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聖アントニウスの生涯



 英語圏ではアンソニー(またはアントニー)、フランス語圏ではアントワーヌ、イタリア語圏ではアントニオなどと呼ばれているけれど、ここではラテン語読みのアントニウスで呼ぶことにします。 もちろん彼は存在したんですよ。
 さて、その生涯なんだけど、司教アタナシオス(295?-373)の書いた『聖アントニウス伝』だけが唯一の文献みたいなんだ。 まあ、奇跡や悪魔の話を信じるか信じないかは別として、彼の生涯を見てみましょうや。

聖アントニウス

決心

 聖アントニウスは西暦251年、中部エジプトのコマという村(現在のクマン)で生まれたそうな。 ところで、このアントニウスという名前は、ana (上に)、tenens (保持している)、の合成語で、「上なるものを保持し現世を軽蔑する者」を意味するらしいの。 一家は裕福で、両親は高貴な身分を有していたらしいです。 両親が敬虔(けいけん)なキリスト教徒だったので、彼もまた生まれながらにしてキリスト教徒として養育されていたんだ。

 彼が二十歳になったころ両親が死に、彼のもとには幼い妹が残された。 両親の喪があけた(って、オラよう知らんけんど、49日目が過ぎたってことか?)ある日のこと、いつものように教会へ行くと、福音書の次の言葉が耳に入ってきた。 「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。 そうすれば、天に宝を持つようになろう。 そして、わたしに従ってきなさい。」(『マタイ伝』第十九章の21)  彼はこの言葉にすっかり感動して、教会を出ると一目散に家に帰り、両親の残してくれた土地をすべて村の人々に与え、家財については自分と妹の分だけ残し、残りは貧しい人に恵んでやった。 彼はこうして福音書の言葉を忠実に実行したんだけど、ふたたび教会に戻ると、今度は同じ福音書のなかの「だから、あすのことを思いわずらうな。 あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。 一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(『マタイ伝』第六章の34)という言葉を聞き、彼はもう何も悩むことはないと考えて、二人のために残していたわずかな家財も人々に与え、一方、妹は知りあいの修道女にその養育をたのみ、苦行への一歩を踏みだすことになった。

第一の苦行

 最初に彼が苦行の地として選んだのは、自分の住んでいた村から少し離れたところらしい。 アントニウスは他の苦行者との交流から、経験をつんだ彼らの忠告や行いに進んで従い、みずからも修行を重ねることで、苦行者として生涯をささげるつもりでいた。 でもね、考えてみれば彼はまだ二十歳そこそこの若者なのよ。 一、二年の修行で神の使徒になるってぇのはしょせん無理な話なの。 そこをついて悪魔が襲うわけなんだな。 有名な「聖アントニウスの誘惑」のまずはデモンストレーションって訳。 悪魔が現れては、財産、妹のこと、家族の絆、金銭欲、名誉欲、食欲、人生の楽しみごとといった、彼が断ち切っていた現世のもろもろのことをまず最初に、そして最後には美徳のきたなさ、美徳が要求する辛い労働を問題にしながら、苦行をすぐに止めるようにと挑みかかってきた。

 アントニウスの祈りは悪魔を追放するまでにはいかなかった。 すると今度は、悪魔は女に姿を変えて彼を執拗に誘惑しはじめる。 アントニウスはこの誘惑にも何とか耐え(あなたは耐えますか?それとも「据膳喰わぬは男の恥」?)、これを最後に悪魔は第一回目のデモンストレーションを終えた。

第二の苦行

 アントニウスは、自分の中にもっと過酷な苦行をしたいという感情が生まれてきたんだ。 たぶん二十四〜五歳の頃、村から遠く離れたところに地下墓地を見つけ、そこで第二の苦行生活を送ることにした。 でも、また悪魔が襲いかかってきた。 ある夜のこと、悪魔の一群が侵入して彼をめった打ちにしたので、声をだせないほどの苦痛で彼は地面を転げまわったという。 痛みと疲労で彼の身体は死人同然になっていたけども、祈りをささげると、彼は次のように叫んだという。 「われアントニウスはここにいる、傷などから逃げられるか。 きさまがもっとたくさん傷を負わしたところで、わたしをキリストの愛から離すことなどできない」。 おお、すごい。 悪魔との戦いに出たよ。 悪魔の方もアントニウスの挑戦に応え、「まあ、みていろ。 姦淫の術、はたまた殺傷ではうまくいかなかったが、別の手でおまえをかならず打ちのめしてやるわい」とやりかえし、悪魔はおおぜいの仲間とともにやってきた。 悪魔のいった「別の手」、すなわち猛獣に姿を変えてアントニウスめがけていっせいに襲いかかってきたんだ。 アントニウスは全身傷だらけになり、地面にたおれこんでしまった。

