■それはまるで恋のような(1)■
──本当に、なんで俺なんだろうな──
目の前の桐山を見ながら、島田はもう何度目かも分からないその疑問を頭に浮かべた。何度考えても答えの出ない、そもそも答えがあるのかすら定かではない、それは難問だった。
桐山と二人、島田の家の和室でテーブルを挟むこの光景は、今ではすっかりこの部屋に馴染んだ。
今、桐山は島田の向かいに座り、湯気の立つ土鍋から灰汁をすくっている。なにもそんなに真剣に取らなくても大丈夫だろう、といつも思うのだが、桐山はまるで将棋盤を睨むように土鍋を見据え、少しでも泡が沸くやいなや、鬼気迫る勢いで掬い取る。なんだか、正月の百人一首の試合を見ているようだ。
ちなみに今日は、豚バラとほうれん草の鍋だ。
あまりに真剣なその様子に半分あきれつつ、島田は苦笑しながら声をかけた。
「桐山」
「あ、もうちょっとでできますから」
「そうじゃなくて、それ、見えてるのか?」
「え?」
顔をあげた桐山の眼鏡は、湯気で真っ白に曇っていた。
「大丈夫ですよ、隙間から結構見えるんです」
「いや、まあ見えているのは分かるけど、いったん拭いた方がいいんじゃないか?」
端正な顔立ちの桐山が、真っ白な眼鏡をかけている様がなんだか可笑しい。笑いを堪える島田に、桐山がしぶしぶ眼鏡を外した。でも見えるんですよ、と小さく言いながら、それでも素直にティッシュに手を伸ばす。
眼鏡を外して丁寧に拭く桐山の顔に、以前より彫の深い影が落ちている。今はもう記憶の中にしかない、出会った頃の幼さの残る顔を思い出しながら、島田はぼんやりと目の前の桐山を見つめた。
高校を卒業した後も、桐山は変わらず、時折この部屋を訪れた。出会った頃より背は伸び、顔つきもずいぶんと大人びてきた。そして対局成績は憎らしいほどに順調だ。
同じ研究会の先輩、という贔屓目を差し引いても、女性から見て条件は悪くないだろう、と島田は思う。その気になれば、お似合いの若い女性とすぐに親しくなれるだろう。まあ、安定した公務員じゃなきゃ嫌、などと言う女性はさすがに無理だろうが、島田から見れば、まだそこまで将来に拘る年齢でもない。
何より、今が一番、遊びたい時期ではないだろうか。それなのに、こんな二倍近くも年上の男の元へ通い、男二人で鍋を囲み、そして──セックスをして、一つの布団で朝まで過ごす。
そんな今の状態が、若い桐山にとってまともな状態だとは、島田には思えなかった。
──なあ、桐山。お前はどうして、ここにいるんだ?──
土鍋がくつくつと小さな音を立てる。桐山は相変らず、真剣に鍋を睨み、僅かな泡を逃さずに掬う。拭いたばかりの眼鏡があっという間にまた曇っている。本人は見えると言い張るが、島田からすれば、とてもそうとは思えない。曇っていては見えるものも見えないだろう。大切なものが見えなくて困ったりしないのだろうか。
──ああ、そうか──
不意に、その言葉がすとんと胸に落ちた。
眼鏡が曇っているなら、仕方がない。大切なものとそうでないものを見間違うこともあるだろう。眼鏡を拭くも拭かないも、桐山の意志だ。そのうち、眼鏡は曇っていない方が便利だと気づくだろう。
そこまで考えて、島田は、答えの出ない難問を放棄した。
美味そうな鍋が目の前にあり、その湯気越しに桐山がいる。揃いの茶碗と揃いの箸がテーブルの上にある。こうしていると、まるで温かな家庭のようだ。
──あと何回、こうやってメシを喰えるのかなあ──
その発想に、島田はひっそり苦笑した。まるで、独り立ち間近の息子と食卓を囲む父親の心境だ。
自分が何を考えようと、その時はやって来る。最初から分かっていたことだ。
いつか、桐山も本当の相手を見つける時が来る。それは、桐山とお似合いの、きっときれいで優しくて芯の強い女性──まあこの際、男性でもいいが──で、そしてそれは、桐山と同じ速度で人生を歩める相手だ。
その時が来たら、自分は桐山を笑って送り出すのだ。
それは、島田が桐山との関係を受け入れると決めた時に、同時に自分自身に対して決めたことだった。何が正解かなど分からない。ただそれは島田にとって最低限の、大人としての責任だった。
「島田さん、できましたよ。器をください」
明るい桐山の声に、島田は顔をあげた。目の前の器を手に取り、渡す。桐山が、豚バラと鮮やかなほうれんそうをバランスよく器に盛る。おたまを持つ手も、昔よりずいぶんと大きくなった。
「うまそうだな」
ほかほかと湯気の立つ器を受け取りながら、島田は穏やかに笑った。
島田の褒め言葉に、桐山は照れたように、そしてとても嬉しそうに笑った。
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