■親の心子知らず、子の心親知らず(1)■


1.とーちゃんの話
 
 その日、小岩井はよつばを連れて、自転車で食料の買い出しへ出かけた。秋も深まり、風が案外と冷たい。首筋を撫でる空気の流れに、小岩井はぶるりと肩を震わせた。前を走るよつばには、出かける前に薄手のマフラーをぐるぐるに巻いてきた。自転車の邪魔にならないよう、長すぎるマフラーを首の後ろで大きな蝶結びにしたのだが、かわいいことはかわいいが、小型犬がリボンをつけられている様を連想させなくもない。ちゃんとサイズの合うマフラーを買ってやろう、そうだそろそろ自分も上着を出そうか、あれ、どこにしまったっけ?──そんなことを考えながら、小岩井はペダルを踏みしめた。
 買い出しの帰り道、よつばは形ばかりの軽い荷物をカゴにいれ、ご機嫌で小さな自転車を漕いでいる。
「おーい、もうちょっとゆっくり進め」
「らじゃー!」
 と返事だけは良いよつばは案の定、その言葉の意味を全く了解していないらしい。人通りが少ないのをいいことに、補助輪付きの小さな自転車はそれなりにスピードを増していく。少し前まではゆっくりふらふら漕いでいたのに、本当に子供の成長は早い。
 小岩井は小さく苦笑し、自転車を止めた。
「よつば、ストップだ」
 素直に自転車を止めたよつばに、小岩井は重々しく告げた。
「これからお前に、重大な任務を与える」
「にんむ、か」
 よつばも小岩井を見上げ、真剣な顔で答える。
 小岩井は自分のカゴから卵のパックを取り出し、よつばの自転車のカゴにはいっている小さなマイバッグにそっと入れた。
「今日はよつばを『たまご運搬係』に任命する」
「たまごうんぱんがかり?」
「そうだ。走るのが早いと、揺れて卵が割れてしまう。だから、ゆっくり慎重に走るんだ」
「たまごがわれたらどうなる?」
 小岩井はさらに重々しく答えた。
「明日の朝ごはんの目玉焼きが、ぐちゃぐちゃになる」
「ぐちゃぐちゃか……! それはたいへんだな!」
「ああ、大変だ。だからゆっくり走るんだ。周りに自動車や人がいないかも、ちゃんと確認するんだぞ」
「らじゃー!」
 小さな手で敬礼のポーズを取り、よつばはゆっくりと自転車を漕ぎ始めた。その様子を見ながら、小岩井はそっと優しく微笑んだ。
 
 
 
 先程よつばの自転車が早いと感じたのは、よつばの成長のせいばかりではなかったらしい。どうもペダルが重い。タイヤが少し潰れているように見える。
「よつばー、ちょっと寄っていくぞ」
 坂田自転車店の前で、二人は自転車を止めた。
「ひげもじゃー!」
「いらっしゃい、よつばちゃん。と、お父さん」
 お父さん、と言う時の声がなんだか微妙に低く聞こえたが、小岩井は気にしないことにした。
「空気入れ、借りてもいいかな?」
「どうぞどうぞ」
 坂田が愛想良く、案内する。
「これをここに繋いで、スイッチを入れるだけです」
「へえ、空気入れって今は電気で動くんだ」
「とーちゃん、これはなにするもの?」
「これはな──」
 興味津々のよつばと、なんとかそれを説明しようとする小岩井の姿を坂田が後ろから眺める。
「よつばちゃん、自転車はどう? 乗れてる?」
 坂田の声に、よつばがはっとした顔で自転車を見た。
「よつばな、きょうはたまごうんぱんがかりなんだ」
「たまごうんぱんがかり?」
「そうだ、ゆっくりはしらないと、めだまやきがぐちゃぐちゃになるんだ。たいへんだ」
 小岩井が説明するより早く、事情を察知した坂田がにっこり笑った。
「それは大変だなあ。じゃあ、ちゃんと安全運転しないとな」
「うん!」
 よつばがにっこりと笑う。つられて、小岩井も頬を緩める。
「いいお父さんですね」
 坂田の言葉に、小岩井は曖昧に笑った。
「空気入れ、ありがとう」
「いえいえ、いつでも来てください。修理はもちろん、人生相談もいつでもどうぞ」
 自転車店に来るたびに毎回言われる台詞に、小岩井はまた、曖昧に笑った。
 人生相談、という言葉にどうも含みを感じる。目の前の自転車屋が悪人だとまでは思わないが、こういう場合、うっかり相談などすると存外に高くつく、ということを、小岩井は経験で知っていた。かと言って毎回聞き流すのもちょっと面倒だ。
 何か当たり障りのない話で逃げるか──
 小岩井は口を開いた。
「相談ってほどじゃないんだけど」
「何でしょう?」
 待ってました、という腹の底などおくびにも出さず、坂田が尋ねる。
「俺の後輩で、やんだってのがいるんだけど──」
「やんだ!?」
 しゃがみこんで空気入れ機を熱心に眺めていたよつばが、カッと目を見開き、小岩井を見上げた。
「よつばちゃん、やんださんって知ってるの?」
「やんだ、あいつは、なかす」
 強い意志を込めて堂々と言い放つよつばに、小岩井は苦笑した。よつばに聞こえないように声を潜め、坂田に話しかける。
「いや、そいつのことなんだけど──」



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