台湾の歴史教科書を読む

 台湾の歴史教科書は中国・韓国に比べてはるかに親日的だが、それは日本統治に対する肯定的な評価含まれているということであり、否定的な評価がないということではない。特に政治面では、反乱に対する武力鎮圧、警察と保甲制度による締め付け、台湾住民に対する差別待遇、原住民政策に関する記述で批判的な論調が目立つ。一方で経済発展や社会・文化の近代化に対する肯定的評価は、100%反日的な中国・韓国の教科書には見られない特徴である。
 1987年の民主化以前は、台湾の歴史教科書も100%反日的だったらしい。いつ変わったのかはよくわからないが、1997年に国民中学に新設された「認識台湾」という教科では、かなり親日的な内容が含まれていた。教科書の歴史部分については日本語訳があるが、未見である。2003年の改革で「認識台湾」は廃止され、歴史教育は社会科の中に組み込まれた。現行の社会科教科書は、「認識台湾」をかなりの部分継承しているらしい。


國民中學一年級下學期適用『社會2』
南一書局『社會2』教育部審定, 國民中學一年級下學期適用, 中華民國97(2008)年2月初版, 中華民國97(2009)年2月修訂版.


 この教科書は中学1年生の後期に使うもののようで、内容は「採繪臺灣風情」「臺灣新面貌」「社會國體與社會生活」の三部構成になっている。このうち第二部の「臺灣新面貌」が日本統治時代の歴史叙述に充てられ、「日治時期的政治」「日治時期的經濟」「日治時期的社會與文化」の三単元から成る。政治部分は日本統治に対する否定的評価が多く、経済と社会文化部分は肯定的評価が多い。
 中国語は苦手なので、翻訳はいい加減である。このため原文を併記したが、日本漢字なのでそのまま翻訳機にかけてもうまく行かないだろう。


日治時期的政治

初期抗日抗争と弾圧

 台湾は日本にとって最初の植民地で、接収も短期決戦だったため双方に多大な被害者を出した。台湾の漢人も「日本に接収されたらアヘンが吸えなくなる」ということで必死に抵抗した。また日本兵も台湾語を解さないため良民を誤解し、強姦や掠奪も多かったとされる。1895年10月には台湾民主国軍が崩壊し、台湾全土に日本の支配が及んだが、その後も武装抗日闘争が続いた。武力鎮圧や騙し討ちによる犠牲者は朝鮮よりはるかに多かったはずだが、この教科書の記述は韓国の教科書より抑制的なように思える。

  日軍登陸上岸後,臺灣民主國軍隊缺乏統一指揮,也無作戰決心。唐景ッ與丘逢甲先後巡回中國,臺北城陥入無政府状態。士紳為維持秩序,議請日車入城。日人隨即在臺北擧行始政典禮。之後,日軍繼續南下,雖在部分地區曽遭民衆抵抗,但終於迫使鎮守臺南的劉永福離臺,日本控制全臺,展開長達五十年的殖民統治。(p. 69)
  日本軍は台湾上陸後、台湾民主国の軍隊は統一指揮系統を欠き、作戦もたてられなかった。唐景ッと丘逢甲は相次いで中国に逃げ、台北城内は無政府状態に陥った。指導者たちは秩序維持のため、日本軍に入城を求めることを議決した。日本人は直ちに台北で始政典礼を挙行した。この後、日本軍は南下を続け、一部地域で民衆の抵抗に遭ったが、結局は台南を守る劉永福も台湾を逃げ出し、日本の支配は台湾全土に及び、五十年にわたる植民統治が展開された。

  日本當局為壓制層出不窮的反抗活動,採取鎮撫兼施的策略,一方面以武力鎮壓,另一方面制定招降辨法,誘降抗日分子,但各地仍有反抗。例如:羅福星發動的「苗栗事件」(1913年)及余清芳領導的「西來庵事件」(1915年)。(p. 70)
  日本当局の圧制は、絶え間ない反抗活動を引き起こした。そこで日本は硬軟両面の政策を採り、一方では武力鎮圧を続けながら、他方では抗日分子に投降を呼びかけた。それでも反抗は各地で続いた。その例として、羅福星が起こした「苗栗事件」(1913年)と、余清芳が指導した「西來庵事件」(1915年)がある。

