中国の歴史教科書を読む

 中国は共産党の一党独裁国家なので、教科書は要するに共産党の政治的プロパガンダである。このため天安門事件への言及は一切なく、チベットは共産党政権が平和的に接収したことになっている。国民党は反動勢力で、朝鮮戦争は米帝の侵略戦争だったとされる。反日キャンペーンは、天安門事件で揺らいだ党の威信を回復するために1990年代から強化されたもので、それまでは韓国の方がずっと反日的だった。ここでは日本関係の記述を中心に、中国の教科書で違和感を感じる点を見て行く。


中国高等学校歴史教科書
人民教育出版社歴史室(小島晋治・大沼正博・川上哲正・白川知多訳)『中国の歴史−中国高等学校歴史教科書』明石書店,2004年.



 明石書店の日本語訳は2000年版の「中国古代史」「中国近現代史(上冊)」「中国近現代史(下冊)」を合わせたもので、訳文で900ページ近い呆れた分量である。時代区分は、古代史がアヘン戦争直前まで、近現代史(上冊)が1927年の上海クーデターまで、近現代史(下冊)は冷戦が終了した1990年代までの記述がある。

お国自慢

 中国の古代・中世史は輝かしいもので、特に紙・印刷術・火薬・羅針盤等の発明は人類史に絶大な貢献をした。これらを誇るのは別に構わないが、「ヨーロッパより○○年早い」という記述の中には「こんなことまで書く必要があるのか」と疑問に思うものもある。

わが国は世界で漆を使った最も悠久な歴史をもつ国家である。原始社会の河姆渡遺跡から紅漆の椀が出土している。商周の漆器はすでに比較的高い水準に達していた。(p. 30)

春秋戦国時代、鋳造業は時代を画する発展を遂げた。わが国の人民が創造した鋳造の柔化処理の技術は、世界の鉄の鋳造史における一大成果だった。この発明はヨーロッパより2千年以上も早くおこなわれた。(p. 44)

『春秋』によれば、紀元前631年。「星孛(ほうきぼし、彗星)北斗に入る有り」と。これは世界で公認された最初のハレー彗星に関する記録で、ヨーロッパより670余年早い。春秋時代にわが国の暦法はすでに自らの固定した系統を形成しており、基本的に19年に7回の閏年の原則を確定しており、西洋より160年早かった。(p. 58)

耕す犂には土を掘り返し土を砕く犂壁をつけたが、これはヨーロッパより千余年早かった。(p. 89)

紀元前28年の、西漢の太陽の黒点に関する記録は、太陽の黒点についての最も早い記録として世界に公認された。東漢の科学者張衡は、太陽、月、地球のおかれていることなった位置から、月食に対して最初の科学的解釈をおこなった。張衡が発明して製作した地動儀は、千里〔約500キロ〕も離れたところで起こった地震発生の方位を測ることができ、ヨーロッパ人が製作した地動儀より1700年余も早かった。(p. 110)

商品貨幣関係の発展により、北宋のときに世界でもっとも早い紙幣の「交子」が出現した。(p. 254)

1045年、北宋の平民畢昇は活字印刷術を発明して、世界文明に重要な貢献をした。活字印刷術は発明されたあと、東は朝鮮、日本に伝わり、西はエジプトとヨーロッパに伝わった。ヨーロッパ人が活字の組み版印刷をしたのは畢昇より4世紀余り遅かった。(p. 249)

彼が主宰して制定した『授時暦』は、1年の周期が現行の西暦と同じだが、現行の西暦より300年近く公表された。(p. 323)

徐弘祖の『徐霞客游記』。これは地理学の大著である。この中にある石灰岩溶触地の姿を観察し記述したものは、欧州より約2世紀早い。(p. 324)

侵略の隠蔽と被害の強調

 この教科書は、中国歴代王朝による周辺諸国への侵略の記述を著しく欠いている。隋の高句麗遠征に関する記述は次の一行だけで、白村江を含む唐の侵略戦争の記述は皆無である。

煬帝は功名心から三次にわたる高句麗遠征を発動し、士兵の大半を死亡させた。(p. 165)

 唐代の文化交流に関しては、唐から日本への影響を強調しながらも、日本からの流れもあったことを併記する余裕を見せている。ただし留学生が大化の改新を起こしたというのは誇張で、中大兄皇子も中臣鎌足も唐帰りの南淵請安に学んだが、自身が留学したわけではない。

隋朝時代、中国と日本は互いに使節を派遣し合った。日本の遣唐使の派遣は貞観年間に開始され、計13回に達し、使節団は5、6百人もの大規模なものであった。日本の有名な大化の改新は、唐朝に留学して帰国した者たちが起こしたのであり、新政で施行された制度は多くが唐の制度を手本としていた。都城〔平城京〕の建設は完全に唐の長安城を模倣したもので、各レベルの学校は儒家の経典を教材とした。日本と唐朝との貿易も頻繁で、日本からは大量の唐の貨幣「開元通宝」が出土し、中国でもまた日本の奈良時代の銀銭〔「和同開珎」。「和同開珎」は銀銭と銅銭があった〕が出土している。当時、中日の交流に極めて大きな貢献をなした人物に日本の吉備真備や阿倍仲麻呂、中国の高層鑑真がいる。(p. 207)

 元と朝鮮・日本の関係でも平和的交流だけがあったかのように記述され、三別抄の抵抗運動や元寇に関する記述は一切ない。

元朝時代、内外の経済文化交流は頻繁であった。元朝と朝鮮半島の高麗王朝は陸路貿易の往来が密接であった。高麗の土産品人参、川獺、虎や豹の皮はわが国内で歓迎され、ラミー麻布はわが国の民間でも大変流行した。わが国の綿花栽培、綿紡績と火薬技術はこの時代に高麗に伝わった。元朝と日本は広範な経済文化交流をおこない、仏教と飲茶の風習が日本で盛んにおこなわれた。日本は中国から印刷職人を招いて日本の印刷業を発展させた。(p. 286)

 このように国際紛争の記述を避け平和的交流を強調する傾向が強いが、倭寇に関する記述だけはやけに詳細である。特に「焼き殺し掠め取り、あらゆる悪を行い」のような表現は古代史の他の箇所で見られず、反日教育とみなせる。また倭寇と結託した不正商人の存在は認めるものの、明史に「大抵眞倭十之三、從倭者十之七」とあるように後期倭寇の大半が中国人だったことには触れていない。

明の中期、日本の武士、商人と海賊が常にわが国沿岸地域を騒がし、倭寇と呼ばれた。当時、朝廷は「倭の患いは市船より起こり、遂にこれを罷む」と誤ってみなした。このように、著しく発展した私人海外貿易はまた厳しい制限を受けた。そこで、中国東南沿海の一部の不正商人は倭寇と結託し、共同で略奪して贓品を分け、倭の害はますます激しさを増した。(p. 319)

1553年、倭寇は大挙して上陸し、前後して上海、蘇州に攻め入り、南京を直撃した。いたるところで、彼らは焼き殺し掠め取り、あらゆる悪を行い、「百年繁盛し安楽な地区といわれたところは、騒然となり多くの事件が起こった」。沿海の人民は奮起して反抗し、明朝政府も倭寇鎮圧を決意した。(p. 319)

資本主義萌芽論

 資本主義萌芽論は「列強の侵略がなければわが国も立派に産業化できたはずだ」という論理で、このような歴史のIFが意味を持つのはSF小説だけである。しかし中国の場合、古代中世史が輝かしかっただけに、そうした無意味な仮定への執着が一層強いのだろう。

しかし、資本主義の萌芽が発展するのは極めて緩慢なものであった。明の中後期に出現してから、アヘン戦争前夜にいたるまで、規模の大きいものになったが、しかし、突き破ることなく、終始萌芽状態をうろつき、すべての生産が工場制手工業の段階に進むことができなかった。(p. 306)

アヘン戦争以前、中国封建社会はすでに資本主義の萌芽を孕んでいた。たとえ外国の資本主義の侵入がなくとも中国も緩慢に資本主義社会へと向かったであろう。(p. 403)

日清戦争

 日清戦争の叙述は10ページにわたっており、かなり詳しい。平壌戦闘や黄海海戦の描写には、粉飾と思われる記述は見当たらない。しかし旅順虐殺事件の犠牲者は日本側の研究では数千人とされており、たとえこれが過小だとしても、この教科書の2万人説も過大だろう。

