本は勝利したといっても、局地戦に勝利しただけで、ロシアを完全に屈服させたわけではなく
ロシアがその気になれば シベリア鉄道によりまだまだ沢山の兵力を動員させる事が可能であ
った。
そのためロシアは終始強気で交渉に臨み 日本の「小村 寿太郎」全権大使も苦戦をしいられ
ました
このときアメリカのセオドア・ルーズベルトの仲介により何とか講和に成功した。
因みに セオドア・ルーズベルトのイギリスでの愛称が「テディ」であり狩猟の時のエピソードが
元になり
あの「テディベア」が生み出されました。
日本はこの時 満州鉄道の権益などを得ましたが、アメリカの鉄道王「エドワード・ハリマン」は
日本にこの鉄道の共同経営を申し出ました。
そして この申し出は当時の日本の首相である「桂太郎」総理大臣と「桂-ハリマン仮協定」が
結ばれるが
苦労して得た権益を他国と共同経営は何事かと「小村寿太郎」に猛反対されこの協定は撤回
されてしまう。
このとき日本はアメリカ財界に不信感と敵愾心を与えてしまい 太平洋戦争の遠巻きの原
因の一つとなるのでした。
歴史にIFは有り得ないのですが この時の「桂-ハリマン協定」がもし実施されていたらどなっ
たでしょうか?
自分の予想では最初は国内的な猛反発があるでしょうが、アメリカとの中国大陸での利権を護
る為に日本はアメリカの同盟国となり
資源や技術支援が活発になり、国家は潤い発展し国民も納得する事ができたでしょう。
そして何より中国の匪賊やゲリラとの戦いをアメリカと共同で行う事になり関東軍の暴走を食
い止める事が出来たと思います。
まぁ どっちに転んでも中国には良い事ないんですけどね。
日本はポーツマス条約により大韓帝国の排他的指導権を得て、朝鮮半島にたいしての影響力
を強化した。
そして1910年 日韓併合
1914年 セルビア事件を発端に第一次世界大戦が勃発する。
日英同盟に基づきイギリスの要請で日本も連合軍として参戦する。
その際 地中海やインド洋に駆逐艦等18隻を派遣し さらには中国の山東省や南洋のドイツ
軍要塞を攻撃 占領する。
1919年ロシア革命後のシベリアに出兵をする。
1919年パリ講和条約に連合国5大国として講和に臨みベルサイユ条約により山東省、トラック
諸島を含む南洋のドイツ領を得る
山東省は1915年に出された「対支21ヶ条の要求」で反発する中国に返還される。
これらの功績を認められ国際連盟の常任理事国になる。
この時の日本の経済力は世界第5位でした。
そして大正デモクラシーなどで民主化が進み、映画バルトの楽園でも紹介された通り日本は国
際条約の優等生だったのです。
思えばこの時が日本の最良の時代だったのではないのでしょうか・・・
続く・・・
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