西來庵事件:1915年,余清芳於(位今臺南市)密謀抗日,遭到通緝後逃入山區。日人懐疑村民暗中支援余清芳,屠殺噍吧哖(今臺南縣玉井郷)的村民。(p. 70)
西来庵事件:1915年、余清芳は西來庵(今の台南市)で抗日を密謀したが、発覚して山中に逃げ込んだ。日本人は村民が余清芳をかくまっているものと疑い、噍吧哖(今の台南県玉井郷)の住民を虐殺した。


地方上,總督府實行警察制度,各地普設派出所。警察除維持治安外,也處理戸口調査ヽ衛生検査ヽ賦税徴収等行政事務,甚至可以直接拘役或笞打民衆。臺灣民衆甚為畏懼,稱之為「大人」。(p. 71)
総督府は地方に警察制度を敷き、各地に派出所を設置した。警察は治安維持に加え、戸口調査・衛生検査・賦税徴収等の行政事務も処理し、さらには民衆を直接拘束し笞打つこともできた。台湾の民衆は大いに警官を恐れ、「大人」と呼んだ。
※図は老照片大故事(p. 76)より。


皇民化政策

 1930年代は悪名高い皇民化の時期で、この教科書も日本語専用、創氏改名、軍属や慰安婦への動員について触れている。ただし論調は韓国の教科書ほどヒステリックでないように思える。

  1930年代,日本積極對外擴張,計畫將臺灣建設為進軍華南ヽ南洋的前哨站。因此,總督再度由將領出任,並且提出「皇民化ヽ工業化ヽ南進基地化」的統治原則。(p. 72)
  1930年代に日本は積極的に対外拡張を進め、台湾を華南・南洋に進軍するための前進基地にしようとした。このため、総督に再び将軍を採用し、さらに「皇民化・工業化・南進基地化」の統治原則を掲げた。

  1937年,中日戰争爆發,總督府正式推動「皇民化運動」,實施普及日語,鼓勵臺人改用日本姓氏,供奉日本神祇等措施,試圖籍由生活習慣的改變,將臺灣人改造為效忠天皇的順民,最終達到軍事動員的目的。推動皇民化運動的同時,總督府多次徴調臺灣軍伕,部分女子被送上前線擔任慰安婦;之後陸續推動陸ヽ海軍特別志願兵制度,甚至正式實行徴兵制度。這種全民動員的情形,直到1945年日本無條件投降才結束。(p. 73)
  1937年に日中戦争が勃発すると、総督府は正式に「皇民化運動」を推進した。日本語を普及させ、台湾人が日本の姓氏に改めることを奨励し、日本神道を信仰させる等の措置を採り、生活習慣を改めさせることで、台湾人を忠実な天皇の臣民に改造し、最終的には軍事動員するのが目的だった。総督府は皇民化運動を推進すると同時に、台湾人を軍属に徴用し、一部の女子は前線に送られ慰安婦にされた。その後引き続き陸・海軍特別志願兵制度が推進され、ついには徴兵制度が正式に実行された。こうした全人民を総動員する情景は、1945年に日本が無条件降伏するまで続いた。


圖2-1-14 出征送別紀念照
披著出征布條的青年ヽ「皇民」裝扮的親屬ヽ祈求「武運長久」的布條及太陽旗,流露悲壯的時代氣氣。(p. 73)

写真に写った出征のたすきをかけた青年、「皇民」の服装をした親族、「武運長久」の旗と旭日旗、いずれも悲壮な時代的雰囲気を表している。


原住民政策

 若林正丈によると台湾では1990年代から族群政治が顕在化し、従来の「山胞」は「原住民」が正式名称となり、教科書から呉鳳神話が削除され首狩りの風習への言及がなくなった。この教科書も、原住民の同化より弾圧を強調する内容になっている。