日本軍は旅順で驚くべき大虐殺をおこなった。日本軍は「一箇所に数人の中国人を縛り、槍で突き、刀で身体をこなごな肉片にするまで切り刻んだ」。城中で約2万人が虐殺され、運良く殺害を免れたのは僅かに36人であった。西方のジャーナリズムこれを批評して「日本は文明の衣をまとった野蛮な筋骨の怪獣である。日本は既に文明の仮面をとって、野蛮な顔を露呈した」と報じた。(pp. 420-421)

 清国軍の士気の低さから考えて、人民の抵抗がどれほどのものだったかは疑問である。しかし日清戦争の叙述が敗戦の描写に偏らざるを得ないので、自尊心を保つには反日感情を煽っておく必要があるのだろう。

戦争中、各地の人民はさまざまな団錬を組織して清軍の作戦に協力し、「義憤を同じくして、先駆けとなることを願った」り、「幼いものから老人まで、死に物狂いで戦って降伏しなかった」。日本軍が旅順に向かって進攻したとき、農村の教師閻世開に道案内をさせた。閻世開は怒って敵を斥けた。「たとえ中華の首を切られた屍となろうとも、倭奴に屈服した人間にはならない」と。おしまいには殺され、崇高な民族魂を表した。(pp. 420-421)

 誇張が目立つのは日本の台湾接収に関する部分で、あたかも台湾全島が抗日のために立ち上がり、日本軍に甚大な被害を与えたかのように記述されている。

台湾人民は檄文を発して、「戦死して台湾を失うとも、手をあげて台湾を割譲することはしない」と抗議デモをおこない、台湾と存亡をともにすることを誓った。(p. 424)

台湾人民は愛国的志士丘逢甲、徐驤を推挙して義勇軍の隊長とした。徐驤は義勇軍を率いて台北で日本軍を迎え撃った。台北が急を告げたとき、丘逢甲が軍を率いて支援し、日本と苦しい戦いをした。その後、戦いは台中に移った。劉永福は黒旗軍を率いて徐驤の義勇軍と連合作戦を展開し、敵に烈しい打撃を与えた。(p. 424)

8月中旬、日本は新竹から南に向かって進撃した。日本軍は台中の大甲渓へ猛攻したが、黒旗軍と義勇軍の待ち伏せに遭遇し、大混乱に陥り、戦死者の遺体の多さに渓谷の水が流れなかったほどであった。日本軍は再び侵略し、徐驤が義勇軍を率いて烈しく抵抗した後、彰化に退いて守ったが、大甲渓は失われた。(p. 425)

台湾防衛戦前後5ヵ月が経過して、大小の戦闘は百余回、戦死戦傷した日本軍は3万人余にのぼった。日本軍の主力部隊近衛師団は半減し、北白川宮能久親王と山根信成少将は討ち死にした。(p. 425)

 実際に日本軍は数千人の死者を出し、被害は甚大だったが、死者の多くはマラリア等による病死で、北白川宮能久親王も山根信成も戦病死だった。しかし共産党政権としては「一つの中国」政策を堅持するためにも、台湾人民が常に中国本土への帰属意識を持ち、日本の統治に頑強に抵抗し続けたと国民に教え込む必要があるのだろう。

台湾防衛戦は台湾軍民が祖国の領土を守ろうとする強い意志と高い愛国主義的精神を表現し、中国人民の反侵略闘争史上、輝かしい1ページを残した。この後、日本の台湾統治の50年間、台湾人民の祖国復帰を取り戻す戦いは決して滞ることなく続いた。(p. 425)

 中国人のブログによると、大陸では多くの人が日本統治下の台湾は極端な警察国家体制だったと思っているらしいが、それもこのような教育の成果だろう。

【中国ブログ】台湾の親日には歴史的なワケがある(1) [サーチナ 2009/07/15]
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0715&f=national_0715_026.shtml

辛亥革命と日本

 「大化の改新は唐留学生が起こした」というのは明らかな誇張だが、「辛亥革命は日本留学生によって行われた」とするのは誇張でも何でもない。孫文自身日本滞在が長いし、黄興や宋教仁のような中心人物にも日本留学経験者が多い。しかしこの教科書で触れられるのは東京が革命準備の舞台だったということだけで、日本留学組の役割や頭山満・犬養毅・北一輝といった日本人の支援については何も書かれていない。

上海と日本の東京は革命宣伝のセンターであった。章炳麟、鄒容、陳天華などは著名な民主革命の思想家であり、宣伝家であった。(p. 465)

1905年夏、孫中山は日本の東京に行き、前後して黄興、宋教仁、陳天華らと会見し、統一的革命政党の問題を相談した。(p. 468)

1905年、孫中山と黄興、宋教仁ら興中会、華興会、光復会会員70人以上が日本の東京で集会し、統一的革命政党中国同盟会の設立を決定した。(p. 469)

同盟会の設立後、本部は東京に設けられ、別に上海、重慶、香港、煙台、漢口の5国内支部と南洋、欧州、アメリカ州、ホノルルの4国外交部を設立した。(p. 469)

山東出兵

 日本は第一次世界大戦に乗じて山東省に出兵し、英国と結んで青島を占領し、この地域に利権を持っていたドイツに取って代わった。教科書によるとこの過程で日本軍が悪逆非道な振る舞いをしたことになっており、特に強姦への言及があるのはこの箇所だけである。これを読んだ学生は、「いちいち強姦して行くのは日本軍だけだ」と思うだろう。

日本軍はいたるところで残虐非道な行為をおこない、公然と強姦略奪し、中国の民衆をほしいままに虐殺した。日本軍の副司令官高柳は竜口で告示を発布し、交戦地区にいる人はすべて日本軍のために尽力しなければならず、もしも逆らうものがいれば「処罰」し、さらに日本占領区の成人に水を補給し柴を拾うよう命令した。現地の婦女は迫害から非難するために、大部分が逃げた。(p. 514)

毛沢東盲信

 毛沢東は1921年の中国共産党創設時からのメンバーだが、李立三や王明を破って党の実権を握ったのは1935年の遵義会議からである。都市での蜂起を目指した李立三や教条的なソ連モデルを主張した王明に対し、毛沢東は一貫して農村根拠地を重視した。この教科書は南昌起義(1927)の失敗から江西ソヴィエトの設立(1931)までを叙述した後、次のような文章問題を置いている。

毛沢東は、「もしもわれわれがあまねく徹底的に土地問題を解決できるならば、われわれは一切の敵に打ち勝てるもっとも基本的な条件を獲得する。」と指摘している。歴史的事実と結び付けて、毛沢東のこの考えがなぜ正確なのかを説明しなさい。(pp. 614-615)

 次いで毛沢東と李立三の演説の抜粋を併記し、「李立三の選択はなぜ誤りなのか」という問いがある。国民党が都市部を掌握していた状況では農村に浸透するしかなく、その意味で毛沢東の戦略は現実的だったと言えるかもしれない。しかし頭ごなしに毛沢東が正しく、李立三が間違っていたと決めつける問題の出し方はどうかと思う。

満州国

 日本は1931年の満州事変で東北三省を占領し、翌年溥儀を皇帝に迎えて満州国を建国した。日本をはじめ枢軸側を中心に20ヵ国が満州国を承認したが、中国は当然これを承認しなかった。「満州国」と呼んだだけで承認したことになるわけでもなかろうに、この教科書はご苦労にもいちいち「偽満州国」と表記している。

翌年、日本は清の廃帝溥儀を助けて傀儡にし、偽満州国を建てた。中国の東北三省は日本帝国主義の植民地に転落した。(p. 615)

国際連盟調査団は1932年1月に調査を開始し、10月に調査報告書を公表した。報告書は、中国の、九・一八事変以前の東北の原状を回復する意見にも同意せず、日本の、偽満州国を維持し東北にひとり覇を唱える要求も承認せずに、「国際協力を最善の解決とする」と主張した。(p. 616)

偽満州国建国後、日本帝国主義は「熱河は『満州国』の土地で、長城は『満州国』の境界である。」とでたらめな宣言をした。(p. 621)

第一次上海事変

 1932年1月、日本は上海に進攻し、国民党第十九路軍と激しい戦闘を行った。このとき日本陸軍の江下武二、北川丞、作江伊之助の一等兵三名は点火した破壊筒を持って敵陣に突入し、自らも爆死した。日本では戦意を高揚させる美談として大いに喧伝され、「爆弾三勇士」「肉弾三勇士」と呼ばれ、歌や舞台や映画が作られた。ところがこの教科書によると、そうしたカミカゼ的突撃を行ったのは中国側だったことになっている。

