■体と心と大人と子供(1)■
「……負けました」
盤を挟んだ向こう側で、桐山が頭を下げた。
島田は小さく、安堵の息を漏らした。桐山がすぐさま、駒を並び替える。
「ここ、ですよね」
「ああ、そうだな、この手がこうきていれば、こう受けて……」
一対一の研究会、と言えばそうなのだろう。島田の自宅で、桐山と二人で一局打つ。もうこれで何度目だろうか。
──坊にバレたら、大変だな──
島田は僅かに、苦笑した。
決して桐山を贔屓しているつもりはないが、兄者兄者と慕ってくる二階堂を思うと、少しだけ後ろめたい。
いつの頃からか、桐山は時折、ひとりで島田の自宅を訪れるようになった。島田があまり忙しくない時、あるいは対局前に体調を崩している時、買い物袋を下げてやって来て、うどんやらおかゆやら湯豆腐やら、負担の少ない食事を作ってくれる。
島田にとってはありがたいことだが、弟子でもない桐山に日常的にこんなことをさせるのは気が引ける。遠まわしにやんわりと断ってみたが、気弱に見せかけて頑固な桐山に押し切られ、結局、二人で食べるという今の状態に落ち着いた。
食事が終われば、とりあえず一局、という流れはごく自然だ。
「あれ、でもここがこうなるとこう来るから……」
桐山が盤を睨んだまま、一人で駒を動かし、戻し、また動かす。
島田はそっと立ち上り、台所へ向かった。やかんに水を注ぎ、火にかける。
ふと、流しの脇の水切りかごが目にはいった。きれいに洗われたどんぶり鉢が二つと箸が二組、置かれている。
一人暮らしが長いせいか、同じ食器が二つある光景は不思議な感じがする。五年前にはこんな光景もあったはずなのだが、もう覚えてはいない。──いや、覚えていないのではなく、そもそも記憶していなかったのだ。今思えば、確かにその光景は目には映っていたはずなのに──
不意に、空気を切り裂くような高い音が聞こえ、島田は我に返った。湯気を吹きあげるやかんの火を止め、ポットへ移す。
ちくりと痛んだのは胃なのかそれとも胸の奥なのか。それを考えるのを島田は意図的に止めた。
「さて、と」
島田は冷蔵庫を開け、洋菓子店の紙袋を取り出した。
──あいつ分かりにくいんだよなあ、何を食わせても同じ顔でおいしいって言うから──
今どきの十八の男のおやつは何が正解なのか、未だに島田は分からない。
せっかく来るのだから、大人としては美味いもののひとつも用意しておいてやりたい。それがただの見栄だということは自覚しているが、この年になると、見栄くらいはらせろ、というのが本心だ。
最初に買ったのは、シュークリームだった。桐山がおいしいと言ったので、同じ店でエクレアやケーキも買ってみた。ガッツリしたものの方がいいかと思い、フライドチキンの店まで行ってみたこともあるが、外からメニューを見ただけで胸やけがして店に入れなかったことは、桐山には内緒だ。
どら焼きにせんべい、果ては田舎で持たされた干し柿まで出し尽くし、その全てを同じ顔でおいしいと言われ、万策尽きてとうとう今日は原点回帰だ。
部屋に戻ると、桐山はまだ盤を睨みつけていた。
「コーヒーでいいか?」
机の上にカップを置くと、その音に弾かれたように桐山が顔をあげた。
「え、あ、すみません! 僕がやりますから!」
「あー、いいっていいって」
わたわたと手伝おうとする桐山を制し、島田は二つのカップに粉をいれ、湯を注いだ。
まったく、目の前でこれだけ熱心に勉強されれば、研究会を開く甲斐もあるというものだ。
怖れを怖れと思わない若い情熱は、年を経るにつれ、ややもすると自分の中から抜け落ちてしまう。二階堂や桐山が思い出させてくれるそれは、島田にとってかけがえのない刺激だった。
コーヒーにミルクを入れながら、島田は紙袋を指した。
「それ、開けてくれ。変わり映えしなくて悪いな」
「いえ、そんなことないです、いただきます」
礼儀正しく答えながら、紙袋を開けた桐山の動きが止まった。