  日治初期,原住民時有反抗情事,但總督府無暇顧及山地事務,因此並未採取積極的作為。1900年代,總督府為開發山林資源,透過警察制度加強對原住民的控制。對於不願歸降的部落,除進行武力圍剿外,同時也強化溢勇線的作用,配合物資限制,迫使原住民屈服。(p. 74)
  日本時代初期、原住民はしばしば反乱を起こしたが、総督府の支配は山間部まで及ばず、積極的な政策を採ることができなかった。1900年代に総督府は山林資源を開発するため、警察制度を浸透させ原住民支配を強化した。帰順しようとしない部落を武力弾圧を進めたのに加え、溢勇線による包囲を強化し、物資の配分を制限し、原住民を屈服させた。

溢勇線:清代在沿山地界設置隘寮,以使壯丁守衛及圖堵原住民的活動。日治時期,隘寮數量大増,隘寮間籍聯絡道路和通訊設備互相串聯,形成包圖局勢。之後,還増設綴絲網ヽ地雷,甚至在綴絲網上通電,防止原住民越界。(p. 74)
溢勇線:清代に山地の境界に沿って隘寮を設置し、壯丁に守らせて原住民的活動を制限した。日本時代には隘寮の数が大幅に増え、隘寮間の連絡道路と通訊設備が張り巡らされ、包囲網が形成された。その後、鉄条網と地雷が増設され、時には鉄条網に電流を流して原住民が境界を越えるのを防いだ。


圖2-1-16 溢勇線
溢勇線在平時是以防禦為目的的固定性設施,但也可隨軍事計畫逐歩推移,達到包圖及縮減原住民生活圈的功能。(p. 74)

溢勇線は平時には防御を目的とした固定性設備だが、軍事計画をおし進め、原住民を包囲し生活圏を限定する効能もあった。


  原住民不満日警的強勢作為,曽發起多次的抗日行動,其中以1930年的「霧社事件」最為著名。由於霧社地區的日警態度蠻横,勞役負擔沈重,以及日人與原住民通婚後産出糾紛等因素,再加上族人因喜宴歌酒風波與日警發生衝突,部落領袖莫那魯道決定起事。事發後,日軍利用優勢武力圍攻,原住民不敵,幾乎全遭殲滅。(p. 75)
  原住民は日本警察の強引なやり方に不満で、しばしば抗日行動を起こしたが、中でも1930年の「霧社事件」が最も有名である。霧社地区の日本警察の態度は横暴で、労役の負担は重く、日本人と原住民の通婚後の出産も紛糾の原因になっていた。そこに結婚式での日本警察との衝突が原住民を怒らせ、部落の首長モーナ・ルダオは反乱を決意した。事件発生後、日本軍は優勢な武力で鎮圧に当たり、原住民は対抗できず、間もなく殲滅された。

通婚糾紛:總督府為統治之便,鼓勵日警娶原住民頭目或有地位者的女児為妻。當日警調離山區時,往往拗棄原住民妻子,引起族人不滿。莫那魯道的妹妹就遭此不幸。(p. 75)
通婚の紛糾:総督府は統治を容易にするため、日本人の警官が原住民の頭目や有力者の娘を娶って妻とすることを奨励した。しかし警官が離任する際に、原住民妻子を遺棄することが往々にしてあり、原住民の不満を買っていた。モーナ・ルダオの妹も、このような不幸を経験していた。


圖2-1-19 日軍炮撃原住民
日軍出動警察ヽ陸軍・以大砲ヽ飛機,甚至國際禁用的毒氣攻撃原住民。(p. 75)

日本は警察と陸軍を出動させ、大砲と飛行機を投入し、さらに国際条約で禁止されていた毒ガスを使って原住民を攻撃した。



日治時期的經濟

基礎建設

 この教科書は、初期の日本による近代的所有権と金融制度の確立、交通網のようなインフラの建設、稲作や製糖産業の振興策をかなり好意的に記述している。一方、1930年代以降の戦時経済政策に対しては批判的な論調も見られる。

  日治初期,反抗事件不斷,軍費支出龐大。總督府為増加財政収入,陸續將鴉片ヽ樟腦等物資列為專賣,專賣収益成為總督府重要財源。此外,總督府為改善臺灣経済條件,獲取物産資源,積極進行基礎建設。(p. 78)
  日本時代初期、反乱が絶えず軍事支出は膨大なものになった。総督府は財政収入を増やすため、アヘン・樟脳といった物資を次々と専売制にし、専売の収益は総督府の重要な財源となった。この他に、総督府は台湾の経済条件を改善し、物産資源を獲得するために、インフラの建設を積極的に進めた。