このとき、60名の広東籍の勇士が悲壮な覚悟で志願して、国のために命を捨てる決心をした。彼らは爆弾を腰に巻きつけて、体中に石油をかけて、手分けして敵の背後に潜入し、敵の虚に乗じて、敵陣に突入し、爆弾が次々に破裂した。打ち続く大音響の中で、残忍な敵は灰燼と化し、勇士の鮮血が大地を赤く染めた。薀藻浜を攻撃した日本軍は全滅させられた。これは淞滬防衛戦での壮烈な一戦であり、中国と外国の新聞はみなそれを「戦史中の奇跡」であると称えた。(p. 618)

張北事件

 ウィキペディア日本語版によると、第二次張北事件(1935年6月5日)では日本軍特務機関員4名が連行され、荷物と旅行用品の厳重な検査が行われてから一部屋に監禁の上、青龍刀や銃剣が突きつけられながら脅迫されて尋問を受け、食事と寝具は与えられずに翌日午前10時に釈放されたとある。この教科書によると、それらは根も葉もないでっちあげだそうである。

双方の交渉期間に、さらに「張北事件」が発生した。すなわち日本の特務がチャハル省に潜入して密かに地図を書いて中国の駐留軍に拘束されたが、チャハル省主席宋哲元が紛糾が起きるのを避けるために、命令を下して釈放した。ところが日本軍は中国軍が日本兵士を「侮辱」したと根も葉もないことを言った。(p. 633)

西安事変

 1936年12月、張学良・楊虎城らは西安で蒋介石を監禁し、国共合作・一致抗日を迫った。ウィキペディア英語版によると、共産党内では毛沢東・朱徳らが蒋介石の処刑を主張し、周恩来・張聞天らは処刑すれば抗日運動に打撃を与えるとして反対した。しかしスターリンが処刑に反対したため、毛沢東らも態度を変えた。この教科書は毛沢東の意見やスターリンの鶴の一声には一切言及せず、中国共産党が当初から平和的解決を目指していたことを強調している。

きわめて複雑な政治情勢に直面して、中国共産党は大所高所から、全民族の利益を考えて、西安事変の平和的解決を主張して、周恩来らを西安に派遣して交渉に参加した。各方面の努力によって、蒋介石は内戦停止、連共抗日の主張をやむなく受け入れた。(p. 637)

中国共産党が西安事変の平和的解決に努めたことは、団結して抗日する誠意を十分に表明していた。西安事変の平和的解決は、国共両党が内戦から和平へ、分裂対峙から合作抗日へ変わる徐幕を開いた。(p. 638)

盧溝橋事件

 この教科書の記述では、盧溝橋事件で最初に攻撃したのは日本側ということになっている。ウィキペディア日本語版では中国側が先に攻撃して来たことになっており、「兵士の失踪を口実に、宛平城へ入って捜査」云々の根拠である金振中回想は日本では信用されていない。しかしウィキペディア英語版は、中国の主張に近い形になっている。残念ながら日中戦争に関するウィキペディア英語版の記述は、中国側の視点から見たものが多いようである。

1937年7月7日夜、日本軍はひとりの兵士の失踪を口実に、宛平城へ入って捜査することを要求し、中国守備軍に拒絶された。日本軍はただちに宛平城と盧溝橋に進攻した。中国軍は奮起して抵抗した。これが「盧溝橋事変」で、「七七事変」とも称する。全国の抗日戦争はここから始まった。(p. 642)

第二次上海事変

 1937年8月、日本軍は上海に進攻し、国共軍を駆逐して蘇州・南京等へ進撃した。10月に国民党軍が上海を撤退する際、謝晋元配下の800人の英雄が四行倉庫を堅守し、日本軍に死者200人以上の大打撃を与えたことになっている。ウィキペディア英語版の "Defense of Sihang Warehouse" の項にも中国側の死者10人、負傷者37人に対し日本側は死者200人以上となっている。しかし同項に「本来414人だったのが800人の英雄に膨らまされた」とあることから、「死者200人以上」も誇張と見るべきだろう。

10月、日本軍は上海市街区に攻め入り、守備兵は蘇州河南岸に撤退した。副連隊長謝晋元は800名の将兵を率いて、蘇州河北岸の四行倉庫を堅守し、主力の撤退を掩護した。彼らは4昼夜孤軍奮闘し、敵200余名を殲滅した。(p. 645)

南京大虐殺

 よく知られているように、中国では「南京大虐殺の規模は30万人以上」が公式見解である。

1937年12月、日本軍は南京を攻め落とした。国民政府は重慶に移転し、重慶が戦時の副首都になった。日本軍は南京で残虐きわま りない大虐殺をおこない、南京の30余万人が殺害された。(p. 645)

 日本側の研究では多くて20万人で、ずっと少なく見積もる研究者も多い。しかし中国で「30万人といったら30万人だ。絶対に譲歩することはできない」という声が上がるということは、30万人以上説を放棄すると中国人の面子が失われるらしい。

日中歴史認識、中国では「侵略戦争で南京に虐殺あった」と報道 [サーチナ 2010/02/01]
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0201&f=politics_0201_004.shtml

台児荘戦役

 1938年3月、日本軍は山東省台児荘に到達したが、頑強な抵抗に遭い突破できず、4月に諦めて撤退した。国民党軍は久々の勝利に狂喜し、日本軍撃退を大々的に宣伝、戦意高揚に努めた。ウィキペディア英語版の "Battle of Taierzhuang" の付表でも日本軍の死傷者16,000人となっているが、誇張とみるべきだろう。

1938年春、日本軍は山東から二路に分かれて徐州を侵犯した。国民政府第五戦区司令長官李宗仁は、中国軍を指揮して、二路の日本軍をそれぞれ山東省の臨沂と台児荘で阻止した。台児荘では日本軍1万余人を殲滅した。これは抗戦以来得た最大の勝利であった。(p. 647)

満州国の経済

 満州国は実質的に日本の植民地で、日本は朝鮮で成功した開発独裁プログラムを満州でも実行した。これにより急速な人口増加が生じ、山中峰央「満洲国人口統計の推計」によると1932年の3066万人から1942年の4656万人へ、10年間で1.5倍以上増えた。年平均増加率は4.3%というとんでもない高さで、大部分は華北地域からの流入によると思われる。関権「満州国の工業生産」によると、1933〜40年の間に実質工業生産額は3.4倍に増えており、年平均増加率は7.5%となる。おそらく経済成長率もこのくらいだっただろう。

関権「満洲国の工業生産」『東京経大学会誌』245:53-69, 2005.
山中峰央「満洲国人口統計の推計」『東京経大学会誌』245:167-190, 2005.
http://www.tku.ac.jp/~koho/kiyou/contents/economics/245.html

 このように満州国では朝鮮以上に急速な人口増加と経済成長があったわけだが、この教科書の記述は韓国の教科書と同じく収奪史観一辺倒である。韓国では植民地近代化論が台頭し、収奪史観に異議を唱える経済史学者が増えているようだが、中国ではどうだろうか。自由主義圏に属すはずの韓国でさえ、そうした親日史観を公にすると大学を辞職させされたり、土下座させられたり、暴行を食らったりしている。中国で植民地近代化論を公然と主張すれば、命が危ないかもしれない。

日本侵略者は農業、工鉱業交通運輸業、金融業、労働力などの面で、被占領区に対して異なった形式の略奪を行おこママなって、欲しいままに中国の資材を搾取し、労働力を略奪した。その総方針は被占領区の経済を日本への従属経済に変えることであった。(p. 653)

日本侵略者は被占領区の大量の耕地を強制的に占拠して、道路、封鎖溝と飛行場などの建設に用いたり、日本移民に分配して使わせた。農産品の低価格での買い上げも、略奪方式のひとつであった。(p. 653)

日本の華北各地の食糧の買い上げ価格は市場価格の半分に過ぎず、東北大豆の買い上げ価格は市場価格の10分の1に足らなかった。日本軍は給養の困難なときには、代価なしの徴発方式さえ採って、「食糧現地調達」をし、欲しいままに農民を略奪した。無制限の略奪は農村の普遍的な食糧不足を引き起こし、餓死者がいたるところにあった。(p. 653)

