重監房について

概略
 「重監房」とは、国立ハンセン病療養所栗生楽泉園に設置されていた、ハンセン病患者のための監禁施設である。正式には「特別病室」という名称であった。1938年に旧・癩予防法の懲戒検束規定に基づいて設置され、1947年までの9年間にわたって運用された。施設はコンクリート、鉄材、木材による堅固な独房施設であり、独房に到達するまでに数層のコンクリート壁に設けられた鍵付きの扉を通らなければならなかった。暖房はなく、医師による医療行為も行われなかった。運用された期間に、「特別病室収容簿抜き書き」によれば、全国から93名のハンセン病患者が収監された。このうち、収監中に内部で死亡した者(獄死者)が14名、監禁中に衰弱して出所後に死亡したとされる者(出所後死亡者)が8名に達する。このように、施設の性格は「病室」ではなく「監禁・懲罰」目的に設計された施設であることは明確であった。


法的な位置づけ
 重監房には、設置の根拠となった法律がある。それは、1916年に、旧・癩予防法(法律第11号、1907年制定)が改められ、ハンセン病療養所の所長に対して懲戒検束権が与えられた。これは、裁判の手続きを経ずに、所長の裁量によって患者に懲罰を与え、拘束する権限である。これを受けて、全国の療養所に患者の監禁施設(「監禁所」、「監房」等と呼ばれた) が設けられた。これらの監禁施設では、一定期間患者を監禁し、食事の量を減らす(減食)といった「罰」が与えられた。重監房が象徴する日本のハンセン病患者への懲戒検束が、米国等、患者への厳しい隔離政策を採った諸外国と比較しても特異といえるのは、法律のもとに、公的に、かつ非常に厳しいものとして行われた点にある。つまり、法規を逸脱した行為や私刑の類いとして、ハンセン病患者に暴力が振るわれたというのではなく、正式な法律の定めの下で厳しい懲戒検束の制度が運用されていたという点に注意すべきである。

懲罰制度の二層構造
 しかし、戦前の指導的な療養所関係者のなかには、そのような通常の監禁だけでは不十分だという強い意見があった。典型的なのが、次に掲げる、光田健輔の一文である。

    ・・・この懲戒検束という軟禁的な制裁は、凶暴なものに対してはほとんどききめがなかった。・・・結局、ライは刑の対象にならないという誤解が改められ、ライ刑務所ができなければライの凶悪犯は絶えず、可憐な、多くの善良な病者がこうむる苦痛や迷惑は一通りでない。・・・草津の楽泉園ができたのち、全国療養所長会議によってこの困難を法の定める範囲の中で解決しようとして楽泉園内に堅固な監禁所を作って逃走を不可能にすることにした。(光田健輔『回春病室』朝日新聞社、1950年)

このように、彼らはハンセン病療養所内に刑務所を設置することを主張したが、これはすぐには実現せず、その代替策として群馬県吾妻郡草津町の国立ハンセン病療養所栗生楽泉園に建造されたのが、特別病室いわゆる「重監房」である。重監房は、単なる一療養所の懲罰施設ではなく、日本のハンセン病医療全体の懲戒検束制度のなかで、「最高刑」を与える「国家施設」として設置された、ということができる。 

施設の概要と監禁の実態
 重監房は、1938年の12月24日に竣工した。施設はコンクリート、鉄材、木材による堅固な監禁施設であり、建物全体が高さ4メートルほどの厚いコンクリート壁に囲まれ、内部には8室の監禁室があった。監禁室に到達するまでに数層のコンクリート壁に設けられた鍵付きの扉を通らなければならなかった。監禁の実態について1947年にメディアが報じ、国会(衆議院厚生委員会)でも議題となった。これによりこの年で運用が終わっているが、当時の記録(特別病室収容簿)には、1939年から1947年までの8年間で93名が収監されたことが記されていた(栗生楽泉園患者自治会「栗生楽泉園特別病室真相報告」1947年9月5日。『栗生楽泉園患者50年史』栗生楽泉園患者自治会、p. 497−507に採録)。そのうち死亡したとされる者が22名に上る()。収監中に内部で死亡した者(獄死者)が14名、監禁中に衰弱して出所後に死亡したとされる者(出所後死亡者)が8名である。獄死者の死亡時期、および出所後死亡者が出所した時期を季節別に見ると、22名中18名について、11月から3月までの冬期に集中している。このことは、監禁が特に冬期においては過酷な条件であったことを示している。監禁室は、それぞれコンクリート壁で囲まれた区画内に置かれていたが、屋根は監禁室の部分にのみ設けられていて、その周囲は露天にさらされていた。冬にはこの区画に雪が積もり、白根山東斜面中腹という立地条件による低温と、建物の構造による採光の悪さのためにその雪が融解せず残ったと考えられる。さらに、逃走を防ぐ目的で土台が低く作られていたために、地面からの冷却も厳しく、冬期の監禁室はかなりの低温状態になったことが推測されるが、暖房設備は一切なかった。遺体を運び出した人の話によると、遺体を霜が覆い、床に凍りついて引きはがすのに苦労したこともあったという。
 このような過酷な環境にも関わらず、監禁日数は長期に及び、全収監者の平均で131日に達する。500日以上という例もある。死に至らしめるような厳罰を与える運用がなされていた実態が、これらの記録によって明らかであろう。表には、記録に記載のあった死因をそのまま転記している。「特別病室」という名称の通りに、内部には診察室がしつらえられていた。しかし、そこに医師が立ち入って治療を行ったことはまったくなかったという。ただ看護師が時折処置をするのみで、患者への食事の運搬などは、患者に任された作業であった。医師は衰弱してゆく患者の治療をすることもなく、ただ運び出されてくる監禁者の死亡を確認するのみであったという。

表 重監房監禁者の死亡について

 「特別病室収容簿抜き書き」(栗生楽泉園患者自治会「栗生楽泉園特別病室真相報告」1947年9月5日。『栗生楽泉園患者50年史』栗生楽泉園患者自治会、p. 497−507に採録)より。死因についてもそのまま転載した。

重監房の写真、図


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