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ヒンデミットとナチス、そしてフルトヴェングラー


 さあて、交響曲「画家マチス」の最後は、この曲の作曲家であるヒンデミットの話。 有名な「ヒンデミット事件」というのがあったので、フルトヴェングラーがらみで知っている人も多いと思う。 だから書くのが怖いんだけど・・・

略歴

 パウル・ヒンデミット(Paul Hindemith)は1895年11月16日、フランクフルト近郊のハーナウという所で生まれた。 9歳からヴァイオリンを習い始め、1915年から1923年にはフランクフルトの歌劇場のコンサートマスターに就任し、1921年から1929年まではアマール=ヒンデミット弦楽四重奏団のヴィオラ奏者をつとめていたんだ。

 作曲家としての華々しい経歴は第一次世界大戦後からで、彼の音楽が<新即物主義>と呼ばれたり、また当時盛んに言われた<新音楽>の旗手として目されていたりしたのもこの頃だった。 彼は新古典主義的な作品や、ジャズの手法を取り入れた作品なども書き、先鋭的で実験主義的な作風で、音楽会に波紋を巻き起こした。

 ヒンデミットは、演奏家であり作曲家であると同時に、教育家であり理論家でもあったんだよ。 1927年からはベルリン音楽大学で作曲を教え始めているんだけど、こうした教職活動というのはその後も生涯を通じて行われているんだ。

 1930年代に入ると、その作風は革新から円熟へと向かっていく。 しかし、この頃からナチスによる圧力がかかるようになり、1938年にはスイスへ移住することになってしまった。 このあたりの詳しい話は後で話すからね。 とりあえず、この先を書いていこう。

 1940年、彼はアメリカに渡り、イェール大学の教授となる。 合衆国時代には教育活動にもかなりの重心が置かれ、<伝統的和声学(全二巻)>や<音楽家の基礎練習>といった著書も刊行されている。 この時代で有名な曲と言えば「ウェーバーの主題による交響的変容」だよね。 でも、この頃書いた一連のソナタも高い評価を受けているんだ。

 さて、1953年にはイェール大学も辞めて、スイスのチューリッヒに住まいを移した。 晩年はもっぱら指揮者として活動し、日本をはじめ世界各地を訪れたという話だよ。 そして1963年12月28日、彼の生まれ故郷の近くのフランクフルトで永眠した。

歌劇「画家マチス」

 ヒンデミットは1930年、交響曲に先立って歌劇「画家マチス」を完成させているんだ。 グリューネワルトの晩年に近い、1524〜25年にかけての人生が歌劇に描かれている。 この16世紀の初めは宗教界が堕落していた。 教会の仕事を中心に描いていたグリューネワルトは、教会に関係しながらそれを否定するといった矛盾に陥っていた。 ヒンデミットが注目した1524〜25年頃、グリューネワルトが住んでいた近くで起こった農民一揆が失敗したのを契機にフランクフルトに移り、石鹸や絵具の製造の職を見つけたけども、その二年後に死を迎えた。 なぜヒンデミットはこの時期のグリューネワルトに目を付けたんだろう?  画家「マチス」の時代と、ヒンデミットの時代。 この共通点は・・・

そして交響曲へ

 ヒンデミットが歌劇「画家マチス」を完成させた1930年、当時のドイツはナチスが勢力を伸ばし、やがて独裁へと向かうところだった。 1929年に初演されたヒンデミットの歌劇「今日のニュース」をヒトラーの音楽相談役で太鼓持ちのハンフシュテングルが見ていた。 劇中に出てくる風呂に入った裸の女の場面をことさら強調して、この太鼓持ちがヒトラーに報告したんだ。 ``食欲も性欲も持たない''といわれているヒトラーにとって、ヒンデミットは好ましからぬ音楽家となった。 結局、歌劇「画家マチス」は上演禁止を言い渡されたんだ。
 そして交響曲「画家マチス」が世に出ることになる。
第一楽章『天使の合奏』、これは「キリスト降誕」の絵だったよね。 第二楽章『埋葬』、そして第三楽章は『聖アントニウスの誘惑』で、誘惑には試練という意味もあったね。 これを「画家マチス」ではなく、「ヒンデミット」の立場で考えてみようか。

  「降誕」= 歌劇「画家マチス」の完成。
  「埋葬」= 歌劇の上演禁止。
  「誘惑(試練)」= ナチスによる弾圧。

これって考えすぎ?