日本侵略者は鉱業、鉄鋼業と交通運輸業などを「統制事業」にして、日本の会社が独占経営し、企業の経営権は日本側が掌握した。このようにして、日本は被占領区を日本工業の原料基地に変えて、侵略戦争の需要を満たし、さらにそこから巨額の利潤を強奪した。(p. 654)

日本と傀儡政権はさらに被占領区で満州中央銀行、中国連合準備銀行など20余の金融機構を開設し、準備金のない偽幣〔傀儡政権の発行する貨幣〕を乱発し、被占領区の人民に法幣を偽幣に兌換するように強制して、中国の資材を強奪した。さらにこの他に大量の軍票を印刷して被占領区で流通させた。日本と傀儡は絶えずいろいろな名目の苛酷な税金を増やし、華北の人民が納めた税だけでも100種余りあった。(p. 655)

日本侵略者は占領区で奴隷化教育を推進した。学校教育の方面では、日本と傀儡政権は東北の被占領区で初等教育段階の全学習年限のなかでの比重を大きくした。小さいうちから青少年に奴隷化思想を注ぎ込むことが目的であった。日本と傀儡の出版した教科書は「中日親善」、「共存共栄」、「大東亜新秩序」などのでたらめな理論を基本内容として、学生を彼らの支配下の「順民〔支配にしたがう人民〕」に養成しようと企図した。(p. 655)

侵略と抵抗

 この教科書は日中戦争中の日本軍や特務機関の残虐性を念入りに描写している。

日本と傀儡はさらに上海に「特務活動本部」を設けて、もっぱら抗日愛国的な人々を殺害した。統計によれば、数千人の人がこの人殺しの魔窟で惨殺された。(p. 656)

日本軍は大量の毒ガス弾と焼夷弾を使用して、衡陽城内を「大火が燃え盛り、真っ赤な炎が万丈に立ち上がって、全域が火の海と化す」状態にした。(pp. 661-662)

1941年から、日本は中国侵略兵力の半数以上を集中して、敵後方抗日根拠地に大「掃蕩」をおこなった。「掃蕩」のなかで、日本軍は野蛮な焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす「三光政策〔「光」は「尽くす」の意味〕」を実行して、果ては毒ガスを撒いたり細菌戦をおこなったりして、無人区を作り、抗日根拠地の消滅を企てた。(p. 664)

 抗日戦は共産党を中心に記述される。国民党軍の活躍に関する記述もあるが、共産党軍の「戦果」に比べると軽視されている感は否めない。

1937年秋、中国共産党は陝西省北部で洛川会議を開き、全民族の一切の力を動員して、抗戦の勝利を勝ち取る人民戦争路線、すなわち全面抗戦路線を制定した。このあと、八路軍、新四軍は敵の後方に突き進んで、独立自主の遊撃戦争を広範に展開して、抗日根拠地を建設して、敵の後方を抗日の前線に変えた。(p. 648)

全国の人民に抗日戦争の正確な進路を示すために、1938年、毛沢東は「持久戦論」を発表して、「亡国論」と「速勝論」に反論し、抗日戦争は持久戦であり、戦争の巨大な力のもっともしっかりした基礎は民衆の中にあるので、人民戦争の路線を実行すれば、最後の勝利は必ず中国に属すると指摘した。(pp. 649-650)

中国共産党は各種の形式の闘争で大衆を指導して、植民地支配に反対した。開灤炭鉱労働者、上海の郵便電信、水道労働者の電車の運転士があいついでストライキをした。江南の10余万の農民が暴動を起こして、日本と傀儡軍の食糧徴集隊を壊滅させた。これらの反抗闘争は日本と傀儡の支配に打撃を与え動揺させるのに、一定の役割を果たした。(p. 656)

全国人民の抗日精神を奮い立たせ、投降の危険を克服し、抗戦の形勢の好転を勝ち取るために、1940年後半、彭徳懐は八路軍100余個連隊を指揮して、華北で大規模な対日作戦を発動した。百団大戦と称する。百団大戦は日本軍の侵略の気炎を打ち砕き、共産党と八路軍の威光をおおいに高めて、全国人民の抗戦勝利の信念を堅固にした。(p. 664)

 韓国の教科書と同じく、この教科書も武装ゲリラ闘争を高く評価している。中でもウイグル族の義勇兵は、1000人の兵力で日満軍3万人以上を殺すという、まったく信じられない戦果をあげたことになっている。

根拠地の軍隊と人民は「基本としての遊撃戦、有利な条件を逃さない運動戦」の方針で、反「掃蕩」闘争を積極的に展開した。民兵は積極的に正規軍、地方の遊撃隊と協力して戦闘をおこない、地雷戦、地下道戦、すずめ戦、破壊襲撃戦などの遊撃戦術を創造した。反「掃蕩」闘争では、モンゴル反日遊撃隊、回族大隊などの少数民族の抗日武装勢力も、十分な勇敢さを示した。(pp. 665-66)

共産党の指導下に、冀中回族支隊は大小800余回の戦闘を経験して、日本と傀儡軍3万余人を殲滅し、敵の拠点、トーチカなど数百ヶ所を攻め落として、隊伍は1000余人に拡大した。(pp. 661-662)

 戦争の終結に関しては、アメリカの原爆投下やソ連の参戦への言及はあるものの、中国人民の勝利とその意義を強調している。

毛沢東は「日本侵略者に対する最後の一戦」という声明を発表して、中国の一切の抗日勢力に全国規模の反攻をおこなうように呼びかけた。八路軍、新四軍とその他の人民の軍隊は朱徳司令官の命令に従って、投降を拒否した敵を断固として殲滅した。8月15日、日本政府は無条件降伏をやむなく宣言し、9月2日、降伏文書に正式に署名した。ここに至って、中国人民の抗日戦争は最後の勝利をついに獲得した。(p. 669)

1945年5月8日、ドイツファシズムは無条件降伏した。日本ファシズムはすでに完全に孤立無援の境地に陥っていた。戦争を迅速に終結するために、7月、中国、アメリカ、イギリス三国は「ポツダム宣言」を発表して、日本の投降を促した。しかし日本政府は受け入れを拒絶した。8月6日と9日、アメリカ空軍が前後して日本の広島と長崎に2発の原子爆弾を投下した。これと同時に、ソ連がわが国の東北に出兵した。アメリカ、イギリスなどの国は太平洋に200万の軍隊、1万余機の飛行機、1000余艘の艦艇を集結して、日本上陸の準備をした。8月15日、日本天皇裕仁が「停戦詔書」を放送し、無条件降伏を宣言した。(p. 669)

抗日戦争の勝利は、中国人民が100余年来初めて獲得した帝国主義反対闘争の完全な勝利である。それは全国人民の民族の自尊心と自信をおおいに増強して、民主革命が全国で勝利するための堅実な基礎を定めた。中国の抗日戦争は世界のファシズム戦争の重要な構成部分であり、中国人民の抗戦は、世界の反ファシズム戦争の勝利に重大な貢献を果たした。中国の国際的地位は向上した。(p. 670)

 章末には「考えてみなさい。抗日戦争の勝利は『中華民族に百年来未曾有の大事件』となぜ言うのか。この勝利はどのようにして獲得されたか」(p. 671)という文章問題がある。これに「日本に勝ったのはアメリカであって中国ではない」などと答えたら、どんな評価を受けるのか気になる。

チベット侵攻

 国共内戦に勝利した人民解放軍は、1950年10月にチベットに侵攻した。ウィキペディア日本語版によると、チベット義勇軍は10日間の抵抗の末に敗北し、この戦闘でチベット側に4000人以上の戦死者が出たとされる。1954年頃からはカム地方を中心に反乱が相次ぎ、「20年戦争」とも呼ばれた。ところがこの教科書は、チベットがいかなる形の抵抗もなく平和的に接収されたかのように書いている。

新中国成立後、中央軍事委員会の統一的な配置によって、人民解放軍は迅速に華南と西南に進軍した。敵を国外に逃さないために、解放軍はあいついで国民党の白崇禧、胡宗南らの集団を殲滅し、海南島を解放して、渡海作戦の勝利を獲得し、平和的な方法で雲南、西康〔チベット高原と四川盆地の間にあった旧省名〕の広大な地区を解放した。(p. 742)

1951年、中央人民軍はチベット地方政府と「チベットの平和的解放の方法についての協定」を取り決め、チベットは平和的に解放された。(p. 742)