 ちょうどそのとき、アントニウスが天井をみあげると明るい一条の光が射し込んできて、悪魔たちを残らず追い散らした。 アントニウスはこの光がなにを意味するかすぐに分かったね。 いうまでもなく、その光は主が授けた救いの手だった。 彼は、それまで恐怖でひきしまっていた心に安らぎ取り戻した。 そこで、彼は主に向かって 「主よどこにおられたのですか? なぜ最初のときはここに来てくださらなかったのでしょうか? それになぜわたしの傷も治してくだされなかったのでしょうか?」 と言うと、どこからともなく「アントニウスよ、私はあなたのそばにいた。 しかし、あなたの戦いぶりをみたかったからそのままにしていたのだ。 あなたはじつに勇敢に戦った。 私はこれからいつでもあなたに救いの手をのべよう。 そしてあなたの名声を広く伝えよう」という言葉が返ってきたという。 そして、この言葉を聞くと、彼は立ち上がり熱心に祈った・・・

第三の苦行

 アントニウスは地下墓地で三十五歳まで過ごしていたらしい。 でも、ある日のこと、アントニウスは神にたいする奉仕をもっと強烈なものにしたいという思いが生まれてきて、地下墓地をでる決心をしたんだ。 彼はピスピルの山に向かい、無人の荒れた砦を発見して、そこを第三の修行の地にした。 そして砦の扉を閉めきったままで、およそ二十年間にわたって厳しい修行を続けることになる。
 アントニウスが砦で過ごした二十年間、彼は一度もそこから外にでず、また誰ともいっさい会わなかった。 その極限的行為はやがて人々の間で話題になり、ピスピルの砦の近くにはアントニウスにあやかろうという人々でいっぱいになった。 各地から砦めがけて人々がいっせいに押しかけてきた。 彼はそうした人々を前にして説教をした。 こうして山には修道院が建ち並び、砂漠は修道僧の群でいっぱいになった。 ちなみに、当時のエジプトでは、全人口の半分が修道僧だったと言われているんだ。
 アントニウスはこうして文字通り「修道院の創設者」あるいは「修道士の父」となり、砦からでた後の数年間、彼のもとに集まって来た修道士たちに自分の体験を語って聞かせたりしながら、その指導的な教育にあたった。

第四の苦行

 アントニウスは砦からでたあとの数年間、彼を慕って集まった修道僧たちとともに生活したんだけど、これは修道僧たちの強引な押しかけにしぶしぶ応じていたもので、彼としては不本意な生活を送っていたんだ。 そして、六十を越えたアントニウスは、第四の修行の地としてコルズム山に向かうことになる。
 アントニウスはコルズム山に引っ越ししてから頻繁に奇跡を起こしている。 後になって、彼が病気(特に丹毒やペスト)を治す聖者として崇められたけれど、それは彼の起こした奇跡の大半が病気の治療だったからなんだ。
 アントニウスがコルズム山に入ったのが312年(六十一歳)で、死去したのが356年(百五歳)。 その間のおよそ四十年間は修道士の教育、奇跡(病気の治療)、それと苦行の繰り返しの毎日であったらしい。

そして・・・

 ある日、アントニウスは神から自分の死が近いことを知らされた。 彼の高齢を考えて苦行をともにしながら世話をしていた二人の弟子がいたので、アントニウスは彼らを呼びつけて、自分がもうすぐ死ぬということ、それに死んだ後の埋葬のことなどについて、まぁ、いわゆる臨終の言葉を言った。 言葉を聞き終わると、弟子の二人はアントニウスを抱きしめた。 彼は横になったままで足を広げ、弟子たちがそばにいてくれることにほほえみを浮かべた顔で応えた。 そして、やがてアントニウスは彼らのもとを旅立ち、天の兄弟の仲間に入っていった・・・
 弟子の二人はアントニウスの言いつけに従って、彼の死体を誰にもわからないところに埋葬した。 でも、彼の死後およそ二百年たった西暦561年にその墓が発見されているんだ。 発見された聖骨はまずアレキサンドリア、そしてコンスタンティノポリスに運ばれ、さらに1000年ころになってフランスはリヨンの近くのベネディクト会修道分院へ、1491年に同じくフランスのランス近郊のサン・ジュリアン教会へといったぐあいに転々として今日に至っている。


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