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画家「マチス」


 一般に画家「マチス」と言えばフランスのアンリ・マチス(Henri Matisse:1869-954)のことでしょう。 というわけで、今回の主役である「画家マチス」ことマティス・ゴタールト・ナイトハルト(Mathis Gothardt-Neithardt:1475?-1528)は、ほとんど通称のマティアス・グリューネワルト(Matthias Grunewald)で呼ばれています(ドイツ語での発音はグリューネヴァルトの方が近いかな)。 ここでも例にならってグリューネワルトと書くことにします。

画家「マチス」

 さあ、困った。 本題に入りたいんだけど、「聖アントニウス」のときみたいに伝記というものがなく、彼の人生についてはほとんど分かっていないの。 まあ、しょうがないからヒンデミットが注目した彼の晩年についてのみ書きましょう。

 アントニウス教団はドーフィネ州の領主であるガストンが、丹毒にかかっていた息子がアントニウスの加護によって治ったことを感謝して設立したもので、イーゼンハイム教会はその教団の主流をなし、教会は病気の人々の治療の場と化してにぎわいをみせていたんだ。 当時は聖者の名前が特定の病気と結びついていて、「聖アントニウスの火」といえば「壊疸性麦角中毒」のことで、このことから「聖アントニウスに焼かれてしまえ」などといった呪いの文句が人々のあいだを飛び交っていたらしい。 こうした状況のもと、グリューネワルトにイーゼンハイムの祭壇画の依頼があったんだね。
 こうした背景をふまえた上で「聖アントニウスの誘惑」をもう一度見てね。 左下に描かれた老人?を見てみよう。 そこには腹が異常に膨れ上がり、皮膚が赤くただれた人物が見えるね。 その上に描かれた、マントをはぎ取ろうとしている怪物の腕にも(この絵ではよく見えないかもしれないけれど)皮膚病の跡のようなものが見られる。 イーゼンハイムの修道院は丹毒の療養所になっていたので、第一面の「キリストの磔刑」も含めた精密な描写は、この療養所の死体安置室で写生したものではないかと言われているんだ。

 さて、グリューネワルトが祭壇を描いたのは1515年。 その2年後の1517年にルターの宗教改革の運動が起こり、それを引き金として各地で農奴制の解放を求めて農民一揆があいついだ。 ヒンデミットが歌劇「画家マチス」で注目した1524〜25年頃、グリューネワルトが住んでいた近くで起こった農民一揆が失敗したのを契機にフランクフルトに移り、石鹸や絵具の製造の職を見つけたけども、その二年後に死を迎えた。 実は彼の死後、釘付けになった引き出しの中からルターの著書が見つかっているんだ。 つまり、彼はルターを信奉していたと思われるんだね。 教会のお抱え画家だったグリューネワルトにとって、自己矛盾を感じながらこの絵を描いていたのかもしれないな。 そう思いながら棒きれを握っている右側の怪物を見ると、思うような武器を持てない農民の、体制に対する反抗を描いていると見えないこともない。 さらにもう一つ。 普通、画家がサインをして自分の描いた絵であることを証明する場所(つまり絵の右下ね)には、例の ``Ubi eras bone Jhesu / ubi eras, quare non affuisti / ut sanares vulnera mea?'' (主よどこにおられたのですか? なぜ最初のときはここに来てくださらなかったのでしょうか? それになぜわたしの傷も治してくだされなかったのでしょうか?)という「うらみ」ともとれる言葉が書いてある。 少なくても、それに対する主の答えは書いてない。 上部に描かれた主の姿が答えになるかもしれないけれど、「助けに来た」というには距離が遠すぎるような気もする。

 さて、この祭壇画も「聖アントニウス」の遺骨と同様、フランス革命や二度の大戦を避けて各地を転々としているの。 そして現在は、この絵が描かれたイーゼンハイムの近くにあるコルマールのウンターリンデン(`菩提樹のもと'という意味)美術館に置かれているよ。


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