 共産党の少数民族政策は、人民を封建的搾取から解放し、民族の文化を尊重し、産業を開発して豊かな社会を築いてやった善政ということになっている。

社会主義改造が始まってから、党と政府は少数民族の希望に基づいて、少数民族地区で民主改革あるいは土地改革をおこなった。民主改革は平和的な方式によって搾取制度を廃止し、階級抑圧を消滅させ、社会主義経済を建設した。1958年以後、少数民族は前後して社会主義社会に入った。(p. 833)

人民政府はかねてより少数民族地区の経済と文化の発展を重視し、財力、物力と人力の面で支援して、各民族の共同繁栄を実現した。少数民族地区を支援する大量の幹部、技術者は、その土地の発展に重要な貢献をして、少数民族に歓迎された。彼らのなかの傑出した代表的人物がチベットを支援した立派な幹部孔繁森である。(pp. 833-834)

チベットは平和解放以前は、工業が非常に後れていて、1931年にはひとつの小型水力発電所と、ひとつの小貨幣鋳造工場とひとつの小兵器工場があっただけで、従業員は全部で120人であった。1985年、チベット自治区成立20周年を慶祝するために、中央は北京、上海、天津、江蘇などの省市が、チベットの要求に基づいて二次に分けてチベットを助けて43件の中型、小型の建設プロジェクトを建設することを決定した。これらのプロジェクトには発電所、学校、病院、文化センターと中型、小型企業などが含まれている。翌年、これらのプロジェクトは基本的に完成して、チベットの改革開放をおおいに促進し、民族の団結も強化した。(p. 834)

 開発の成果を誇示するのは構わないが、仏教の弾圧をはじめとする政治的抑圧に一切触れないのは公平性を欠く。チベット亡命政府等の分離独立派が告発する拷問や大量虐殺、人道に反する罪等がどの程度真実なのかはわからないが、弾圧がまったくなかったとは信じられない。この教科書は日本が支配した満州国では恩恵が全くなく被害だけがあったとしながら、共産党が支配したチベットや新疆では被害が全くなく恩恵だけがあったと臆面もなく主張している。これでは反日報道で有名なニューヨーク・タイムズのノリミツ・オオニシ記者でさえ、日本の教科書が中国や韓国のものよりは均衡がとれていると認めたのも無理はない。

In Japan's New Texts, Lessons in Rising Nationalism [The New York Times 2005/04/17]
http://www.nytimes.com/2005/04/17/weekinreview/17onishi.html

朝鮮戦争

 朝鮮戦争はアメリカ帝国主義による侵略戦争で、中国は自国の安全が脅かされたためやむを得ず応戦したことになっている。さすがに「韓国が先に攻めて来た」とは書いていないが、これを読んだ学生はアメリカが韓国をそそのかして内戦に火をつけたと推測するだろう。

新中国は成立後まもなく外国からの侵略の脅威に直面した。1950年夏、朝鮮の内戦が勃発した。アメリカはただちに武力をもって朝鮮の内部の事柄に干渉し、ほどなくさらにアメリカ軍を主力とする「国連軍」を組織して朝鮮を侵略した。彼らは「38度線」を越え、戦火をいっきに中朝国境まで及ぼした。同時に、アメリカの第7艦隊を台湾海峡へ派遣して、中国の内政に干渉した。朝鮮の情勢は急を告げ、中国の安全を深刻に脅かした。(p. 743)

深刻な形勢のもとで、朝鮮民主主義人民共和国政府は中国政府に出兵援助を求めた。アメリカに対抗して朝鮮を助け、国家を防衛するために、1950年10月、彭徳懐を司令官とする中国人民志願軍が朝鮮に赴いて、朝鮮の軍隊と人民と肩を並べてアメリカの侵略者に反撃し、アメリカ軍を「38度線」付近へ追い返した。この後、中国と朝鮮の軍隊と人民はアメリカ侵略軍と繰り返し戦闘をおこなった。中国と朝鮮の軍隊と人民の痛烈な攻撃によって、1953年夏、アメリカは「朝鮮停戦協定」に調印せざるを得なくなり、アメリカに対抗して朝鮮を助ける戦争はアメリカ軍の失敗をもって勝利のうちに終息して、中国人民志願軍は組に分かれて凱旋した。(p. 744)

横暴なアメリカ帝国主義は中国が出兵して参戦するとはまったく考えていなかった。「国連軍」総司令官マッカーサーは2週間のうちに朝鮮戦争を終息させると高言して、アメリカに帰ってクリスマスを迎えることを夢見ていた。しかし、事実は希望通りに運ばなかった。中国人民志願軍は朝鮮に入ると、相手の意表に出る攻撃を敵に加えて、初戦は勝利を告げた。アメリカ侵略軍はやむなく鴨緑江岸から「38度線」付近へ退却し、朝鮮情勢は好転した。アメリカ侵略者は失敗に甘んじることなく、前後してその陸軍の3分の1、空軍の5分の1と海軍の半数近くを朝鮮の戦場に投入して、原子爆弾以外の当時のあらゆる近代兵器を使用した。中国人民志願軍は強敵を恐れず、幾重もの困難を克服して、勇敢に戦闘し、ついにアメリカに対抗して朝鮮を助け、国家を防衛する戦争の勝利を得た。(pp. 745-746)

アメリカに対抗して朝鮮を助け、国家を防衛する戦争の勝利は、アメリカ帝国主義の侵略政策と戦争政策に痛烈な打撃を与え、朝鮮の独立と中国の安全を防衛し、中国の国際的声望を空前に高めた。同時に、この勝利は中国の経済建設と社会改革のために、総体的に安定した平和な環境を勝ち取った。(p. 746)

 こんな教育を受けていたのでは、韓国を含む自由主義圏の国民と歴史認識がかみ合うはずがない。

【中国ブログ】まさか!中国人を恨む民族が存在するとは・・ [サーチナ 2009/07/14]
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0714&f=national_0714_005.shtml

毛沢東の失政

 1958年に毛沢東は「大躍進政策」を掲げ、15年で当時世界第二の経済大国だったイギリスを追い抜くと宣言した。インフラもないのに農民を鉄鋼生産に動員し、農業生産が壊滅的な打撃を受け、2000〜5000万人の超過死亡を出す大失敗に終わった。教科書はさすがに失敗は認めているものの、経済的損失に触れるだけで人的被害には一切言及していない。

反右傾以後、「大躍進」を堅持したために、国民経済の均衡をさらにひどく失わせることになった。工農業の均衡が失われて、重工業が奇形的に発展した。1957年から1960年にかけて、重工業は2.3倍増加したが、農業は22.8%下降した。工業内部の各部門の均衡も失われ、鉄鋼業の生産が大量のエネルギー、原材料、交通運輸を占有したので、その他の部門は正常な生産ができなかった。農業生産はきわめて大きく破壊された。農産物と副業製品の生産量は急激に下降した。1960年には、食糧と綿花の生産量が1951年の水準に下落した。基本建設の規模が大きすぎたために、大量の労働者と投資が増加して、財政収支が釣り合わなくなり、財政に巨大な赤字が出現した。市場の物資の供給が緊迫した。(p. 645)

 大躍進に失敗し権威が失墜した毛沢東は、1966年に文化大革命を起こす。教科書はここでも経済的損失に触れるだけで、数百万人に及ぶとされる殺戮には言及しない。

1967、1968年になると、「文革」の動乱は経済の分野に拡大して、国民経済は深刻な影響を受けた。具体的には、経済活動の機構が麻痺して、無計画状態に陥ったこと、多くの有効な政策、規則、制度が廃止されたこと、大量の労働者、幹部が持ち場を離れて「革命」をしたために、交通、運輸が途絶したこと、に現れた。2年間に損失した工農業生産額は1000億元を超えた。(p. 791)

「文革」の10年間に、正常な発展をしたと仮定して計算すると、国民経済の損失は総計でおよそ5000億元であった。周恩来、ケ小平が中央の活動を主宰したときの努力と広範な幹部、大衆が「左」傾の誤りを阻止したことによって、経済建設はそれでも一定の成績を上げた。(p. 794)

「文化大革命」は指導者が誤って起こした運動であった。それは反革命集団に利用されて、党、国家と各民族人民に建国以後もっとも深刻な挫折と損失をもたらした。わが国の経済と社会の発展水準は先進国に比べて格差がいっそう大きくなった。(p. 795)

 ワシントン・ポストのフレッド・ハイアット論説委員長は、日本の教科書が南京大虐殺の死者数を縮小するのが問題なら、中国の教科書が大躍進の死者数に言及すらしないのは問題ではないのかと批判した。他にもチベット侵攻(1950)、中越戦争(1979)、天安門事件(1989)に関する記述の不在や、第二次大戦で中国が日本を破ったという記述を批判し、独裁政権下では歴史解釈が批判され改善される望みはないと結論付けた。

China's Selective Memory [The Washington Post 2005/04/18]
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A61708-2005Apr17.html


中国歴史 八年級
课程教材研究所历史课程教材研究开发中心编著『中国历史八年级上册』2009年6月第10次印刷.
课程教材研究所历史课程教材研究开发中心编著『中国历史八年级下册』2010年11月第9次印刷.



