■贖罪の日(1)■
虎徹が最愛の存在を失ってから三年が過ぎていた。
「虎徹? 寝ちまったのか?」
返事はない。
グラスを持ったまま目を閉じて、虎徹はソファにくってりと身体を預けていた。顔がほんのり赤く、口はだらしなく半開きだ。
アントニオは苦笑した。
ついさっきまで、独自の熱いヒーロー論やら今日の細かな出来事やらをしゃべりまくっていたのに、急に静かになったと思ったら、これだ。
虎徹の手からゆっくりとグラスを取り上げ、テーブルに置く。
いつものようにバーで飲んだ後、飲み足りないと言う虎徹の言葉に異存はなく、アントニオの部屋で飲み直していたのだ。
虎徹の寝顔を眺めながら、アントニオは自分のグラスに口をつけた。
最近、このパターンが多いような気がする。どちらかの部屋で飲むと、いつの間にか虎徹は眠ってしまう。
眉間に皺を寄せることもなく、穏やかに眠る虎徹の姿に、アントニオは自然に顔を緩めた。自惚れるつもりはないが、自分が傍らにいることで虎徹が眠れるのであれば、つきあいの長い親友として、とても嬉しい。
以前はひどかった。眠れずに濃い隈を作った顔で出動し、犯人に対して明らかに無謀な突撃をしたこともある。アントニオが止めても深酒をやめなかった時期もある。酔いつぶれ、何に対するのかも分からない謝罪の言葉を繰り返す虎徹を、ただただ子供のように撫でてやることしかできなかった。
それを思えば、今の安らかな寝顔は嬉しい。
嬉しいが、あまりに無邪気な寝顔に、こちらの忍耐を試されているような気にもなる。
いや、実際のところ、とっくに忍耐はきれているのだ──
アントニオは虎徹の隣に座り、肩を軽く揺さぶった。
「おい、ここで寝るな」
「……んー……」
聞こえているのかいないのか、返事ともつかない声を出したきり、虎徹は動こうとしない。
アントニオは優しく虎徹の頭を撫でた。起きる様子がないことを確認し、ゆっくりと顔を近づける。
──これくらいは許してくれよ──
心の中でつぶやき、そっと唇を重ねる。触れるだけの口づけが、虎徹の穏やかな吐息と体温をアントニオに伝える。
こうして唇を重ねるのは、これで何度目だろうか。
最初は眠る虎徹の頬を撫でただけだった。それがいつの間にか、指で唇に触れていた。指が自分の唇に変わるまで、さほどの日数はかからなかった。
それは虎徹が知らない、アントニオだけの秘密だった。
アントニオはゆっくりと唇を離した。虎徹は眠ったままだ。
唇に残る熱が、アントニオの理性を僅かに溶かす。
もう一度だけ、と顔を近づける。吐息同士が触れ合ったその瞬間、琥珀色の瞳がアントニオを射抜いた。
驚きに目を見開くアントニオの首に、腕が絡みつく。目だけで笑い、唇が僅かに形を変える。
ゆっくりと引き寄せられるまま、アントニオは唇を深く重ねた。
「ん……」
どちらからともなく、舌を差し出す。遠慮がちに、次第に深く、舌が絡み合う。
アントニオの舌が次第に激しさを増す。虎徹がそれを受け止めるように甘く舌を絡める。
それはまるで、恋人同士のキスのようだった。
しばらくのあと、ようやく唇が離れた。虎徹がもう一度、ちゅっと軽く唇を重ねる。アントニオは今更ながら茫然と、それを受け止めた。
「気づいていたのか」
「当たり前だろ。こう毎回じゃ、な」
「……すまん」
「謝るなよ。……知ってたのに知らんぷりをしたのは俺の方なんだから」
アントニオを正面から見上げたまま、虎徹はからかうように笑った。
「ていうかお前、確信犯だろ? ばれても俺が拒否しないって分かってやってただろ」
「……っ!」
図星を指され、アントニオは思わず目を逸らした。
「虎徹……俺は……」
一瞬の躊躇の後、アントニオは虎徹の身体を強く引き寄せた。胸の中に倒れ込んでくる、自分よりは細身の身体を強く抱きしめる。
「俺は……ずっとお前が好きだった」
絞り出すような声で、アントニオは言った。自分の身体が震えているのが分かる。腕の中にいる虎徹の顔は見えないが、きっとこの震えは伝わっている。情けないことは承知の上で、でももう、言わずにはいられなかった。
しばらくの沈黙の後、虎徹の小さな声が聞こえた。
「うん……知ってた」
アントニオの腕の中で、虎徹が僅かに顔を伏せた。
「虎徹……俺は……」
「なあ、アントニオ。俺、本当のこと言っていい?」
「え?」
「すげー情けない話なんだけどさ。後からバレて嫌われるとショックデカイから」
虎徹はアントニオの腕から抜け出し、ソファに座りなおした。思い詰めた苦しそうな表情に、アントニオの心がズキリと痛む。
──俺のせい……か?──
虎徹はアントニオの方を見ず、俯いたまま話し始めた。
「お前さ、俺が寝てる時に何度もキスしただろ」
「……ああ、そうだな」
今更、隠すことでもない。アントニオは正直に答えた。