(一)土地與林野調査
  清領時期,臺灣土地所有權關係複雑。日治以後,總督府針對已墾農地與山林原野,先後進行土地與林野調査,以便確定徴租對象,増加田賦収入,進而保障土地交易安全。此外,更趁機將大批未登記所有人的林野収歸國有,轉賣給資本家,籍此吸引投資或設立企業。(p. 78)

(一)土地・林野調査
  清朝時代の台湾の土地所有関係は複雑だった。日本時代になると、総督府は既に開墾されていた農地と山林・原野に対し、相次いで土地・林野調査を実施した。それによって徴税対象の確定を容易にし、税収を増加させ、土地取引の安全性を保証するのが目的だった。この他に、所有者が登録されていない林野があれば国有地として接収し、それを資本家に転売することによって投資や企業の設立を誘導した。


(二)人口普査與舊慣調査
  自1905年起,定時擧行的人口普査,使總督府得以控制人口動態,有效動員臺人。以漢人的法制ヽ經濟等為對象的舊慣調査,有助於日人了解臺灣舊有習慣,掌握風俗民情。(p. 79)

(二)人口センサスと旧慣調査
  1905年以来、定期的に実施された人口センサスは、総督府が人口動態を統制し、台湾人を動員するのに有効だった。漢人の法制・経済等を対象とした旧慣調査は、日本人が台湾固有の習慣を理解し、風俗民情を掌握するための助けになった。


(三)金融整頓
  清末開港通商後,各國貨幣都可在臺灣流通,導致幣制混亂。日治以後,總督府成立臺灣銀行,統一發行貨幣。度量衡規制的統一,確保交易的公平,也有助於經濟發展。(p. 79)

(三)金融の整備
  清末の開港後、通商が始まると各国の貨幣がすべて台湾で流通し、貨幣制度の混乱を引き起こした。日本時代に入ると、総督府は台湾銀行を設立し、貨幣の発行を統一した。度量衡も統一され、交易の公平性が確保されたことも経済発展の助けになった。


(四)交通建設
  陸上運輸方面,基隆到高雄間的縱貫鐵路於1908年全線通車。糖廠出資鋪設的鐵道ヽ聯絡各城鎮的公路也陸續完成,使得臺灣島内的人員往來與物資運輸更加便利。對外港口方面,為了聯絡日本内地與東南亞地區,分別擴建基隆港與高雄港,臺灣因而成為往來東亞的重要中繼站。(p. 79)

(四)交通網の建設
  陸上運輸の面では、基隆から高雄に至る縦断鉄道が1908年に全線開通した。製糖会社が出資して敷設した鉄道や都市間を結ぶ幹線道路も次々に完成し、台湾島内の人の往来と物資の輸送はさらに便利になった。海上輸送の面では、日本内地や東南アジアの各地との連絡のために、基隆港と高雄港がそれぞれ拡張され、台湾は東アジアの往来において重要な中継点となった。


圖2-2-3 日治時期縱貫鐵鎌路路線圖
日治時期,縱貫鐵路通車,不但連通臺灣西部平原,也促進了交通與經濟發展。(p. 79)

日本時代に完成した縦断鉄道は、台湾西部の平原を連結したことに加え、交通と経済の発展を促進した。


農業の発展

 最後まで貿易収支が赤字だった朝鮮と異なり、台湾が早くから黒字に転じたのは、樟脳やサトウキビといった農産品のお陰である。この教科書は、総督府の農業振興策の役割を肯定的に記述している。

  日治前期,總督府實行「農業臺灣ヽ工業日本」的政策。除積極推動蔗糖和稲米的生産外,清代已有的茶葉ヽ樟腦,以及地方産業皆有所發展。(p. 80)
  日本時代、総督府は「農業台湾・工業日本」の政策を実行した。サトウキビと米の生産を積極的に推進したのに加え、清代から存在した茶葉・樟脳によって、地方の産業はすべて発展した。

