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■住居の意味(言語を通じて見た住居の意味)

私たちは今日言葉なしに考えることができません。一つ一つの言葉の中には必ず意味が含まれていると同時に、それ自身が性格をさえ持っており、言語の背景に生活がにじみ出て来るように思われます。

建築・家づくり ルーツ探訪 5.
(ジンバブエ・ニャンガ地方)
住居に関する言葉を拾ってみる事は、住居に関する概念をはっきりさせるのに本当に好都合の参考資料となります。その発生した頃の概念と、私たちの現在考えているものとは、違うかもしれません。しかし、古い過去の追体験は不可能でしょうが、かなり当時の生活体系をのぞき見する事が出来そうです。以下に、住居をどのように考えて来たのか日本語を主体として取り出して見ようと思います。
 
先ずはじめに「スマイ」という言葉を拾ってみますと。これは「住み居る」即ち住居、住所を意味しています。そして、「住まう」とは「栖」であり、スミのミは接尾語で、この進行形がスマヒ、続けて住むことにつながります。「スム」とは国語辞書『大言海』によれば「澄む」に通じ、落ち着く意味であります。居着くこと、居所を定めることが第一義で、古くは男が女のもとに通って語り合いすること、同棲をも意味し、そして、これは行為のみならず、その行動の結果をも意味するようになったのです。
「澄む」という語からは濁りがなくなり、曇りがなく明らかになります。冴える、物静か、落ち着くなどの意味が出て来ますが、人間の連想の過程がそのまま表現されています。
 
外国語にも住居に関係ある言葉が語源的に同じ連想から生まれています。例えばフランス語のレジデンス(邸宅)はルセアン即ち「座して居る」という古語から、また、英語のマンション(邸宅)、フランス語のメーゾン(家)は共に、ラテン語のマーネレ(止まる)、さらに、ギリシャ語のメノ或いはサンスクリット語のマン(考える、落ち着く、一緒に執着する)などに端を発していると言われています。
英語のドゥウェリング(住家)はドゥウェル(停まる)という動詞の進行形であり、動かないと言うこと、定住と言うことが住居への出発点であった気持ちを示しています。
 
次に、住居を意味する言葉で「イヘ」があります。これは具象を持って場を表現したものです。イは接頭語でへは容器です。坏、盃、杯の字音ハイと同語で、これがヘとなったものです。
朝鮮語ではベであり、ケ(簡)に対立して、形状の大小に拘わらず広く容器を意味しました。このヘ(容器)が戸となり、ヘ(戸)が内容をも意味するようになって、それを区分するために接頭語のイがついたとされています。「イヘ」は、はじめ住むためにつくった器である「建物」を意味していたが、やがて自宅、わが家、または家を意味し、さらに家族一族の意味から家柄、門地に及んでいます。
このことは英語のハウス(house)、ドイツ語の(Haus)、ラテン語のドムス(domus)、フランス語のメーゾン(maison)等々も同じで、住むためにつくられた建物と同時に、家族とか一族とか、或いは家事全般を指すこともあります。
 
ヘは家を数える時にも用いられます。ヘ(戸)の字音コが今日では多く用いられるが、コという音は元々トコロのコに通じ、あそコ、こコ、どコと言い、みやコ(都、ミは敬語、ヤは屋根、ミヤは宮)といった用語があります。
これがカと訛って、ありカ、すみカともなったと言われています。このカ(ク、コ)は抽象的な言葉でですが、これに対し、タ(チ、ツ、ト)田、道、津は具体的であり、トは扉に、そして、そト(外)につながっています。特にコ(戸)の場合、必ずしも家屋の数ではなくて、内容の世帯を数えるのに用いることが多かったよう です。
 
建物の存在することが、住居、住まうこと等を観念するものとして採り上げられることがあります。日本語で「ヤ」というのは、もとは全て屋蓋を意味しました。ヤは重ねるであり、覆うことでした。
雨の多い国であることから、先ずこれを凌ぐための覆いができたことが想像されます。
ヤねといい、あつまヤ、なヤという。また、ヤど(宿)、ヤしき(屋敷)、葺く草をかヤと呼び、こうして建物の上を覆う屋根、人の住まうところ(わがヤ)即ちスミカ、イエとなり、転じて商工の家称(やおヤ、さかなや、あらものヤ等々)となり、或いは、屋号といわれて単にのれんを表象するしるしとなって、ついには、個 人に対して接尾語として「しまりヤ」とか「しまつヤ」などと嘲笑的、侮辱的な扱いをされているのです。
 