「俺さ、本当はお前がもう、力任せに襲ってくれねえかな、って思ってた」
アントニオは絶句した。その顔をちらりと見て、虎徹が自嘲気味に笑う。
「そうしたら、言い訳立つだろ? お前のせいだ!って。ひどいこと言ってるって、分かってるよ。でもさ、怖かったんだよ」
「……怖い? 何がだ?」
アントニオはようやく、言葉を絞り出した。虎徹が何を言いたいのかが分からない。襲われるのが怖い、と言うのなら理解できるが、そういう話でないことは明らかだ。
虎徹は再び俯き、言葉を続けた。
「俺さ、今まで同時に二人を好きになったことなんてなかったんだよ」
「……そうだな」
出会う前のことは知らないが、虎徹はずっと、友恵以外の人間に心を奪われたことはなかった。それはアントニオが一番良く知っていた。
「友恵に会う前のガキの頃もさ、誰かをちょっと好きになると、それまで好きだった奴のことなんてすっかり忘れちまうんだ」
「まあ、普通そんなもんだろ」
二股三股が平気、という人間の感覚は、アントニオにも理解できない。もっともアントニオ自身、虎徹を想ったまま、その場しのぎの女とつきあってきたから、そういう意味ではあまり偉そうなことは言えない、という自覚はある。
虎徹が静かな声で続けた。
「そもそも、友恵のことが忘れられないのにお前を好きになること自体、ダメだよな。ケジメつかねえしさ。お前に悪いっていうか、お前の気持ち踏みにじっちゃってるって、分かってんだよ。なのに俺は、どっちか一人なんて選べなくて……」
虎徹が拳を握りしめる。
アントニオは黙って、虎徹の言葉を待った。
「それだけでもサイテーなのにさ、俺が本当に怖いのは……」
虎徹の声は泣きそうな自嘲に震えていた。
「……怖いのは……これ以上お前を好きになっちゃったら……俺、友恵のこと忘れちゃうのかな……って思ったら……それが怖くて……」
言い終わった虎徹の膝に、涙が落ちた。
「虎徹……」
アントニオは虎徹を強く抱きしめた。今まで自分は、虎徹の何を見てきたのか。虎徹がどれだけ深く妻を愛していたか、分かったつもりで全く分かっていなかった。そして、どれだけ自分のことを考えていてくれたのか、知ろうともしなかった。
──俺は馬鹿だ──
虎徹を腕に包み込んだまま、アントニオは穏やかに言った。
「お前は忘れたりしない。忘れなくていいんだ」
「……っ」
「大丈夫だ、お前が忘れるわけがないだろ」
アントニオは、心の底から、願いを言葉にした。
「頼むから……忘れないでくれ」
虎徹が肩を震わせた。
「ごめん……ごめん、アントニオ……」
小さな声で泣く虎徹を、アントニオはしっかりと抱きしめた。
虎徹が落ち着くまでの間、アントニオは頬に瞼に、たくさんのキスをした。やがて虎徹が顔をあげた。感情を吐き出したことが恥ずかしいのか、目線を彷徨わせながら、それでもアントニオの頬に手を伸ばす。
その手を引き寄せ、アントニオは唇を重ねた。
「ん……」
虎徹が僅かに唇を開き、それを受け入れる。
アントニオはゆっくりと、虎徹をソファに押し倒した。虎徹は逆らわず、潤んだ目でアントニオを見上げた。
「愛している、虎徹」
耳元で囁きながらアントニオは虎徹の首元に指を這わせ、ネクタイを解いた。虎徹の身体が僅かに強張る。あやすように目元に口づけながら、シャツのボタンを外していく。
虎徹が望むとおり力任せに、というわけにはいかない。愛しい相手にそんなことはしたくない。ただ──
「虎徹」
アントニオは優しく、虎徹の頬を撫でた。自分が望み続けてきたことが、本当は何だったのか、アントニオにはもう分からなかった。それほど長い時間だった。
だがもう、自分の望みなどどうでもいい。目の前の虎徹が少しでも救われるなら、それだけでいい──
アントニオは穏やかに微笑んだ。
「俺のせいにしろ。俺がお前を好きだから、お前を抱くんだ。お前に理由はいらない」
その言葉に、虎徹がアントニオを見上げた。
「……お前、なんでそんなに甘いんだよ……」
その潤んだ目に、少しだけ強さが戻っている。
「言っただろ、情けない話だって。情けないまんまにするなよ」
いつもの琥珀色の瞳が、正面からアントニオを睨む。虎徹の腕が、アントニオのジャケットを掴んで勢いよく引き寄せる。
「虎徹!?」
「俺がお前を好きなんだよ。だから俺がお前とやりたいの! 分かったか!?」
一気に言い切った後、虎徹は少し顔を赤らめて目を逸らした。
「……あーでも、抱く抱かれるで言うなら、抱いてくれた方が助かるけど……」
虎徹がちらりと、アントニオの方を見た。アントニオが表情を緩めた。
何だか泣きそうな顔で、二人は同時に笑った。
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