「……島田さん、これ……」
桐山が何かを言いたそうに島田を見た。手が小刻みに震えている。
「あれ? もしかしてシュークリーム苦手だったか?」
「いえ、違います! 違いますけど……なんでもないです!」
桐山が真っ赤な顔でシュークリームを掴んだ。勢いよくむぐむぐとそれを口に詰め込む姿に、島田は呆気にとられた。
──急にどうした? っていうか、好きなのか嫌いなのか、どっちなんだよ!?──
どちらにしても、次回のおやつは別のものにしよう──そう思いながら、島田は自分の分を手に取った。二つに割って、片方を口に運ぶ。最近の流行なのだろうか、あまり甘すぎず、でもどこか懐かしい味は、悪くはない。
「おっと」
柔らかいクリームが指に零れた。反射的に口で受け止める。
ふと視線に気づき、島田は顔をあげた。桐山が食い入るように、島田の手元を見つめている。
──えーと……──
「これ、食うか?」
判断に迷いつつ、袋に残った半分を差し出すと、桐山はまたしてもそれを口に押し込んだ。
──おまえ、シュークリームに恨みでもあるのか?──
ちょっとだけ、なんだか怖い。
とりあえず島田は、自分の分を全て食べ終えた。
次の瞬間。
ゴツン、という音とともに、額に衝撃が走った。
──!? なんだ!?──
考える間もなく、身体が後ろに倒れる。桐山に頭突きを喰らわされたのだと、気付くのに数瞬かかった。
──何か怒らせるようなことでもしたか!? っていうか、頭突きって!?──
訳も分からず、島田はとにかく起き上がろうとした。その肩を掴まれ、力任せに畳の上に押し付けられる。一瞬だけ、桐山の泣きそうな顔が見える。
再び、額に衝撃が走った。
──痛ってえ……だから、なんで頭突きなんだよ!?──
上からぐいぐいと額を押し付けられる。顔が近いせいで、額だけでなく顔のあちこちがぶつかる。鼻も口もだ。唇がふさがって、息が苦しい。掴まれた肩が痛い。
──あれ……?──
桐山が押し付けているのが額ではなく、唇だということに、ようやく島田は気付いた。驚きに、目を見開く。
──もしかして、頭突きじゃなくて、キス……なのか? これが?──
いやいや、下手すぎだろ。
島田は唖然とした。ツッコミどころが多すぎて、どうしたらいいのか分からない。俺は男だぞとか、年の差ありすぎだろうとか、打ち所が悪くて馬鹿になったらどうしてくれるんだとか──そもそもなんで俺なんだ、お前はそんなに趣味が悪かったのか、とか。
とりあえずひっぺがして説教するか、落ち着かせて理由を聞くか、それとも──
「……っ……」
桐山の息が熱い。ただただ押し付けられる唇から、もどかしさが伝わってくる。おそらく、自分からまともなキスなどしたことがないのだろう。そう思うと、島田の中に少しだけ、大人としての余裕が戻ってきた。
──ああもう……仕方ないな──
少しの迷いの後、島田はゆっくりと腕をあげた。両手で桐山の頬に触れる。
「あ……」
桐山の身体がびくりと震えた。怯えたように、唇が僅かに離れる。
島田は桐山の顎に手をかけた。親指でぐっと顎を押し、桐山の唇を開かせる。
「ほら、舌出せ」
桐山が驚いたように目を見開いた。おずおずと差し出されたそれに、島田は自分の舌を絡めた。そのままゆっくりと唇を重ね、口腔内に引き込む。
「ん……っ」
桐山の舌は熱く、柔らかかった。絡め取り、少しだけ引くと、反射的に追いかけてくる。それをまた絡め取る。たどたどしく、桐山が島田のそれを追いかける。
「……ん……ふ……」
息があがる。駆け引きを徐々に覚えた舌が、島田の舌に絡みつく。唾液が口の端から滴り落ちる。
「んっ!」
不意に上顎を舐められ、島田の身体がぴくりと跳ねた。自分の喉の奥から漏れた声に驚き、我に返る。
いつの間にか夢中になっていた、その事実に愕然とする。
考えてみれば、キスをしたのは何年ぶりだろうか。
「……っ」
桐山の舌が、粘膜の弱い部分をくすぐる。