  蔗糖方面,總督府協助日本資本家建立機械化的新式糖廠,並提供資金援助ヽ指定原料採収區域ヽ保護市場等措施,使得新式糖廠逐漸取代傅統糖[广部]。産品質量大為改進,製轄業成為日治時期最具代表性的産業。(p. 80)
  製糖については、総督府は日本の資本家が機械化された新式製糖工場を建てることを奨励し、加えて資金援助・指定原料採集区域・保護市場といった措置を提供した。これによって新式の製糖工場が次第に旧来の製糖場を駆逐して行った。産品の質量とも大幅に改善され、製糖業は日本時代の台湾を代表する産業に成長した。

  稲米方面,總督府修築水利灌漑設施,並於各地成立農會,推廣新品種和新技術。例如:八田與一主持完成的嘉南大圳,將嘉南平原改造為臺灣的穀倉。歴經多年培植成功的「蓬莱米」,也在總督府大力推廣下,産量倍増,大量運銷日本。(p. 80)
  稲作については、総督府は水利灌漑設備を修築し、加えて各地に農業組合を設立し、新品種と新技術を普及させた。たとえば八田與一の指揮下で完成した嘉南大圳は、嘉南平原を台湾の穀倉地帯に改造した。長い年月を経て改良に成功した「蓬莱米」も、総督府の大々的な推進によって普及し、産量は倍増し日本に大量に輸出された。

  日治時期,樟腦為重要的專賣収入,茶葉因新品種的栽種更加興盛,一度是銷售歐洲的熱門商品。另一方面,香蕉ヽ鳳梨,以及大甲的蘭草編織等都是著名特産,臺灣地方産業開始有了初歩的發展。(p. 81)
  日本時代、樟脳は重要な専売収入源となり、茶葉は新品種の栽培によってさらに隆盛し、一時はヨーロッパでブームとなり飛ぶように売れた。他方、バナナ・パイナップルから大甲区(台中市内)の藍染織物等に至る著名な特産物によって、台湾の地方産業は初歩的な発展を遂げ始めた。


圖2-2-6 八田與一像與嘉南大圳
嘉南大圳改善嘉南平原農業用水不穏的情形,農産量因而大増。(p. 80)

嘉南大圳は嘉南平原の農業用水の氾濫を防止し、農産量を大幅に増加させた。


戦時経済政策の変遷

 この教科書は韓国の教科書と異なり、軍需工業の発展に対しても好意的である。戦時中の経済警察と配給制度に対しては批判的だが、米軍の空襲にも言及しており、日本批判一辺倒ではない。

  1930年代以後,日本加速向外擴張,臺灣成為日本前進南洋的基地。總督府為達成「農業南洋ヽ工業臺灣」的政策目標,加速推動工業化,1934年完工的日月潭水力發電所提供廉價電力,帯動工業成長;配合戰爭目的而設立的化學ヽ金属等軍需工業也有高度發展。(p. 82)
  1930年代以降、日本は対外膨張を加速させ、台湾を日本が南洋に進出するための基地とした。総督府は「農業南洋・工業台湾」の政策目標を達成するために、工業化を加速させた。1934年に完工した日月潭水力發電所は、廉価な電力を提供し、工業の成長をもたらした。また戦争目的のために設立された化学・金属等の軍需工業も、高度な発展を遂げた。

  另一方面,總督府為有效管制物資的生産與流通,因此設立經濟警察,強制臺民繳交農産,並按身分等級發放米ヽ肉等物資,嚴格執行配給制度,臺灣民衆生活更加困窮。再加上美軍於日治末期,經常轟炸臺灣,港口ヽ工廠多遭受嚴重破壊,臺灣的經濟生産幾乎陥於停頓。(p. 82)
  他方、総督府は物資の生産・流通を効率的に管理するため経済警察を設立し、台湾人が農業に専念するよう強制し、身分等級に応じて米・肉等の物資を支給する配給制度を厳格に執行したため、台湾民衆の生活は困窮の度を加えた。さらに米軍は日本時代の末期、盛んに台湾を空襲し、港湾や工場が大規模に破壊され、台湾の経済生産もしばらく停滞した。


圖2-2-11 日月潭水力發電所
1934年完工的日月潭水力發電所,是當時亞洲最大的水力發電所。(p. 82)