フルトヴェングラーの場合

 次は立場を変えて、世界的指揮者の目から見てみよう。 ベルリン・フィルの指揮者であるフルトヴェングラーは、1934〜35年の国立歌劇場のシーズン・プログラムで、ヒンデミットの新作オペラ「画家マチス」を取り上げることにしていた。 ところがある日、歌劇場長官のゲーリングから、ヒトラー総統の許可が出るまでは「画家マチス」の上演は一切禁止せよとの通達が出された。 そして結局、ヒトラーから「ヒンデミットのオペラの上演を禁止する」との最後通告がなされたんだ。

 こうして歌劇「画家マチス」の上演は完全に不可能となったけど、幸いにも演奏会用の曲は許可されていたので、ヒンデミットはそれをもとにして交響曲「画家マチス」を書き、1934年10月、フルトヴェングラーはこれをベルリン・フィルで初演したんだ。 「画家マチス」は見事に成功を収め、そのニュースが各国に流れると、各団体からこの曲を取り上げたいとの意向が殺到することになる。
 でも、この成功はかえってナチスの反感を買う結果になり、ナチスの機関誌は一斉にヒンデミット批判に出た。 ナチスはヒンデミットがユダヤ人であるという嘘(本当はアーリア人)をでっち上げ、さらには彼の音楽芸術さえも価値ないものとして、ヒンデミットを徹底的に痛めつけた。 ヒンデミット自身はこれらの批判について終始沈黙を守っていたけども、フルトヴェングラーは黙ってはいなかった。 フルトヴェングラーはナチに対して徹底したヒンデミット擁護の態度を打ち出し、やがて「ヒンデミット事件(の場合)」という論文を発表する。

 論文は有力紙「ドイッチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥンク」(ドイツ語を知っている方、これって「ドイツ大衆新聞」とかいう意味ですか?)の日曜版の第一面を飾り、たちまち評判を呼んだ。 新聞は、売り子の手からひったくられるようにして買われ、その日あまりにも売れすぎて、さらに増刷しなければならなかったほどらしい。
 論文が発表された当日の午前は、ちょうどベルリン・フィルの公開練習があり、この勇気ある発言に賛同する人々が会場を二重三重に取り囲み、やがてフルトヴェングラーが楽屋口に姿を見せると、彼をめがけて人の波が押し寄せたという。 もちろん会場の中もすごかった。 彼が舞台に現れた瞬間、聴衆は全員立ち上がって足を踏みならし、歓声を上げた。 フルトヴェングラーは20分間、公開練習を始めることが出来なかったそうな。 そしてその日の夕方も・・・。

 同じ日の夕方、国立歌劇場でワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」がフルトヴェングラーの指揮、ベルリン・フィルの演奏で上演された。 その状況をフルトヴェングラーの秘書を務めたガイスマーに語ってもらうことにしよう。 「切符は完全に売り切れてしまっており、ゲーリングもゲッペルスも共に各自の専用桟敷席に収まっていたが、フルトヴェングラーがオーケストラ・ピットに姿を見せたとたん、朝のフィルハーモニーで起こったのと同じことが起こった。 何者でも止めることのできぬ、あたかも永遠に続くかと思われるほどの拍手が劇場いっぱいに広がった。 あの素晴らしい前奏曲が始まり、憂愁につつまれた美しい雰囲気が作品をいっそうもりあげて、それはすべての聴衆の心に深く浸透していった。 終演後にもまた開演の時のような拍手の嵐が再現した」(『フルトヴェングラーと共に』筒井圭 訳)。

 聴衆、そして国民の大半が論文「ヒンデミット事件」に対して支持の意思表示をした。 事の重大さを察した歌劇場長官のゲーリングは、ヒトラーにフルトヴェングラーが聴衆と一緒になって国の権威を踏みにじろうとしていると報告した。 そして彼はこの職を辞めることになる。 超一流の指揮者ゆえ、各国のオーケストラから誘いがかかったけれど、それらを全て断ってドイツ国内にとどまった。 「この国はどう向かっていくのか、俺は見届けなければならぬ」と考えたのか、芸術に対する不当な弾圧に対して「俺は逃げんぞ!」と考えたのか・・・


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