 この教科書は中学2年生が学ぶ近現代史教科書で、上巻(写真)はアヘン戦争から第2次世界大戦終結まで、下巻は中華人民共和国建国から現代までを扱っている。中国語は苦手なので、翻訳はいい加減である。このため原文を併記したが、日本漢字なのでそのまま翻訳機にかけてもうまく行かないだろう。上の書籍情報のように中国語フォントを指定し、Unicodeを埋め込めば中国語簡体字を表記できることはわかっているが、面倒くさいのでやめた。

日清戦争

 日清戦争は、日本が朝鮮征服と中国侵略の意図をもって始めたことになっている。

1894年,日本為実現征服朝鮮,侵略中国,称覇世界的夢想,出兵占領朝鮮国都漢城,接着,又発動侵略戦争。這一年是旧暦甲午年,因此,這次戦争叫做“甲午中日戦争”。(上巻, p. 16)
1894年、日本は朝鮮を征服し、中国を侵略し、世界に覇を唱えるという夢想を実現するため、出兵して朝鮮の都である漢城を占領し、次いで侵略戦争を発動した。この年は旧暦で甲午年であるため、この戦争を「甲午中日戦争」と呼ぶ。

 この教科書は黄海海戦の際に〈致遠〉艦長だったケ世昌の英雄化に熱心で、彼に殉じた愛犬の物語まで動員して愛国心をかきたてている。

“此日漫揮天下泪,有公足壮海軍威。”
這副沈痛的挽聯,是人們為哀悼民族英雄ケ世昌而撰写的。ケ世昌是在甲午海戦中犠牲的清朝海軍将領。他指揮的致遠艦中弾沈没后,ケ世昌墜身入海。随从遞給他救生圈,他堅决不接,决心与戦艦共存亡。他的愛犬飛速游来,街住他的衣服,使他无法下沈。ケ世昌几次用力想把愛犬ー走,但它死死街住不放。ケ世昌狠了狠心,用手将愛犬按入水中。不一会,他們就一起沈入碧波…… (上巻, p. 16)
“この日天下に涙あふれて、満ち足りた海軍の威容がある。”
この沈痛な挽聯は、人々が民族的英雄であるケ世昌を哀悼するために書いたものだ。ケ世昌は甲午海戦で犠牲になった清海軍の将校だった。彼が指揮する致遠艦が被弾し沈没したとき、ケ世昌も艦と運命を共にした。随員は彼に救命ブイを渡したが、彼は固く固辞し、艦と存亡を共にすることを決意した。彼の愛犬は飛ぶように速く泳いできて、主人の服をくわえて沈ませてたまるかとあがいた。ケ世昌は何度も愛犬を引きはがそうとしたが、愛犬の方は死んでも離れまいとする。ケ世昌はつらい気持ちを抑えて、愛犬を抱きしめたまま水中に入った。やがて彼らはいっしょに沈んで青い波の向こうに見えなくなった……

 旅順大虐殺の描写は過激なもので、図版と合わせて反日感情をかきたてるに十分である。

日本軍占領旅順後,瘋狂屠殺当地居民,死難者近両万人。日本為掩蓋自己的罪行,将被害者的屍体集中火化,把骨灰装棺材里埋葬,併用木牌写上“清国陣亡将士之墓”,借以欺瞞世界輿論。(上巻, p. 17)
日本軍は旅順を占領すると、当地の住民を狂ったように殺しまくり、死者は二万人近くに達した。日本は自分たちの蛮行を覆い隠すために、被害者の死体を焼き尽くし、灰を棺桶に詰めて埋葬し、木牌に「清国陣敗将の墓」と書いて世界を欺こうとした。

 台湾割譲については、「一つの中国」政策のタテマエから、台湾人民は日本への割譲に猛烈に反対し、常に中国への帰還を願ったと教え込む必要があるらしい。この辺は、台湾の教科書の記述とは大違いである。

《馬関条約》簽訂的消息伝来,全国人民憤怒譴責清政府投降売国。台湾人民鳴鑼罷市,集会示威,発誓“愿人人戦死而失台,决不愿拱手而譲台。”(上巻, p. 17)
《馬関条約》締結のニュースが伝わると、全国の人民は憤怒し、清政府が投降して国を売ったことを厳しく非難した。台湾人民は銅鑼を鳴らしてストライキとデモ行進を行い、 “誰もが台湾を失うよりは戦死を願う。決して手をこまねいて台湾を譲ることを願わない。”と誓った。

不久,台湾全部滄喪。但是,台湾各族人民反抗日本殖民統治,争取回帰祖国的斗争一刻也没有停止過。(上巻, p. 18)
間もなく台湾全土が占領された。しかし台湾の全民族の人民は日本の植民統治に反抗し、祖国に回帰するための解放闘争は一刻も止むことがなかった。

満州国とチベット自治区

 高等学校教科書と同じく、この教科書も日本の満州国支配に人民は苦しんだが、共産党のチベット支配は大歓迎されたと臆面もなく主張している。それぞれの記述を比較してみる。

東北滄落後,1932年,日本扶植早已退位的清朝末代皇帝溥儀,在長春建立偽満州国傀儡政権,企図把東北従中国分裂出去。在日寇的鉄蹄下,東北三千万同胞過着恥辱的亡国奴生活。(上巻, p. 71)
東北が陥落した1932年、日本は既に退位していた清朝最後の皇帝溥儀を担ぎ出し、長春に偽満州国傀儡政権をうちたて、東北を中国から切り離そうと試みた。日本侵略者の鉄蹄の下で、東北の三千万の同胞は屈辱的な亡国奴の生活を強いられた。

1951年,西藏地方政府派出以阿沛・阿旺晋美為首席代表的代表団到達北京,与中央人民政府談判,双方達成了和平解放西藏的協議,西藏獲得和平解放。至此,祖国大陸獲得了統一,各族人民実現了大団結。西藏和平解放后,同年9月,人民解放軍先遣支隊進駐拉薩,受到西藏地方政府和市民的熱烈歓迎。(下巻, p. 4)
1951年、チベット地方政府は阿沛と阿旺晋美を首席代表とする代表団を北京に派遣し、中央人民の政府と協商した。双方はチベットの平和的解放で合意し、チベットは平和的解放を獲得した。これによって、祖国は大陸全体の統一を成し遂げ、各民族は大団結を実現した。チベット平和的解放が成った同年9月、人民解放軍の先遣部隊は拉薩に進駐し、チベット地方政府と市民の熱烈な歓迎を受けた。

盧溝橋事件

 高等学校教科書と同じく、盧溝橋事件では日本軍が先に攻撃してきたことになっている。また金振中配下の守備兵がいかに勇猛に戦ったかを強調し、反日感情と愛国心を養おうとしている。

駐守在盧溝橋和宛平城的中国軍隊,是二十九軍的吉星文団金振中営,有四個歩兵連,並配有重機槍連和軽重迫撃炮各一連,共一千四百多人。営長金振中進行了周密的布防,時時警タ日軍的行動。面対強敵囂張的侵略気焔,全営官兵同仇敵愾,他們在吃飯前,睡覚前都要高呼:“宁為戦死鬼,不作亡国奴!”抗日斗志十分高漲。(上巻, p. 74)
盧溝橋と宛平城を守備する中国軍は、金振中率いる第二十九軍の吉星文団で、四個歩兵連隊から成り、重機槍連隊と軽重迫撃砲連隊も配備され、合わせて千四百人以上の兵力だった。指揮官の金振中は綿密に防備を整え、常に日本軍の行動に警戒を払っていた。侵略意図を露わにする強敵を前に、陣営内の士気は盛んで、彼らは食事前と就寝前後に「たとえ戦場の露と消えようとも、売国奴にはならない!」と叫び、抗日の闘志を高潮させた。