1934年に完工した日月潭水力発電所は、当時アジア最大の水力発電所だった。



日治時期的社會與文化

植民地教育の進展

 総督府の教育政策に対しては、この教科書は差別待遇と機会の不平等を強調し、どちらかというと批判的である。

  日治時期,總督府致力於推廣西式教育制度,且為保持日人殖民優勢,採行差別待遇ヽ隔離政策的原則。(p. 84)
  日本時代、総督府は西洋式教育制度の普及に尽力し、かつ日本人の植民優勢を保持するため、差別待遇・隔離政策の原則を採用した。

  初等教育方面,在臺日人就讀小學校;臺人就讀公學校,學習日語和現代知識,特別重視培養道徳的修身課程;原住民的教育機構則以「蕃童教育所」為主,由警察兼任教師,以便加強統治。1943年,總督府實施義務教育,規定學齢児童皆須入學。至殖民統治結束前,學齢児童入學率約為70%。(p. 84)
  初等教育の面では、在台日本人は小学校に就学したが、台湾人は公学校に就学した。そして日本語と現代知識を学んだが、特に道徳を培養する修身課程が重視された。原住民の教育は主に「蕃童教育所」で行なわれ、警官が教師を兼任することによって、さらに統治を強化した。1943年、総督府は義務教育を実施し、学齢児童は必ず入学するよう規定した。植民統治末期には、学齢児童の入学率は約70%に達していた。

學習日語:總督府為方便溝通ヽ推展政策,因此積極推廣日語。隨著日語的逐漸普及,許多日語字彙成為臺灣人民日常生活用語。食物方面,如味噌(miso)ヽ生魚片(sashimi);居住方面,如榻榻米(tatami)等。(p. 85)
日本語学習:総督府は意思疎通と政策推進のため、積極的に日本語を普及させた。日本語が次第に普及するに従い、多くの日本語が台湾人民の日常生活用語に入り込んだ。食物では味噌(miso)や生魚片(sashimi)が、住居に関しては榻榻米(tatami)等がその例である。

  中等及其以上的教育以實用為原則,特別注重發展師範學校ヽ醫學校和工ヽ商業學校等職業教育,由於升學名額少ヽ限制多,臺人未能享受平等的教育機會,因此臺籍士紳籌辨臺中中學校(今臺中一中),顯示了臺灣人爭取自身權益的企圖心。總督府推行内地延長主義期間,採「日臺共學制」,取消臺人就讀中等以上學校的限制,但臺ヽ日共學的情形並不普遍。(p. 85)
  中等以上の教育では実業教育を原則とし、特に師範学校・医学校と工・商業学校等の職業教育の発展が重視された。しかし募集人員が少なく制限が多いため、台湾人は平等の教育機会を享受できなかった。そこで台湾の有力者たちは台湾中学校(今の台中一中)を設立し、台湾人が自身の権利を勝ち取ろうとする企図心を顕示した。総督府が内地延長主義を推進していた期間は「日台共学制」が採用され、台湾人の中等以上の学校への入学制限が撤廃された。しかし日台共学が普遍的に実施されることはなかった。

  1928年,總督府設立臺北帝國大學(今國立臺灣大學),倣為南進政策的研究中心。此大學主要招収對象為在臺日本子弟,臺籍學生比例低。由於高等教育環境並無顯著改善,不少人選擇赴日本或中國留學,他們回臺後成為推動改革的要角。(p. 85)
  1928年、総督府は台北帝国大学(今の国立台湾大学)を設立し、南進政策の研究センターとした。この大学は主に在台日本人子弟を受け入れ、台湾人学生の比率は低かった。このため高等教育の環境はあまり改善せず、少なからぬ台湾人が日本や中国への留学を選択した。彼らは台湾に戻って後、改革運動の中心となった。


近代社会の建設

 近代化の項ではアヘン・纏足のような悪習の廃止、公衆衛生政策、市区改正と近代的な景観の出現、日本的規律の導入などが扱われており、総督府の政策を非常に高く評価している。この部分はカラー図版も豊富で、学生は日本統治時代に対する明るいイメージを持つだろう。