建物の部分が次第にその意味を拡充されるもう一つの例としては、ケン「軒」ムネ「棟」(軒は屋根の下端、棟は屋根の頂)などがあり、これらは、純然たる建物を数えるのに用いられています。私たちは中国から象形文字を受け継いだ形から来るものの多くを見落とすわけには行きません。
「家」という字は、これはもと屋根の下に豕(ブタ)即ちそのままとれば豚屋ということになるますが、中国人は豚肉を常食としていたところから人の「家」に転じたとされています。
 
また、日本の古代に於いては一般の民家をムロ(窖、室)と呼んでいました。これは韓国語のウム即ち地下室と同源とされ、それにロという接尾語がついたものであり、はじめは穴の住居を指していたものが次第に地上のものも同様に呼ぶようになったと思われます。これに敬語のミをつけて、ミムロ(御室、室に同じ)ともなっ たのです。
 
細かに観察すれば、このように住居に関する言葉は国々によって少しずつ違った考えを背景に持っていることが読みとれます。このことは単に言葉の発生時期のみに適合されるばかりでなく、現代に至ってもそれぞれの歩んできた道の相違があり、時と共に考えは変わったりして、地方、地域によっても違っているのです。
 
建築・家づくり ルーツ探訪6.
(ジンバブエ・ニャンガ地方)
以上、ここに拾い集めた言葉の中から、住居の概念として如何なるものが示されているか次に要約してみました。建築・住まいづくりの原点であるとも思われます。
 
1. 住居とは、先ず休息する所であること、これは止まる、滞る、静、等の義から考えられる。
2. 人がつくったもので、屋根や柱、壁があり、それが一定の場所を占めていること。
3. 住居はその建物の内容に触れて、男女関係、夫婦から親子に及び、さらに、家族としての共同生活を営む小さな集団そのものを意味するようになっている。
 
■ 住居の形態
 
ここに、アトリエで手がけた住宅作品を建築・住まいづくりの形態について紹介する。
しばらく3年ほど住宅から離れた仕事と生活をしていたが、つい最近になって、また、関わりあうことになって来た。ホームページで住宅相談室を設置し、欠陥住宅問題を取り上げ、また、高齢者や身障者の住環境問題などに取り組むことになったからである。
 
そこで、今まで一つ一つ建築主から設計依頼を受けた過去の作品について眺めてみると、果たしてこれまで責任を果たしてきたかどうか反省させられることがたくさんある。
個々の住宅には私なりの表現を生かして来たつもりであるが、そうした努力が10年以上経過した時代の流れの中で、現在の建築主に受け止めてもらっているかどうか不安でもあり、メンテナンスがその後どうなっているかなども気になっている。
 
ちなみに、設計・監理を一貫して行った住宅関係の主要なものを年譜と共に掲げて見る。
 
1988年 初台の家1 H 邸(鉄筋コンクリート造地下1F地上2F)
1989年 野田の家1 A 邸(木造2F)
1989年 田無の家1 F 邸(鉄筋コンクリート造地下1F地上2F)
1990年 初台の家2 N 邸(鉄骨造3F+木造増築)
1991年 野田の家2 I 邸アトリエ(木造平屋)
1991年 野田の家3 分教会+M 邸(鉄骨造3F)
1992年 市川の家2 Y 邸(木造2F)
1992年 野田の家4 N 邸(木造増築)
1995年 高崎の家3 A 邸(木造2F)
1995年 前橋の家1 K 邸(木造2F)
 
これらの中から幾つかを拾い上げ、想い出方々説明を加えてみようと思う。

建築・家づくり ルーツ探訪 7.
(ジンバブエ・ハラレ郊外バランシングロック)
初台の家では夫婦と男子大学生それに女子高校生という標準の4人家族世帯であった。
住宅の設計は、先ず、建築主がどれだけの空間を必要としているかではじまる。
 
和室、寝室、台所、その他等々が必要だといった概念ではなくて、ある生活行為をするために、どれだけ隔離を確保して欲しいかと言うことなのである。それは例えば便所の計画のように、玄関やホールから見た場合など、完全に隠れた所にして欲しいという要求から、便所へ行く姿もわからないような所にして欲しいという微妙 な違いまでに及ぶ。
 