1937年7月7日晩,日軍在盧溝橋附近挙行軍事演習。日軍借口一名士兵失踪,無理要求進入宛平県城捜査,遭到中国守軍拒絶。蓄意挑動戦争的日本軍隊悍然向盧溝橋中国守軍発起進攻,開炮轟宛平城。中国守軍忍無可忍,奮起抵抗,全国性的抗日戦争従此爆発。盧溝橋事変,又称七七事変。(上巻, p. 75)

1937年7月7日の夜、日本軍は盧溝橋付近で軍事演習を行っていた。日本軍は一人の兵士の失踪を口実に、宛平県城に侵入し捜査するという無理な要求をして、中国守備軍の拒絶に遭った。戦争を挑発する意図を秘めた日本軍は敢然と盧溝橋の中国守備軍に攻撃を加え、宛平城を砲撃した。中国守備軍は我慢できず、決然と抵抗し、これによって全国的な抗日戦争が勃発した。盧溝橋事変は、七七事変とも言う。

7月8日凌晨,日軍主力気勢汹汹地向鉄路橋扑去,要求過橋。金振中営的両個排守在這里,排長申仲明厳詞拒絶了日軍的無理要求。早已作好戦斗準備的日軍突然開槍射撃,排長申不幸中弾陣亡。排長申的死,激起了士們的満腔怒火。他們面対数百名日軍的進攻,毫無惧色,六挺機関槍和六七十支歩槍,一斉射出了仇恨的子弾。敵人冲上陣地,戦士們立即搶起大刀,冲入敵群,晨開激烈的肉搏戦,幾乎全部戦死橋頭。烈士的鮮血染紅了盧溝橋。(上巻, p. 75)

7月8日深夜、日本軍の主力は禍々しい勢いを以て鉄橋に迫り、通過させるよう要求した。金振中配下の守備兵に名がここを守っており、排長申は決然と日本軍の無理な要求を拒絶した。既に戦闘の意志を固めていた日本軍は突然射撃を開始し、排長申は不幸にも被弾して死亡した。排長申の死は、中国軍の士卒らを激憤させた。彼らは数百名の日本軍の侵攻に立ち向かい、いささかの恐れもなく、六丁の機関銃と六・七十の歩兵銃で、敵に向けて怒りの一斉射撃を行った。敵は陣中に殺到し、戦士らはすぐさま立ちあがって大刀を抜いて敵群に立ち向かい、激烈な白兵戦になったが、ほとんど全員が橋上で戦死した。烈士たちの鮮血が盧溝橋を赤く染めた。

双方在盧溝橋反復争奪,戦斗十分激烈。不久,日本調集大批援軍,向北平,天津発動大規模進攻。二十九軍副軍長佟麟閣,一三二師師長趙登禹等指揮部隊振勇抵抗,先後為国損躯。7月底,平津相継滄陥。(上巻, p. 75)

双方は盧溝橋を挟んで争奪戦を繰り返し、戦闘は激烈になった。間もなく日本は大規模な援軍を呼び寄せ、北平・天津に向かって大規模な侵攻を開始した。二十九軍副軍長の佟麟閣、一三二師師長の趙登禹らは勇猛に抵抗し、国のために犠牲となった。7月下旬、北平と天津は相次いで陥落した。

南京大虐殺

 南京大虐殺の規模は、やはりというか「三十万以上」となっている。プロパガンダ写真については、このように教科書で刷り込まれると他のものも信じるようになるだろう。

日本侵略者所到之處,焼殺淫掠,無悪不作。日軍占領南京後,対南京人民進行了血腥大屠殺,犯下了滔天罪行。南京的和平居民,有的被当作練習射撃的靶子,有的被当作練習刺殺的対象,有的被活埋。据戦後遠東国際軍事法廷統計,日軍占領南京後六周之内,屠殺手無寸鉄的中国居民和放下武器的士兵達三十万以上。(上巻, pp. 76-77)
日本侵略者はいたるところで焼殺と淫掠をはたらき、悪行の限りをつくした。日本軍は南京占領後、南京の人民に対して血腥い大虐殺を行ない、前例のない罪行を犯した。南京の無抵抗の住民のうち、ある者は射撃練習の的にされ、ある者は刺殺の練習台にされ、ある者は生き埋めにされた。戦後の極東国際軍事法廷の統計によると、日本軍は南京占領後六週間で、手に寸鉄も帯びない中国の民間人と武器を捨てた士卒を屠殺し、その数は三十万人以上に達した。

下面幾幅図是日軍在南京大屠殺中的歴史照片,真実紀録了日軍滅絶人性的暴行。這僅僅是日軍在南京大屠殺中許許多多照片中的幾幅,還有更多更残忍的暴行没有被拍撮下来。(上巻, p. 76)

下の何枚かの図は日本軍の南京大虐殺中の歴史的写真で、日本軍の非人道的暴行の真実を記録したものだ。これらは日本軍の南京大虐殺中の大量に残る写真の中の数枚に過ぎず、また写真は撮られなかったが更に残虐な暴行が更に多く存在した。

1937年12月15日,已放下武器的中国軍警人員三千多人,被日軍解往南京漢中門外,用機槍密集掃射。然後,受傷未死者与死者一起被焚化。(上巻, p. 77)
1937年12月15日、既に武器を捨てた中国の軍警人員三千人以上が、日本軍によって南京の漢中門外に引きずられて行き、機関銃の密集掃射を受けた。その後、まだ息がある負傷者も死者も一緒に焼かれた。

16日,中国難民五千多人,被日軍集体押往南京中山碼頭,双手反綁,排列成行,用機槍掃射後,棄屍江中。其中僅有両人逃生。(上巻, p. 77)
16日、中国の難民五千人以上が、日本軍によって南京の中山碼頭に押し込められ、両手を縛られ、一列に並ばされ、機関銃の掃射を受け、死体は河に棄てられた。そのうちわずか二人が生き残って逃げ延びた。

18日,日軍将囚于南京幕府山的男女老幼五万七千多人,全部用鉛絲৭綁,駆至下関草鞋峡,用機槍密集掃射,在血泊中尚能呻吟掙扎者,均被用刺刀殺戮。其中僅一人幸免。(上巻, p. 77)
18日、日本軍の将校が南京の幕府山の老若男女五万七千以上を捕え、全員を針金で縛りあげ、下関草鞋峡まで追い立て、機関銃の密集射撃を浴びせた。血まみれになって呻吟する負傷者は、すべて軍刀で刺殺された。そのうちわずか一人が幸いにも生き延びた。

 この教科書では、日本の新聞の複写まで掲載して反日感情をかき立てている。


12月,日本《東京日日新聞》以“紫金山下”為題,報道如下消息:日軍少尉向井和野田進攻砍殺百人的比賽,野田殺了105人,向井殺了106人,但不知誰先殺到100人,所以勝負難分,重新再賭誰先殺満150名中国人。(上巻, p. 77)
12月、日本の『東京日日新聞』は「紫金山下」の見出しの下に、以下のようなニュースを伝えた:日本軍の向井・野田両少尉は中国侵攻において100人斬り競争を行ない、野田は105人を殺し、向井は106人を殺した。しかしどちらが先に100人目を殺したか判定し難く、勝敗がつけられなかったので、改めてどちらが先に150人の中国人を殺すか競争することにした。


日中戦争

 台児荘戦役で日本軍と戦ったのは国民政府軍だが、そのような場合この教科書では単に「中国軍隊」と表記される。高等学校教科書では「国民政府第五戦区司令長官李宗仁」と紹介されていたが、この教科書では戦闘の主体が国民党軍であることを書かずに、李宗仁らを英雄化している。

1938年春,日軍従山東分両路南下,進攻徐州。第五戦区指令官李宗仁,指揮中国軍隊,将日軍一路阻止在山東師臨沂,另一路阻止在山東台児荘。双方在台児荘展開激戦。(上巻, p. 79)
1938年春、日本軍は山東省を二手に分かれて南下し、徐州に侵攻した。第五戦区指令官の李宗仁は、中国軍を指揮して山東省の臨沂で阻止しようとし、結局台児荘で日本軍を阻止することになった。双方は台児荘で激戦を展開した。

