■ベッド(1)■
照明を適度に落としたバーの中で、虎徹はきょろきょろとフロアを見渡した。馴染みのバーテンダーに片手で挨拶しつつ、待ち合わせ相手を探す。
広く薄暗い店内で、テーブル席にいる人間を探すのは案外と難しい、ということを最近虎徹は知った。少し前までは、アントニオはたいていカウンター席にいた。だから見つけるのに苦労したことはなかったのだ。
バーテンダーが穏やかな笑顔で奥のテーブルを指すのと、そのテーブルの男がこちらを見たのは、ほぼ同時だった。
早足でテーブルに向かう虎徹を、アントニオが笑顔で迎える。
「悪りぃ、待たせた」
「いや。忙しいのか?」
「いーや。ほらこの前、ビルのガラスを割っただろ? あれの賠償金が揉めてんだよ」
ぶつぶつ言いながら、虎徹は向かい側に腰かけた。ウェイトレスに飲み物を注文する。アントニオの前には既にグラスがあり、残りは半分ほどに減っている。
「ったく、そんなこと気にしてたら、平和なんて守れねえよ。なあ?」
「俺に同意を求めるな。と言うか、お前はもう少し気にした方がいい」
アントニオが呆れ顔で、冷静に返す。
「なんだよう」
ぷうっ、と頬を膨らませて、虎徹はアントニオを睨んだ。もちろん本気ではない。その証拠に、二人とも目が笑っている。
運ばれてきたグラスを受け取り、虎徹は目の高さに掲げた。
「じゃあまあ、今日もおつかれさん、ってことで」
「ああ、お前もな」
軽く触れ合わせたグラスが、小さな澄んだ音を立てる。一瞬、二人の目線が絡み合う。
アントニオの視線に含まれる熱に、虎徹は自分の顔が少しだけ赤くなるのを感じた。
──ったく、ガキじゃねえんだからさ、俺──
自分自身に呆れながら、虎徹はグラスに口をつけた。
グラスを触れ合わせる、ただそれだけの行為で、今朝ベッドの中で交わしたキスを思い出しただなんて──恥ずかしすぎて、目の前の恋人には知られたくなかった。
親友が、親友兼恋人になって三ヶ月。
一番変わったことと言えば、数日に一回、アントニオの部屋でセックスをするようになったことだ。甘い言葉を囁き、体温を感じ、泣きたくなるような快感を分け合う。アントニオと寝るようになって初めて、虎徹は自分が人の体温に飢えていたことに気づいた。
バーでカウンター席でなく二人掛けのテーブル席を選ぶようになったのも、会話の内容にあまり気を使わなくて良いからだ。
にもかかわらず少なくとも酔いが回るまでは、二人の会話は恋人になる前の、ただの親友だった頃そのままだ。今日の仕事、職場の愚痴、ゴシップニュース。他愛のない話題で笑いあうだけで、十分に楽しい。実際、アントニオも楽しそうだ。こうしていると、以前と何ら変わりがない。
それでいい、と虎徹は思う。
むしろ、夜景の見える洒落たバーに連れて行かれて、愛の言葉など囁かれても困る。
その様子を想像し、虎徹は思わず吹き出しそうになった。
「おい、どうした虎徹」
アントニオが怪訝そうに尋ねる。
「悪りぃ悪りぃ、何でもねえよ」
笑いを噛み殺しながら、虎徹は目の前の男をちらりと見た。
──客観的に見て、結構、いい男だよな──
人によって好みはあるだろうが、逞しい体躯、肉感的な厚い唇、意外に整った精悍な顔立ち、と外見の特長だけあげてみても、悪くない。その上、何故こんなに、と思うほど優しい。厳密に言うと、虎徹に甘い。それは虎徹自身、自覚していた。
グラスを重ねるにつれ、心地よい酔いがまわっていく。
虎徹は目の前の恋人をぼんやりと見つめた。厚い唇が目に留まる。
──キス、したいな──
セックスの前の、意識まで根こそぎ持っていかれそうなねっとりとした口づけを思い出し、虎徹は無意識に唇を舐めた。
アントニオが壁の時計をちらりと眺めた。虎徹もつられて、その目線を追う。
十時を少しまわったところだ。
アントニオが遠慮がちに尋ねた。
「今日は、どうする?」
「……あー……」
グラスの残りを舐めながら、虎徹は一瞬、返答を迷った。言いかけた言葉を飲み込み、わざと横から舐めつけるような目線を送る。
「今日は無理。帰って寝るわ」
──『まだケツがダルイんだよ、このエロビーフ』──
吐息がかかるほど顔を近づけ囁くと、アントニオは苦笑した。
「エロいのはどっちだ」
テーブルの下、アントニオの足がごく軽く、虎徹の足を蹴る。
「……っ」
蹴るというより甘くなぞるようなその感覚に、虎徹は身震いした。昨夜の感覚が身体の奥に蘇る。
にやにやと笑うアントニオを睨みつけ、虎徹はグラスの残りを勢いよく飲み干した。
バーを出ると、風が少し肌寒かった。ぶるり、と猫のように肩をすくめる。
後から出てきたアントニオを視界の端に捉えながら、虎徹は以前と同じように片手をあげた。
「じゃあ、またな」
「おう」
アントニオもまた、以前と同じように返す。
アントニオの部屋は、ここから逆側だ。どちらかの部屋で飲み直すのでない限り、ここで別れるのが、二人が恋人になる前までの習慣だった。それは今も変わらない。
歩き出そうとして、虎徹は足を止めた。
「あー……アントニオ」
「ん、なんだ?」
優しい笑顔がこちらを見ている。その顔を一瞬見つめ、虎徹は、へらっとした笑顔を作った。
「なんでもない。おやすみー」
心の中にちらつく僅かな誘惑に逆らい、虎徹は歩き出した。
「おい、虎徹」
「ん?」
背後から腕を捉えられ、虎徹は振り返った。
「送って行く」
そう言うアントニオの顔は、案外と真剣だった。
虎徹は苦笑した。その真剣で真面目な表情が、逆に虎徹の中に理性を呼び戻す。
わざと憮然とした表情を作って下から睨みあげ、虎徹はアントニオの胸を人差し指で小突いた。
「あのなあ、女じゃねえんだからさ」
「いや、そういうつもりはないんだが……」
アントニオが困ったように見下ろす。虎徹は苦笑した。
──そんなに甘やかすなって──
そもそも泣く子も黙るヒーロー相手に、夜道が危険だから送って行く、などという論法は成り立たない。二人とも、それは分かっている。
捉まれた腕から伝わる体温を名残惜しく感じながら、虎徹は少しだけ顔を近づけた。
「また明日、な」
腕をするりと解き、虎徹は踵を返した。
まだこちらを見ているであろう背後の男にひらひらと手を振り、今度こそ自分のアパートへと向かう。
しばらく歩いていると、ぽつり、と冷たいものが当たった。
雨だ。
街灯に照らされた道路が、あっという間に黒く変わっていく。
「ちっ」
舌打ちをして、虎徹はアパートへと走り出した。
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