──お前、上達が早すぎだろ!──
教えるつもりがいつの間にか、主導権を取られている。
島田はゆっくりと唇を離した。火が付きそうになった身体を理性で鎮め、努めて穏やかな表情を作る。桐山は真っ赤な顔で、戸惑ったようにこちらを見つめていた。
「とりあえず、離してくれないか。肩が痛いんだ」
「え、あ、すみません」
慌てたように桐谷が手を離す。起き上がろうとして、島田は動きを止めた。
桐山はまだ、島田の上に馬乗りになったままだった。このままでは起き上がれない。
「おい、桐山──」
「あ、あの……」
赤い顔のまま、桐山が身じろいだ。島田の腹に密着した下半身から、硬い熱が伝わってくる。
──あー、若いもんな、しょうがないよな──
とりあえず抜いてこい、と言いかけて、島田は言葉を止めた。
──前にもこんなことがなかったか?──
その瞬間、島田の中で全てが繋がった。
そうだ、あれは、シュークリームを初めて買った日だ。
あの出来事は、島田にとって深い意味はなかった。年の離れた、例えるなら弟のような少年の、甘酸っぱい悩みを少し手助けしただけだ。桐山にとっては忘れてしまいたいことだと思っていた。だから島田自身も、すぐに忘れてしまったのだ。
だが、桐山は忘れていなかった。しかも何やら、大きな誤解をしているらしい。
島田は改めて、桐山を見上げた。熱を孕んだ視線が、食い入るように突き刺さる。
──まずい──
背筋にぞくりと悪寒が走る。キスの仕方など教えている場合ではなかったのだ。
この状況からどうやって抜け出すか、島田は必死に考えた。
ぶん殴って、力ずくでどかせることはできる。が、そんなことはしたくないし、そうしたところで桐山は納得しないだろう。
はぐらかせる状況ではない。桐山が思い込んでいるであろう、誤解を解くしかないのだ。
自分の迂闊な行動を少しだけ悔やみながら、島田は口を開いた。
「あのな、桐山。俺も軽率だったけれど、この前のことは深い意味はなくてな、だから──」
「そんなこと、分かってますよ!」
ダンッ、という音が部屋に響いた。島田の顔の両脇に、桐山が勢い良く手をつく。
泣きそうな顔で、桐山が島田に覆いかぶさる。
「島田さんは親切のつもりだったんですよね!? そんなこと分かってます。僕だって忘れようとしました!」
島田は唖然と桐山を見上げた。
本当に分かっているのか? 誤解してるんじゃないのか? だとしたら──
「でも、忘れられないんです! 一日中ずっと、島田さんのことで頭がいっぱいで……もう、おかしくなりそうで……」
思い詰めた表情が島田を責める。心臓がドクリと跳ねた。若く容赦のない熱量に煽られ、先ほど鎮めたはずの炎がくすぶり始める。
いたたまれず、島田は何とか話題を変えようとした。
「頭がいっぱいって、お前、最近の対局、ほとんど勝ってるじゃないか」
「誤魔化さないでください!」
──いや、そこは誤魔化されてくれよ──
島田は、自分が泣きたい気分になった。
だがここで諦めるわけにはいかない。自分のせいで、桐山の──前途有望な、大切な後輩の──人生に傷をつけるわけにはいかないのだ。
島田は軽く深呼吸をした。呼気と共に、身体の熱を追い出す。力を抜き、正面から静かに桐山を見つめる。
「なあ、桐山。お前、高校生だよな? 学校にかわいい子とかたくさんいるだろ? なにもこんなおっさん相手でなくても……」
「いけませんか」
はっきりとした声が、島田の説得を遮った。
「……桐山?」
「僕が……僕が島田さんを好きになったら、いけませんか!?」
視線に含まれる熱が、島田の、大人としての理性をじりじりと焦がす。
──ああもう、負けだ、これは──
これ以上、桐山を留めるための言葉など出てこない。
桐山の問いに対する答えを飲み込み、島田は、桐山の頬をそっと撫でた。
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