在台児荘戦役激烈進行時候,日軍憑借炮火優勢,攻入台児荘内。守衛的三十一師師長池峰城立脚組織敢死隊,準備奪回陣地。戦士們知道此去九死一生,仍然踊躍報名。池峰城宣布:毎名敢死隊償大洋30塊。報名的戦士当即表示:要銭千什麼? 我們打信是為了不譲子孫作日本人的奴隷,是要争取民族的生存。敢死隊乗夜色冲入敵陣,白刃戦中,有的受了傷,又従血泊中爬起来,用大刀砍殺敵人;有的拉響身上的手榴弾,与敵人同帰于尽。陣地奪回来了,57名敢死隊員却只有11人活着回来……(上巻, p. 79)
台児荘戦役が激烈に進行していた時、日本軍は優勢な火力に物を言わせて台児荘に侵攻した。守備をまかされた三十一師団の池峰城師団長は、決死隊を組織して陣地を奪回しようとした。決死隊の戦士たちは、もしも九死に一生を得て成功すれば、勇名をとどろかすことができると考えた。池峰城は言った。隊員には一名に付き銀貨30元が支給される。手柄をたてた隊員は直ちに表彰される:賞金が何だというのか? われわれが戦うのは、子孫らを日本人の奴隷にすることを肯んぜず、民族の存続を勝ち取るためだ。決死隊は夜陰に乗じて敵陣に切り込んだ。白刃戦の中、ある者は傷を負い、ある者は血まみれになりながら這い上がり、大刀で敵を斬り殺した;ある者は手榴弾を自爆させ、敵を道連れにして死んだ。陣地が奪回された時、57人の決死隊のうち生き残ったのは11人だけだった……

台児荘戦斗最激烈的時候,中国軍隊陣地毎日落炮弾達六七千発。炮轟之後,日軍以垣克為前導,向荘内猛冲。中国軍隊既無垣克,又無対付垣克的平射炮,僅以血肉之躯与敵人搏斗。後来,全荘2/3被日軍攻陥,日方電台宣称已将台児荘全部占領。中国軍隊組織敢死隊員,多次在夜間晨開反撃,又奇迹般地奪回大部分街市。(上巻, pp. 79-80)
台児荘戦闘が最も激烈だったとき、中国軍の陣地に落とされる砲弾は一日に六、七千発に達した。砲撃後、日本軍は防衛戦を突破して台児荘に突入した。中国軍は防衛戦を突破され、侵入を防ぐ平射砲もなく、ただ素手で敵に立ち向かうしかなかった。こうして台児荘の2/3が陥落し、日本軍は台児荘を完全に占領したと宣伝した。中国軍は決死隊を組織し、夜陰に乗じて反撃を行い、奇跡的に台児荘の大部分を奪回した。

在台児荘内激戦的時候,中国軍隊主力完成了対日軍的包囲,開発起全面反攻。日軍腹背遭到打撃,狼狽向北敗退。中国軍隊共殲的一万多人,取得抗戦以来的重大勝利。(上巻, p. 80)
台児荘激戦において、中国軍の主力は日本軍に対し包囲網を完成し、全面的反抗を開始した。日本軍は腹背に打撃を受け、狼狽して北方に敗退した。中国軍は一万人以上の敵兵を殲滅し、抗戦以来の重大な勝利を得た。

 一方、共産党軍に関しては「八路軍」「新四軍」と具体的な名前をあげ、彭徳懐らを熱心に英雄化している。

中国共産党領導八路軍,新四軍,到敵人的後方,広泛発動群衆,開展游撃戦争,建立的後抗日根拠地,打撃日本侵略者。後来,日軍以主要兵力進攻抗日根拠地。中国共産党領導根拠地軍民頑強抗戦,成為抗撃日本侵略的中流砥柱。中共中央所在地延安是敵後戦場的戦略総後方。(上巻, p. 80)
中国共産党が率いる八路軍と新四軍は、敵の後方に回り込み、大勢の群衆を巻き込んだゲリラ戦を展開し、敵の背後に抗日根拠地を形成して日本の侵略者に打撃を与えた。すると、日本軍は主要兵力を発動して抗日根拠地を攻撃した。中国共産党が率いる根拠地の軍民は頑強に抵抗し、日本の侵略に抵抗する礎石となった。中共中央が根拠地とした延安は、後方戦略本部の役割を果たした。

為了粉砕敵人的“囚篭”,1940年8月,八路軍在彭徳懐指揮下,組織一百多個団,在華北両千多千米的戦線上,向日軍発動大規模攻撃,主要目標是破壊敵人的交通線,摧毀日偽軍的拠点。百団大戦是抗日戦争中,中国軍隊主動出撃抗日軍的最大規模戦役。(上巻, pp. 80-81)
敵の「囚篭」を粉砕するため、1940年8月、八路軍は彭徳懐の指揮下に、百個以上の軍団を組織し、華北の二千キロメートル以上の戦線において、日本軍に対する大規模攻撃を発動した。主要目標は敵の交通網を破壊し、日満軍の拠点を撃破することだった。百団大戦は抗日戦争中、中国軍が自ら打って出た戦役のうち最大規模のものだった。

 日本の敗戦に対しては、高等学校教科書と同じく、中国軍の大反攻が果たした役割を強調している。ちなみに「日本国王」で一貫していた韓国の国定教科書と異なり、この教科書における呼称は「日本天皇」である。

1945年8月,美国向日本的広島,長崎投擲両枚原子弾;蘇聯発表対日宣戦的声明,派遣蘇聯紅軍進攻駐中国東北的日軍。与此同時,中国的抗日戦争進入大反攻。(上巻, p. 83)
1945年8月、アメリカは日本の広島・長崎に原爆を投下した;ソ連は日本に対し宣戦を布告し、ソ連紅軍を派遣して東北地方に駐留する日本軍を攻撃した。これと同時に、中国の抗日戦争は大反攻に転じた。

在中国人民和世界反法西斯力量的厳重打撃下,8月15日,日本天皇被迫宣布無条件投降。八年抗日戦争,中国人民終于取得了偉大勝利,台湾也回到祖国的懐抱。(上巻, p. 83)
中国人民と世界の反ファシズム勢力から大打撃を被ったことで、8月15日、日本天皇は無条件降伏を宣布せざるを得なかった。八年にわたる抗日戦争の末、中国人民はついに偉大な勝利を勝ち取り、台湾も返還され祖国の懐に抱かれた。

朝鮮戦争

 朝鮮戦争については、北朝鮮の南侵には触れず、アメリカ帝国主義による侵略戦争だったと教え込んでいる。

1950年6月,朝鮮内戦爆発。美国悍然派兵侵略朝鮮。以美軍為主的所謂“聯合国軍”越過“三八線”一直打到中国辺境鴨緑江辺:美軍飛机入侵中国領空,轟炸掃射中国東北辺境城市;美国第七艦隊入侵中国台湾海峡,阻止人民解放軍解放台湾。美国的侵略活動厳重威脅中国的安全。(下巻, p. 7)
1950年6月、朝鮮で内戦が勃発した。米国は敢然と派兵して朝鮮を侵略した。米軍を主とするいわゆる“国連軍”は“38度線”を越えて中国国境の鴨緑江に肉薄した。米軍の飛行機は中国領空を侵犯し、爆撃は中国東北の国境の都市を掃射した。米国の第7艦隊は台湾海峡に侵入し、人民解放軍による台湾解放を阻止した。米国の侵略行動は中国の安全を深刻に脅かした。

 中国では朝鮮戦争はアメリカによる侵略であり、中国はやむを得ず参戦したという見解を否定することは許されない。

動脳筋
中国人民志愿軍当時能不出兵馬? 他們説的対馬? 為什麼?
不能。朝鮮是中国的近隣,美国侵占朝鮮,中国的安全也受到威脅,美国第七艦隊入侵台湾海峡,阻止中国人民解放軍解放台湾。中国人民必須対美国的侵咯加以制止。
朝鮮政府請求中国出兵援助,中国応当出兵幇助。援助朝鮮,也就保家衛国了。(下巻, p. 8)
中国人民志願軍はその時出兵せずにいられたか? 彼ら(毛沢東ら指導部)の言葉は正しいか? なぜか?
女児「出兵せざるを得なかった。朝鮮は中国の近隣で、米国は朝鮮を侵略し、中国の安全も脅やかした。米国第7艦隊は台湾海峡に侵入し、中国人民解放軍による台湾解放を阻止した。中国人民は米国の侵略に抵抗し、これを阻止せざるを得なかった」
男児「朝鮮政府は中国に援軍を要請し、中国はそれに応じて出兵した。朝鮮を援助することが、すなわち家を守り国を防衛することだった」




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