特に、現代のように個人の尊重を重要としている時代では、いろいろ多様な家族構成では平面計画や配置が最も重要なウエートをしめると言って良いだろう。この時は個室と寝室をほとんど分離したうえで広いホールでこれをつないだ。
 
そうして、食堂、台所、居間は特別に区切るでもなく、一家団らんの形式として隔離を全く要求しない計画とした。容積が充分にあれば、それぞれの要求を満足すべき空間をつくることもできるが、小さな面積の中でこれらを満足させることは非常に難しい。
 
そこで隔離にしろ、つながりにしても、一体何を隔てたいのか、何をつなげたいのかを考慮することになる。見る、話す、聞く、触れる、臭い、歩く、等々に分析してみると、案外その中の一つだけで満足してしまう事を知ることがある。
 
窓などは最も良い例である。眺望、通風、採光、時間的な変化、造形的な装飾など様々な役目を持っている。この部分は主として、内外の境界についての隔てとつなぎの役目を受け持っている所だ。
 
しかし、ここでも矛盾した問題がわき出て来る。暖かい日差しの入ることを希望し、且つ、冷たい風は遮断したいと欲する。涼しい風は通したいが西陽の射し込みは非常に困る。
広く大きな眺めは欲しいが、セキュリティは不安となる。等々、反対の要求はいくらでもあげられる。
これなどの要素を分析して考えて行くと、意外に簡単な解決方法が見つかるのではないか。
 
住宅を建築する場合、先ずは土地を確保する必要がある。しかし、どんな土地でも良いというのではない。一般的には経済が支配して、他の部分は我慢しなければならないことが多い。建築場所にしても、広さにしても、これを充分満足させようとすると、予算が苦しくなり、限度が決まってしまう。
  
初台の家では、与えられた敷地のなかで、何とか希望を満足させるため、地下に駐車場と書斎を見出し生かすことにより、限度に対する代償の解決をはかった。これが設計の妙味ではなかったか。
 
田無の家は東西に細長い敷地、南北が逆三角形で、北側は一段高くなった所に西武新宿線が見下ろして走っているという条件であった。しかし、わずかに東側に希望があった。
地下に駐車場を計画することで唯一、緑の空間が得られたのである。都内の一戸建てにとってせめてもの心休まる自然の確保を強調した想い出がある。
 
都内の場合は必ず駐車場の確保も必要となっているようだ。
車社会、市街地の密集化と共に、経済的な問題も大であり、今後、地下室の利用計画は益々進化して行くと思われる。 
 
野田の家・は、駅舎ホームの西側真ん前に建つ象徴的な複合建築であった。3〜4メートルの崖地上に、要求面積を削らず、住居と教会を目一杯混合した鉄骨の3階建てである。
 
神殿・礼拝場と住まいをどのように隔離するかが重要な課題であった。
或いは、老夫婦と若夫婦の水廻り、幼い子供達の家族室、数多い信者の間や集会室、奉仕室の平面配置。それに、双方が互いにクロスしないような換気設備やら電気設備の配慮に神経を費やしたものである。
  
これら、いつも建築主はこちらの理論に賛成してくれるとは限らない、しかし、納得してくれた時は本当に嬉しいものである。
基本設計の段階から実施設計の段階には様々な打合わせが行われる。構造的に問題はないか、経済的で機能的であるかないか、気に入った美観が得られるか、隣家の対策はどうか、設備計画に問題はないか、理に叶った省エネ計画が可能であるか、竣工後のメンテナンスは、性能保証は等々。限りなくある。
 
前橋と高崎の家では、地元で焼かれた粘土瓦を葺いて伝統的質感を表現することだった。住宅設計では屋根の仕様によっては、構造上の制約、景観上の表現がかなり違ってくる。ここでは、10以上の能力を持つと言われる十能瓦を注文することになった。
 
この瓦の形状は実に個性的であった。葺きあがった瓦は和洋どちらにも機能しており、不可思議な表情を人々に与えて行く。やはり、これは半還元炎で焼かれた素焼き瓦の微妙な色調が建物全体に影響した結果であろうか。時として、この様な埋没された伝統的な物の再発見が、地場産業の見直しへとつながって行くような気がして頼もしくもあった。
 
住まいは建築のはじまりであり、終わりであると言われる。この頃では世界的に、地球環境問題が重要な課題となってきている。一方、日本国内では環境保全、省エネルギー、省資源等々、高齢化・少子化問題、ゴミ処理の対策をも含め、この方面での建築・住まいづくりの発展を考えて行くことが重要と感じている。
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