  日人來臺後,視臺民吸食鴉片ヽ纏足ヽ辨髪等風俗為陋習。針對鴉片間題,總督府基於管理及増加税収的考量,將鴉片列為專賣。後因健康觀念的建立,吸食人數日漸減少。此外,由於士紳提倡,再加上警察和保甲的宣導,放足斷髪的風氣逐漸形成。(p. 86)
  日本人は台湾に来て、台湾人のアヘン吸引・纏足・辮髪等の風俗を陋習とみなした。アヘン問題に対しては、総督府は管理と税収増を考慮して、アヘンを専売制にした。その後健康観念が確立すると、アヘン吸引者は次第に減少した。この他、指導層が提唱し警察と保甲が宣導して、纏足廃止と断髪の気風が次第に形成されて行った。


圖2-3-4 裏小脚的阿嬤與放足後的摩登少女
日治時期,放足風氣逐漸形成,不僅改變審美觀,也使女子拓展生活視野。(p. 86)

日本時代、纏足に反対する風潮が次第に形成され、単に審美的に改善されただけでなく、女子が活動の場をひろげるのにも貢献した。


  總督府擔心臺灣環境髒亂引發傳染病,因此致力於近代公共衛生和醫療制度的建立。例如:推廣防疫ヽ清潔等觀念,建設自來水ヽ地下水道等設施。各大城鎮籍市區改正計畫完成都市更新,戲院ヽ鐘錶行ヽ百貨公司等新型商店更為城市増添近代化的様貌。(p. 86)
  総督府は台湾の環境が伝染病を蔓延させていると考え、このために近代的な公衆衛生と医療制度の確立に尽力した。たとえば防疫・清潔等の観念を普及させ、上下水道等の施設を建設した。各大都市は市区改正計画によって近代都市に生まれ変わり、劇場・時計台・デパート等の新型商店は都市の姿をさらに近代的なものにした。

市區改正:即都市更新計畫。日治時期,臺灣各大城鎮經過重建或拆遷,陸續出現寛敞而筆直的街道ヽ歐式風格建築與地下水道等公共設施。(p. 86)
市区改正:都市開発計画のこと。日本時代、台湾の各大都市は取り壊しと再建を経て、広く直線的な大通りやヨーロッパ式の建物や上下水道等の公共施設が続々と出現した。


圖2-3-5 臺北水源地風景明信片
日治初期,總督府在今臺北市公館地區建取水口ヽ設淨水場,供應住戸日常用水。(p. 86)

日本時代初期、総督府は今の台北市交換地区に水源を引いて浄水場を建設し、住民に日常用水を供給した。


圖2-3-7 憂北新世界館
新世界館於1920年[启攵]用,位於今西門町,為當時看電影及戲劇的地方。(p. 87)

新世界館は1920年に今の西門町に落成し、映画館と劇場を兼ねた施設だった。


  清代的臺灣公權力不彰,社會治安不良。日治以後,總督府不僅利用警察和保甲維持秩序,防範犯罪,更透過學校教育與司法制度的建立,臺灣民衆逐漸養成守法習慣。(p. 87)
  清代には台湾の公権力の所在は不明瞭で、社会の治安も良くなかった。日本時代に入ると、総督府はしばしば警察と保甲を利用して秩序維持に努め、犯罪を防止した。また学校教育と司法制度が確立し、台湾民衆の間に遵法の習慣が次第に養成されて行った。

  清領時期,臺灣以農暦記日。日治以後,總督府透過教育及公共宣導,引進一週七天的星期制與格林威治的標準時間制,培養守時的習慣。也改變了臺民的生活規律。(p. 87)
  清時代の台湾は農暦で日付を表していた。日本時代に入ると、総督府は教育の浸透と公共宣伝を通じて、七日を一週間とする週間制とグリニッジ標準時にもとづく時間制を普及させ、また時間を守る習慣を育てた。これによって台湾人の生活も規律正しいものに変化した。


圖2-3-9 守時宜傳海報
總督府即製海報,宜傳「時間就是金錢,時間不等人,請相互守時」的觀念。(p. 87)

総督府はこのようなポスターを作って「時は金なり、時間に待ったなし、お互いに時間を守りましょう」という観念を宣伝した。




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